自分の弓道論 (投稿43件)[1〜43]


1:聡さん
自分はあてるということを前提に弓道をしていますが、友達はきれいな射形で弓をひくことを意識しています。しかし、その友達は全然、的には当たっていません。自分は弓道は中らないと意味が無いと思うのですが皆さんは弓道をどう考えていますか?

2:katsuさん
自分としてはどんな射型でも突き詰めれば中ると思っているので中っているからと満足しないで「正しい射型で中てる」事を最終目標にしてやっていく事が大切だと思っています
学生弓道のうちは中った者が勝ちなのは確かだしやっぱり中った方が面白い
でも、中らないから意味が無いかと言えば弓道ってそれほど薄っぺらな物だとも思っていません

3:笹岡さん [url]
自分は綺麗でかつ中り続ける射を最終目標として(なんていうほどレベル高くないけど)がんばっています。
弓道はやはり、中てて何ぼの世界(もちろんそれ以前に大切なことが多くありますが)だと思うので、見た目はよくても中らない射は「見かけ倒しの射」として切り捨てています。
でも、その射がその先の更なる的中へのワンステップであるなら、それはそれで意味のあることだと思います。
継続した高的中を出すことと、早期熟成の両立は難しいようですね。

4:月虹さん
私の師匠は「射形をきれいにすればおのずといい結果がでる」というのが口ぐせです。私もそう思ってますよ(>_<)

5:風光さん
初めまして。私は最近弓道を始めたばかりなんですけど、私の先生は「弓道は正しい射をしていれば中る」と言ってました。だから、私の高校は射型重視です。実際、大会などでは的中しか見られないけれど、弓道は「中れば良い」というものではないと思います。中らないよりは中った方が断然良いですし、最終的には「正しい射型で高的中」が一番理想ですよね。でもやっぱり、まずは正しい綺麗な射を心がけるべきだと思います。すみません、まだ初心者なのに偉そうなこと言って・・・。

6:デビさん
自分はきれいな射型ということを前提に弓道をしていますが、友達は中ることのみを意識しています。しかし、その友達は全然、きれいな射型ではありません。自分は弓道は射型がきれいでないと意味が無いと思うのですが皆さんは弓道をどう考えていますか?

と逆さの文章を作ってみたり。

「きれいに中る」という双方の理想の射があるとしてその過程にて比重をどこにとるかというのは個人の問題でしょう。
相手の過程を「意味がない」とか「見かけ倒しとして切り捨てる」と卑下するのは自分の品位を下げている気がする。
相手が射型重視なのであれば、「それが中りに繋がるのか」と相手の考えも学んでみるのも良いかもしれません。

7:熊本人さん
一概に、中たってないから綺麗な射でも意味がないとは僕は言い切れません。
僕は断然中り重視ですが、だからこそ綺麗な射で頑張る人を尊敬します。
なかなか綺麗な射をしていれば中たるという考えを持つことも難しいです。
自分の中てたいという欲を切り捨てて弓を引かなければできないことですから。
僕は自分のことをただの欲深い人間だとしか思っていません。
的中ははっきり言ってかなり高レベルだと自負してはいますが、それだと欲は捨てられないわけですね。そうなると当然のごとく早気です。
それに比べ射を磨き欲を捨てた人の中に早気は圧倒的に少ないと思います。
何が正しくて今の自分が何をするべきなのか
それをいつも頭に入れて引かなければ、
やはり自分にとっての良い射というものに結びつけていくのは難しいことでしょう。

8:槻弓さん
普段の練習では「一射絶命」。最終目標は「真善美」への到達。端的に言えばこれが私の弓道論です。普段から一生懸命練習し最終的に理想とする物になる。在り来たりですがこれに尽きると思います。普段の練習の場こそ最高の見せ場と考えるようにしています。

9:にっしーさん
射型重視でも的中重視でも上達を目的にしている以上問題無いと思いますよ。
もし、射型が良ければ的中しなくても良いとか、的中すれば射型はどうでも良いと思った時に、その人は上達しなくなってしまうのではないでしょうか。

10:新さん
綺麗な射とはどんな射でしょうか?射形がいいとあたるのは本当でしょうか?正射という言葉がありますが、それは綺麗な射形ということではなく、正しく弓を射る事ですので、射が綺麗でも中らない場合は、正しく弓を射れてないことになります。的中、射形ともに別々に考える事はできません。

11:遙さん
自分は、引退まであと1週間もない高3です。
今までの高校弓道では、射形重視でやってきたつもりです。
ですが、目標としていた参段審査には合格できず、試合の方も県大会で負けました。けれど、今まで射形に重みを置いてやってきてよかったと思っています。

それ故、聡さんの発言を見ていると、少し切なくなります。
中らないと意味がない。確かにそうかもしれません。高校弓道中ってナンボの世界ですから。でも、意味がないとまで言われると、少々堪えます。今までの高校生活で自分が信じてきたものを根底から覆されたようで・・・。

中りにこだわる気持ち、わからなくもないですが『正射必中』という言葉の意味を考えていただきたい。
中り重視で、それ故に中らないと意味がないと思ってしまうこと、間違っているとは言い切れません。考えは人それぞれですから。
けれどデビさんが仰っているように、それと逆の考えをしている人間もいるということをもう少し考えていただきたい。
でないと自分の一言で他者を傷付けてしまうことになりかねませんから。

自分が質問したことに、多くの人が返事を書いて下さっています。
それを無視してバックレる事のないよう、最低限お礼は述べてくださるよう、お願いします。

まだ初めて2年のペーペーが偉そうな事書いてしまい申し訳ありません。ですが、書き込まずにはいられなかったんです・・・。
お目汚し失礼いたしました。

12:180戦地さん
 学生のウチは中ててナンボやと思います。本当に「正射」なるものがあったとして、五年や十年で極めれるもんチャウと思います。

 もし、絶対中てれる射があるとすれば、それが「正射」となり、新しい流派になると思います。

13:けんたろさん
弓道が今のような形態である意味を考えてみました。
単純に中てることが重要なのであれば、もっと中りやすい弓、中りやすい矢という形態が出てくると思います。たとえば、アーチェリーのように照準が無いのは何故でしょう?
中てることだけが大事なのであれば、弓道が今の形態をとっている意味は無いと思います。
私は”弓道”というのは”道”だと思います。
道というのは現在地点と向うべき場所があって、その2点を結ぶものですよね。今の自分の射と目指すべき自分の射。
この二つの間を進んでいく中で自分が何を得ることができるのか?
それが弓道をやっていく意義でもあり、目的でもあると私は思います。
ですから、究極の目的が中てることであるとした場合、それを達成したときに何が得られるのか?
ということが問題じゃないですかね?
綺麗な射、正しい射という物を目差して、何がえられるのかと比べた時に、僕にはどうしても見劣りしてしまいます。
的中を出して、全国大会で優勝して、それで満足なら、それを否定する気は無いです。
学生の間だけ弓道をやるという人には、確かに”弓道”は長すぎる道かもしれません。
しかし、長い目で弓道を見た場合、きっとそれだけでは飽きちゃいます。
こういうことを書くと傲慢に見えるかもしれませんが、そこそこ中てるくらいなら、ちょいとコツをつかめば簡単ですよね。
私はそれだけじゃ不満ですね。

14:斜面見習いさん
綺麗な射や中たる射(中てる射)とか言われますが、弓を引くのが楽しい。 だから弓道をするってのもありでしょう。
どれが正しいとか間違いは存在しないと思いますが、自分と意見が合わないから否定するっていうのは筋違いではないでしょうか?

15:sunaさん
 弓というのは矢を射て目標物にあてる道具なわけですし、あたらなくていいなら的はいらないでしょう。とは、大学時代の先生の受け売りですが。

 目標は「必中する正射」を身に付けることだとしたら、射形重視と的中重視かはアプローチの違いじゃないでしょうか。

 冒頭の先生の言葉、続きがあって、綺麗でも中らない射は、汚くても中る射に対して正射にに遠い要素が何かある。(この辺はこちらのサイトでも見かけたような)
 学生弓道は今しか経験できないし、弓道においてはある種特別な世界でもある。部活でチームや個人で活躍するというのも貴重な経験だから、中てながら巧くなるように練習してみるのがよいと思う、ということでした。

 部活の顧問というお立場もあっての発言かとも思いますが。

 私は射形重視で、形が崩れたときは的中度外視で練習してましたが、これ聞いて、頭柔らかくなった気がしました。

 大学で初心者で弓を始めた、同じくらいの的中で勝手にライバルと目されていた(ちょっと迷惑)形はどうでもよくて的中重視派の子、曰く「私は部活のスポーツとしてやってる。射形より、あてないと意味がない」

 弓とのつき会い方は人それぞれ。
 スレのタイトル通り、理想は「自分」のものではないかと。

16:180戦地さん
 「きれいでも当たらない射」と言うのはようは、「良さそうに見えるかど、実質はたいしたことない射」ではないかと思います。

17:sunaさん
16> そう思います。何かが確実に間違っているから当らないわけで…
 「正射に遠い」とは、言葉を受け入れやすいよう柔らかく表現して下さったんでしょう。

 形にこだわってしまう人は、今は当らなくてもココさえ治せば、という思いがあります。3に書かれているような。
 同時に当てに走ることへの反発も。
 でも、そこで他の人の弓道を認め、柔軟な考え方で自分の弓を一生懸命やってたら(あてながら治すも含めて)、もっといい雰囲気でできたかなという後悔があるもので。(うちの部はギスギスしてた〜)

 学生弓道引退して久しく、おこがましいながら書き込みさせていただきました。

18:叶さん
初めて投稿します。僕はこの間、ある大会で優勝しました( 個人)。ちなみに僕は射形はきれいではありません。しかし、優勝してから先生たちから団体に選ばれるようになりました。僕が高校生だからこういう中り中心になるのかもしれないけれど、やはり中りが重要だと思います。

19:静岡県の人さん
中てなければいけないなどありますが、それは弓術であり弓道とは違うように思えます。
別に高校の大会でもほかの学校から射形は見られるわけですし、あの学校上手いねって言ったりもしますし。弓道はやはり射形がよくてなんぼって感じではないでしょうか。射形がいいのに中らないなんて事はなく、射形のどこかに問題があるから中らないのだから。
頭にも書きましたが的を狙うい中てるだけならそれはきっと弓道ではないと思います。
たかが2,3年弓道をやっただけの自分が言うのもなんですけど。

20:ボンさん
疑問なのですが、何故綺麗な射型で引くのと中りは繋がらないのですか?綺麗に引けば綺麗に中るということで、正射必中と言うのだと思います。だから八節と五重十文字を忠実に守ってやっているのが綺麗な射となるのでは?と思いました。

21:真尻さん
中てる射と綺麗な射について議論されていますが、最終的に到達点は同じです。一見違う二つの観点は別の方向を向いているようですが、上級になると同じ方向を向きます。その過程の段階では議論になりがちですが、どちらを信じてやっている人も間違っていないというのは確かです。

ただ、習い始めは高校生、大学生が多く、その時期は試合という結果を残す場があります。つまり、どんな射型でも中れば結果が出るわけです。綺麗に引こうと考えて、中りに学生時代につながる人はなかなかいません。それだけ、上で述べたような境地に行き着くのは難しいのです。この辺がこの問題が議論になりやすい部分だと思います。

綺麗な射は、形となって残る結果が学生時代に出にくい、これは弓道というものが美というものを大事にしている特殊性から生まれるジレンマです。もちろん、形になって残る結果が得にくいだけで、結果が出ないわけではありません。審査や教えてもらっている先生の評価など、これらは何事にも代え難いものだと思います。

聡さんも練習の延長ではなく、全く練習しない状態で弓を引いたときに7割を確実に出せるようになったらわかるようになりますよ。私はその辺でわかるようになりました。

22:ボンさん
「綺麗な射は、形となって残る結果が学生時代に出にくい」とのことですが、では、どんな射が結果に残るのですか?

23:真尻さん
「射が悪い」「中て射だ」と悪役になりやすいのは、試合で綺麗に引こうという事よりも中てる事ばかり練習してきて、試合で結果を残す人ではないですか?

もちろん、学生時代に両方がすぐれている人もいるんですよ。ただ、学生時代は両方を得る為の時間が少ない。だからセンスがないと両方をこの限られた時間の中で達成するのは難しいのです。これは、私が指導してきて思った事です。自分の射手としての個人的な感想ではなく、指導者側の見方としての感想です。

これは、おもに高校の話(実質2年間)です。大学生は少し長いですからそれだけできる可能性が広がります。高校大学と続ける人はもっと可能性が広がるでしょう。一般で引く人はある意味時間は無限です。

24:ボンさん
中てる事の練習とは、基本に忠実に引くこととは違うのですか?

25:葵使いさん
>中てる事の練習
それは人それぞれでしょう?

的を狙うも型を習うも趣味の問題で
正しい道などというものを誰もが指し示していない中でなぜそんなにも二極化しようというのでしょう。

と、繰り返される議論のような物を何度目かに目にしながらいつも思うのでございます。

好きな弓を好きに引きなさい。

26:真尻さん
同じです。ただ、頭でわかっていても体が限られた時間の中でできるかどうかが問題だと言うことです。

弓道は別に基本に忠実でなくても、同じ事ができる能力に優れていたら中るわけですから、中てたいという思いだけで練習して、試合で皆が首をかしげるような射でなぜか中るような的中マシーンのような人も生まれ事もあります。私は同じ事を続けられる事もひとつの才能だと思うので否定はしませんが。

27:真尻さん
>>25
わかりにくいかもしれませんが、私も>>23で本質は同じ事を言っています。

「好きな弓を好きに引きなさい。」

いい言葉です。

28:ボンさん
確かに弓道は道なので、どう歩こうが自由ですよね。自分の目標はいつか人の見本になれるような射になりたいということです。難しいでしょうが(苦笑)

29:裕太さん
今までさまざまな持論がでましたが俺はどちらか一方だけを追求するのはおかしいと思います。確かに的を狙ってするスポーツですから的中は大切です。ですが学校や弓道教室などで教えていただいた射法は必ずなにかしらの流派流義を元にしていると思います。だから自らの学んだ流儀をおろそかにし、自分独自の射法をしてしまったらそれは『弓道』ではなく『遊び』になってしまうと思います。すみません。ちょっと極端にいいすぎました。ですが正にそのとおりだと思います。そして何より的中を求めすぎた射ははっきりいってちょっと汚い(失礼な言い方ですみません。他に言い方が見当たらなくて)と思います。

30:デビさん
>>29

なにか話しが矛盾していない?

>今までさまざまな持論がでましたが俺はどちらか一方だけを追求するのはおかしいと思います。

「なるほど、そうだなぁ」と唸らせる提言をしておいて

>自分独自の射法をしてしまったらそれは『弓道』ではなく『遊び』
>何より的中を求めすぎた射ははっきりいってちょっと汚い

というのは結構きつい言い方で書いていますが、詰まるところ「伝統ある射技を大事に中てに走るな」と言っていますよね?
どちらか一方を追求していやしないかい?(中りじゃない方を)

最初の提言には賛成です。どちらも大事。

31:槻弓さん
私は射型を無視した「当てる」だけの射には今一魅力を感じられません。ただ当てればいい、射型よりも的中を重視すべきだ、と言う考え方には美意識が無い。「当てる」のでは無く「中る」これこそが私の考える弓道における「美学」だと思います。

32:熊本人さん
真尻さんや葵使いさんってほんと、、、、、。
すごいんですね。いや皮肉ではなく、本気で思ってるんです。なんといいますか、、、。
自分がうまく言い切れないことも
淡々と述べてしまう。
まだまだ未熟者だと思わされる瞬間です。
弓引きとしても、また人としても。
本題に戻りますが、
ぼくは>7で述べたように中てることだけに集中し弓を引いてます。
そこでしばしば疑問に思うのですが
>31にあるような当てるではなく中たる
これってあり得るんでしょうか?
どんなに弓道がうまくなっても、
どんなに忠実に自分の射を繰り返すことができるようになったとしても、その要素に必ず
同じ狙いに付けると言うことは出てくるはずです。
今僕は自分の射を忠実に繰り返すことはできないので毎射毎射狙いで修正しながら的に中てています。どちらにしろ狙いを付け的に中てることに代わりはないと思います。
中たるというのは狙いを考えなくして自然に矢が的へ飛んでいくと言うことですよね?
それって可能でしょうか?
僕の考えでは狙いを考えずに引くと
多少なりとも狙いがずれて、それだけ的中は下がると思うのですが

33:ヒロさん
僕は何かに囚われる事が嫌いです。まだまだ人間的に未熟なためどうしても反発することが多々あります。それは弓道においてもそうなのですが、僕は僕独自の射を追及しています。自分が何の流派でやっているか分からないからです。自分が理想とする的中、見ための美しさをとことん追求しようと思っています。我流で極めたいと思っているわけです。今は全然ダメですが、いつか弓道と言えばこの人というような射手になりたいと思っていました。それだけに、遊びでしかないと言われたのはショックですね正直。しかし、人の数だけ考えがあるので、それもまた自己の向上のイイ材料ですよ。僕は、的中を求めるも自由、射の美を求めるも自由。最終的に辿り着く場所は同じだと考えます。

34:真尻さん
>>32
いつもと同じ的を使って、いつもと同じ道具を使って、的の正面に立って、射位にたつ。いつもと同じ風景ですね。

この状態から目をつぶって中てることができますか?私はこれでも80%くらい中ります(10%位的中率は落ちますが)。もし熊本人さんがこれをやるとき、何を大事にして引いたら中ると思いますか?それが中てるではなく中る為に必要なものです。大事なのは、目から来るものだけでなく体で狙うという事、自然に的のほうに飛んでいくのではなく、自然に的を狙えるようになることです。

35:槻弓さん
過去数百年の弓の歴史において我流の弓人で成功したといえる人はいません。あなたが進もうとしている道はとてつもなく険しい。私の知り合いにも「型にはまりたくない」と言って射法射技等を無視した射を行って結局実らずに挫折した人が何人かいます。あなた方が嫌う「型」は過去数百年の間に幾人もの名手達ががひたすら研究し、開発し、錬磨し、また研究し、現在に至った物です。それは今も続いています。もしもあなたが本当にそれをたった一人で超えるつもりなら、まずその「型」を学ぶべきだと思います。全てを知り尽くし、それでもなお自己流の射法にこだわるのなら、改めてその研究をすれば良いでしょう。自分が超えようとする物を学ばない物に進歩は無いと思います。それは「我流だから」と言ってあなたに楽な道へ逃げて欲しくないからです。もしあなたが天才ならば、数百年進化し続けた射法を超える射法を編み出す事が出来るでしょうね。私が言いたかったのは「射を極める」と軽々しく口にして欲しくないということです。長々と偉そうに申し訳ありませんでした。
もしかしたら百年後、あなたが編み出した射法がスタンダードな射法として世に認められているかもしれませんね。そうなる可能性を考えるとなかなか面白いです。

36:真尻さん
>>35
>もしかしたら百年後、あなたが編み出した射法がスタンダードな射法として世に認められているかもしれませんね。そうなる可能性を考えるとなかなか面白いです。

私はそういうものを目指しています。弓をもって矢を飛ばす以上、どんな流派でも共通する何かがあるはずです。私はそれを真理と呼びます。私もまだ斜面系と正面系の二通りの流派しか学んだ事はありませんが、少しずつでも前進している事を確信しています。ですが、まだまだ修行中です。

思うのですが、ヒロさんや私のような亜流的な考え方の人が新しい流派を切り開いていったのではないでしょうか。その中で生き残った流派の人が歴史を語っているのだと思います。歴史は勝者の言語録です。

私は将来、歴史の言語録に載っていない、小さく咲いて消えてきった流派のような運命を歩んでもいいので、自分の流派を切り開くのが夢です。

37:槻弓さん
小さな支流でも勢いがあれば流れは大きくなりやがて本流となる。亜流の人たちに必要なのはその勢いだと思います。大抵は私のように他の流れに飲まれて挫折してしまうのですが・・・真尻さん。あなたのように正面、斜面の射法、射技を学びなお自己流への探求心を失わないあなたを羨ましく思います。あなたなら本当に自分の流派を打ち立てる事が出来るかもしれませんね。ささやかながら応援しています。私は、私なりにこれからも「型」の完成に向かって研磨を続けていきたいと思います。

38:真尻さん
>>37
槻弓さんも私も最初の議題の「中る射」「きれいな射」どちらがいいかという次元を超えた話をしていますね(笑)

お互い、自分の求道を追及していきましょう。私も応援しております。

39:ヒロさん
僕はまだまだ未熟ですので基本となる『型』は大事にしてます。が、全ての人を体格や骨格など違うのに同じ射に当てはめようとされるのがイヤで反発してしまうのです。僕は正面打ち起こしの射しか見た事がないので、本格的な射面打ち起こしの方の射を、是非拝見させてもらいたいものです。正面、斜面を学べればベストなのですが、今の自分にはそんな自信がないので、まずは住んでいる地域の大会で認められる射手になりたいですね。

40:熊本人さん
>34
自然に的を狙えるようになるですか。
なかなか難しそうなことですね!
うーん、、、、、。
僕はもう部を引退した身なので、
これから受験を経てとある大学にはいるまで
弓を引くチャンスは少ないです。
だから、大学に入ってからそのことについて弓を引きながら考えていきたいと思います。
目をつむって引くとき何を大切にするか、ですよね?もし今の僕がその状況に立ったら、多分
体内を見ようとしますね。
でもそれが可能なのも一射まででしょう
たぶん一本引いたらそれによってデータをとってそのデータを元に僕は引いてしまうからです
まだまだなんですね(笑

41:真尻さん
>>40
別にデータを元に引いてもいいんですよ。それが体に蓄積されていくと自然になっていきます。

例えば、熊本人さんも生まれた時に歩くのは難しかったですよね?(って覚えているわけないですが)今、歩くとき何か考えて歩いていますか?バランスとか、どっちの足から先に出るとか、前の足が出て後ろの足はどのタイミングで後ろに蹴るかとか・・・考えるわけないですよね?それはどうしてですか?

弓道で中てるではなく中るという事は、歩くという無意識の境地に似ています。上の例は簡単に書きましたので考えてみてください。

42:熊本人さん
なるほど!
かなり納得させられた気がします。
凄く今後の参考になりました!
ありがとうございました

43:早気人さん
自分はとにかく会をもつことにきをつけています


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