射型について (投稿63件)[1〜63]


1:半平太さん [url]
前からこちらで書き込みを拝見していてよく思うのですが、特に高校生に射型に拘る人が多いような気がします。
射型を整えることはそれ程魅力的なことなのでしょうか?恐らく指導者に口酸っぱく言われ続けているのだと推測しますが、ここに何か勘違いはありませんか?

私は、射とは「基本体」「基本姿勢」「基本の動作」などを含めた「体配」と、射法八節に代表される「射技」から成り立っていると思うのです。
見た目に「射型」として映るものは、体配と射技が合わさった物であり、それは結果であって目的ではないと思うのですが。

つまり、射型を整えようとして形から入るのは大きな間違いではないかと思うのです。それに見た目の射型が良いことが「正射」であると理解している(させられている)高校生が多いような気がしてなりません。

ある範士の先生が最近仰っていたことで、「なぞる弓は引くな」という言葉がとても印象に残っています。つまり形をなぞるような射は本末転倒である、という意味だと私は理解しています。

良い射、正射とは、執り弓の姿勢を取ったときから退場するまでの行射全てを指すべきだと思うし、正しい体配への理解なしに射技、ひいては正しい射型は成り立たないと思うのですが、皆さんはどうお考えでしょうか?

是非色々なご意見を聞かせて頂きたいと思います。

2:Y.K.さん
なんとheavyなテーマなのでしょう。
そういえば自分は入場のときからすでに胴造りができているようにと常に心がけています。
射位に立ったときだけってするとなんだか隙があるような感じがします。

実際に引いてるときも、形だけよくても肝心の弓に力が通っていないなんてこともありますし、以前に「お前の弓にはお前らしさが出ていない!」なんて言われてる人もみたことがあります。

なんか言いたいことがよくわからずレスがめちゃくちゃ。
あぁムズカシイ。

3:真尻さん
今の弓道界の現状をお分かりのようです。
私もそう思います。

http://ecoecoman.com/kyudo/bbs200509/2004050418131741.html

の方に書いたのが私の考え方です。
中てる事から生まれるものが正射だと思います。

4:真尻さん
高校生で一番気になる点は、手段と目的を勘違いしている人が多いという点です。最終目標があって、それを達成する為に、昔の人が体配、射技を大切と考えたと思います。しかし、現在の高校生は手段を達成するのが目的になっていると思います。指導者は何を教えているのか疑問に思うことが多々あります。
ここからは私の持論ですが、私の場合中りだといっていますが、中ればいいわけではなく武士でないといけないと思います。中るけど、態度など武士ではない人は武道をやる資格がそもそもないと思います。そこについても考えて欲しいものです。
武道において欠かせないもの。掃除、礼儀、覚悟これらがどれか欠落していてもだめだと思います。

5:ポン酢ファンさん
「カッコよく引いて、カッコよく中てたい」
十数年前の高校生当時の私はこのように思っていました。しかし、現実は甘くなく適切な指導を受けるでもなく中らないまま学生時代は終わってゆきました。

とまあ大半の高校生は、失礼ですが私の過去と同じように中るのは偶然の産物みたいな状況かと思います。
「中てたいけど中らない」ならばせめて射形でもという発想になるのは当然の帰結ではないでしょうか?

ただ射形にこだわっても、的に矢を中てる事のできないこだわり方なら何も意味をなさない、と今は思います。
言うまでもなく、大会も審査も所詮的中しなければ始まりませんし、礼儀作法がきちんとなされていないのであれば最高目標とされる「真・善・美」の追求には程遠いですもんね…

難しいから頑張れる、というところでしょうか

6:はるさん
最近の指導者は云々…と書かれてましたが、指導する立場の人も大変なんです。顧問は部活だけやっていればいいわけではないし、コーチなどは大抵が教育者ではありません。
時代と共に学校のスタイルは変わっていくし、生徒も学校や部活に要求するものが変わっているのも現状。
昔と今を比較し、指導者を批判するのはやめて頂きたい。顧問やコーチがそろっている環境は特別なんですよ。

7:弓好者さん
タイトル通り、私は高三の引退したばかりの旧弓道部員です。私たちの高校では、中てるではなく中たる弓道を目指してやってきていました。もちろん高校三年間でそんなことが達成できるわけがないのですが、とどかなくても目指す価値はあると思ってやってきました。そして高校を卒業して一般弓道でやることになっても恥ずかしくない体配、射をしようと、一生懸命部活をしてきました。
これは私の意見ですが、生活は弓道全てに通じ、その逆もあると思っています。
未熟なのに生意気なこといってすみません。

8:真尻さん
>>6
私は最近、昔などという事は言っておりません。
しかも、その指導というのを学校の顧問にすべて押し付けているわけではありません。連盟が行わないといけない義務だと思うのです。
こうなっている大きな要因として、段位を簡単にあげてしまう現状があると思います。その段位を認許するにあたって、武道家としての心得、弓道の意義などを指導し、理解させる事が現実問題として行われているように思えません。連盟の人(審査委員)が高い所(審査席)からみて、合格、不合格を言っているだけの現状では、高校生なんかに弓道の意義が伝わると思えません。高い所ではなく、自分たちもその後下に下りて講習会でもいいので語らいをしないといけないのではないでしょうか。
たまに講習会を行っていますが、そのような場所が限られた人間だけで一般的ではありません。やはり、段位をとるという時に行うのが一番でしょう。例えば、段位に興味がない人がいても、部活の中の誰かが段位を取って、その意識であれば部活にそういう意識が芽生えるでしょう。段位と中身が比例するようなシステムに変更しないといけませんね。

9:半平太さん [url]
>真尻さん
そうですね、僕も部活とはいえ、顧問の先生に頼りすぎてはいけないと思います。
教本を読まない学生が多いのも気になります。私は教本絶対主義ではありませんが、まず自分の頭で考えること、先生や先輩に言われたことに対して反論する必要はないですが、どうしてそういうことが必要なのか、よく考えてみる習慣を付けると弓道の技術も向上が早いと思います。
しかし自分の頭だけでは所詮自分のレベルに応じた考えしか思いつきません。そこで指導者が助けてあげる必要があると思います。

教本とは面白いもので、同じ文章を読むにしても自分の射の上達に応じて情報量が全く変わってくるんですよね。ただ何となく読み飛ばしていた記述が、少しずつ引っ掛かってくるようになる。
ただ射型を整えることが全てだと勘違いしてしまうと、その射型が成り立っている過程を見逃してしまうのではないかと思うのです。

初めは形を真似るだけでいいと思いますが、基本姿勢や基本動作、目遣い、息合いなどが射、的中にとって重要な要素であるということに早く気付いた人は上達も早いと思います。

・・・なんて、偉そうにすみません。自分も高校生の頃はそんなこと思いつきませんでした。ただ引けば上手くなると信じて練習してただけなんですけどね(笑)

10:道民さん
 私は、別に現在の高校生の現状が手段と目的を混同しているとは思いません。
 弓道でも上達していく段階というものがあります。その初期の段階である高校生では、射形をなぞることで先哲の追体験をすることが大切だと思います。いきなり働き云々といっても理解できないでしょうし、我流に陥る可能性が非常に高いと思います。

11:自称早気さん
学生(特に高校生)について書かれているみたいなので私見ですが私も一言・・・・

よく高校生が、試合で中ててる人を見て「中て射だ」とか、自分が中らないのを「射型重視だから中らなくても・・・・」とか言う人を見かけますが、それを聞くたびに「正射」というものを誤解されているのではないかなと思うのです。

まず私は「正射=中て射」と思っています。つまり正射必中です。
「正射」とは綺麗な射ではなく、的中を得るための合理的な射と解釈しております。ですから的中を伴わない射は正射ではありません。
的に向かって引いてる以上、的中は求められます。
それなのに試合に出て中らなくても「綺麗に引けたから」と言って、自分を無理矢理納得させているように思います。中らなかった時は素直に悔しがりましょうよ・・・・
で、そういう人に限って、引いてるところを見ると、的を外した次の射(又は矢所)が全然修正されてなかったり、中った時と外れた時の離れ以降の動作に違いがあったりと思わず「何が正(しい)射やねん・・・・」とツッコミたくなったりもします。
入退場全て含めて弓道です。取り懸けから離れまでではありません。

射法八節をきちんとこなす事も大切ですが、何のための射法八節かというのを理解して、また、射法と同じくらいに基本動作や基本体を学んで欲しいと思っています。

12:鼻さん
美ですよ!美!美しさって重要だと思うんです。あまりにも中たらないけれども美しい射は酷いとは思いますが、それでも形から入る日本人なんですよ。それに、中たる射形から綺麗な方の正射にもっていくのは大変な苦労が必要だろうと思うので綺麗→中たる射の方が効率がいいと思うんですけどねぇ。

13:弓遊びさん
鼻さんへ
ちょっと極端な質問なのですが、お気に障りましたらゴメンナサイ。初めに謝っておきます。
さて質問です。
綺麗な型をして引いていらっしゃる方がいます。10本引いても的中しません。百本引いても的中しません。千本引いても的中しません…。
さてこの綺麗な型で引かれている方は、いつまで引かれるのでしょう?

私は意志が弱いほうですから、いくら綺麗に引けたとしても、1本も的中しなければ弓はやめていたと思います。
眞尻さん、自称早気さんがおっしゃっておられる事は、弓の面白さの原点だと思うのですが…。

14:真尻さん
中る射の中には必ず美しい部分があるんですよ。例えば、一本引いて射が汚いなと思っている人が、100射会で100中する人だったとします。よくよく見てみると、美しい部分があると思いませんか?そうでないと、そんなに中りが続くわけがありません。

理想的な体格かもしれません。引き分けが不安定だけど離れだけは常に一定に出せる実力かもしれません。見かけではなくて、精神的な部分がすばらしい持ち主かもしれません。バスの中にお年寄りがいたら必ず関を譲る人かもしれません。人が嫌がる仕事をきちんと引き受けるかもしれません。

私がいいたいのは、簡単に人をみかけの美しさ(射形)だけで判断できないという事です。これは私の持論です。

15:凛さん
最近僕も射型についていろいろ考えていました。もうすぐ最後の大会がまじかに迫っていて僕は本気で個人全国大会出場を狙っています。つまり個人戦で1立ち目3中以上で個人決勝に残り射詰で上位2位に入る事を目標にしているわけです。的中は安定して12射すれば必ず9中以上します。僕は特別射型が良いわけではありません。誰がどう見ても早気です。見た目の綺麗さでは断然劣ると思います。僕は人それぞれの引き方があってよいと思う射手です。12のレスに「形から入る日本人」とありますが、そう言いきれるのであればここでこのような討論は起きません。ここに形から入らずに基本姿勢のみを習って早速的中に走った人間がいます。
僕は正射とは「型」が綺麗だけの意味ではないと思います。正射必中と言う言葉がありますよね。検討違いだと言われるかもしれませんが、これは射が正しければ必ず中るといった意味ですよね?それなら、必ず中る、それは正しい射とは言えないのですか?
そもそも全ての射手を同じ基準で綺麗、綺麗でないを判断する事が間違っていると僕は思います。

16:自称早気さん
形から入るなら竹弓、竹矢になるでしょうし、初心者の間から和服を着るようになると思います。

美が最優先なら「正射必中」ではなく「美(もしくは麗)射必中」となっていたかも知れません。

的中があってこその正射なんですから、その辺を誤解されないようにして欲しいだけなんです。

ただ、高校3年間などで、ある程度の成果を出すためには妥協も必要かと思います。
その点で各校の個性が現れてくるのだと思うのですが、基本的なことだけは妥協せずに指導して欲しいですね。

17:?さん
たしかにわたしも必ずあたる射は正射だとおもいますが、みせかけだけのあたりは、正射ではないですよね。つまり絶対に抜かないのならば正射といえるかもしれないけれど、一本でも抜けてしまうような射は必ずあたるとはいえません。ぜったいにあたるは存在しません。また早気だけど9割以上常につめる人はいますが、自分で早気と気づいていながら改善しようともせずにただあたりだけを求めることは正射に近づくと思いますか?やはり人に感動を与えれるような射を目指したいですよね。射型だけでもだめ。あたりだけでもだめ。心技体が伴わないと…

18:ポン酢ファンさん
>中る射の中には必ず美しい部分があるんですよ。

私もそう思います。継続して中て続けるには強い意志がなければ不可能かと思います。少々の射の荒さは中りがカバーするものだと思います。私の周りではよく「中りは七難を隠す」といいます。それだけ中りにこだわってその中からいかに合理的で、無駄のない(体に負担をかけず継続して中る)射をめざすのが弓道の本質ではないかと思います。

目標を高いところに設定するのは大事ですが、短い期間で真髄を極めようとするのは無理ですよね?弓を引くからには的に中てなければならない、この至上命題に答えるためには何が大事で何にこだわるべきか視点が変わるのではないでしょうか?

えらそうに書いてますが、これは最近になって気づいたことです。すべては模倣から始まるかと思いますが、いつまでも(三年・五年といったスパンではありません)個性のない贋作となっていては何のための弓、何のための修行なのかわからなくなってしまうのではないでしょうか?

19:半平太さん [url]
皆さん色々なご意見ありがとうございます。

ちょっと気になる部分がありましたので、私見ですが述べさせていただきます。
中らない射は正しくない。これは間違いないと思うのですが、中れば正しいのか、というとこれも違いますよね。

どんな射でも矢数を掛けて全く同じように引けるようになれば中ると思います。100射100中もありえるかも知れません。しかし、例えば肩線と矢筋がずれていてそれを離れのバランスで中てていた場合、そういう射における的中は一度ブランクがあると取り戻せないですよね。

そういう意味で、射型は疎かにしてはいけないと思います。私は、決して中れば全て正しい、とは思っていません。
早気に関しては、私自身深刻な早気になったことがないのですが、会で相当心の動揺や無駄な筋肉の緊張があるのではないでしょうか?それで正しい射とは言えませんよね。

つい先日、ある先生が引かれているのを見取りしていた時、残身(心)の首筋が美しいな、と思いました。(男性ですが(笑))そこに先生の心を観たからです。

20:にっしーさん
これに似た話題って良く議論されますね。
教本を皆何も疑わずに皆やっているのでしょうか?
私は、疑ったことがあります。
それは、無知だかなのでしょうか?
的中のみを追い求めた時期もあります。
それは本当に邪道な事なんでしょうか?
私にとっては、とても大事な時期だったように思えます。

正射って何でしょうね。
弓道の弓は、神様が創った訳ではない。
人間が、しかも日本人が作った物。
もし、世の中に自分一人しか弓を引く物がいなければ、
自分が上手いか下手かも判らない、いや考えもしないかもしれません。
沢山の人が、最良の道具を作り、
また最良の使い方を考え、今の弓道というものが出来た。
そう考えると、正射って何なのか見えてくる気がします。
人間は、何においても向上心を無くしてしまってはいけない気がします。
それは、勝負に勝つことだったり、何かを成し遂げることだったりし、何かを目指ざすこと。
そういう人は、射形だけに満足したり、中りだけに満足したりはしないと思うのです。
その先の正射を目指すのではないでしょうか。
そして、そういう人は正射に辿り着く事は無いと思います。
きっと、常に上を目指すのではないでしょうか?
正射とは、常に向上心を持つという先人達からの
戒めの言葉に思えます。
正射とは、辿り着く物では無く目指す物だと、
私個人は現在思っております。
長々と失礼しました。

21:鼻さん
誤解されているような気が…確かに美しさが重要だとは言いましたが、それが全てとは言ってないですよ〜…。まぁ皆さんわかってらっしゃるとは思いますが。
え〜、とても綺麗な射で何本引いても中たらなかったとしたら弓を引くのをやめてしまうかもしれないとのことですが、そうかもしれないですね。まぁ100本や1000本も引けば一本くらいは中たるでしょうけど。でもその綺麗って見た目の美しさだけですよね?多分。もし私がそうだとしたら中身の美しさを求めます。何が足りないのかゆっくり考えます。
まだ弓道を始めたての頃の話ですが、一番最初に的前に立った時、100本近く引いてもさっぱり当たりませんでした。1000本はさすがにいきませんでしたが、友人に言わせると射自体は綺麗で何が悪いかわからなかったらしいです。でも私はやめてませんよ。今でも弓の虜です。美しい射は正射に通じていると信じて、願っているので美しさを求める事をやめません。

長いし何を言いたいかわかりませんねf^_^;

22:真尻さん
>>20
教本について、実際作法の面では間違いはないのですが射について特に一巻は間違いが多いですね。上級者なら教本が非常に幼稚で誤魔化した内容だと知っている事ですし、それをここ疑問という形で言うのはよくないと思います。そういう事をここで言ってしまうと、教本を信じてやっているレベルの人が何を信じてやっていけばよいのかわからなくなるような気がします。

23:陰陽さん
はじめまして。あまり書き込まないのでしゃしゃり出たくはないのですが・・・・いわせてください。

もう、弓道教本や、今の範士、教士の方々の教えでは、「現代弓道」を導くには多少古いのかもしれません。確かに教本はすばらしい!発売当時では弓道界を揺るがしたでしょう。しかも何年も昔のものにもかかわらず、現代の弓道を見据えています。しかし、

>>20
教本について、実際作法の面では間違いはないのですが射について特に一巻は間違いが多いですね。上級者なら教本が非常に幼稚で誤魔化した内容だと知っている事ですし、それをここ疑問という形で言うのはよくないと思います。そういう事をここで言ってしまうと、教本を信じてやっているレベルの人が何を信じてやっていけばよいのかわからなくなるような気がします。

と、真尻 さんが指しているように、もう教本は「今現在の弓道」と平行に進むことができなくなっていることも明らかです。それどころか、その教本を指摘している弓道の段位の高い方々の教えすらも、高校生や大学生を含めた若手が、納得を示さなくなってきているのも肌肌感じます。
今の若手は過去を学ぶ心より、現代を見つめる傾向が強いはずです。
「過去の方々のやってきた事はわかった。しかしなぜそれに縛られ、型にはめられたように練習をせねばならないのか?」
この疑問を高校生をはじめとする方が多々持っているのではないかと思います。それがこのスレッドの「射形について」を生み出した原因の1つではないかな?と思います。
・射形は綺麗でなければならない。・・「なぜ?」
はっきりと答えをいえますか?
             ・                         ・                         ・                         ・            
答えられたかたもいらっしゃるかもしれません。しかし、答えられないかた多いと思います。なぜでしょう・・・?
それは「もとから答えなど存在しない」とは考えられませんか?仮に教本や高段者の方々が言うことを正しいとしましょう。しかし私にはそれが「理想の塊」にしか聞こえないし見えません。実際考えてください、あなたがいままで見てきた限り、「完璧」に弓道をこなしている方を見たことがありますか?私はありません。なぜなら完璧に弓道をこなすことなど、私が見て、聞いてきたことを元にして考えると不可能に近いからです。それはただ単に私の知識が浅いからかもしれないし、何も知らないからかもしれません。しかし現に見てもいないものを聞かされただけで信じろというのも無理がある。もしそんなかたがいるならぜひ教えてくださいね?

話を戻しますが、その理想の塊を聞くにつれて、私が考えたことは1つ。「理想(目標)を作って頂を目指す。」
です。
これ以上は何も書かないでおきます。意見がある方はどんどんバシバシ言ってください。


とにかく、いまや弓道はまた一歩進化しなきゃいけないときにきているんですねぇ・・・・・

24:斜面射手さん
白熱してますね。

>真尻さん
>射について特に一巻は間違いが多いですね。上級者なら教本が非常に幼稚で誤魔化した内容だと知っている

具体的にどのへんが間違いだとお思いでしょうか?
「誤魔化し」については誤解を避けるために最大限の
努力をした結果の表記だと思います。それゆえに
抽象的な表現に留まってしまうのはしかたないことかと
思います。

>陰陽さん
はじめまして。
>・射形は綺麗でなければならない。・・「なぜ?」
この問いかけ自体に疑問を感じてしまいます。
「綺麗」とはそもそも個人の感覚ですから。
また、形而上の美と機能美は違うと思います。

本題ですが、高校で弓を引かれる方はほとんどが
高校で弓を始めた方だと思います。そして指導者といえば
先輩といったところがほとんどでしょう。
それに部活も二年間(三年間)で終わってしまいます。
そのような環境では「正射」の意味を履き違え
形に走ってもしかたないと思います。

25:葵使いさん
いやー最近面白い話題が多いですね。

>幼稚で誤魔化し
は初心者向けで最大公約的と言い換えれば角もたたないかな。
教則本の一冊目が熟練者向けに書かれていないのは当然でしょう。

>形而上の美と機能美
前者はつまり、我々武道家が目指すところの真と善と美の美であると思います。
それは人によって違うものですが、
この場合の「綺麗」は教本的という意味でしょうから形而上というのは・・・?


私の持論を申し上げますと見た目から入るのは悪いことではまったくありません。
>12の鼻さんの意見に全面賛成です。

>つまり、射型を整えようとして形から入るのは大きな間違いではないかと思うのです。

という半平太さんの意見とは逆になります。ただ、

>それに見た目の射型が良いことが「正射」であると理解している(させられている)

ことが間違いだという文章には非常に共感します。
以下次レス。

26:葵使いさん
見た目を追い求める傾向が現れるのはそれが一つの指針として確固として存在するからでしょう。
教本にしろ、上手い人の射にしろそれを参考に/目標にして練習をしていくとしたら手っ取り早いのは真似をすることで、
しかもそれはそんなに間違っていないと。
練習をするにあたってイチから考えるよりも既に成功された形を真似して、なぜそうなるのかを考え・体得するという経過を踏まえるほうが圧倒的に有利です。
これは他のスポーツを鑑みるまでもなく明らかです。

いけないのは<なぜそうなるのかを考え>ないことです。
つまり
>見た目の射型が良いことが「正射」であると理解
してしまうことですね。

また短期的な目標の積み重ねの中では、
「こういう形になれるように練習しよう」
という目標がどうしても多くなってきます。
これが長期目標とすりかわってしまうことが問題であって、
上記の短期目標自体は間違っていません。
理想を短期間の目標にかかげても上達することはできないからです。

>理想の塊
は万人に必要な長期的目標ではありませんが、
これを排除しなければならない理由もありません。
別に宇宙を感じながら行射してもいいではないですか。

>陰陽さん
理想と頂との違いはなんでしょうか?

最後に私見をもう一つ。
的中を追い求めたことのない人が正射を語るも
射形を考えたことのない人が正射を語るのも
両方同じ程度に無駄な言葉です。

27:MARINEさん
私がまだ的前にあがったばかりの頃、顧問の先生が「間違った引き方を覚えないで、上手い先輩達の引き方を見て覚えて形を真似する事をしてください。上手い人の引き方を真似する事は正しい筋肉を使う事を覚えるので、それで正しい引き方を覚えていってください」
と、話されたことがありました。
皆さまの書き込みを読んで、いつかのあの先生が言っていた事は射型の話だったんだなぁと、突然思い出しました。
(突然筋肉の話になってしまうのですが、)先生は筋肉の事についても述べていたのですが、射型が良いと言われる方は正しいとされている筋肉を正しく使えているのでしょうか?その頃の私はその言葉を聞いて成る程!と思っていましたが、今の私にはそうは思えないです。
どんなに射型が美しい、綺麗だと言われる方が居たとしても、中身が出来ていないと弓を引いている意味が無い気がします。
射型と中身と、初めて弓を引く方は先にどちらを重視して練習をすればよいのかと、最近分からなくなる事があります。

28:熊本人さん
とりあえず高校生です。高三です。
本気でSG館倒す気でいます。
ぶっちゃけ自分らなら出来ると思います。
で、思うんすよ。
高校から弓を始めたやつらの部なんて
SG館を超える的中出すためには
中りから入るしかないんですよ。
一般になってからも続く射とか
そんなこと考えててかてる相手じゃないんすよ。
あっちは高校生活の全てをかけて向かってきます
もちろんあっちだって
県で破れてる場合じゃないって思ってるでしょう
そんな化け物みたいに中てる奴らに勝つには
形だなんだなんて言ってらんないんですよ
だから中りに走ってます
形だって全然綺麗じゃないです
ただ
ここの持ってる才能を生かす弓の引き方、もしくは立ち順
その辺で自分らはSG館に勝ちます
上の方にでてましたよね
『高校生なんか』
まさしくその通りです
高校生ごとき正射語るには早すぎる

29:通りすがりさん
はじめまして。
みなさん色々意見がありますね〜。
私は「正射必中」、「必中正射」両方ありだと思います。
正しい射は必ず中るっていうのが目標ですけど、あて射もある意味正しい射と思います。(試合では、中らなければ勝てないんですから。)
射型とは、射の体型で体配や射術とは別物なんです。別物なんですけど、すっぱり切り離す事も出来ない。
その事を含めて色々勉強して行くことが弓の道ではないでしょうか?私の場合、毎日が勉強で完璧に理解できる日はいつになるかわかりませんけど!
『弓心すなわち求心』です!逆だったかな…?
教本は確かに古いかもしれないですけど、それが現代弓道の基本なんです。基本を踏まえているから、応用がきくのではないですか?教本は第四巻まであります(五巻はまだ見たことない)から読んでみてください。年月を重ねるごとに新しい発見があると思います。

30:るんさん
盛り上がっていますね〜。

教本は、まだ完了途中と認識しております。
第一巻には、「基本動作は・略・必ずしも在来の礼法によったものではない。又、射法、射礼にしても、前にも述べた通り古来の流派中、その特徴が尊重され、・略・従って単一な統制ではない。又単一な統制を行うべきではないとの考慮から制定したものである。」とありますね。
第一巻改訂増補には経緯が書かれていると思います。

>23:射形は綺麗でなければならない。・・「なぜ?」
綺麗でなければならないとするよりも、理にかなったものとするほうがわたしてきにはスッキリしま〜す。(否定ではありません、綺麗の意味がわからないだけです)

>いまや弓道はまた一歩進化しなきゃいけないときにきているんですねぇ
進歩進化はよい事と思います。ちょっとズレますが、国際化に視野を広げると競技規則はどうなっているのかな〜なんて思います。現行のルールはとてもおもしろ〜く感じてしまいます(笑)

もっとも私の場合は、
弓は→趣味。
弓矢を持って的に向かう→なんのため→目的:矢を的に命中させること。
射型→人がなにかをする時、そのかたちはそれぞれある。
という程度の凡夫です。

31:真尻さん
事態を沈静化させようと思ったのですが、火に油を注いでしまいましたね。

>>24
教本に関しては、ごまかしに関しては、最大公約数的な捕らえ方で構わないと思うのですが、最大公約数ではなく絶対という部分に関しては明記しておいても構わないといけないと思います。

この掲示板を最初に見た時、驚きました。同じような質問が何度も登場するからです。精神論に関しては語りつくせない部分があるのでいいと思いますが、絶対といえる部分の代表といえる道具について、どうしてここでこんなに質問事項として繰り返し登場するか、それについて疑問に思いませんか?

例えば、最近あった話で
http://ecoecoman.com/kyudo/bbs200509/2004051301195385.html
の弓ハ(漢字が・・・)の件ですが、上級者にとっては弓によって違いますし、若干の範囲以内であれば人によって違うという事は当たり前のことです。しかしこのような質問があるという事は、初心者はこの事を学ぶ機会がないわけです。この事だけに関して言えば、誰でも最初に疑問に思う事です。誰がこのことを教えるのでしょうか?

教本の間違いをという事ですが、一番誰でもわかっている間違いが八節をやってえいる図の間違いです。会から離れに関してありえない動きですよね。これは有名な笑い話として有名なのでここに書いておきます。

他にも狙いのやりかたが書いてありますが、骨格(首の位置、肩の位置)によって違うのに堂々と図で半月が誰でも正しいような表記がされています。これは誰が考えても最大公約数でごまかしている部分ではなく完全な間違いです。最大公約数であればこの図は載せないのが正解です。

教本の間違いは指摘される事ではなく、自分で気がついていくものだと思うのでここではこれ以上述べません。他の方もここの書き込みを見られているので詳しく述べる事が悪影響になりますのでご理解ください。

32:凛さん
え〜と僕も高校生です。ちなみに3年です。って言うのは随分前のレスで分かってることですが。本日熊本の秀岳館高校と練習試合をさせていただきました。非常に強い!!とても同じ高校生とは思えませんでした。特に射形が悪い(あくまで僕の基準でですが)わけでなく、それこそ熊本人さんのレスにあったように化け物みたな中りをもってます。5人で15中下るなんて珍しいくらいです。特別練習時間が長いわけでもなく何があれほどの強さの秘訣なのでしょうか・・・。僕はこれまでのレスを見て次元の違いを感じました。僕はあまりにレベルが低い位置にいたようです。真尻さんのレスに、骨格(首の位置、肩の位置)によって違うのに堂々と図で半月が誰でも正しいような表記という部分がありましたが、今まで何の疑いもなく半月がイイだと思いこんでいました。後輩にもそうなるとイイらしいと指導していました。今まで骨格で人それぞれ射が違うと言っていながらそのような事にも気付かなかった自分が恥ずかしい・・・。僕は射形について他の人がどうこう言いすぎるものではないと思っています。その人にあった射は練習して自分で見つけるものだと思います。その中で形を磨くか、的中を磨くかそれもまたその人が自分で見つけるものだと思います。やはり弓は誰かが誰かを否定したり批判したりするものでなく、その人の考えや射を尊重するものだと思いますけどね。

33:弓引きさん
弓引きです。高校生です。
僕は正しい射は必ず中ると信じて日々練習しています。
では一体なにが正しい射なのでしょうか?僕には分かりません。でもずっと続けていれば、いずれ分かると信じて日々練習しています。今は射法八説図解を正しい射と思っています。

話は変わりますが、僕は中て射と正射は違うと考えます。中て射とは中てるためにある射で、もしその射がとても綺麗であろうとも心は中てることにとらわれています。正射とは射形が綺麗なことは勿論ですが、心も正しくなければいけないと考えます。綺麗な射で心を総体の中央に置け、中りのみにこだわらずに無心で弓を引くけたら最高だと思います。
まだ弓道はじめて1年の若造が長々と話をしてすいませんでした。これだけ偉そうなこと言ってもまだ射法八説図解にこだわっていますし、本当の所、自分も何が正しいのか分かりません。 こんな意見ですが皆さん何か反対意見等お願いします

34:半平太さん [url]
皆さん色々な意見本当に有難うございます!
それぞれが非常に参考になります。

さて、教本の八節図解ですが、僕はそれ程おかしな物でもないかな、と思っています。
僕自身が未熟なせいもあると思いますが、真尻さんの言われた「会から離れにかけてありえない」というのは弓手妻手手の内の形のことでしょうか?
確かに、特に弓手手の内は会でも離れでも全く同じなので手抜きかな、と思いますが、そこまで目くじら立てることもないかな、と。
僕はどちらかというと足踏みの角度が広すぎることのほうが気になりますが。(あれはどうみても60度以上開いてますね)

教本は多くの方がすでに仰っているように、特に一巻は基礎の部分ですし、あまり詳細に渡って説明がされていないのは仕方のないことではないでしょうか。
私自身は、二巻以降(三巻はあまり読んでいません)を読み、日弓連は実に幅広い引き方を認めているのだなと感じました。それは特に二巻の先生方の写真を見ただけでも皆さん八節図と同じように引いているわけではないので一目瞭然ですよね。

八節図は射の運行を分かりやすく説明した傑作だと思います。でもよく言われる「八節図と同じように引かなければだめ」というのは、教本自体にはどこにもそんなことは書かれていないので「どこでそんな誤解が生じたのだろう?」と私自信は感じています。

それから、>>31で 「事態を沈静化させようと思ったのですが、火に油を注いでしまいましたね。」というくだりがありましたが、

僕自身はこのスレッドでの皆さんの意見は、ここまで全然荒れることもなく、感情的なものも無いしそれぞれの段階に応じた射法に対する感じ方が伝わってきてとても良い流れだと思っています。
確かにどこで纏めるのが良いのか、キリは付くのか分かりませんが、皆さんの真摯なレスに感謝しています。

35:真尻さん
>>34
八節図についてですが、答えを教えます。

あの勝手のベクトルの方向性、図から判断する肘の向きの会から推測すると、離れの際の勝手の動きはどうなると思いますか?残身であの勝手の角度に行き着く為には勝手は山なりの起動を通らないといけません。

もちろんそうしない方法もありますが、それをやるには本文中に述べてある勝手についての5重十文字を崩さないといけなくなります。もし矢に対してもし真っ直ぐの起動を通りたければ、肘が残身ではもう少し下がっていないとおかしいです。

押し手に関してもおかしいですね。
押し手に関するベクトルは少し上向きになっています。その理由は腕の付け根よりも口が上にあるからでですが、残身ではそのイメージよりも押し手が下にあります。これはどういう点がおかしいかと言うと、直前の図で5重十文字説明があり「二、弓と押し手の手の内」と書いてあります。残身で下に押してが動くという事は「上下左右に十分に伸びあい・・」という文を八節図ではやっていないという事になります。もし十分に伸びあっているならば、押し手が下がる事はありません。5重十文字を崩さずに押し手が下がる離れを達成する事は可能ですが、弓をもたずにイメージしてみても肘に大きな負担がかかるのは明らかです。

前提として、八節図が3つがけ、4つがけ、もろがけという事が定義されていませんので、この程度の説明図だろうと解釈するのが一番適当なのですが、気になるのが、あの図を完全な正解として信じて止まない高校生が多くいる事なのです。

36:るんさん
>34(あれはどうみても60度以上開いてますね)
まぁ、あんな感じかなと思っていましたが、半平太さん、す、すごいですね〜 (^_^;)

>35:
いつもたのしく拝見させていただいております。

>他にも狙いのやりかたが書いてありますが、骨格(首の位置、肩の位置)によって違うのに堂々と図で半月が誰でも正しいような表記がされています。これは誰が考えても最大公約数でごまかしている部分ではなく完全な間違いです。最大公約数であればこの図は載せないのが正解です。

教本には、頭持、ねらい、矢乗の項等で解説されており、半月・有明・満月の図があり、解説されております。私はそうそうなのだろうと思っておりましたが、間違いなのでしょうか?

>これはどういう点がおかしいかと言うと、直前の図で5重十文字説明があり「二、弓と押し手の手の内」と書いてあります。

教本第一巻改訂増補射法八節図解では、五ケ所を列記、曲尺を覚え其の働き知ること。とあり説明まではされていないと思っておりました(私の見・勘違いかな?)。

真尻さんのいわれる5重十文字とはどのようなものなのでしょうか?

なにせ、私はへたくそで、勉強中ですので、どうぞ教えて下さいませ。
<m(_ _)m>

37:真尻さん
>>36

教本には、頭持、ねらい、矢乗の項等で解説されており、半月・有明・満月の図があり、解説されております。

まず、誰が考えても一巻は弓道の基本であるべきです。現にはじめたばかりの高校生等が最初に目にします。教本の一巻はバイブル的役割があって、誰もがもっているのではないでしょうか。この背景の中、あの図の存在が問題になります。返信をつけた高校生の中に無条件に半月が正しいと思い込んでいた高校生がいたように結構信じている子が多いと思いと思います。もし、指導されている人でこのレスを読んだ人がいるならば聞いてみてください。

先日、こういう人がいました。顔向けが人よりも浅くしか入らない骨格です。半月でねらいを3年間やってましたが全く中らなかったそうで、今は一般でやっているけどたまにしか中らないという女性です。実際問題として顔向けが浅い状態で半月にすると前に向きます。実際問題として、その女性が中っているのは離れの際にかけに引っかかって出て後ろ矢が出た時だけだったのです。すぐにその点を指摘してあげると泣き出しました。「私の高校3年間はなんだったのだろう」・・と。もちろんねらいはあの図から覚えたそうです。

>私はそうそうなのだろうと思っておりました

という風に考えている人ならなんらあの図は問題はないんです。でも上の女性や、レスした高校生のように考える人が多いのが問題なのです。凛さんは後輩の指導で半月が正しいと教えているそうですが、骨格上それを強制することで全く中らない射手が誕生する事がありますのでお気をつけ下さい。

あの図が間違いではなく、一巻のあの場所に図として載せるのが間違いという理由わかっていただけましたか?

>真尻さんのいわれる5重十文字とはどのようなものなのでしょうか?

あの列記そのものです。説明はあのままですよ。あの五箇所が 十 文 字 なのです。

38:凛さん
真尻さんご指摘ありがとうございました。僕自身は的が完全に隠れる状態が的の中心を狙っている状態なので今までこの狙いでいましたが、後輩には半月がイイらしいと指導していたので訂正したいと思います。あの図を載せられると確かに間違いを覚える射手がたくさん出てくるのも分かります。僕の学校では2人の先生が練習をみてくださるのですが、一人は若く初段の先生で高校時代の経験者です。もう一人は50代後半くらいの5段の先生で今現在も弓道をしていらっしゃいます。ここでこの2人をあげたのは、後に紹介した5段の先生ですが、この方は半月で狙えと教える先生です。こうした古来の教えを絶対だと信じる先生がいると高校生や初心者による斬新な弓道の考え方の進化と言いますか成長はないような気がします。もちろん高段者の教えが古くおかしいと否定しているわけではありませんし、否定てきな表現になっておりますが、否定するつもりもありません。
教本を全て真似るのではなく教本を読んで自分なりに改善していく。そのような工夫のある射をしていきたいと思います。僕は的中を求める射手です。でも他人に射形がきたないと言わせたくありません。でも、正射を目指したとも思いません。自分の射を究極にしたいとそう思うワガママな射手であります

39:けんたろ〜さん
私見を述べさせていただきます。
弓道を「家」にたとえると、射型は土台、私は一巻しか知りませんが、教本第一巻は「建て方の一例を含む取り扱い説明書」と思っています。ただ、弓道の進歩によって教本が時代に合わなくなってきているのは確かだと思います。

土台がなければ、家は建ちませんが、家そのものの建て方(弓道の考え方、流派など)はいろいろあっていいと思います。家の建て方を強制したり、否定したりする人が一部にいるのは残念です。また、いったいいつまで土台を作ればいいのか、というのも難しいところです。

さらに、高校大学などの数年で完成させるのも無理な話ですので、じっくり確実にやっていきたいところです。

>真尻さん
押手の考え方に疑問がありましたので、別にスレを立ててみたいと思います。

40:るんさん
>37:真尻さん
真尻さん返信どうもありがとうございます。
あの図(補正116頁ですね)が間違いではなく、一巻のあの場所に図として載せるのが間違い→ということでしたか。(^_^)

あと、
説明はあのままですよ。ということですが、
>35で
「二、弓と押し手の手の内」と書いてあります。残身で下に押してが動くという事は「上下左右に十分に伸びあい・・」という文を八節図ではやっていないという事になります。もし十分に伸びあっているならば、押し手が下がる事はありません。

と説明されておられます。ということは、五重十文字(弓と押し手の手の内)を形成していれば、押し手が下がる事はありえないということでしょうか。→ということは、逆から考えると五重十文字(弓と押し手の手の内)とは直角を意味するものなのでしょうか。
どうもにぶいもので、申し訳ないのですが、ここをもう一度教えてくださいませ。(^_^;)

>38:凛さん
凛さんの5段の先生のお話は目がテンになりました。(ホントに〜ってなもんです)
その先生に聞いてみたいものです。
的の絵は第一巻より、人を加えたねらいの図・説明は、改訂版、改訂補正、補正に載っていますが(補正では119〜120頁)「・・的の中心点をを見通して定めるのが原則である。」と書いてあり、原則であり絶対ではないのでありませんかと。

一巻の原則の意味合いは、(以下は私の習いの一部です)
弓の狙いはすべての場合を一様に規定し説明する事は難しく、図の如く右目と弓の左側の線が頬についた矢の線と十五間先の的の中心の表面であえばよいのですが、人毎に頬の形も違い弓の幅も違うのだから、このような事はまずまれな事で、頬についた矢から右目までと、弓の幅と、的までの距離という3つの要素だけでもねらいは非常に複雑になります。しかし、実際さらに狙いに影響するのは、弓の村、弓の調子、矢の重さ、矢弓弦の釣合、左右腕の釣合〜〜〜弓の伏照、矢を引いた長さ等々と際限なくあるので、一応「原則」に従って狙い、修練をつむ間に体得してゆく外はないものでありその方法は、後ろから他人に弦が矢の正中を割って的の中心についているかを見てもらうもの。だから、教本では「原則である。」として記載しているのではないでしょうかと?

→古来の教えを絶対・・
古来の教えっていうのは、各流派とても合理的、幅広いものと感じています。半月が絶対という古来の教えというのは、私は聞いたことがありません。(私が知らないだけかな?)

>工夫のある射をしていきたい
素晴らしいじゃありませんか!!
私も勉強中ですが、
どうぞがんばってくださいませ。(^o^)

41:けんさん
教本の問題点など全然気付かない未熟者ですから、議論に
入るべきではないのかもしれませんが。

教本はあくまでも「本」ですから、それのみで完結するもの
では無いと思うのです。教本の中でも幾度となく指導者から
教えて貰うようにと記載されていますでしょ。教本と言え
ども二次的なものにすぎないと考えております。
それは、某流派の方に「何故流派の教えは口伝となっている
かについて、文字として書することにより、その文字自体が
一人歩きをし、全く異なる解釈を生むことを防ぐためだよ」
と言われたことがあります。
まして、全弓連は流派を廃するものではなく、個々の考えを
尊重するものですよね。ですから自分の考えとは異なる点が
あったとしても、別の見解を持つ人々もいるのだなぁと思っ
て読めばよいのではないでしょうか?

私も半月が狙いとは教わりませんでした。あくまでも目安の
一つで、その射に当てはまる場合もあれば無い場合もあると
言われましたよ。

42:斜面射手さん
>真尻さん

なかなか研究されているようで、その着眼には
感服します。

私は、真尻さんの理論に関しては少々異論があります。
八節の腕の動きがありえない、とのことですが、
あれは肢体方向のベクトルのみを示した図だと
私は解釈します。当然、角見の働き、馬手の
捻りや張りのベクトルも存在することでしょう。
書いてないから「無い」とするのはいかがと思います。

また、「発刊のことば」にもありますが、
一定以上の高度な内容はそれなりの識者によって
なされるべきであり、それは本ではなく実際に
教えを受けよとのことだと思います。先に挙げた
角見や馬手の働きはその高度な分野に入ると
私は思います。もちろん他の部分が程度の低い技術だとは
思いませんが。

41でけんさんが仰るように、基本的には指導者に
教えを受け、その補助として教本があるという形に
なるのではないでしょうか。まず教本ありき、では
ないと思います。

しかしながら教本を誤解して信じてやまない人が
実際にいるのは憂う事態だと思います。
弓道を習う環境の(特に師範のいない部活)徹底に
連盟が慈善的に動いてくれるといいんですが。

43:凛さん
るんさん。古来からの教えと発言したのは僕の失言です。失礼しました。

44:化さん
人それぞれ体付きや骨格、筋肉の付き具合は違う、同じ射形をできるわけがない。注意する点、気を付ける点は同じだけど、完成形の射形は同じじゃないですよね。だから、〜はすごい先生だから・とか、〜はすごい選手だから・とか言って、単にその型を真似するのはキライなんですよね。

45:真尻さん
>>40

>弓と押し手の手の内は直角なのか?

だから、中押しになります。
べた押しでは手の内の線が上を向きますし、上押しであれば手の内の線が下を向きます。

>>42

>基本的には指導者に教えを受け、その補助として教本があるという形になるのではないでしょうか。まず教本ありき、ではないと思います。

まさにそうですね。指導者あってのものです。

>八節の腕の動きがありえない、とのことですが、あれは肢体方向のベクトルのみを示した図だと私は解釈します。当然、角見の働き、馬手の捻りや張りのベクトルも存在することでしょう。書いてないから「無い」とするのはいかがと思います。

では、あの状態の図から勝手が矢の飛んでいく方向に対して正反対に真っ直ぐ離れが出る事は可能ですか?捻りなどの書いてない力があると考えても勝手の肘が動かない可能性はないと思います。もし、斜面射手さんが私の文を読んでイメージする内容で私ができないと言っている事で、可能な事があればそれは図の捉え方の問題で仕方がない事だと思います。ただ、私が引いている環境にいる人は誰もがこの事で納得します。これ以上の説明は無理なのでご了承ください。

46:斜面射手さん
>真尻さん

さっそくのご回答ありがとうございます。
大事なことを見逃していました。あの図の矢印が
「ベクトル」だなどとどこにも書いてありません。
仮にベクトルのつもりで作者が入れた矢印
だとしても「おおよそ」のものになるでしょう。
それよりはむしろ「イメージ(心気)」だと思いますが
その点についてはいかがお考えでしょうか?

また、私は物理には疎いのですが、真尻さんの
仰る「可能・不可能」というのは、物理的観点からの
ご意見でしょうか?それとも真尻さんの「考え」ですか?
>残身であの勝手の角度に行き着く為には勝手は山なりの起動を通らないといけません。
これについて、少し説明していただけないでしょうか?
要は水平ではなく少し下に引っ張っていると
仰りたいのでしょうか?

決して噛み付いているわけではなく、個人的興味で
お伺いしたいのです。鬱陶しいかもしれませんが
よろしくお願いします。

47:斜面見習いさん
絵はあくまでも絵であり、絵の通り引けるわけないと思いますけど? あくまでああいう感じだというイメージでと捉らえた方がいいと思うのですが…。
また、間違いがわかればそれでいいのでは?後世に伝えるとかすればなんら問題ないような気がします。 何か揚げ足を取った書き込みばかりのような気がします。

48:真尻さん
>>46
物理的観点からけす。
もし、彼が4つがけであれば肘の入りは正しいですが、矢印の根元の位置がおかしい事になります。肩の位置からではなく、肩の一番上の位置からでないと下弦がとれないので、矢が下の方に行きます。
3つがけであるならば、肘の入りがもう少し上で若干引きすぎです。
矢印がベクトルかどうかは問題ではなく、会相から想像できる離れと残身の形がずれています。

49:射楽斎Uさん
話が核心に入ってきたように思います。
「形」から「ベクトル(力の運用)」へ・・・。
射の成否を決定しているのは、射形ではなく力の運用の妙味・確かさです。だから、射形のあまり綺麗でない選手でも、会の短い選手でも離れを出す一瞬の力の働きが正しければ中るのです。
そういう意味で、「ベクトル(力の運用)」が問題になるのは、当然の帰結であり力の運用の妙味は的中の「十分条件」になるのです。
しかし、より高度な満足を得られる「射」を追い続ければ、さらに求めたくなるものがあります。
それは、「安定した力の運用」であり、的中を確信させる「会の熟成感」です。
この欲求に応えるには、「深い会」とそれを支え得る「骨法」すなわち骨格+筋力の調和した「動的な射形」が必要になります。
その意味で、一般に美しい射形といわれる合理的な骨法の追求は欠かせません。
その意味で、「射形(骨法)」の追求は良射の「必要条件」になるのです。
一般的には、高校生の多くにみられるように「射形」の向上ばかりに労力を費やしたり、安定したあたりを出すための力の運用の確立に全力をそそいで、「射形」になんかかまっていられないという若者も出てくるのです。
わたしは、高校2年まで「射形」一辺倒でしたが、二年生の秋、どうにも行き詰まり、いつしか離れ際の力の働きとその手応えの追及一本槍になってしまいました。
かなり本能的な取組みだったと思います。

その後30数年を経て両者の関係がようやく明らかになり
、現在「射形(骨法)」の指導をしつつ、深い会とそこから熟成される絶対の的中を予感させる「矢筋」の完成感(手応え)を指導しています。
結果的に、射はかなり高度になってしまいますが、どうせ求める道ならば正面から「本物」に取り組みたいという一心で、若い仲間を指導し、自分自身も一緒に行射し続けています。

確かに教本には改善したほうがよさそうなところも散見しますが、「発刊の言葉」にあるとおりの初期の目標に関してはかなりの成功を収めており、いまだに再発見するところも少なくなく、相当の完成度を持っていると私は驚嘆いたしております。
不足は、市販本で相当に学べます。

とても興味深い、とても重要なテーマと、多くの意見に対して、老兵はただ見守るべしと思っておりましたが、まだまだ血は騒ぐものですね。

皆さんの参考になれば幸いです。

50:匿名さん
真尻さんへ

私も改めて教本の図を見ましたが、あの会の状態から離れの図を実在の人物として考えてイメージしたら笑ってしまいました。確かに真尻さんが言われている事よくわかります。3つがけであれば、山なりの起動の離れですね。あの会では中りません。しかし4つがけならあの会はありだと思います。それだったら確かに肩の付け根から矢印が出ているのは、全く意味がわかりません。今、教本を作り直すならあの図は実在の人物にして、グラフィック処理をしてシルエットにしてあげると無理がない図になるでしょう。手書きだからあんな無理のある射になるんだと思いますよ。

一つ真尻さんに言っておきたいのですが、貴方のレベルで皆弓道をやっている訳ではないので、貴方が書き込むと話しについていけずに、このようにいろいろな意見を書き込まれます。私はこのレベルの話についていける方なので楽しく拝見していますが、真尻さんの苦労が目に浮かびます。大変でしょうが、末永くこのホームページに来てください。私もたくさん貴方の意見で勉強しています。

51:わさん
八節図解の射型は中野慶吉先生がモデルだときいておりますが…?

52: さん
>>51
実在した人物を図で書いたわけですよね?という事は書いた人の間違いという事になるわけですね。

53:斜面見習いさん
その絵を書いた人の力量(絵の)ではないのでしょうか? 僕自身、物理(ベクトル)とかを考えて引いてるわけでもありません(大学時代に、あの絵おかしいよねって話はした事はありますが) だから、そこまで突っ込む必要はありませんでしたね。 ちなみに当時僕は教本をあまり読んでませんでしたね。 なので、僕は弓を引くっていうだけなら教本はあまり使ってませんでしたね。

54:道民さん
 あの絵は、私も中野慶吉範士が引いている姿を仏師が描いたものと聞いております。
 またあの射形は、古い形なのではないでしょうか?

55:真尻さん
>>51
人も神ではないので、良い射ばかりだとも限りませんからたまたまそういう射だった事も考えられますし、かけをつけていない、服を着ていない状態で引いたとも考えられないので、絵師が想像で書いた部分もあるでしょう。私が言っているのは少なくともあの図はおかしいといっているわけで、射が古いとかその先生が未熟とか申しているのではありません。

56:真尻さん
>>50
ありがとうございます。その事に関しては十分承知してやっております。これからもよろしくおねがいします。

57:斜面射手さん
>真尻さん

ご回答ありがとうございました。
なんだか、似顔絵を描いたらほくろの位置が
少しずれているとか、そんな話に似ているような
気がしてきました。

あの絵が絶対だと信じるのは危険ですが、
「絵」がおかしいと言うのはナンセンスですね。
写真では無いから多少のずれは・・・といった
ところでしょうか。

矢印がベクトルだった場合、不自然なところは
あるかもしれませんね。

58:半平太さん [url]
こんばんは。なかなか煮詰まってきていますね
八節図のことですが、三つなら山なりになるとか四つなら矢印が違うとか、私も想像は付きました。
しかし、それは内輪の笑い話ではあってもあの八節図解を論ずるテーマとしては、イマイチではないでしょうか?
枝葉末節に落ちている気がするのは私だけでしょうか?

とはいえ、射形と射自体に対する非常に核心に触れるお話が沢山聞けましたし、また射道を追究する過程において見えてくるものの違いが分かったことは、私自信にとっては大きな収穫でした。

誰もが初心者の時代があり、それぞれの研究の過程を経てさらに広い視野で弓道を眺めることが出来るのですね。
このスレを立てた直後は、パンドラの箱を開けてしまったかとか、色々考えましたが、非常に内容の濃いスレになったことをまず皆様に感謝いたします。

先日、私の高校時代の射をビデオで見る機会を得ました。そこに映っていた自分は、顔を覆いたくなるような射でしたが、でも力の使い方などは本人ならでは納得できる要素がありました。
私自身は、射楽斎Uさんの仰る力のベクトルが分かるようになってまだそれ程経っている訳ではありません。

これからも大きな発見が多々あるものと信じて日々行射しています。
中りを超越した弓道に辿り着くまでどれ程かかるか分かりませんが、頑張っていこうと思います。
皆様、ありがとうございました。

59:真尻さん
>>57

>なんだか、似顔絵を描いたらほくろの位置が少しずれているとか、そんな話に似ているような気がしてきました。

そうですよ。出した間違いの二つの例のこちらの方は明らかに書き間違いの例として出しただけです。だからこの人の射が悪いとかどうとかいうつもりはないです。

>>58

私も勉強になりました。またいろいろ勉強していきたいですね

60:佐久間さん
私もあの図を信じて半月でした。
昨日、矢の向いている方向を後ろの人にみてもらった所、かなり前を向いていました。いろいろ調べた所、効き目が左でした。気がついてよかったです。真尻さんありがとうございました。

61:るんさん
あれ?
終わっちゃったみたいですね。(遅レスごめんなさい)
>45:
>>40
>弓と押し手の手の内は直角なのか?

ということは、
弓と押し手の手の内は直角ということなのですね。
→どうも直角という解釈の方おられるようだということですのでおたずねした次第です。
真尻さん、ご見解をありがとうございます。

62:真尻さん
>>61
もちろん、弓の握りは会で傾いているので厳密に直角にはなりません。(弓の種類によっても違いますし)
要は、会で押し手が矢の方向に押す事ができていて、弓の上長、下短のアンバランスを手の内で相殺できて真っ直ぐを実現できているような手の内を弓と直角という風に錯覚する事を十文字と表現しているのだと思いますよ。

63:るんさん
>62
ははは、どうもありがとうございます(ニコッ)


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