無念無想の離れを語ろう。 (投稿94件)[1〜94]


1:アチャチャさん
初めに、一心になるという言葉を説明します。
一心になるとは、一事に集中するということです。
会では、伸び続けるということですね。

しかし、その先も有ります。
私の経験では、一心が極を迎えるとき、一事に集中するという思いさえも消えうせて、無に至ることがあります。
わたしはこれを弓に当てはめた時、悟りの射として目標にしています。

さて、一心になる為の方法論ですが、私は呼吸法との関連性を考えています。
人類が言語を持ち始めたのは約12万年前だ、と言われています。
のどの奥に充分な空間が出来て後、呼気を微妙に調整できるように、横隔膜と胸腔の周りの筋肉を随意的に動かすことが出来る制御システムが脳内に出来上がったのだそうです。
その時期が12万年前ということです。

これらによって、呼気に複雑な言語をのせて、自由に話せるようになったのだそうです。
また、本格的な言語の出現以前にも、人類には非言語の感情があり、穏やかで比較的持続性のある気分や激しく一時的な情動や場合によっては原始的な情操というものも有ったのかもしれません。

2:アチャチャさん
この言語と感情は、共に人間の情報処理システムとしての意味を待ってきましたが、更なる共通点として呼吸との深い関係性を持っているようです。

私たちが話をする時、或る感情が起こるとき、心に何らかの考えを浮かべるだけでも、呼吸に反映するようです。
もっと直接的に言えば、心に何かが起これば、胸腔を取り囲む筋肉が動きます。

そして、言語や感情と胸腔を取り囲む筋肉とは、可逆的な関係性を有しているように思われます。

つまり、『心に浮かぶ言語や感情が胸腔の周囲の筋肉を動かし』、『その筋肉の動きを止めてしまうと、思考や感情を止めてしまう』ことが出来るということです。
これは、私の内観的な経験論ですが・・・。

また、偶然にもこの二つの考え方は、或る命題とその対偶の関係に対応していますね。
或る命題が真ならば、その対偶もまた真となります。

さて、私は専門家ではありませんから詳しくは知りませんが、ヨーガや仙学・禅では呼吸法がその修行法に取り入れられ、自己の心(や体)をコントロールする為のものとされているようです。
勿論、弓道でも呼吸法は重要視されていますね。

そこで、会で一心になって伸び続け、[離すのではなく、離されるのでもなく]・・・教本に記載されていますが、・・・離れるには、・・・。

ここでひとつ、大事なチェックが有ります。
1.離すのではなく・・・馬手が弦を離すのではない・・・(能動的表現)
2.離されるのでもなく・・・弦が馬手に離されるのでもなく・・・(受動的表現)
上記の二つの意味は同一で、弦を離すのは馬手になっています。
基本的に教本では、馬手が弦を離してはいけないと主張しているのだと思います。

3.離れる・・・弦が馬手から離れる・・・(自発的表現)
4.離れる・・・馬手が弦から離れる・・・(自発的表現)
上記の二つの解釈では、離れる主体が3・弦と4・馬手とに別れて対立します。
どちらが正しいのかということですが、離れという刹那は、本来矢が放たれる契機です。
勿論矢は弦に番えられているのですから、3の解釈を支持するのが妥当だと考えられます。

3:アチャチャさん
つまり、離れるとは弓の弾性変形による力によって、自然(自発的)に弦が弦枕から離れるということで、離れの主体が弓に有り、射手の行為は従属的なものであることを承知しなければならなくなります。

そこで、実際に離れるためには、会に至るまで暴発しないように右肘で内側に捻り、またゆがけの親指を押さえ込んできたのですが、そのゆがけの押さえ込む指の力だけを徐々に減少させていけば、弓の反発力で自然に離れを生じるでしょう。

この時、会に入った瞬間には、暴発を防ぐ二つの力が、それぞれに弓の離れようとする力より小さく、且つ二つの合力が弓の離れようとする力より大きいことが、重要です。

さて、ここで大切なのは、馬手・指の力を意図的に抜いて行くのか、無の境地に向かって行くうちに徐々に力が抜けていくのかの問題です。

前者の場合は、力を抜くという意図が気負いとなって他所に無駄な力がかかって伸びが止まり、ゆるみ離れとなります。
後者は、一心なる伸びの延長上に離れを生じます。

馬手について言えば、右肘で伸びるのですから指の力が減少することで、ゆるみには当たらないと考えます。

結局自分にあった心をコントロールする呼吸法を身に付けるということになりますね。
私としては理屈では判りかけてきたように思いますし、一度だけ経験も有るのですが、何しろ弓のことは弓と体を使って心に刻んでいく他は無いようですね。

広くご意見を賜りたく存じます。

4:加州雁金さん

色々と難しいことを書かれているので、理解しがたいのですが、、、
無念無想の離れ?とは、日常生活に例えて言えば「歩行」することの様な物なのではないでしょうか?

「歩行」というのは一見簡単な様ですが、極めて複雑なシステムから成り立っています。
しかし、我々は何の迷いもなく歩いています。

アチャチャさんもハイハイから二足歩行に移行したときは、かなり苦労された事でしょう?
しかし、今は何気なく歩いていませんか?
「無念無想の離れ」もそういうものだと思います。

5:元学生さん
興味深く読ませていただきました。
結論から、アチャチャさんのご意見はわかりますが、どんな答えを期待されていますでしょうか。
つまり、文章が条件のみで構成され肝心の質問に焦点が合っておらず、真意を図りかねます。

書かれていることは弓道に限らず広い知識を披露されて自分なりの解釈を出しておりますが、では、これまで弓道の先覚者が残してくれた知識からのアプローチを使って、弓道に共通の言葉で説明いただければ幸いです。

>そのゆがけの押さえ込む指の力だけを徐々に減少させていけば、弓の反発力で自然に離れを生じるでしょう。
技術的に気になるのが、この文章で弓の反発力が一定としてないでしょうか。弓は引くほどにその抵抗力を増します。よって、ゆかけの押さえ?の力を弓の反発力?が超えるのはなにも緩ませるだけでなく、引く動作による抵抗力の増加でも可能です。いかがでしょうか。

6:鷹さん
>そのゆがけの押さえ込む指の力だけを徐々に減少させていけば、弓の反発力で自然に離れを生じるでしょう。

オイゲン・ヘリゲルはこれを阿波師に見破られたのでは?
徐々に減少させる行為は、無念無想ではありえないのではないでしょうか。

7:アチャチャさん
加州雁金さんへ
レスを頂き、嬉しく思います。

歩行については、私も考えました。
自転車に乗ることや柔らかな紙コップを持つことも、実は複雑なことなのでしょうね。

詳しくは忘れてしまいましたが、大脳皮質ではなく小脳かどこかで無意識に調整をしていたようです。

つまり、度重なる経験で体が覚えたということだ、と思います。

しかし、そういう状態が無念無想かと言われれば、疑問が浮かびます。
一般的に、人が歩いているときには、その周囲から沢山の刺激が舞い込み、色々の思いを呼び起こすからです。

そして、それらの思いは、視線の向かう場所を変えさせたり、歩む速さを変えさせたり、表情をも変えさせることでしょう。

このように、体で覚えたことが出来ても、無念無想の射とは異なるように思われるのです。

弓を引くことを体で覚えることは、大変困難なことだと思いますが、このスレのテーマは更にその先に在る様に思われます。

出来れば、この先も一緒に考えてみてください。

8:加州雁金さん
アチャチャ様

大脳皮質?小脳??それがどんな脳なのか、浅学の私にはわからないのですが、、、

>そして、それらの思いは、視線の向かう場所を変えさせたり、歩む速さを変えさせたり、表情をも変えさせることでしょう。

離れも同様ではないのですか?
的(敵)に狙いを定めて引き絞っていたとしても、的が動けば狙いを調節しなければならないでしょう。
敵がこちらの気配に気付いて逃げようとしたり、攻撃をしかけようとしてきたら、
いち早く敵を仕留めないといけない場合も出てくるはずです。
無念無想と言っても自分の意志で制御出来ないのであれば無意味なものではないですか?
そういう意味で「歩行」を引き合いにだしたのです。

9:アチャチャさん
元学生さんへ
投稿ありがとう御座います。

実は射技・体配編で「ゆるみ離れ」というスレッドが在り色々考えたのですが、レス主様が不在のようでしたので、こちらに新しくスレッドを立てました。

さて、元学生さんはこのスレを質問と記されていますが、これは質問ではなく語り合って認識を深めたい、というのが私の思いです。どうぞ、ご理解ください・

次に、引く力が増せば離れが生ずるという趣旨のご意見を頂きましたが、盲点をご指南された思いです。

ただ、会に於いて、右肘等による作用の力を増すことは、引く束を目に見えて増やすことですので、静中の会に突如として動を生ずる離れとしては、少し拘りが残ります。

如何でしょうか。
お考えを頂ければ、幸いです。

10:アチャチャさん
鷹さんへ
ご意見、ありがとう御座います。

オイゲン・ヘリゲル氏という名前は、目にしたことはありますが、その著書の詳細は承知しておりません。

メッセージ3に書きましたが、
「さて、ここで大切なのは、馬手・指の力を意図的に抜いて行くのか、無の境地に向かって行くうちに徐々に力が抜けていくのかの問題です。」

さて、阿波先生に看破されたヘリゲル氏の離れは、どのようなものだったのでしょうか。
興味が湧きます。
お教え頂ければ、嬉しい限りです。



11:元学生さん
アチャチャ様。質問でなく語り合いの趣旨の意向に添えられれば幸いです。

>会に於いて、右肘等による作用の力を増すことは

弓は左右の活動が相対的かつ相対的であり、右肘のみで会・離れを考えるのは片手落ちだと思います。
アチャチャ様の文章から、私は離れのきっかけが右手に集中しており胸の中筋から左右に分かれる動きや押手の伸び合いから生まれる離れの視点がないと感じました。

目指すべき離れとは違いますが、アチャチャ様の勝手離れに対し押手離れも存在します。
私はその両方が相対的に作用して胸の中筋から離れのきっかけが得られればと試行錯誤しております。

どこかの指導書に押手は伸ばしきるのでなく米一粒とか豆一粒の余裕を残しておくものと見た記憶があります。曖昧なので皆さんからご指導受けるかもしれませんので、もう少し勉強します。

>静中の会に突如として動を生ずる離れ
きっとこの文章に見解の相違があると思います。正直なところ、離れそのものは動であり会は永遠の引分けとも言われ静のように見えても内的には動です。力を抜くことも極論すれば動ともとれます。どう理解していけばいいでしょうか。

12:鷹さん
『日本の弓術』(岩波文庫 青661-1)

離れの内容までは知りません。

これ以上は「観念論」に陥りやすいので言及を避けます。ただあなたのおっしゃる内容がこの書に示されていたことに似ていたのでそのように書き込んだまでのことです。

13:アチャチャさん
元学生さんへ
早速のレス、ありがとう御座います。

メッセージ11の青文字の語句ですが、右肘に「等」を付して、押し引き・開くといったものを含意しようと、意図したものでした。
内容についてですが、いわゆる勝手離れを表現したものではありません。

また、メッセージ5に於ける、元学生さんの「引く動作による抵抗力の増加」という表現が私の参考になっていました。

ところで、押手の一粒の余裕は、これからの研究材料にさせて頂きます。

二つ目の青文字の部分ですが、これは視覚的な観点からの表現です。
ご指摘の通り、会に於いて内的には、非常な
動が感じられます。
そして、それが極に達したときに無念無想になり、ほぼその辺りで離れるのでしょうね。

この時、離そうとして力を緩めるという意識も、自分の弦音の記憶も無いでしょう。

元学生さんが書かれた「極論すれば動」ですが、大きく解釈すれば自己の意図したことです。
しかし、その一射に限定すれば、自分の意思で力を緩めたのではないのです。
この辺りが、離れか離すのかの境目でしょうね。

14:アチャチャさん
加州雁金さんへ
更なる投稿、ありがとう御座います。

私は、ここ一年以上巻藁前ばかりです。
道場に行っても動かない的ですので、狩猟や武器としての弓を考えていませんでした。

しかし、動く標的を想定した場合、その殆どは生命を持ちそうです。
その時こそ、無念無想の離れが現在よりも実利を発揮したように思えます。

動き回る敵といえども、帰りを待ちわびる家族が居るかもしれません。
自分が死にたくないのと同様に、敵である相手もそうかもしてません。

しかも、矢で射殺すということは、相手の顔さえ見える距離なのです。

相手の動きに応じて狙いを変えることは善しとしても、離れの意味する重みを感じて離すのは、心の動揺がその矢飛びに反映するでしょうね。

勿論、私に経験の無いことは言うまでもありませんが・・・。

もう一つ、無念無想の中では自分の意思を働かせて行動を起こすという、つまり何らの制御も出来ないと思います。

しかし、無念無想になるか、ならないかということは、自分で制御できる可能性が有ると思っています。

よろしく、お願いいたします。



15:アチャチャさん
鷹さんへ
ありがとう御座います。

確か阿波先生は彼のドイツの方に、体ではなく心で弓を引くように、と言われたそうですね。

私もこの言葉を聴いて、心とは何かと思案しました。
考えや思いは心に浮かびますが、その考えや思いの元になっている心、つまりどこかで書きましたが行射を体に覚えこませるという風に理解したのを思い出しました。

そうすれば、行射に当たって、どんな思いも考えも必要が無くなりますね。

しかし、必要が無いから何も心に浮かばないのかというと、そうではないようです。

ここから先が、難しいのですね。

16:紅一入さん
アチャチャさん

 スレの趣旨も興味深いですし、思慮深く冷静な進行にも好感を持って読ませていただいておりました。 

 >そのゆがけの押さえ込む指の力だけを徐々に減少させていけば、弓の反発力で自然に離れを生じるでしょう。

 >馬手・指の力を意図的に抜いて行くのか、無の境地に向かって行くうちに徐々に力が抜けていくのかの問題です。

 やっぱり、ここが気になります。
 馬手・指の力を抜いて離せば、それはゆるみだと思います。弓手もそれに合わせて弱めないとバランスが取れず、結果矢勢も弱くなると思います。弓力が生かせない、弦を切る、弓を壊す、とつながって考えてしまいます。
 私は、馬手・指の力は引くにしたがって徐々に締まっていって、会・伸合いの間も指の力はむしろ増えて、離れの極で弓手に呼応して押さえ込む指を親指が貫通するようにはじける、というのが離れの現象なのだと思います。
 これを心的に見れば、意図的に弱める作業が一切不要で、一直線に離れに向かえば良いことになり、すでにそれは無念無想の状態なのだとも思えますがどうでしょうか。
 狙いが変わったときの話もでておりましたが、そのときは伸合いを中断して狙いを修正のうえ再び伸合う、ということかな、と思います。
 また、射殺す相手と心の動揺の話ですが、戦場ですから周りじゅうが至近距離で斬り合い突き合いしている状態なので、自分の死を引き替えにその場に身を置くだけですでに無念無想のような状態だったのではないかと思います。

17:yotuさん
無念無相の離れ、字そのままですけど、私は修練によって体に覚えさせて意識せずに離れることと考えます。我執の克服?非随意運動がったかな?意識して離すから離れるに向って稽古してもどこか的、的中、結果を意識したりしてしまうんですよね。
大射道教の射風のような感じがします。
なんだか変な文章になってしまいましたね。すみません。

18:アチャチャさん
紅一入さんへ

スレッドの趣旨にご理解を頂き、嬉しい限りです。
こういったテーマは、弓をやっていると何時かは出くわすものだ、と思います。

内容に就いてですが、二点ほど考えておくことが有りそうです。

一つ目は、会でのゆるみについてです。
物理的に引く矢の束が変わらなければ、ゆるんではいないのかなぁ、と考えています。
本来、離れを押さえ込む指の力は、弓を押し引きする力とは、別物と考えるからです。
右手では、手首の力がほぼ抜けていて、外見的には肘からゆがけまで弧を描いています。
弦枕が弦に引かれている状態ですが、親指が徐々にかた帽子を解くように動き、その後で放たれるのなら、物理的にもゆるみだと思います。

しかし、親指が少しずつずれることなく一気に離れるのなら、ゆるみではないと思われます。

二つ目は、無念無想ですが、一応二種類を考えています。
一つは、自分についても周囲についても充分な知覚があるにも拘らず、意識に雑念が入ってこない状態です。
もう一つは、自己と周囲の知覚がすぼめられて点になってしまうような状態です。
このとき、感じられる点ですが、密度が大きくなり、途方も無い質量で、超高温な塊のようなものです。
そして、その点が自分自身であるのです。

私が目指している離れは、後者の方です。
この時、自分の体も道具も、時間感覚さえ感じられません。

長くなりましたので、またに致します。

19:アチャチャさん
yotuさんへ
沢山の方々が、深遠な弓道の完成をめざしているんだなぁ、というのが今の心境です。

私は、ごく最近弓道教本を買い、三冊半ほど読み終えました。

その感想ですが、ここぞというところへやって来ると、各流派の特徴がでてしまいます。
何故それが最良なのかという根拠が明白ではないですね。

無念無想の離れにしても、そのメカニズムやトレーニング方法などは、はっきりしないように感じられました。

私は唯の一射だけ無念無想の離れを体験しましたが、執筆者の中には、100パーセント離しとされる先生もいらっしゃり、また離れを強調される先生など、読者としては教本にて、迷いを深めるような場面が多々有りました。

私は少しでも長生きをし、その分研究をして、体で覚える弓道を分かり易いものにしていきたいですね。

yutuさん、貴方のお顔も知りませんが、お互い焦らず励みましょうね。

20:天龍さん
例えば、瞑想を実践している人の体験談などを読んで、自分では全く経験のない精神世界に驚いたり半信半疑に思ったりします。それは当方が浅学であるからに他なりません。
アチャチャさんはそういう分野に造詣が深いように拝察します。その人が弓道の離れにその世界を持ち込もうとする時、結構苦労されているようです。

アチャチャさんは、この一年ほど巻き藁しかやっていないとのこと。離れを的と一体化する理想をはずして考えられない私に、その意図を理解できるはずがありません。

待満の会。やがて離れが、的の直径36cmの許容誤差範囲で出せれば的中する。
的中の要諦は弓手にありますが、離れの誤差は馬手から発生するように思います。それを打ち消すために弓手の緊張を瞬間的にほんの少し加減する。それが百発百中の結果をもたらすのだと思います。
いくら人の神経伝達が電流並のスピードとはいえ、馬手の狂いが発生してからでは弓手の加減は大きく遅れます。
そこに、いやになるほどの単純練習の繰り返しがもたらす究極の予測が働くのだと思います。
離れが出る超直前、馬手の狂いの程度を察した弓手が反射的にゆるみを当てる。射手は、なんと無様な離れかと感じても、矢は意思を持ったように的枠の直径範囲に入ります。

私は、的心を射抜く完成度の高い射をもちろん美しいと思いますが、的に強烈に集中しているからこそ人の意識を超えた次元でなされる究極の補正が与える、崩された射形による的中に、人の能力のすごさを感じます。

もしよろしければ、アチャチャさんがこの的とのかかわりを絶ったことろでの巻き藁練習のみを繰り返される意図を教えていただけませんか。
それから、ただ一度体験されたという無念無想の離れを、もう少し詳しくご紹介いただけませんか。

21:yotuさん
アチャチャさん

私も弓を引けなくなるまで長生きして何かを見つけたいものです。
だいぶ先になりそうですけど(笑)

22:アチャチャさん
天龍さん へ
レスを頂き、ありがとう御座います。

私は高校二年で弓道部に入り、二年間弓と接しました。
当時、たまに行く道場には無という額が掲げられていて、興味を惹かれたのを記憶しています。
それから34年が経ち、昨年の春に弓を再開したのです。
実は、自信のもてる自分の証明のために、弓を始めました。

中って当たり前の射が当初の目的でしたが、現在はプラス悟りの射です。

さて、巻藁前に就いてですが、私の庭の巻藁には口割の高さに直径2.5センチほどの赤いマークが印されています。
そして、足踏みの際に細心の注意を払いますので、その後不動な的に対して、的心は目に入っても狙いの修正をしません。
正直な射を心がけ、今の拙い自分の結果を受け止めるようにしています。

また、巻藁前の射では、弦離れした直後の矢の姿を如実に見ることが出来るため、自分の悪癖を見つけ易いようにも思われます。

いずれにしても私にとって、的前は思いを巡らしながら弓を引く場ではありません。

長くなりましたので、もう一件の内容は後でお送りいたします。

23:アチャチャさん
天龍さんへ
続きです。

無念無想の射は、昨年の春の経験です。
まだ、自分の弓道具も巻藁も無かったので、道場のを借りでいた頃のことです。

もう少しで道場の使用時間も終わろうとしていたので、再び座して深い澄ましを行い、その後巻藁に向かいました。

技術は未熟で、呼吸法も大雑把でしたが、一矢にかける思いはただならぬものが有ったと記憶しています。

細かな記憶は無いのですが、引き分けでまずお腹に吸い丹田を固めてから、次に胸に吸い込んで会に入ったと思います。

後は、必死であり同時に無心で伸び続けました。

ただ、記憶が薄っすらとしているのですが、・・・予定外でしたが会に入って更に息を吸い続けていたような気がします。

やがて、喩えですが、ただ炎の塊となったような気がしました。

気が付くと残身でしたが、一文字の大離れで、おおー・おおーと声を上げ、両腕を上下に動かしたい気持ちに駆られました。
それは、涙の出る程の喜びという感動でした。

視線の先に気が付くと、矢は巻藁の狙いに真っ直ぐに、そして深く刺さっていました。

会の時間としては、普段は10秒くらいでしたが、この時はもう少し長かったと思いますし、残身の時間もかなり長かった・5秒くらい?かなぁ、と思います。

ちなみに、現在は4寸伸びの16キロですが、その時は2寸伸びの13キロの弓でした。

さて、現在は呼吸法や調息法、脳内ホルモン等を調べていますが、無我無想を解明したいものですね。

24:天龍さん
ていねいなご説明ありがとうございました。
巻き藁については、参考にさせていただきます。
後段については、ほぼ予想していたような感じでした。今後の糧とさせていただきます。

25:アチャチャさん
皆様方の投稿に感謝いたします。
ただ、無念無想の離れのご経験をお聞き出来なかったのが少し残念でした。

無念無想の離れといっても、意思を持って離すを体に覚えこませたものは、弓も体も別個に射手には感じられ、離すの意識を最小限にしたものだ、と思われます。

もう一つの方は、まさに会者定離の理によって、離れが出現します。
この時、弓も体も心も区別の無い境地です。

しかし、この時の射行は弓道であって弓道ではないものになっていて、道場が悟りを得る為の場としたら、既に弓を持つ必要が無くなっています。

ただ、弓を引いて無邪気に楽しむといった心境は、残されていそうです。

私も折角弓を始めたのですから、試行錯誤の輪廻を抜け出して、そう在りたいと思います。

26:環さん
自身まだ4年ほどしか弓道をしておらず,あまり練習をしているとも言えませんが,参考までに.

アチャチャさんの無念無想の離れとは違うかもしれませんが,私は気付いたら離れていた,ということが何回かありました.

その時は,会をできるだけ長く,楽に(といっても縮んだりゆるんだりすることなくですが)もつ方法をいろいろ試している時で,文字通り勝手が勝手に飛んで行きました.

ただ,自分でもどうやったのかは覚えていません.少なくともそうでない時よりもおさまりがよかったのは周りの評価と自分の感覚からわかりましたが.

27:アチャチャさん
環さんへ
体験談が届きました。
ありがとう御座います。

出来れば、下記の点に就いてお聞きしたいのですが・・・。

形の上で会に入ったときでも、大きく二通りの離れがある、と思うのです。
一つは暴発で゛とられた゛というものです。
この場合、私見ですが、残身に迫力が無く、特に押手の肘は捻りが解けて、その内側が上向きがちになります。

もう一つは、伸び合いの延長上で離れ、残身に気合がこもっていますし、押手の肘の捻りも解けていません。

この二つの結果を大きく分けるのは呼吸法で、横隔膜を残身で張っていれば、暴発ではない、と思われます。

如何でしょうか。

長くなりましたので、呼吸法に関することは、後日書きたいと思いますが、もう少しお話を伺えれば幸いです。

28:環さん
確実なのはそれが暴発ではないということです.なんと申し上げたものか,こう胸の中筋から左右にパンっと割れた感じでした.残身も相応のものだったようです.

そして私は積極的に伸びあおうとはしていません.呼吸法もあまり気にしてはいません.まだ経験が浅く,呼吸法を気にするとほかの部分まで気が回らなくなってしまうので.

ただ,そのときの射はいつもよりもリラックスしてやれたような気がします.上でアチャチャさんが申し上げられているような感じとは逆で,なんというか,会に入ってからすべてのことがどうでもよくなっていく感じで,弓を引いていることすら忘れていくようでした.

29:アチャチャさん
環さんへ
再度の返信、ありがとう御座います。

現在勉強中で確実なことは言えませんが、リラックスと集中とは、紙一重のような感じです。

無念無想と言っても、単に心が静慮つまり明鏡止水の状態になっている場合と、一心に一時に熱中している状態では大きな差が有りそうです。

また、こういう時に、ランニング・ハイの様な脳内ホルモン(ベータ・エンドルフィン)の影響で、陶酔感や幸福感に浸るときが有りそうです。

こうしたホルモンの分泌には個人差があるようで、研究途上のようです。

私は意図的に、体の痛みを消し去る特技を持っていますが、β−エンドルフィンは内因性モルヒネ様物質で鎮痛作用や麻薬様作用をもたらすことがわかっています。

しかし、歯痛や腰痛には効きません。
実は今も腰痛に泣いていますが。

そう言えば、禅のお坊さんが弓を始めて、無念無想には自信が有っても、実際弓で試してみたら容易くは無い、と言うような内容を教本で読みました。

きっと、無念無想になることが目的ではなく、それをもって一心に一事に集中するのが重要なようです。

環さんのご経験は、将来弓に役立つように思われます。
それでは、また。

30:アチャチャさん
呼吸法に就いて、私見を書きたいと思いますが・・・。

しかし、その前に呼吸法と直接結びつく自然体について少し書きます。

自然で安定した立ち姿を保つためには、両足の裏の拇指球を中心にして左右均等に体重をかけるのが、経験上最良と思われます。
この場合、拇指球以外の足の接地面で、バランスをとることになります。

つまり、体重が最もかかる部分とそれを維持する部分とが意識的に区別されることで、
しっかり踏みつけられる安定した状態を保ち易くなるからです。

もう一つ、丹田呼吸と深く関わり大切なのは、背骨の使い方です。
人の体を右横から見たとき、背骨はS字の様に湾曲していますが、特に尾てい骨から上の部分、約20センチ位を反らせて、お尻が後ろ上方に向くようにし、背骨の湾曲に従いながらもその上に頭部がしっかりと載った姿勢が重要だと、思われます。

こうすることで、本来の背骨が姿勢を支える中心になり、余分な筋肉の強張りを取り除きます。

初めは大変かもしれませんが、慣れると声楽家やモデルのような姿勢になります。

練習法としては、壁に両踵とお尻と両肩と後頭部が付くように立ってみてください。
この時、ウエストの高さの部分と壁の間に、隙間が出来ます。
弓の場合は、この隙間が拳一つ分より小さめの方が良いと思われます。

31:ぞんびーさん
なるほど・・  趣深い話を聞きました。
自分、最近 勝手につくった思想の上で、
 失敗する事が多々あるんですよ。

でも書きます。(笑
 自分は、「無」は 随時運動と不随時運動の間にある気がします。

単純に無っていっても、 ただ適当でやみくもなワケじゃないのは、
ここじゃ言語道断でしょうけど。。

上記に「歩行」てありましたけど、 あれも不随時運動ですよね。
 どっかの哲本で「自動」って表現もあるのでそれを引用します。

「自動」は癖や習慣で割と簡単に出来るんですが、
 あと「弓一筋」って本から大雑把に引用しますと。。(ぇ
人間は機械ではないので、 完璧に不随時運動をしたつもりでも、
 少しずつ感覚がずれてしますらしいです。
そもそも「完璧」が存在しませんけどね。。

それを随時運動で補うらしいんです。

>リラックスと集中とは、紙一重のような感じです
というより、 リラックスあっての集中な気がします。

ぁ、 まぁ話をまとめると。
 無=自動の連続。 と思ってるのですが。
不随時運動するには随時運動が必須だということです。

ですから、 随時運動→→→不随時運動の
 矢印の間の少しの流れが 「無」となるんじゃないかなー と。

32:ぞんびーさん
あ、 すいません。  続きです。。 一応

随時運動と集中について、 引よ・・ 考察させて頂きますと、
 とりあえず、 自分のすべき行動を事細かく確認するが先決ですね。

特に何も考えず、感覚で引いている人は効果がありそうです。
やはり 射方八節が素体となるので、それを軸に、
 自分なりの射をつくっていきます。

そして、 特に会なんですが、 自分のやるべき行動が明確になるほど
 不安も 緊張も薄れていきますね。
体だけじゃなく、 記憶の中に残しておくんです。
 
自分の話で恐縮なんですが、
此間あった試合ではMyワールド入ってしまい、皆中が3中に。(タイム

まぁこれはアホですけど、 それほど集中していたということです。
 実際そのときは全く緊張しないで、強く意識もてた順立ちみたいな感じでした。
考えることが少ないほど、 観客の目とかが
 勝手に意識に入りこんで邪魔をするんです。

これが、 所謂「精神力が強い」ってことのような気がします。

33:アチャチャさん
ぞんびーさんへ
投稿を頂き嬉しく思います。

mes31について・・・不随時運動という言葉の意味が、私には良く分からないのです。

学生の時、30年以上前に、随意運動・随意筋、不随運動・不随筋というのは習いました。
自分の意思で動かすか、否かによる区別でした。
歩行で主に使う足などの筋肉は随意筋で、内臓の筋肉は不随筋だった、と思います。

歩くときに気安くそれが出来るのは、意思(大脳)によって動く随意筋と、それを自動調整している他の脳の働きのように思われます。

今のところ無念無想に就いては良く分かりませんが、脳内ホルモン、神経伝達物質、大脳皮質での閉じられたループ辺りを考えています。

特にループですが、運動するときには身体からの入力、特徴的な分散表現をもつ脳での情報処理、身体を動かすための出力、そして環境を介して身体へ入力がまた還ってくるというループが連動しています。

そして、その大きなループが元となって、脳内に閉じられた小さなループを作りあげたときに、無念無想になり、弓も体も忘れて一心に伸び合うという状態を起こすのかもしれません。
まあ、脳科学の進歩を待つことになりますが・・・。

mes32について・・・私も、ぞんびーさんのおっしゃる通りだ、と思います。
それでは、またです。


34:ぞんびーさん
賛同いただけましたか。  すごく嬉しいです。。

blogじゃただのサイコさんなんですよ。(汚

ぁれ随意でしたっけ・・
ぁの自分は、 不随筋って言葉は初めて聞きました。

まぁ、 そうですね、 当然肺などの内臓は
 日常生活で一々意識してられませんからね。。
進化の過程でなったのでは・・  と仮定しときます。(ぇ
 五感でいえば触覚でしょうか?

勝手な考察ですと、 誰でも意識せず肺が動いている、
 と判断したから、そうゆう名称がつけられたんじゃないでしょうか。。

まぁ要するに、mes31の「自動」がそうなんですが。。

脳で次の行動を確認して、 施行の方向をつくると、
 そこで役に立つのが不随時運動です。
今までの習慣が身についていれば体が自然にある程度補整するんじゃないかと。

 ループ・・ って反射運動のように聞こえるんですが。。
 >それを自動調整している他の脳の働きのように思われます。

はちょっと知らな・・ わからないです ね・・

ぁと自分、 実は生理学とかまだ全然勉強してないんですけど・・
 でもそっち系の学部にはいく予定ですね。。(アソ

35:アチャチャさん
ぞんびーさんへ
生理学系ですか。

それでは、少々書きます。

胃や腸には筋肉があり、自律神経のもとで基本的な自動的運動が為されています。
ところが、腹筋などを意図的に動かしてやると、その運動の影響を受けて胃や腸は活発に運動をすることが知られています。

肺に就いては、それ自体に筋肉は無く、横隔膜(焼肉ではソフトカルビー・ハラミ・サガリ)や肋骨の周囲の筋肉で、肺が収まる胸腔の容積を変化させ、呼吸を可能にしています。

また、不随運動という言葉がありますが、それは反射と共に、乳幼児に特有の運動です。
成長と共に、意識を伴う随意運動が出てくると言われています。

尚、自分の意識に因らずに出てくる運動で、反射でないものを不随運動というのですが、これは運動障害として治療を受けていらっしゃる方もいます。

反射に就いては、口の中に食物が入ったとき唾液が出るとか、睫毛に何かが当たると目を閉じるとか、膝の下を叩くと足が伸びるなどの“思わず〜する“という運動です。

私は弓のことを通じて、思わぬ方向の勉強をすることがありますが、まあ、これも人生ですね。

それでは、またです。

36:アチャチャさん
正しい、或いはイメージ通りの射技を身に付けるということが、弓道でも重要です。

現在の脳科学の研究結果から、少々考えてみます。

1日の練習でできた運動学習の記憶は小脳皮質に維持されていますが、その後練習期間が空けば消えてしまいます。
しかし、1週間程度の学習で長期化された運動学習の記憶は、もはや小脳皮質にはないということになります。

さらに電気生理学的に、1週間の学習後には、小脳皮質の出力先の前庭核に運動学習の記憶痕跡が実際にあることが確かめられました。

このことから、運動学習の記憶は、まず小脳皮質に獲得されますが、まだ身に付いたとは言えません。
しかし、学習が(一週間程度)進行するにつれて、シナプスを越えて小脳前庭核に移動し、そこで固定化・身に付くことが分かりました。

さらに、随意運動における小脳の役割は、大脳で生じた意思(運動司令信号)を最適化することということだ、そうです。

つまり、身に付けた経験が、自分の意思で行う行射の細かな自動調整をしてくれるということです。

これらを踏まえると、自分の射のイメージを明確に持ち、一日数時間の練習を一週間程度続けると、それが出来るようになるということですね。

ただし、自分のイメージ作りも大変ですが、そのイメージ通りに自分でしているかをチェックしてくれる方が必要かもしれません。

丁寧ではない練習を続ければ、それが身に付くということも真のようです。

37:ぞんびーさん
ぁぁ、 やっぱそうゆうちゃんとした理屈があるんですね。

そういえばホントどうでもいい余談なんですが、
「天上天下」って本で「無空の拳」てのがありました。

引用> 脳の判断はおろか、脊髄の反射すら必要としない無空の拳。

何万、何億と繰り返すと出来るみたいです(笑
 理屈なんですかねぇ。。

そうなるとやはり 最終的な形は、
考えてから行動するのではなく、
(体が)行動してから考える、 て感じですよね。

どこかで考えないと段々ズレが生じてきますし。。


ところで「弓道」に個性は必要ないですよね。
 よく「自分の射」といいますが、言い換えればそれは
「よく当てられる射」になるわけですから。
「射法八節」という完璧な軸に限りなく近づけるのが、 
 本来の弓道の目的ですよね。

でも学生時代なら、 やはり前者は義務なのでしょうか。。
 でも年老いてからやるのも面倒だしなぁ。。
ぁと1年・・か 、(遠い目

・・ハ、 すいません。 本当は人間科学部希望です。
 大分違いますよね 。。 

38:アチャチャさん
ぞんびーさんへ

あと一年の高校生活でしょうか。
ちょっと前のことのようにも思えますが、心を寄せた方はどなたかの奥様になり、今思えば、弓の事も他の事も夢のようですね。

でも、今の生活も気に入っています。
ぞんびーさんも、これからもっと素敵な事がたくさん有りそうですね。

一年有ると、色んなことができそうです。
お互い、(余り方に力を入れずに)頑張りましょうね。

それでは、またです。

39:アチャチャさん
無念無想の射のイメージを古典風に書いてみました。
雑談の掲示板に免じて、お許し下さい。

『我が射は、生きる喜びなり。
息を深く吸い、細く吐きつづけては、止まるなり。
技は凝らして隠し、やがて忘るるものなり。

会の息は、若鶯の如くして、離るるなり。
・・・鶯のさえずる心響いてか 冷たき雫つとに落つらん(詠み人・アチャチャ)

弦音の最上は、斬首の琵琶音(びわね)なり。
これを越えたるは、ただ無鳴の射なり。

残心にては、思うところ無し。
ここに至りて、われ成仏するなり。』

さて、言わば『弓道は弓を押し引きして、矢を放つだけ』であると考えます。

しかし、全休連や各流派によって、独特な体配・射法・射技・かけ等が複数存在しているのは、目指しているものが異なるからではないのでしょうか。

そういった意味に於いては、弓道で何を表現しようとしているのか、ということが最大の関心事ですね。

お願いですが、どなたか、ご自分の射のイメージをお教え頂けないでしょうか。
私も深めて参りたいと思います。

40:アチャチャさん
無念無想の離れ、或いはそういった射は、悟りの契機を意味しているように思われます。

無念無想になり、弓もわが身も顕在的な意識さえ無くなり、宇宙と一体と成るというのが、いわゆる精神主義的な弓道の最たる捉え方のように、思われます。

ここで言う一体というのは、同一ではなく、その一部となって溶け合うという事でしょう。

さて、存在の全体を確実性の高い順に分けてみました。
1、”在るように在る”階層・・・唯一なる全体は、在るように在る存在自体である。
2、”成るように成る”階層・・・全体の内部にある部分は、他の部分との連関性に於いて、変化する存在である。
3、”為す”階層・・・意識とその意識を媒体するものは、意識自体と全体の内部に於ける他の部分との二重の連関性に於いて、変化する存在である。

つまり、宇宙も全体ではなく部分でしかない存在ですが、その内部の自然や人間も、物質と見たときには自然法則に支配されています。(成るように成る)

しかし、生物とりわけ人間は意思によって行動する存在ですね。(為す存在)

そうすると、不動の的に対して、射行は自然法則に従うと共に意思にも従うという二重の要因を持つ事で、的中に対する不確実性が生ずるという事なのです。

つまり、射手が意思を持たない自然物となり、的の28メートル手前から、自然法則に則って中るように矢を放てば、中るということですね。

これが、宇宙と一体と成るということでしょうか。

この(屁)理屈を理解しても、悟りには遠いように思われますが・・・。
しかし、弓道の熟達者は、恐らくこの道を歩まれていらっしゃるでしょうね。

41:アチャチャさん
呼吸に就いて

頭頂部から丹田までには、3つのルートが有るようです。
これは、仙学(道教のひとつ)からの知恵と経験ですが・・・。

一つ目は、体の前(腹側)の表面近くを通って、二つを結ぶルートです。
これは、オペラで使われるベルカント唱法の息の通り道と同じようです。

もう一つは、背中側の表面近くを通るルートです。

最後のは、前述の二つのルートの中間辺りを通るルートです。
真っ直ぐに頭頂部と丹田が結ばれる感じです。

よく丹田に力を入れるという事を耳にしますが、大半は丹田そのものではなく、その前後のお腹や背側の表面ではないでしょうか。

丹田の位置は、下腹部の内部です。
そこを上から押すように力がかかるのが、正しいのではないでしょうか。

私の経験では、前面のルート、背面のルートが出来て、初めて中心のルートが開き、丹田を押す感じがつかめる様に思います。

勿論、丹田にしてもこれらのルートにしても仮想のもので、そのように意識される、といったものです。

これらの3つのルートが開かれるには、背筋を伸ばし頭も天に伸びるような姿勢が必要です。

この呼吸の考え方は、弓道でも使えるのですが、唯の呼吸としても、呼吸をするだけで精神は安定し、うっとりとした幸福感さえ感じられます。
また、その後は爽快感を味わくことが出来ます。

42:アチャチャさん
無念無想の離れを実現するために、呼吸法が必要かといわれれば、否と応えます。
実は、射法八節も特に重要ではありません。

私の趣味の一つにサイクリングがありますが、ママ・チャリで、峠の長い上り坂をフルスロットルで走る気力が有れば、それが必要条件です。
後は、一種の体質が必要かも知れません。

ただ、一射にこめる気概を、これで良いと思った時には、射は台無しになってしまいます。
たとえ、他者が見惚れる様な射でも、自分だけはその価値を知っているのですから。

弓道は、私の弓は16キロですが、それでも私を追い詰めるのに十分な弓力を持っています。
こんな平和な時代に、自分をぎりぎりまで追い詰める経験を持ち、そこを生き抜いていくのが弓道の醍醐味ですね。

そして、そんな射行の先に、また何時か出会える無念無想の離れが有るのだろう、と思われます。



43:ゆーまさん
>アチャチャ様
ご高説ありがとうございます。なかなか面白いかなとは思いましたが、医学的な知識のところでおやおやと思うところがあります。
私自身医学を研究しているものですので、弓道に対して医学、特に解剖学、生理学的な側面からアプローチすることの重要性は大きいものと考えています。せっかくこれだけのテーマに沿った考察ができているのですから、もう少し正しい医学的な知識を身に付けられると、より深く、実証によって確立される、すばらしい射につながっていくのではないでしょうか? アチャチャさんの考察は心理学的な側面が強いと思ったのですが、体あっての心です。    
どうも生意気失礼しました。。

44:アチャチャさん
一度“完“が記されましたが、連作物のようです。

最近は、禅の勉強をしていました。

無念無想になって、行射と一体というより行射自体になってしまうようなのを、禅では“脱落底“と言っているようです。

この場合は、行射のその刻々に於いて、純粋な行射感覚が有るのみです。
ですから、後で気が付くのですが、押手の弓や頬付けの矢も、また弦枕を引く張力もいつもよりはっきりと感覚として感じられます。

そして、ただ、無我です。

もう一つは、“身心脱落“というもので、この場合は身体感覚も顕在意識も無くなってしまい、つまり弓や矢も、かけや的も無い状態です。

勿論、眠っているのでも死んでいるのでもありません。
それでも、気が付けば行射をしていたのです。

私の現状で言えば、脱落底は普段の生活では短時間的に容易です。
しかし、行射に於いては離れの前後に限ってまだ駄目です。

そして、私がこのスレッドで指し示した無念無想は、身心脱落の方だということが分かりました。

興味のある方は、禅または脱落底などで検索してみて下さい。

45:アチャチャさん
禅に就いて

弓道と禅とは多少なりとも関係がありますね。
でも、本来道場という場が悟りに至ることを一つの目的としてあるのなら、私の知る限り禅の悟りは現在の弓道には、無用です。

生死を賭けた時代なら兎も角、現代ではいけません。
憧れを持つ事も危険です。

禅の悟りは、反社会的ではないにしろ、非社会的ですね。
私は仏教徒でも何でもありませんが、お釈迦さんの悟りの方が、弓道には合いそうです。

46:1さん
削除されました。

47:1さん
削除されました。

48:アチャチャさん
久々にスレッドがアップされていましたね。
有難う御座います。
折角ですから、少々書き込みます。

弓道とは、弓に道の付いた言葉ですが、この道は古(いにしえ)にはタオと発音されていたようです。

どのような事にも先達が必要なのは、方丈記にも記されています。
しかし、師と同じ道を歩む事をタオと言ったのではありません。
むしろ、それを禁じたのがタオの教えです。

現在は、弓道教本や他の刊行物が多数出版され、更に名人上手の映像さえ自宅で目を通す事が出来ます。
これらも、りっぱな師の一つです。

さて、生前お釈迦さんが言われた事ですが、「私の話を決して鵜呑みにしてはいけない。自分自身でしっかりと考えて、自分のものにしなさい。」
また「私の死後には、自分自身が自分の番人となり、精進していきなさい。」とも、言われたそうです。

弓を引く場合も、たとえ師に就いても人任せにしないで自分を見守り続ける事が、本来の姿勢です。
ですから、自分で自分自身の外と内を見守り続ける事が出来るのであれば、師匠は不要です。

練習方法にも言及されていたのでお話いたしますが、矢は当たる様に弓を引いて放てば、当たります。
当たるから良いというのではありません。
たとえ的前で当たっても、今の私には何ら感動もありません。
幾つかの不出来の為に、無心に成れないからです。

練習方法を重要な順に書けば、イメージ・トレーニング、素引き、巻き藁前の練習です。
的前の射は練習ではなく、私の射が大会で優勝するか、或いは皆中するかを判断するための、単なる結果を見るためのものです。
座禅では物足りない動中の静、静慮が有ってこその三昧、そして心技体の統合を目指しているのです。
そして、各人が目指すものが異なっていても、私には貴方たちが時には私の師匠になってくれる場合があります。
有難う御座います。

49:1さん
削除されました。

50:環さん
何故でしょう。このスレッドだけやけに削除が多いのですが。それほど荒れそうな内容の返信ではなかった気がしましたが。


さて、アチャチャさんは的前では無心になれないとの事ですか?だとすればそれは問題では無いでしょうか。
自分を自分で見る、と言うことにも限界があると思うのです。それが完全に出来るのは不可能だと思うのですが。
考えとしてはとても興味深いのです。

51:アチャチャさん
環さんへ
初めまして。

削除の事ですが、知人の言葉に、「苦は差異が元になっている。」というのがあります。
その辺に原因が有るようです。

それから、私のことなら大丈夫です。
問題が問題なのは、問題に気付かない事。
また、問題に気付いてもそれを解決する可能性が無いときです。

私は、そのどちらにも該当しません。

また、完全とは一部の形而上のものに適用する言葉で、弓道のような形而下・自然法則に従うようなものでは、求める対象にはなりません。

百射百中でも、完全は必要ないのです。

52:黒紫さん
言い訳の様な文章が多過ぎるような……


御自身の能力や思考に文句をつける気はいませんが、「もし、自分でなんとか出来れば師匠はいらない」や「もし、的に中っても無心でなければ満足出来ない」という妄想を書かれては、初級者に悪影響を与えます。

また、注意すると、師匠は「頼る者」ではなく「協力する者」です。

「自分で出来るもん」という幼稚さは如何なものかと…

53:環さん
すみません、仰る意味が良く分かりません。


問題があると分かっていても、(そしてその解決方が分かっていても)解決出来ないならばやはり問題でしょう。
無心を的前で出来ないのを、的前は無意味だという考え方で言い訳しているだけではないでしょうか。


また、完全になれないことは分かっていますが、それを目指すということは目標として間違いでは無いと思います。果たして一人だけで出来る事でしょうか?

54:へきるさん
いいじゃないですか「自己満足」の一言で片付ければ。

55:1さん
削除されました。

56:アチャチャさん
このスレッドも賑わいを見せてきました。
有難う御座います。

巻き藁前の練習と師の必要性に就いて書きます。

皆さんの文面から想像すると、お若い方、学生さんか生徒さんのように思われます。
私は53才になりましたが、もし皆さんが高校生さんならば、凡そ3年間という期間が一区切りになっているのかも知れませんね。

私は、個人で弓道をしていますから、そういった時間的な制約は、寿命以外にはありません。
60歳ころまでに錬師5段を取り、資格の必要な試合にも参加できるようになれば良い、と考えております。

古来より巻き藁前の練習を3年課すなどの例も有りますが、それが8年でも何年でも、個人の考え方一つですね。

ただ、高校などの部活に参加して弓道をしていると、やはり在学中に何らかの結果を出したいと思うのは当然です。
それが、試合での入賞経験であったり、昇段試験であったりです。

皆さんと私には当然ながら差異があります。
同じ型に押し込むには無理がありますね。

さて、巻き藁前の射ですが、私が飽きずに続けるのには、二つの大きな訳が有ります。

一つには、巻き藁前の射は大変効率的な練習であるからです。
未熟な射では、弦離れして10メートル以上も飛んだ後、やっと矢が落ち着いてくるのだそうです。
ところが、私にはその飛んでいく矢の様子をじっくりと観察する事が出来ません。
ところが、巻き藁前の練習では、弦離れした直後の矢の様子をほぼ観察する事が出来ます。

矢はずの溝が真っ直ぐで、巻き藁の口わりの高さに真っ直ぐ刺さったのを善しとしています。
私の巻き藁には、直径約2.6センチの霞的が付けてあり、その上端から上へ約3センチの点を口わりの高さと一致させ、その点を中心にした直径2.6センチの円内を当たりとしています。

また、巻き藁台に工夫をして、矢勢が特に有った時には、後ろに動くようになっています。

57:アチャチャさん
会での狙い通りに、真っ直ぐ癖の無い矢を放つ事は中々難しい事ですが、・・・まだ、何時もという安定感がありません。

私の場合は、このような練習で、当たるべくして当たったのかどうかの判断がつきます。

もう一つの訳です。
巻き藁前の射は、それで十分弓道を味わえるのです。
更にこの訳の説明をすれば、巻き藁前の射の中に弓道を味わえる心を、私自身が養い得た、ということです。

私が更に重要であると考えるイメージ・トレーニングにさえ、最近は弓道の醍醐味を味わえるようになって来ました。
ただ、素引きは基本的に離れを行わないため、別です。
しかし、イメージ・トレーニングと素引きが一組になって、巻き藁前の射を支えています。

58:アチャチャさん
次は、師弟の師に就いてです。
義務教育でもないのに、何方かに師事するということですから、あらためて考える必要がありますね。

師というものの役割に就いて考えてみました。
その最大の眼目は、弟子を自立させることだ、と考えます。
子育てと、同じですね。

そして、自立の中身を端的に表現すると、自己管理・自己啓発・自己評価が出来ることだ、と思います。

自分の健康や道具・施設の管理・安全対策・真剣な練習など沢山有りそうですが、これらを自己管理と考えても良いでしょう。

私がここのサイトで学ぶのも、アーチェリーのサイトで学ぶのも、また弓道関係の書籍を読む事も、更には昨日纏まりましたが無我に就いて考察するのも、自己啓発ですね。

そして、巻き藁前の練習で、具体的な当たり・はずれ、矢飛びの良し悪し、矢勢の強弱、弦音の良し悪し等、具体的に一射毎に検証するのが、自己評価です。

そして、弓道上達の方法論として、問題点の発見・解決の為の手段や方法の工夫・その実践・検証、そしてこのサイクルを繰り返しながら、私は問題を解決していきます。

つまり、師がその弟子にかける在るべき姿、これは師自身の在るべき姿でもありますが、私には、既に備わっているのです。
という訳で、とりあえず現時点で、私に師は必要ないのです。

私は、健康はもとより精神の安定を図りながら暮らしています。
つまり、家族や社会との関わりの中でも、それらが実現できるような生活を心がけているからこそ、それが出来るのです。
そして、それが私の弓道に反映し、弓道が私の生活に反映します。

また、弓道に深く関われば、何をする時でも、そこにその人の弓道が垣間見られます。
ここの書き込みも同様です。
書き込みには、その人の弓道との関わり方のようなものや、時には射のようなものさえ見えるような気がします。

だからこそ、弓道が上達するにつれて、射品というものが問われるのです。

59:かもさん
そうですか。

60:南雲さん
>私の巻き藁には、直径約2.6センチの霞的が付けてあり、その上端から上へ約3センチの点を口わりの高さと一致させ、その点を中心にした直径2.6センチの円内を当たりとしています

→これを的前の的中と同じに考えるのは無理があると思います。矢がどのように飛んでゆくか巻藁では全てを判別することは不可能です。


>私の場合は、このような練習で、当たるべくして当たったのかどうかの判断がつきます。

→それはあなたの勘違いに過ぎません

>つまり、師がその弟子にかける在るべき姿、これは師自身の在るべき姿でもありますが、私には、既に備わっているのです。
という訳で、とりあえず現時点で、私に師は必要ないのです。

→このような不遜な発言をするあなたにこそ師が必要ではないでしょうか

61:かもさん
同感です。

62:アチャチャさん
お若そうな皆さんの書き込みをお読みすると、私の投稿に対する読解が不十分だったり、理屈も何にも無い叫びだけのものも有りますね。

でも、一種の詩とみなしてお読みすると、本当に味わいが出てきます。

無視されるより、かまって頂いて、正直嬉しいです。

63:アチャチャさん
南雲さんへ
貴方のレスには、幾ばくかの理屈があるようですね。
しかし、読解力の不足と貴方自身の判断基準(思い込み)が有る様に思われます。

つまり、私の射は巻藁前のそれで、既に十全とした弓道なのです。
どうしても的前の射のみを弓道と考え、巻き藁前の射はウオーミングアップか的前の射の付録のようなものとしか考えられないので、一つ目のご意見のような結論を得たように思われます。

二つ目のご意見に就いては、前提となる一つ目のご意見が成立しないため、成立しません。

三つ目のご意見に就いては、その論拠の中心は、“不遜“という言葉のようです。

まず、貴方にお考え頂かなければならない事は、私が師に就くべきか否かを何方かに相談したのでもなく、一般論として意見を求めたのでもない、という事です。

にも拘らず、他者の弓道生活に立ち入り、持論を押し付けるのは如何なものでしょうか。

また、貴方を含め幾人かの方々は、私に就いて具体的なアドバイスを出来るだけの個人情報を有していません。

そのような状態の時は、不遜に拘るよりは、はっきりと事実を申し上げて理解を促す他はありません。

不遜というものも、時と場所、そしてお相手によるものと、思われます。

でも、こうして色んなことを考え・経験する事は、決して無駄ではありませんね。

64:テル・ア・ライさん
若輩者ですがアチャチャ様に一言申し上げたいと思います。

貴方はよく書き込まれていらっしゃる方々のお歳を気にしていらっしゃるようですが・・・何故でしょうか?

弓道をしてきた年月や時間ならば彼等の方が上ではないでしょうか?
貴方にはかなりのブランクがお有りのようですし・・・

そういった括りでしか物事を捉えられないのかと私は感じてしまいました。
客観的に見てもやはり貴方より他の皆様の方が正しい気がしてなりません。


練習の仕方、師を持つ持たないは個人の自由でしょう。しかし・・・この掲示板で皆様に貴方の考えを説くレベルにはないと思います。

65:サンマルクさん
アチャチャ様。
深い考察凄いですね。

アチャチャ様ご本人に興味が湧いてきたりします。現在53歳で7,8年のうちに錬士五段の取得が目標のひとつであるとのことですが、現在までの弓歴、最高的中率とその期間、とか段位などを差し支えなければおしえて頂けますか?

ある程度の経験に裏打ちされた考察なのか、妄言なのか判断材料が欲しいです。

66:ぺっちゃんこさん
>貴方のレスには、幾ばくかの理屈があるようですね。

>不遜というものも、時と場所、そしてお相手によるものと、思われます。


その相手がどんな人かもわからないのこの場でそんな物言いをする貴方に対して、

「不遜」という言葉は的確だと思います。

67:天龍さん
極真空手の創始者大山倍達は、長年山ごもりして独自の稽古を重ねて下山、いきなり出場した全日本選手権でダントツ優勝した、というエピソードが紹介されていたように記憶しています。
アチャチャさんが、この逸話のように、いつの日か審査を受けるために久々に的に向かい、立派な射と星に二本そろえる的中を審査員に見せつければ、半年ごとに昇段します。三年もあれば称号者になります。
そして全日本選手権で名を挙げれば、周囲の人達は沈黙します。と思います。

68:てらてらさん
 的前に立ったときの「弓道」には、巻藁に向かっているだけの「弓道」よりも、遙かに深い精神的葛藤や自己との戦いがある、と僕は感じています。
 アチャチャさんが的前でも巻藁でも全く同じ弓をお引きになれるのであれば、ぜひ、巻藁前の自己満足に終わらず、その射を広くわれわれの前でご披露頂きたいと思います。
 無名の60歳錬士五段が全日本優勝、なんて日が来るのでしょうか。

69:1さん
削除されました。

70:1さん
削除されました。

71:1さん
削除されました。

72:1さん
削除されました。

73:アチャチャさん
テル・ア・ライさんへ

私がお若い方という表現をしたのは、高校3年間の部活の在り方と、私の弓道生活との対比をする為で、おかれた環境の相違によってものの考え方にも相違が有るのであろう、ということを述べたかったからです。

歳を気にするというのではなく、そういった発言の背景に配慮をしただけです。

次に、練習の時間ならば彼(女)らの方が上、また、レベルがそれに直積的に影響するような趣旨の内容を書かれていますが、そのこと自体が貴方が指摘された括りそのものです。

一般論のような考え方を、特定の個人に即適用させようという括りには、無理があります。
よくお考えください。

74:アチャチャさん
サンマルクさんへ

初めに申し上げたいことですが、私の練習方法について相談をお願いしたのでも、意見を求めたのもありません。

さて、貴方の要請ですが、結論から言えば、全くその通りで、一方全くの的外れです。

つまり、よく知らない特定の個人に何かを指し示そうとしても、ただ闇雲に矢を放つようなものです。
良質な情報を多く収集することは重要ですね。
全くその通りです。

しかし、それだけではありません。
例えば、見るものと見られるものです。
見られるものの情報を集めても、見るもの、情報処理で言えばハードとソフトの性能や能力によって、出力が異なることがあるのです。

例えば、私が見られるものとして、見るものを選択できる自由があるのなら、ネット上の特にレスを交し合った事も無い、つまり私にとって情報不足の方に、自分の練習方法を委ねたりしません。
これは、貴方と私に共通部分が有る考え方でしょう。

対象の事を良く分からないからアドバイスできない。
自分を対象としてアドバイスしてくれる人のことが良く分からないから、アドバイスを任せられない、ということですね。
よって、この要請は、全くの的外れなのです。

75:アチャチャさん
ぺっちゃんこさんへ

弓道は、礼を重んじる事は存じております。
不遜という言葉もその範疇に入りそうです。

貴方が私に不遜を問う形の文面でが、初対面の私に対して、宛名書きさえ無いレスを書かれるのは、疑問です。
ご自身にとって、礼を大切と思い実践されているからこその指摘ではないのでしょうか。
貴方にとって、大切でもなさそうに思えるものを、私には正せと言われているのでしょうか。

もう一つです。
私のレスからの引用を2行用いられ、結論のようなものを書かれていますが、その思考過程を表すものが希薄で、この主張自体が正しいとも誤りとも判断できません。
論理学では、たとえその考えが間違いであると判断されたとしても、その結果が出るということは一定の方法論が存在したからなのです。

根拠が希薄であったり、飛躍し過ぎる論には、お手上げです。
ご再考の上、再度の投稿をお待ちしております。

76:アチャチャさん
天龍さんへ

空手バカ一代でしょうか。
懐かしいですね。

私は長い間 、知の統合を目指して暮らしてまいりました。
そして、どうしても弓の上達を考えてしまいますが、本当はおおらかな、ただ一生懸命な射がいいですね。

上手・下手、勝ち・負け、こんな事を言えばお叱りを受けそうですが、当たり外れも無い、そんな射が出来るようになりたいです。

その為には、今まで溜めてきたものを打ち捨てて、素っ裸にならなければなりません。
でも、今のまま、そうなったのでは唯の変体ですね。
学行一如、その時々の練習を今を生きるにしながらの道程です。

77:アチャチャさん
てらてらさんへ

私との認識の相違が顕著に感じられます。
たとえ巻き藁前でも的前でも、同じ射など無いのです。
常にその一射は、初めての経験です。

一期一会の出会いに、全力を尽くすのみです。

78:アチャチャさん
訂正です。
レス73の直積的は、直接的です。

79:1さん
削除されました。

80:1さん
削除されました。

81:1さん
削除されました。

82:いつもはさん
どうも雰囲気が悪くなっていますね。
うっとおしいのどうのって、感情で発言するのは控えて頂きたいものです。
また、職業はどうこうのって、人様のプライバシーにかかわるようなことを話題にしようとするのは、如何なものでしょう。
もっと冷静なタイトルに沿った議論を望みたいものです。

83:かかしの足さん
スレを立てた主の弓歴や試合結果、そして職場なんて、全然知りたくないんですが。
スレ主の個人情報なんて見てる人にとっては、何のプラスにもならないですからね。
そして、スレ主が誰であっても、そんなの普通書かないですよ。どこに自分のそんな、本当の姿を誰かよく知らない人に晒す人がいるんですかね。

何で、42で終わらせなかったんだろうなぁ。。

後は、スレ主に対する問答ですよね。しかも、何か中身がない。

42までは、それなりに何か問答になってたとような気もするけど、その後は、ちょっと話題からかけ離れてますよね。

84:1さん
削除されました。

85:1さん
削除されました。

86:1さん
削除されました。

87:1さん
削除されました。

88:百夜 ◆WR1hQljoさん
そろそろ止めましょう。
アチャチャさんの他の人へに対する姿勢が全く問題ないかといえば、このスレッドを見る限り必ずしもそうだとはいえないかもしれません。少なからず、批判を受けても仕方がないようなレスも散見されますが、だからといってそれを根拠に人を中傷してもよいということにはなりません。アチャチャさんがこの座談会で書き込んでいることからは他人を虐げようとか、そういう悪意は読み取れませんので、批判はされども非難される余地はありません。

>>65:サンマルクさん
>>70:ゆみひとさん
>>79:ゆみひとさん
>>86:ゆみひとさん
論者の経歴や実績によってその論に信憑性が持てるかどうかを判断することに問題はないでしょう。ですが、この書き込みからはアチャチャさんの展開する論理の信憑性をはかるために彼の経歴や実績を問うているのではなくて、アチャチャさんの経歴・実績を槍玉に挙げてそれを中傷の対象にしようという意図が見えます。

>>85:大石誠さん
もし検索で見つかった”他サイトのアチャチャさん”とここのアチャチャさんが同一人物としても、そして彼が他サイトでご自身の意思で個人情報を掲載していたとしても、それを本人の許諾なく、この座談会に転載することには倫理的に大変問題があるように思います。さらに、その情報を得て彼を攻撃しようと意図している人物がいるこの状況であれば、なおさらです。

個人情報保護法が施行され、個人情報の扱いに公的機関や法人などが慎重な行動を求められている昨今、軽々しく個人情報を扱うことは自粛されるべきです。少々大げさかもしれませんが、この問題が発展してこのサイト自体に法的規制の目が向けられたりすることを危惧するしだいです。

そうでなくても、弓を引く者には高い倫理性や自律の精神が求められていると思いますが、不特定多数の方が閲覧・利用するこのようなサイトで特定の人物を「うっとうしい、気に入らない」とか言うごく個人的な感情で誹謗や中傷の対象にすること自体、大いに慎むべきことでしょう。アチャチャさんの論に異論があるならば、論理的な批判を展開されるのが弓引きとしては正しい姿かと思います。

つづく

89:百夜 ◆WR1hQljoさん
つづき


>>71:かかしの足さん
>>72:かかしの足さん
>>80:かかしの足さん
>>81:ゆみひとさん
>>83:かかしの足さん
この座談会において一つ一つのスレッドが有用である必要はありません。管理人さんがそのスレッドが有害で削除するべきだと判断された場合は削除されますが、利用者が「このスレッドはなんら有用ではない」と考えたところでそのスレッドが削除されることはありません。多くの利用者が有用なスレッドだと思えばレスポンスがつき、そのスレッドはより人の目に付きやすいところに自動的に移動します。多くの人が有用だと思わなければ、他のスレッドに埋もれていくのみです。
そもそもこのサイトの所有者でもなければ管理を任された者でもないいち利用者が、他の利用者を代表して個々のスレッドを「無用」と決定すること自体に無理があります。大多数の人が「有用でない」と思っているようなスレッドは他にも数多く残っていると思いますが、その全てを削除要請されるのでしょうか。そのスレッドが有用であるかどうかを判断するのはスレッドを見た個々の閲覧者・利用者です。
むしろ「有用・無用」とか言う以前に「うっとうしい」というごく個人的・感情的な意見をもとにレスをつけられていますので、それ以前の問題かもしれませんね。

気に入らなければ首を突っ込まなければ良いのです。そうすればスレッドが荒れて、他の利用者が不愉快な気持ちになるといった状況も生まれてきません。このように荒れてしまっては、他の利用者にもなんら利益をもたらしませんしこれ以上のアチャチャさん個人への非難は(もちろん誹謗中傷も)百害あって一理無しですので自粛されることを強く望みます。

新たに書き込めば荒れてしまうのが予想できたのでこれまで静観しておりましたが、さすがにここまで荒れてしまっては誰かが止めなくてはと思い書き込みました。
利用者の方の中には、私の書き込みに対して不快な思いをされる方がいらっしゃるかもしれませんが、お許しください。

90:アチャチャさん
この件につきましては、訴訟を視野に於いて検討する段階・・・。

なのでしょうね。

91:デビ@管理人 ◆5h7.ceJYさん
ろくに管理もせずに申し訳ないですが、個人への過去暴きも中傷も好ましくありません。
既に百夜さんが>>88,>>89 でおっしゃってくれましたので、特に付け加えることはありません。

このスレッドはこれ以上の投稿はご遠慮ください。

以下は今スレッドの教訓
・スレッドが気に入らなければ無視で
・反論したければ論点をずらさずに
・個人情報を聞きたければ、自分の情報もそれ相応に公開した上で個別に(メールアドレスも自分は公開せず、人に対して偏見に満ちたコメントで職業を聞くなど理不尽極まりない)
・本気で議論したいのであれば、もう少しその場に会う言葉で。

以上

92:いつもは読んでるだけの人さん
>>88:百夜 ◆WR1hQljoさん
よくおっしゃって頂きました。
私は 「いつもは読んでるだけの人」間です。(前回はHNが切れてしまいました。orz)
あまりにひどいので思わず書き込んでしまいました。
しかし、その後も止む気配がないので、どうしたものかと気をもんでおりました。

デビさんも、削除されたようですし、是非、今後この種の書き込みは、なさらないようお願いいたします。
ただ、このタイトルは興味深いものですし、公正名大な議論なら、大いに期待するところです。

93:デビ@管理人 ◆5h7.ceJYさん
>>92
誤解されているようですが、本スレッドはこれ以上の全投稿を禁止します。今後の投稿は削除します。

本スレッド内容に沿った議論の継続が必要あれば、反省すべき点は反省の上で別スレッドでおねがいします。

94:アチャチャさん
デビ@管理人 ◆5h7.ceJYさんへ
そして百夜 ◆WR1hQljoさんといつもは読んでるだけの人さんへ

こういったトラブルの生じた場合、一方だけが全て良いも、また悪いもありませんね。

今後このサイトが更に充実し、弓道の普及と向上、そして親睦が図れるように留意していく所存です。

お詫びとお礼を申し上げます。



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