自然な離れ (投稿208件)[1〜208]


1:初心の者さん
初めて質問させていただきます。弓を引き始めて1年半の初心者です。


よく、「離れは自然に出るものだ」
ということを聞きますが、私にはそれがどうしても出来ません。
離れるというより離しているような感じなのです。

どうしたら自然な離れというものが出るようになるのでしょうか?


どうか、よろしくお願いします。

2:かっチャンさん
大変難しい問題ですね。現時点での僕の考えを述べますが、まあ、聞き流し程度にして下さい。

自然な離れですが、これを実現するという事は弓と体が一体になり、自分が消えて自分も自然の法則に従う物になるということでしょう。
よく無念無想という言葉を耳にしますが、無念とは自分の意思を通さない事、無想とは思考や連想をしないということのように考えています。
でも、この時に知覚だけは鮮やかに働いていますね。周囲の音や風の肌触りや弓力などが
はっきりと感じられます。

こういったテーマの場合、弓は自分の方針でこうしてやろうと行射をするものではなく、考えながら行うものでもありません。自然や弓や体等が刻々と成る様に成りながらするものです。

その上で、もし必要最低限の力でかけの指が結ばれていて、その力に比して伸び合いでの解く力が勝れば、自然な離れが出るでしょう。

ただし、実際には似て非なる自然な離れが殆どでしょう。或いは一世に一個・半個在るか、無いかでしょうね。

長い道のりです。

3:タイムさん
「弓と禅」
読んでみるのも良いかも。

4:山紫水明さん

技術的な面で解答すると、まず大三(打ち起こし以降)からの引き分けで矢すじが真っ直ぐで、手首から指先までの力を抜き、帽子(ギリ粉などで)の摩擦が伸び合いで限界で『離れ』るのです。だから離れの妻手は拡がらずにあるのです。
そのためにはまず両肘が起点(て言うより軸??)になる力の流れが大切です。

5:初心の者
さん
カッチャンさん
なるほど…長い道のりなんですか…
勉強になりました、ありがとうございます!


タイムさん

そういう本があるんですか!知りませんでした…お恥ずかしい
読んでみたいと思います。ありがとうございます!


山紫水明さん

両肘を起点とする力の流れですか…難しそうですが、今日部活で挑戦したいと思います。ありがとうございます!



皆さん貴重なアドバイス、本当にありがとうございます!!

6:マシュマロさん
「離れは自然にでるものではなく、自分の意思で離すものです。第三者から見て自然に矢が離れていくように見えるというのが理想の離れです。」〜DVDで学ぶ基本の弓道〜より

7:かっチャンさん
関連した事だと思うのですが、暴発について書きますね。
僕の場合、手の内をいじって強い方に改変した時など、馬手の指の結びが前のままなので、会で暴発が起こります。

この暴発は、自分の意思で離したのではないので、正直ハッとします。タイミングも会に入って間もなくで、身心共に離れの準備が出来ていないからです。
しかし、こういった場合でも矢はそこそこ的の辺りへ飛んでいきます。

この例のように、自分の意志で離さなくても
、ひとまず離れというものは出るのです。

そこで、会に入って伸び合いを続けていき、いつ離れが出ても良いような準備が出来た2・3秒間に暴発(離す意思の無い離れ)が起こるようにすれば、まあ、離しではなくなります。
暴発をコントロールする訳ですね。暴発は無為です。そのコントロールは有為です。

弦と弦枕の分離(離れ)を無為で出し、そのこと自体を有為に行う、ということです。
弓道では、ある働きをさせる為に、その一つ前のところに工夫をする、ということがよく有るようですね。

8:かっチャンさん
雨露利の離れは自然な離れですね。

水をはじくような葉を用意して、其処へスポイトのようなもので水を滴下していきます。この操作は、葉の上の雫が集まっていくのを人為的に行うようなものです。雫はどんどん大きくなっていきますが、いつ落ちるのかは分かりません。でも、或る時にスッと雫が転げ落ちます。それが、離れです。

この実験を、同じような条件の下で何度も繰り返していくと、やがて、いつ雫が落ちるのかという気配を読み取れるようになります。

弓の場合は、かけの指の結びに比して伸び合いによる指の結びを解く力が勝れば、離れは出ます。
前レスに記した暴発は自分の意識で離すのではありませんが、いつ離れるのか分からないのは困ります。しかし、上記の実験のように何度も繰り返していくうちに、離れそうな気配を読み取れるようになります。ここまで来れば、いつ暴発するのか分かるのですから、もはや単なる暴発ではありません。

自然な離れで言えば、自分の意思で指の結びを解くのは論外です。また、そうではなくても、一気に指の結びを解く力を働かせて離れるのも、自然とは言い難い気がします。なぜなら、余分に大きな力が働いています。そして、狙いに悪影響を与えるからです。
的中の精密度を上げるためには、微細な力の変化であるじんわりとした伸び合いの延長線上に離れが出なければなりません。

このように、自分の意思によらない離れ・暴発する気配を読み取り、その刹那を感じ取る為に、無念無想が必須条件となるのです。微細な離れの気配には、知覚のみ鮮やかでなければならないからです。

ここに記した内容は、弓道に於ける精神論を述べたのではなく、射技の延長線上にあることを明記したいと思います。

9:かっチャンさん
雨露利の離れのようなもの、つまり自分の意思で離さない離れについては、弓道教本の先生方でもその是非ではなく、それを実現する可能性についての意見が分かれています。レス6と同様な立場をとる先生方は多いですね。でも、そのような離れが無いと断言することは、恐れ多い事なのです。何故なら、無いを証明する為には、総ての時系列に於いて総ての射を検証しなければならないからです。これは不可能です。ところが、有るを証明するには、その事例をひとつ確認すれば済むのです。僕には、ご自身がそのような経験がなかったり理解や認識が不足していのだ、と思われます。それでは範士九段・十段の先生方でも難しい離れが、私たちに出来るわけが無い、と思いがちですが・・・、実はそうではないのです。

このような離れを深く理解しつつ常に行う事は、至難の業です。ところが、初心者でも偶然に出来ている時が往々にあるのです。前レスでもお話した暴発がポイントですから、一心に伸び合う中で、しぜんに離れる場合があります。

この場合、弦と弦枕の分離には、0,03秒位の時間がかかるようですが、一般にある事象が起きてそれに対する人の反応時間は、0.1秒程度だそうです。思わず離れが出れば、それに対応しょうとしても間に合いません。つまり、自分の意思によらない離れの場合は、離れにあたって操作が出来ないという事です。ですから、会の状態そのままが残身に出てしまいます。良く有るのは、普段より弓返りが不十分になります。その分、弦が関板を正面近くから打つので、固めの弦音になります。また、思わずの離れであるため我を忘れた残心になり、我に帰るまで残心の間が長くなります。射を上達させる為には、矢所を注視する事も大切ですが、同時に自分をよく見つめると多くのものが発見できます。

さて、弓道には射裡見性という言葉があります。随分難しそうな言葉ですが、この離れの現象もその一端です。このような人の意志の働かない離れに於いては、体と弓は共に自然物と同じ様に反応します。つまり、射法八節で積み重ねられてきた詰め合いと伸び合いの体が弓とともに、離れに於いて成るように成るのです。体と弓が一体に成るとはこのことです。

それでは、心はといえば、この離れの時、心は無いのです。蛇足ですが、この心が無いということこそ、釈迦が悟った人間探究の真髄でした。まあ、悟入すれば無い、悟出すれば有るのですが・・・。

10:初心の者
さん
マシュマロさん

そうなんですか!?
そういう捉え方もあるんですね!
ありがとうございます!


かっチャンさん

何度もありがとうございます!!
とても参考になります、本当にありがとうございます!!

11:初心の者さん
マシュマロさん
そうなんですか!?
そういう捉え方もあるんですね…ありがとうございます!!

かっチャンさん
何度もありがとうございます!!大変参考になります、本当にありがとうございます!!

12:沓下さん
私は意識的に正しい離れを出す稽古を重ねるうちに技が円熟し、無意識下での離れ、すなわち無念無想の離れが生まれるのだと考えています。

いずれも日置流の先生ですが、故浦上栄十段範士、故稲垣源四郎九段範士のお二方は(お二人は師弟関係ですので教えが近いのは当然といえば当然ですが)、伸合の極致に達した瞬間(やごろ)に弓手角見を的心に突き込むことで馬手からの弦の分離を誘い、離れを出すものであると著書に述べられています。

離れは、やごろに達した瞬間に行われなければなりません。
伸合が極致に達した瞬間に、弓手によって離れを出す。この稽古を長年徹底的に取り組むうちに、その技が円熟し、意識下で行なっていたものが無意識的な「確信の閃き」によって行われるようになる。それが無念無想の離れであると解釈しています。

浦上先生は、やごろに達したから離れたのであるのか、離れが出たからやごろであったのかわからないほど微妙な一瞬間が離れの時機であると述べられており、非常に味わい深い言葉であると思います。

この離れの時機を体得し、伸合、気合が最高潮に達する瞬間に弓手の動機によって離れるのが自然の離れであり、それが円熟した境地が無念無想の離れであるのではないかと、私は現在考えています。

13:かっチャンさん
各自に於いて色々な射があって良いでしょうし、目指すものが色々なのも好ましいと思っています。ただ、自然な離れという条件が有れば、多少限定的なものになると思います。

僕は浦上氏については良く知りませんので、沓下さんの記した内容をもとに書きます。
>伸合の極致に達した瞬間(やごろ)に弓手角見を的心に突き込むことで馬手からの弦の分離を誘い、離れを出すものである

表現上の問題かもしれませんが、伸び合いの極致に達した瞬間に、更に角身を利かせる余裕は無いはずなのですね。むしろ、伸び合いの頂点は、一瞬の弓の復元力がとても大きくかかる、弦と弦枕の分離直後だと思います。

浦上栄さんで検索したら、この映像が出てきました。
http://f.flvmaker.com/mcc1.swf?id=bBxcPpX4__GKUTAF6Eq.PMqehLcwBpX/jEYGJBYuJLOSEhQXPKHlXbv.73Ci86qIZgVPU2dkakleSVGWchg7hzs
特徴・・・1、残身で、弓手の手首が大きく曲がっています。
     2、会で体は揺れ、馬手も小刻みに振動しています。
     3、離れの瞬間、かけの指が大きく開いて、すぐ後に握られています。

この映像が浦上先生の射であるのかの確証はありません。ただ、この射について言えば、力みで体が小刻みに揺れてしまい、離れの瞬間を読み取るような絶妙な射ではありません。
円熟して無意識の離れが出るというより、力任せの離しです。身心ともに眠るような静かな境地・静慮です。これでは、無念無想どころでありません。
こうした習慣で培われる射法は自然な離れとは方向性を異にするものですね。

また、自然な離れでは、馬手の指の結びが自然に解かれる為に、離れの瞬間僅かに弦が抜ける隙間が出来るだけです。少なくても馬手の指が大きく開かれたりはしません。
なぜなら、必要最低限の小さな力で結ばれたものを解くには、小さな力で済むからです。

上記の事柄は、あくまでも自然の離れをもとにしたお話で、個人や流派の射の良否を問うものではありません。

14:ふらふわさん
私は、初心の者さんが言われている自然の離れは、実際存在すると思ってます。

ただ、練習の過程としては、思い切り残心に向かい体を開く意識的な大離れが必要だと思います。


前述にもありましたが、ある時点で離れる前にその過程を踏む事は大事です。


まずは、緊迫した場面で意識的な大きい離れが出来る、そして、的中も出る。
これが将来的に、自然な離れと言われているものにつながっていくんだと思います。

15:沓下さん
>かっチャンさん

おっしゃるとおり、これは浦上栄先生ですね。
喜寿を祝って撮影されたものと記憶しておりますので、七十七歳頃の射であると思います。

YOUTUBEのほうに、海軍兵学校師範時代のものと思われる先生のもう少しお若い頃の映像がありましたので、よろしければそちらもご参照下さい。(すみません、リンクの貼りかたがわかりません。)

うーん、この射を力任せの離しであると言われてしまうと、もう価値観の違いですかね…
個人的には、私の尊敬する浦上先生の射をそのように言われてしまうのは残念です。

ちなみに、浦上先生の自然の離れに対するお考えは弓道教本第二巻のほうに収録されておりますので、ご参照下さい。

離れの出し方に関しては、日置流は積極的に力を充実させてゆき(伸合)、やごろを目指すタイプの射法に分類されるかと思います。(引く矢束、引かぬ矢束の観念も所謂正面系の考え方とは異なります)

その理想とするところが異なるのは、致し方ないことかもしれませんね。

まあ、流儀上の思想の違いですから、その良否については価値観の問題となってまいりますので、ここでの議論は避けるべきかと思います。(私は浦上先生のご流儀を代表するような立場ではありませんので…)

ただ、相互理解は必要かと思います。
そこで質問なのですが、かっチャンさんの考える離れの動機(浦上先生系統の射法においてはこれが弓手角見の突き込みであるわけですが)は何にあたるのでしょうか?

葉の先に雫が溜まるように徐々に力を加えていった結果、離れの時機に至ったとき、何が離れのきっかけになるのでしょうか?

暴発をコントロールする、というお話がありましたが、これは伸合う内に馬手から弦が抜けるのを離れとするというように受け取れますが、そのような理解でよろしいでしょうか?

異文化交流のつもりで意見交換に花を咲かせませんか?

その議論を通して離れに関してもそういう多様な価値観、技術論があるということが示せれば、このスレッドの問いに対する回答にもなるのではないでしょうか?

16:かっチャンさん
沓下さんへ
>葉の先に雫が溜まるように徐々に力を加えていった結果、離れの時機に至ったとき、何が離れのきっかけになるのでしょうか?

僕は、先に馬手の指が解けるなど、簡単な離れの過程を記しました。しかし、それ以上に、何が離れの動機となるのか、良く分かりません。ただ、それ以上何が動機で離れたのかといえば、ただ成るように成ったという他はありません。つまり、自然法則でしょうね。自分の意志で離さないということは、そもそも動機というものを持たない、とお答えした方が良いかも知れません。

離れの時機という言葉をお使いですが、それは見かけの表現であり、離れた時が離れの時期そのものでしょう。離れの時期なら、何もしなくても離れるのです。
ところで、時機と時期では微妙に意味合いが異なりますね。意図的に時機という言葉を使用されるのなら、その時に意志を働かせるというニュアンスが感じられますね。それは離しに繋がります。

このように、動機・時機という語の使用によっても、表現される方の離れに対する捉え方が窺われます。
・・・一つ目と二つ目のご質問には、このような感じです。
・・・三つ目のご質問についてですが、離れは大まかに4段階で考えていますが、ここではシンプルに弦と弦枕の分離でよいのではありませんか。

さて、沓下さん、僕は映像で見た程度ですが、そこに表れた浦上氏の射の特徴を示して感想を述べました。また、著書の記述についても異議を申し立てしたが、その点は如何でしょうか。著作の示唆するところと著者自身の射と、どのように整合性がとれるのかをご説明頂ければ幸いです。

17:沓下さん
私は浦上先生の門人ではありませんので、先生の教えを代弁することはできませんが、私が尊敬する先生の一人ですので、私の知識と手元にある教本からお答えさせて頂きます。
もし誤った記述を見つけられた方がいらっしゃいましたらご指摘下さい。

さて、まず浦上先生の射のご感想に関して応答させていただきます。

>>1、残身で、弓手の手首が大きく曲がっています。

これは、浦上先生、稲垣先生系統の弓に正面系統の方々から多くなされる批判の代表的なもので、申し訳ありませんが私自身答えが出ていない問題です。すなわち、残心で手首が折れているのは振りこみであるとする批判であります。
日置流には「四寸八寸の離」の教えがあり、弓手は左斜め下に四寸(約12cm)開くものとの定めがあります。
すなわち、離れにおける角見の働きを最重要の事項とし、離れにおいて弓手が動かないとか、残心で親指が的を指すだとかということは志向されていません。むしろ、そういう考えを不自然であると考える傾向があるようです。(浦上先生がそう述べられているわけではありませんが)
弓の右角を押し且つ捩るのが手の内の働きであり、やごろにおいて弓の右角を的心に突き込むことを離れの動機とすると浦上先生は述べておられますが、右角を的心に突き込むという働きの惰性としての結果なのではないかと私は考えています。YOUTUBEのリンクのはり方が分かりましたので、日置流の手の内の参考にはっておきます。

以下は浦上先生の一番弟子の稲垣先生の手の内の動画です。射影を拝見しますと、稲垣先生は浦上先生の残心と同じような相を示してるのですが、この動画の手の内の働きをどのように感じられますでしょうか?
http://jp.youtube.com/watch?v=41lXgtvSj58

>>2、会で体は揺れ、馬手も小刻みに振動しています。

うーん、これに関しては前述のようにご高齢の時の射ですのでなんとも申し上げかねます。先ほど申しあげましたもう少しお若い頃のものと思われる射の動画も以下にリンクしておきます。
http://jp.youtube.com/watch?v=KjnmwNN4vX0

>>3、離れの瞬間、かけの指が大きく開いて、すぐ後に握られています。

私にはそのようには見えないのですが…
上掲の動画のほうの馬手は、むしろ離れに際して締まっているようにさえ見えます。

>>こうした習慣で培われる射法は自然な離れとは方向性を異にするものですね。

これについては、「無念無想の離れ」「自然な離れ」の用語そのものの定義解釈の根本的相違であるように思われます。

次に、浦上先生の射術論へのご指摘への応答ですが、長くなってきたので一度区切りますね。

18:沓下さん
次に、射術論へのご指摘についてお応えいたします。少し夜遅くになってきてしまったので、眠気でおかしなことを書くかもしれませんが、そのときはご指摘下さい。

>>伸び合いの極致に達した瞬間に、更に角身を利かせる余裕は無いはずなのですね。

これについては、やごろであったから離れたのか、離れたからやごろであったのか、という前述の話題の示すとおり、極地に達した瞬間には離れが出ているものですから、厳密に言えば、完全に力がいっぱいいっぱいになってしまってから弓手を突き込もうとするのはもう時機を逸していて、実際は九分九厘といったところなのだろうと考えています。
おっしゃるとおり、表現上の問題かと。

>>時機と時期では微妙に意味合いが異なりますね。意図的に時機という言葉を使用されるのなら、その時に意志を働かせるというニュアンスが感じられますね。それは離しに繋がります。

はい、これは浦上先生の著書の言葉である「離れの時機」という言葉を意図的に引用したものです。

「自然の離れ」の定義そのものの相違からこのような価値観の食い違いが起こるものと思われますが、浦上先生の系統の射法においては、いわゆる「勝手に離れてしまった」というような本当の不作為の離れというのは「自然の離れ」「無念無想の離れ」としては扱われません。離れとしても扱われず、それははなされたものであると見なすものと思われます。(「引く矢束 引かぬ矢束に只矢束 放つ 離れに はなさるるかな」の「はなされる」です)

また、おっしゃるような、いつのまにか勝手に弦が馬手から出て行くというような離れも、馬手離れであるとして「自然の離れ」としては扱われません。
浦上先生の文章を引用すると「左手がこの動機を与えることによって、左右等分に離れたように見えるのであるが、本人が等分に離れたと感じるような場合は大抵右手が勝っているので、これでは弦の働きに悪い影響を及ぼすこととなって、前にいうような「自然の離れ」とはならない。」

また、「『持満』は意識的であるが、『自満』は自然である。『持満』の功を積むことによって、自然に満ちるようになるのが『自満』であって、弓道の理想とするところである。」とも述べられています。

つまり、浦上先生のおっしゃる「自然の離れ」は技を練ることで体得するものであり、一方かっチャンさんのおっしゃる「自然の離れ」は技を練るというよりは作為を消すことで得られるとするものだと思われますが、いかがでしょう。

19:かっチャンさん
稲垣氏の動画は表題が手の内ですが、ここでのテーマ・離れに即して拝見させて頂きました。

引尺を一杯にとったところで会だと思うのですが、会に入ったかどうかの間で離れていますね。また、1射目に比べて2射では、引尺が1.5センチほど短いようです。また、2射目では引尺の小刻みな変化が見られます。
これらのことから推測しますと、引尺の違いを感じ取る間も無く、力んでしまい早気で離した、ということのようです。これでは、やごろという言葉の意味あいが希薄であり、力任せの大味な離れのように思いますが、如何でしょうか。

浦上氏の動画ですが、お元気ですね。伸び合いや心気の充実を単純に時間では計れないのでしょうが、早いですね。

先にも記しましたが、僕には著作の示唆するものと射との整合性が見えてきません。如何でしょうか。

離れの際の馬手の開きですが、特別な見方があります。再生の三角印を押し、左から右へと伸びていく赤い線の先にある丸いポッチをマウスのポインター・矢印で押さえ込みます。そうして、見たいところで微妙に前後させると、同じところが何度も見られます。また、一度再生した後で、丸いポッチを動かすと、・・・うまくいくと・・・見たいところの静止画像が見られます。
この動画ですと、赤い線が左から四分の三ほど進んだ時の映像で、指の開きが確認できます。

かけが解けた時を伸び合いの頂点としてしまうのでは、馬手離れになってしまいますね。先に僕が指摘しましたように、その後に頂点を持っていく事が必要になり、その為に離れの刹那を読み取る知覚が大切なのです。その鮮やかな知覚の必須条件が静慮であり、心身ともに伸び合う必須条件が三昧です。微妙な感覚を読み取る習慣や認識が不足している場合には、馬手離れとしか判断出来ないのかも知れませんね。

ところで、「極致に達した瞬間」を一夜にして「実際は九分九厘」に変更なさいましたが、それはご自身の射によって得られたものですか。僕には確信というものが見えてきません。如何でしょうか。

最後に、自然な離れの捉え方ですが、有為の力系に対して、無為の感覚系といったものだと、思っています。

20:沓下さん
うーん、前に述べましたように私は別にかっチャンさんと論争をする気はないのですが・・・
「極致を九分九厘に一夜にして変更した」とか、あんまり攻撃的にやるのはやめませんか。
その点に関しては、浦上先生は「極致」と表現されていますが、私の感覚としては実際の伸合の感覚として知覚できるのは「九分九厘」までで、極致に達した瞬間には離れが出ているのではないかという意味で書きました。

>>稲垣氏の動画は表題が手の内ですが、ここでのテーマ・離れに即して拝見させて頂きました。
残心で手首が曲がり、手の内不正であるとのご指摘から載せたものですので、手の内としてのご感想で結構かと思います。

浦上先生、稲垣先生の会が短いというご指摘と、また矢束の変化も、いわゆる伸合の系統の違いで、正面系統の方々との大きな違いの一つと言えます。
すなわち、会(印西派ではこの言葉は使われませんが)の充実のさせ方の違いですね。
以前、この掲示板には射の系統には「澄まし系」と「伸び合い系」の類別が可能という議論がありました。
まさしく、これはその問題であります。

現在、主流を占めている全弓連制定射法においては、大抵この類別で言うと「澄まし系」の会を採用していると思われます。これは、積極的に力を加えて伸合の充実を図るのではなく、会を保ち力を澄ますことによって充実を図る方法です。特徴としては、会が長く(人によっては20秒近くかそれ以上)、また「引かぬ矢束」を志向し、「引く矢束」を誤ったものとして捉えます。

一方、浦上先生(印西派)系統の射法は「伸び合い系」にあたり、「やごろ」を目指してじりじりと積極的に力を加えることで充実を図ります。この方法によると、会は比較的短くなります。会の充実は秒数ではなく、どんなに会をもっていてもやごろに至らなければはやけであり、時間において早くてもやごろを逸していたらもたれであるとされます。この系統には、三秒でやごろに至り、離れを出せるとする考え方もあります。また、引く矢束は稽古の一過程であり、引く矢束の稽古を積むうちに習熟して引かぬ矢束に至るとします。また、一射の過程においても、「詰合→伸合(引く矢束)→伸合(引かぬ矢束)→やごろ→離」となると浦上先生は述べられており、矢束の変化を非とするものではないのです。

長くなったので少し分けますね。

21:沓下さん
続きです。

持満、自満をどのようなものと捉えるか、会の充実のさせ方をどのようなものと捉えるか。
これは依拠する射術理論と価値観の問題なのです。かっチャンさんは力任せとおっしゃいますが、それはかっチャンさんの射術観においてではありませんか?

浦上先生の馬手の開きのお話ですが、申し訳ありません、やはり確認できませんでした。

ただ、馬手を開くことや故意に「かけほどき」を行なうことは浦上先生は誤りであると述べられています。あくまで弓手の発動で離れは出るもので、馬手の作為があってはならないとする射法であるためです。

>>最後に、自然な離れの捉え方ですが、有為の力系に対して、無為の感覚系といったものだと、思っています

お話を伺っておりますと、かっチャンさんは阿波研造先生系統の精神、観念を重んじた弓道を志向されているのかなと推察致します。

阿波先生は「弓禅一如」という弓道観によって、弓に新たな境地を開いた方です。一方、浦上先生はほぼ同時代の先生ですが、日置流印西派の伝統的な弓を受け継ぎ、射法制定委員として射法八節に「残心」の一項を加えられた先生です。

その弓道観、射法観の違いから、このお二方の理論は対称的です。

しかし、「弓聖」と謳われた阿波先生と、「昭和の那須与一」といわれた浦上先生、どちらの方が正しいかということを言えるでしょうか?

「雨露利の離れ」という言葉は、元々古流に伝わる言葉であります。印西派にもその言葉は伝わっており(日置流六十か条参照)、元来この言葉は、少なくとも印西派においては浦上先生の使用される意味の言葉でした。しかし、時代を経るにつれて、阿波先生の解釈、現在の全弓連の解釈が生まれ、かっチャンさんの解釈も生まれてきたわけです。

一つの言葉にも多様な解釈と経緯があります。自分がその中のどの解釈によるのかを決めることはできますが、どの解釈が正しい、ということが言えるでしょうか?

22:弓を引く人さん
>かっチャンさん

→横から失礼しますが、貴方が知っている事象が全てではありません。井の中の蛙になっているように見えますよ。異なった思想や価値観を知ることは非常に大切なことだと思いますよ。

会を時間軸でのみ評価している愚。会は充実度ですよ。長い会が現今ではもてはやされていますが、どんな意味があるのでしょうか(具体的に)?また、真の名人は時と場所に応じて会の充実を調節出来るはずですよ。

>「九分九厘」
これには脳の命令(電位差)が筋に伝わり、筋が実際に行動を始めるタイムラグを考慮した考え方です。秘伝だったような気もします。

ハッキリ申し上げますが、かっチャンさんの知らない弓の世界ですので、見当でお話しされるのは控えた方が宜しいかと・・・。

23:茜丸さん
〉くつしたさま
〉別に論争をする気はない
ならば、敢えて返信(レス)を止めるべきだと思いますよ。意味ある対話ではないし、何も得るものがないように思えます。

納得させようとか、認めてもらおう…などと考えないで、他人のことは関係なく自分の信じる「弓」に集中して邁進すべきだと思いますよ。

24:沓下さん
>>茜丸さん

うーん、そうですか…。

私はどの射法が正しいだとか、そういった論争は無意味だと思っておりますが、そういう偏見に陥らぬためには、様々な射法、様々な弓道観が存在することを知り、お互いに理解を深め合うことが大切だと思っております。
そこで、前述のように「異文化交流のつもりで意見交換に花を咲かせる」ことには意味があるかと思ったのですが…。

スレ主さまのおっしゃる「自然の離れ」というその概念だけでも、様々な観念、射術論が存在して、決して答えは一つではないということ。たくさんある答えの中から、自分の答えを見つけ、選択することが前進なのだということ。それがこの異文化交流を通して伝わればいいなと思っていたのですが、思ったように伝わらなかったようですね。

不学にして浦上先生の教えを代弁することは到底できませんので、もし御門人の方がご覧になっていらっしゃったらさぞ苛々なさっただろうと存じます。

不快に感じられた方いらっしゃいましたら、お詫び申し上げます。
失礼致しました。

25:かっチャンさん
沓下さんへ
そうですね。異文化交流はもう止めましょう。

弓を引く人さんへ
>会を時間軸でのみ評価している愚
と有りますが、
<伸び合いや心気の充実を単純に時間では計れないのでしょうが
と僕はレス19に明記しています。
また、
>一射の過程においても、「詰合→伸合(引く矢束)→伸合(引かぬ矢束)→やごろ→離」となると浦上先生は述べられており
と沓下さんが述べられています。

こういう状況なのですが、特に稲垣氏の映像の1射目は引き分けが終わると同時のような離れでしたが、ご覧になりましたか。沓下さんが言われる1射の過程がこめられているようには思われないので、質問をさせて頂いたのです。

ところで、貴方に質問ですが、どうして稲垣氏の射が充実した会での離れであると知りえて、反論をされたのでしょうか。僕は一般論ではなく、あの映像をもとに感じたものを記しました。
如何ですか。

>真の名人は時と場所に応じて会の充実を調節出来るはずですよ。
この名人とは何方の事ですか。また、上記の内容を事実として、どのように知られたのですか。どうぞ、お教え下さい。

レス9にて、僕は下記のように表現しています。
<一般にある事象が起きてそれに対する人の反応時間は、0.1秒程度だそうです
九分九厘に相当する考えは、既に持ちえています。
僕が知らないのか、知っているのか、自分でも良く分からないものを、弓を引く人さんが勝手に決め付けてはいけませんね。

26:弓を引く人さん
>25:かっチャンさん

→思想や文化を同じくしていないと対話が出来ない方と、色々お話しするのは余り乗り気ではありませんが、問いかけがございましたのでお返事したいと思います。

>会の時間
→充実度だけで述べるべきかと。如何にして満ちさせるか?モノの考え方により時間軸の評価も大切になってくるのでしょうが、私は重要視していません。長い会で生理学的に説明出来るメリットってありますか?精神論はご勘弁下さい。

>稲垣氏の映像の1射目は引き分けが終わると同時のような離れでしたが
→どの様な見方をしているんでしょうか・・・。3秒か4秒くらいの伸合いがあると思いますよ。あの動画で満ちていく過程が見いだせないのであれば、そもそも対話が成立する以前の問題です。これは、引き合いに出されている映像のみでの評価であります。価値観の相違から此処まで見方が変わるんですね。勉強になります。

>名人とは何方の事ですか
→和弓とは弓道場に立って、約30・60メートル先の紙の真ん中を狙うだけですか?
現在では知る人も行う人も居なくなりつつある弓だってあります。現在社会では様々な制限があって行うことが出来ないので致し方ありませんが、敵前や堅物射や矢継ぎ早などなど切りがありません(通し矢もですね)。的前はあくまでも和弓のほんの一部だという認識を私はしています。

「九分九厘の離れ」という古伝というか秘伝というか口伝をご存じですか?沓下さんは自身の記述から誤解を生まないように修正されたのではないでしょうか?私はその教えの解釈の一例を紹介したまでです。

>僕が知らないのか、知っているのか、自分でも良く分からないものを、弓を引く人さんが勝手に決め付けてはいけませんね。

→何について知らないのか知っているのか?
何を決めつけているのか全く不明ですが、稲垣先生の動画からも此処まで見解が分かれたことについて不思議に思いませんでしたか?まさに、貴方の知らない弓の世界ですね。とても広いと思いますよ。私も一部分知り得ませんので、色々と勉強になりました。

27:名無しさん
横槍失礼します。
無知な自分にもわかるような易しい文章で浦上先生の射の理念をわかりやすく説いてくださった沓下さんにまず感謝します。

稲垣先生の射を三十回ほどループさせて見ましたが、私から見ると動画の4秒地点あたりから伸び合っているように見受けられます。

会の充実についてですが、弓を引く人さんが個人の名前を出していらっしゃらないので差し出がましいですが参考までに・・・
吉田能安先生が、昭和16年に日光東照宮で行われた全国武道大会にて固物射貫を演じられた時のことですが、伝記に「最初に射た矢は勢いがなく弾かれたので、会での伸びを深くし時間を長くし云々」というような記述があったように記憶しております。(残念ながら書物は貸している為手元にはなく、正確な文章は確認できません。)
このように真の名人足ればこそ、会での充実も操れるのでしょう。

28:かっチャンさん
弓を引く人さんへ

申し訳ありませんが、貴方には自己意識が不足しているようです。
>かっチャンさん →横から失礼しますが
・・・と名指しで話しかけられたのは、貴方の方ですね。

>→思想や文化を同じくしていないと対話が出来ない方と、色々お話しするのは余り乗り気ではありませんが、問いかけがございましたのでお返事したいと思います。
・・・これはいただけません。

さて、僕は長い会の方が良いなどとは言っていません。しかし、貴方が生理学で説明されたように、感覚器で情報を受け取ってから、中枢神経に送られて、カテゴリーの分類をしたり、過去の記憶を再構成したり、思考をし判断を下す。その命令を末梢神経を通じて筋肉に伝え、実際に運動する。こうした時に、貴方の言われるタイムラグでしょうか、差延というものが考えられます。感覚神経の伝達速度だの脳の情報処理時間だの・・・足し算すれば相応の時間がかかります。それが、0,1秒でも3秒でも、出来る人にはそれで良いことですね。

貴方は、映像をご覧になって、3・4秒の伸びあいと言われましたが、それなら僕にも出来そうな時間ですね。でも、本当にその秒数でしたか、私には疑問です。

会で伸びているのか、引き分けている途中なのかの判断を、次のように考えています。いずれの場合でも矢筋方向に伸びるのは考えられる事です。しかし、上下方向、つまり引き分けの途中では矢は次第に下に動きますが、会では矢が下方向には普通動かないと考えています。僕が指摘した1射目では、背景の名札の文字と矢の高さの対比で、引き分けから会へのタイミングが読み取れます。僕もそうですが、引き分けから会に納まるあたりは、ゆっくりと慎重になります。その感じがありますね。ただし、あえて時間に拘れば、離れは早すぎでしょうね。矢が最下位に来たとたんの離れです。これが僕が早いと感じた根拠です。

引き分けを会での伸びと誤解されているのなら、3・4秒は確かにありますね。
映像を見るポイントは、矢の高さが最下位に来た時です。

ところで、弓にも色んな場面での射があることは承知していますが、真の名人・こういうことが出来るという内容の根拠を何も示していませんね。貴方はご自身が真の名人として確信を持って出来る事を述べたのか、或いは、真の名人にお会いして、そのような事をじかにお聞きしたのか、それに類する事でもなければ、貴方のお話は妄想ですね。また、どうして、真の名人と判断できたのか。それを判断することが貴方に可能であったのは、なぜか。どうも、言葉が地に付いていませんね。

返信は、結構です。有難う御座いました。

29:聖鳥さん
喧嘩腰になって「あなたは○○と言っていた。矛盾している」とか「返信不要です」とか…そんなこと言ってても、見えてくるものも見えてきませんよ。悪いとこばかり探すよりも、素直に良いところを見つけましょうよ。

ちなみに、浦上範士は幕末生まれの最後のプロ弓道家と言われる方で、全盛期は人前では外さなかったという話も聞きますね。

30:紅一入さん
どんなすばらしいものでも見る目がなければ解りませんね。
「上手ほど手もなきように射るものを下手よりこれをなんとなく見る」という弓歌もあります。
浦上先生や稲垣先生の離れは常人に到達しがたい程すばらしいものです。浅学な私ですが、他にこんなすごい離れを見たことはありません。

31:かっチャンさん
二人のお話も、弓を引く人さんが井の中の蛙呼ばわりをして登場した事も、人情的には理解できます。そういう方々がいらっしゃることは、むしろこのサイトでも一般社会に於いても好ましい事でしょう。
しかし、人情の壁を越えてその先に有るものに辿り着くには、まだ不十分のように思われます。

ところで、恋をするのにその仔細な理由は不要でしょう。それでは、尊敬あるいは真の名人などではどうでしょうか。その方の射は勿論のこと人となりに於いてまで、深く理解をしていく中で生まれるものではないでしょうか。

だからこそ、尊敬される方・真の名人を語る方であれば、僕には見つけ得ない射手のすばらしさを、ご自身の言葉で如実に語ることが出来ると考えたのです。そこにも、尊敬や真の名人という言葉の重みの片鱗が有るように思うのです。

また、よくTVの料理番組で、うまい・美味しい等という言葉を耳にしますが、それでは視聴者にその味や食感等がよく伝わりません。ここでも同様でしょう。その射を表現するにあったて、すばらしいの中身が知りたいのです。

あの映像の中で僕が見たものの中には、素晴らしいものが確かにありました。しかし、テーマの自然な離れとは逆行するものと考えて記載しませんでした。
・・・弦とかけの分離直後に弓の復元力という非常に大きな力が弓手に働きますね。あの射法ではそれを良く受け押し切る事が可能でしょうし、実際に出来ていたと思います。

32:幻さん
正式にも略式にも印西派を学んだ者ではありません。

13でかっチャンさんが「伸び合いの極致に達した瞬間に、更に角身を利かせる余裕は無いはずなのですね」と書かれていますが、人(もしくは修練)によっては「更に角見を利かせる余裕がある場合もある」のだとしたら問題はないのではないでしょうか。
12で沓下さんが「伸合が極致に達した瞬間に、弓手によって離れを出す。この稽古を長年徹底的に取り組むうちに、その技が円熟し、意識下で行なっていたものが無意識的な「確信の閃き」によって行われるようになる。」と書かれていますが、無意識下で行われた行動には作為がないと思いますので、これも自然な離れと呼んで差し支えないのではないでしょうか。
19で書かれた「離れの刹那を読み取る知覚」に通ずるものがあると思っています。

31でかっチャンさんが「・・・弦とかけの分離直後に弓の復元力という非常に大きな力が弓手に働きますね。あの射法ではそれを良く受け押し切る事が可能でしょうし、実際に出来ていたと思います。」と書かれておりますので、13の「むしろ、伸び合いの頂点は、一瞬の弓の復元力がとても大きくかかる、弦と弦枕の分離直後だと思います。」に関しても問題ないと思います。

13の「2、会で体は揺れ、馬手も小刻みに振動しています。」については、人体は静止しないと思うので若干の振動は問題ないと思います。
「3、離れの瞬間、かけの指が大きく開いて、すぐ後に握られています。」に関しては、指を締める方向に力をかけていても弦の分離の瞬間の衝撃で一瞬手は開かれるのが通常だと私は思います。
また、弦溝〜右手から弦が抜けるまでの時間が微小なため、その瞬間の右手の開く量は、離れの動きで視認できる右手の開き量によらず誰でも大差はないと予想しています。
鮮明に右手が見えませんが極端に大きな開きとは思いませんでした。すぐ後に握られているのは、伸び合い中の右手の働きが離れた後も続いているからではないかと予想しました。

19の稲垣範士の手の内に関しては、そもそもやごろに達したかどうかを手の内だけで判断できるか、またやごろに達したかの判断基準が射手本人にしかないのであれば、秒数自体無意味な言及になってしまいます。凄く短時間ですがやごろに達しているならばあの秒数で問題ないのだと思います。「するするとん」という言葉を見かけたことがあります。少なくとも客観的には前出の動画だけでは判断できないのではないでしょうか。
戦前の動画に関しては、コマ数の関係で早送りになっているかもしれません。

いかがでしょうか?
意識・無意識の問題は、修練の方向性を考えるにあたって非常に悩ましく感じています。

33:かっチャンさん
やごろについては無知ですが、離れが自然に出た時がやごろだろうというように考えています。ところが、弓手で離れを誘って離れるのであれば、弓や体・気合などの一定の状態の到来によって離れの時機を決するのですから、その時機が自然な離れの時期と一致する事を確かめる事が出来ないだろうと思います。つまり、その1射で稲垣氏のような離れと、語弊がありますが暴発を発展させたような無為な離れを、同時に試す事が出来ないからですね。

そうすると、円熟する事でそれらの離れが一致することがあるということは考えられますが、この両者は本来異質なものでしょうね。今のところは、そのように考えていました。

僕自身は、ある種神格化するようなことを好まない性質なので、実態を求める余りお見苦しいところがあった、と思っています。

34:黒紫さん
「暴発的→→→自然の離れ」

と考えるか

「意図的→→→無意思の離れ」

との違いですね。ここは単純に捻りとかの認識の違いもあるのでしょうが。


あくまでも一個人としては、捻れ・伸び合い、角見等による「離れの誘い」の積み重ねを意識的に、結果として離れたという「雨露利」の認識としてやっています。

何にせよ、何かしらのアクションがあるから離れる(次のステップに進む)訳であって、100%の意味で「気付いたら離れてました。」というのは精神面・技術面においてナンセンスですから……初心の間は「ガッツリ引いて思いっ切り!」を向きを考えてやるというのが良いのではないかと思います。

35:初心の者さん
皆様、貴重なご意見ありがとうございます!

参考にさせてもらっています。

36:かっチャンさん
ここは、中堅以上の方々も御覧になったり、話にも参加されていますので、続行させて頂きます。初心者の方は、指導者の方の教えに沿って修練され、ここでのお話は参考程度に留めておくのも良いかもしれません。ただ、初心者といっても、知識欲の芽を摘んだり、話から阻害するようなことがあってはいけないと思います。

さて、僕が提示した射法では、よく暴発で痛い目にあいました。また、手の内の不備もあり弓返り不足でよく矢が前に飛びました。会に入ってすぐ暴発・離れたり、2・30秒しても離れない時には、力ずくで離したり、疲労のあげく離れてまったく冴えがなかったりでした。現在は、単なる暴発をしても痛い目にあわないように、手の内や顔向けや体の縦軸の伸びなどを改良しています。

本題ですが、自然な離れは無為であって、一種の自然現象です。今グラフを考えてみます。
横軸は会に入ってからの経過時間、縦軸はその頻度です。会に入ってから離れが出るまでの時間を計ります。そして、この射に於ける計測を多数回行って、グラフを作ってみます。そうすると、自然現象に類するものですから、正規分布・釣鐘を伏せたような形のグラフになると思います。

一方、弓手で離れを誘う離れですが、無為の自然な離れの時期と角身で押し切る時期がもし一致すれば、両射法とも自然の離れということになります。しかし、実際には一射に於いて、一方の離れの時期を計測すれば、他方の離れの時期は計測できません。いわば、射の不確定性原理とでも言えそうです。こうした現実に於いて、射手が今のは自然の離れであったと言えば、肯定も否定も出来ません。ただ、理屈抜きに信仰するか、しないかのような問題です。

37:かっチャンさん
ただ、現実世界には完全が無く、誤差を生ずるものです。事実映像で確認したように体や馬手が震えたり、1射目と2射目で引尺が異なったりです。不動の的に対しても、アーチェリーで重視されているような理想の射の再現性というものは、実に困難なようです。また、この二つの射法の離れの時間的誤差の幅は、場合によって異なるでしょうが、確認可能な誤差は確率的にあると思います。

つまり、角身で押し切る射法に於いて、自然な離れの時期に対して、角身で押し切る時期が少し前である場合、自然な離れは消去されて何時なのかは分かりません。しかし、これらの時期が前後している場合は、角身で押し切る前に暴発・離れが出てしまいます。この現象は目視で確認できそうですね。そして、このような誤差の集積は、正規分布のほぼ左側半分として現れます。ちなみに、右側の方は消去されているので分布には現れません。純粋に理論的に考えれば、各射の自然な離れの時期を重ね合わせると、その両側に誤差としての角身で押し切る時期が左右対称に分布するはずなのですが・・・。

ところが、実際角身で押し切る射法では、相対的に角身で押し切る時期の前に、分布として存在すべき暴発・離れがほぼ見当たらないのです。すなわち、数字を使用しない推計学的立場で言えば、角身で押し切る離れは、偶然は有り得ても、本質的な無為の自然な離れではないということになります。

上記のことから言えることですが、角身で押し切るまではたとえ自然な離れの時期が有ろうとも、しっかりと離さないようにしている。また、その無用に大きな力からかけを解く為に、大きな力で一気に離しているということが言えそうです。

最後に、沓下さんが記された言葉が浮かびます。
>浦上先生は、やごろに達したから離れたのであるのか、離れが出たからやごろであったのかわからないほど微妙な一瞬間が離れの時機であると述べられており
・・・ここにあるように、押し切る前にも相当数離れが出る事があって、それも自然なやごろなのだと思います。

38:茜丸さん
もうええやん。
あなたの考えも、遣ってることも解りました。

でも…それは考え方ややり方の一つに過ぎないと言うことをご承知下さいませんか?
ご自身がなさるのはご自由なのは勿論ですから、他人が他の考えに沿って弓を引くことに対して、干渉したり批判するのは如何でしょう。

何故そこまで強引に、初心者の方々に勧めたり遣らせようとなさるのかなぁ!?
あなたの身近な、責任の取れる方々にご指導なさって、広めて行けば宜しくように思えます。

39:ふらふわさん
私は、弓道に対して理論的、科学的な見解を持っているわけではなく、あくまで自分の練習結果から申し上げる意見なのですが・・。


自然って何なんでしょうね。
「雨露離の離れ」は、葉末にたまった雨露が落ちるごとく、そのギリギリの刹那まであくまで自然な事の喩えだと僕は思うんです。


それは、葉っぱだから出来る事だと思うんですよ。
人間なら、そこまで植物のように自然であるわけないと僕の段階では思ってしまいます。
きっと世に名だたる名士達は、その雨露と葉に近い状態になっていたのでしょう。


ただ、普通の人が上達し、より自然な離れを得る段階に至って高的中を得た段階というのは、どちらかというと、コップでお茶を飲んだり、自転車に乗ったり、何気にやっている自然なんではないでしょうか。
決して、自然界の自然現象まではそうたやすく極める事は出来ないと思いますよ。


自然な動作に離れを持っていくには、(もちろん私の言う自然は、葉っぱの方ではなく、自転車に乗るとかの方です)、離す練習を繰り返し、明確な意図で離して高的中を得る。そして、その状態で晴れの舞台で活躍する事が出来る。
その繰り返しで、より明確な意図がだんだん自然な動作、より曖昧な意図に変わっていくんだと思います。
私は、そう実感しています。


ですので、特に初心の頃、3、4年は、とにかく会で伸びて、その頂点で思い切り残心まで開く練習をする。
矢が散ってもいつかは、それで的中が出るようになります。それを続ける事によって、自然の離れを自身のものとするのが一番いいのではないかと思うのです。

あくまで僕の考えです。実に非科学的な体感論なんですが、お許しください。

40:かっチャンさん
ふらふわさんへ

貴方のレスからは、確信のようなものが感じられますね。それで、いいのではないでしょうか。有難う御座います。

41:紅一入さん
やごろとは何か。
弓と弦と矢の高さで限定された会の状態において、自分自身これ以上どうにもならない瞬間なのだと思います。離れによってそれらを解除してさらにその先に進むことができる。
会における押し引き捻りの力の増加が強い人弱い人早い人遅い人それぞれに自分のやごろがあるのだと思います。強い人は強い離れに、弱い人は弱い離れに、早い人は会が短く、遅い人は会が長いのだと思います。
稽古によって、自分のやごろを深めることはできると思います。
やごろの時点で離れれば、最も効果的に先に進める。まだ途中なのに離れれば、ワープしたぶん離れが乱れる。やごろを過ぎてしまったら、これは無いと思います。やごろの手前で力が弱まる(もたれ)か一旦戻る(ビク)かすると思います。暴発するか・・・うーん私は関係ないと思いますが・・・
まだ途中なのに「やごろだ」と認識して離してしまうのが癖になり、自動的に離れスイッチが作動して離れてしまうのが早気でしょう。
離れスイッチをオフにしたまま力を増加し続けてやごろを迎えれば、自動的に離れが起きるのだと私は思います。

42:紫弓さん
大分気になったのでちょっと苦言を。
正規分布という事場をかっちゃんさんは使いました。本当に誤差という言葉を使うなら平均二乗誤差と言った残差平均を使うべきでしょう。そこで
・重み付平均でしょうか?
・残差についてのx軸y軸はどうしますか?
 上の様な疑問が出てきたらどう答えますか?私の感想としては、数学や物理をハッタリの道具にしている様に見えるのでご注意ください。
 それと射術や手の内に対してですが、未だに堂射や歩射等の言葉・それらに代わる言葉が出てきていません。人の射術や手の内を語るには知識や順序に疑問を感じます。
 正直、混乱を招く要素が何処にあるか自覚する事から始めた方が宜しいのではないでしょうか?苦言を呈しましたがよろしくお願いいたします。

43:かっチャンさん
紅一入さんへ

初めの2行と最後の2行は興味深く感じました。情報交換をする事で、視野が広がりますね。有難う御座います。

紫弓さんへ

どのような言葉を用いて、考えをまとめるかは各人の恣意性ですね。表現として、貴方にとってそうした言葉が必要ならば、それらを用いればよいでしょう。だた漠然と考えている事と実際に一連の考えを文章にしてみることとは異なるものだ、と考えています。貴方ならそういう用語や方法論を使って、どのような結論を出すのかの方が,ここでは重要なのです。貴方自身の言葉がはったりでないのならやってみて下さい。その成果によって僕の表現を評価するのならご自由に・・・。

ところで、表現者としては専門用語で内容の正確性を期することも大切ですね。レス38:茜丸さんは、内容をおおよそ分かってくれたそうです。それも大事なことですね。 しかし、紫弓さん、それ以前の問題として、誤字は頂けませんね。

44:かっチャンさん
紅一入さんへ

僕にはビクの経験が殆ど無いのですが、離れのきっかけみたいなものなのでしょうか。それを、すぐに離さない様に反応しているようですが・・・。

それに関連してですが、物理には摩擦力というのがあって、台の上に物が止まっている時と、引っ張って物が動いている時では摩擦の大きさが違います。止まっている時の方が大きな摩擦力がかかります。

かけの指の結びの場合、一度かけが解け始めれば、その動き始める摩擦力よりも小さな力で後は滑っていくと考えられます。

指同士の接触面に、摩擦力にむらが出るような状況がなければ、普通は一気に離れると思うのですが・・・。ビクって、どうなのでしょうね。よろしく、お願い致します。

45:百夜 ◆WR1hQljoさん
「角身」ではなくて「角見」ですね。

>>39ふらふわさんのご意見に大変共感を覚えました。
私は「無為の離れ」は条件反射みたいなもんなのかなと漠然と思っています。

46:紅一入さん
かっチャンさん

私の考えですが、ビクは会の伸合の途中で離れスイッチが入りかけたときに起きるように思います。左右のバランスの不正に気付いたときに起きることもあります。
かけの摩擦の件ですが、私は会で捻りを強めていくタイプなので、かけを解くことはしません。捻りながら伸びるとキチキチと音はしますが、解く音とは違うタイプの音です。会では捻りによって指の接触力は逆に強まり、離れで一気にハジける感じです。
ビクは離れの段階ではなく、まったく別個のもの・・・離れのやり直しみたいなもので、かけのすべりとは関係ないと思います。

47:聖鳥さん
>自然な離れ

私は「自然な離れ」とは「何もしていないのに勝手に離れがでるもの」ではなく「意識の上で離れという動作のことを考えていないにも関わらず、伸合いが完成した瞬間に無意識的に自然に離れを誘う」ようなものだと理解しています。
弦とカケは完全に噛み合っていますから、そのままにしておいても離れが出ることはありません。そこで、何かきっかけとなるものが必要です。
ここで、人間の意識と動作が従属であると考えたとき(例えば緊張すると手が震える…というのは、緊張という意識と手の震えという動きが繋がったものです。日常生活の中でもこのような体験というのは少なくないですから、これは正論と考えてよいでしょう)、意識のブレが動作のブレとなるので、行射(試行)を繰り返したときの離れの出具合の誤差は、意識のブレに応じて大きくなっていくことになります。これが、「離れで離れのことを考えてはいけない」という教えに繋がると結論づけられます。
では、「無意識のきっかけ」とは?その一つが、角見を押し切るということなのだと思います。「角見を押し切るという動作を意図的にしているではないか!」と言われそうですが、浦上範士のような名人の域では、その動作も無意識の上で行えてしまってるからこそ、百発百中の行射が可能なのかと思います。

いずれにしても、会から離れに移行するには必ずそこに物理的なきっかけが必要です。「自然な離れ」においても、どこかで無意識の中で離れを誘う動きがあると思っています。暴発に至っては…「きっかけもなく離れが出た」のではなく、ただ単に「離れるように引いていたことに気がつかなかった」だけですよね。

>ビク

ビクに摩擦は関係ないでしょう。
技術的なビクは、例えば「離そうとしたが弦が弦枕から外れるように離すことが出来ず、結果的に自分は離れを出すつもりで動作を行おうとしたが、その動作で離れが出る状態になかった」という、イメージと実際の状態の不一致から起こる現状だと思っています。
精神的なビクはまたちょっと違いますが…

48:かっチャンさん
紅一入さんへ

有難う御座いました。まだ、僕には難しいのですが 、お書きになられた内容を思い出しながら、もう少し考えてみようと思っています。

49:ふらふわさん
>>45白夜さん
ありがとうございます。
私も、そのような感じで捉えております。
まだ離れの時期の確信は遠くなり、近くなりという感じですが、いつか確固たるものになりたいです。大きな目標にしています。

50:かっチャンさん
聖鳥さんへ

ビクについてのご教示を頂いて、嬉しく思います。

また、自然な離れについてですが、僕は離れる為に引いています。子育ても同様で、私から自立していくように子供たちを育てました。

おっしゃるとおり、現実に微細なものでも離れのきっかけは必要ですね。以前の僕の射では、丹田を上から下に押し込む力で離していました。心臓の拍動もそうでしょうし、腕の先までもその圧力を感じます。確かにいつ離れても不思議ではない状態でいる時に、気付かないでいた何らかの変化が、離させたのでしょうね。僕自身の意識の中で気付かなかったものですね。

こういったコミュニケーションの中で、自分の考えも随分整理され、疑問点の答えを沢山得る事が出来ました。改めて、皆さんにお礼を申し上げます。

51:紫弓さん
>>かっちゃんさんへ
 誤差は中央値を中心にベルカーブを作るように出来てます。結果に偏りがある時点で計算方法・測定環境に疑問をもってしまいますよ。で、質問を質問で返されたので書きます。
・重み付平均←軽重率の問題(測定環境は1つのみか)
・残差についてのx軸y軸←合成して距離のみにするか、分割して道具別・射術別にするかの問題
 これを私が答えるべきでしょうか?今回のかっちゃんさんの場合は、正規分布だとか誤差という言葉を権威的に使っているようにしか見えないというのが本音です。
 自分で話題の共通事項を作るとするならばそれなりの用意か順序を考えて置ければ良いと思います。本来すり合わせるべき機会が何度も失われているのを感じます。その辺の意識をお願いします。

52:百夜 ◆WR1hQljoさん
うーん、読めば読むほど分からなくなりますね。
・暴発の延長線上の「自然な離れ」か
・最後の一押しで誘う「自然な離れ」か
ということでしょうか。勉強不足を痛感させられます・・・
私の経験と照らし合わせて、離れの瞬間に角見で押し込んでいなければ、顔を派手に払ったり眼鏡が吹っ飛んだりシャフトが悲鳴を上げたりとひどいことになりそうに思うのですが。

ところで、スレ主さんは指導の際に「力みすぎ」とか「射がかたい」とか言われませんか?会までに必要以上の力で弓を引いてくると、緩みながら離してしまったり、逆にぶっちぎりながらでないと離せなかったりします。特に、勝手で弦を握っていたり、カケ帽子の中で拇指が沿ってなかったりするとパー離れになってしまいます。
射形の面で三重十文字などの基本が大体出来ているなら、力の使い方に問題があるのかもしれません。手先ではなくて肩や背中(特に肩甲骨あたり)、脇など体の中心に近いところで弓の力を支えられるようになれば「離している」という感じは改善されると思います。

53:かっチャンさん
筑波大による角見マシンの実験からの考察
1、矢道が開いて、矢が直進するのには、手の振りは必要ではない。
・・・実験では、離れの瞬間に弓の回転は可能ですが、その位置は固定されているように見えました。
弓が回転する事とその断面の形状(ほぼ長方形の長寸から短寸の辺への変化)等によって、矢が前に飛ぶ事を防ぐ事が出来るようです。
2、角見の働きは、弓を回転させる事で弦と矢との分離を遅らせ、矢勢にも効果をもたらすようです。
3、離れ自体を何によって出すかは別として、かけと弦の分離直後に角見を押し出す必要は無いようです。
・・・マシンの場合は、勿論角見を押し出すことに対応するようなものは見当たりません。
要はその瞬間に角見が充分に利いている事が重要なようです。人の場合は、残身で弓力が開放された結果として、それまでに働いていた力の延長線上として、角見が押し出されたような外見を呈するのだと思います。つまり、結果としてですね。

離れの瞬間に充分な角見の働きの準備が出来ていなければ、暴発の時、ゆるんだり、痛い目にあったり、矢が前に行くなどの現象が起こると考えられます。逆に離れの準備が充分に出来ていれば、たとえ暴発でも問題はありませんし、残身にも充分な弓返りや角見をあたかも押し出したかのようなものが現れます。

僕も今でもたまにありますが、暴発の時に痛い目に遭うというのは、手の内なりを中心に出来が悪いのだ、と反省しています。それでは、改良前の手の内などの出来の悪い時に、それなりに見える射がなぜ出来ていたのかを考えると、出来の悪い手の内を角見を押し出すなどのことで、カバーしていたのだ、と思っています。このことは、矢が前に行くから狙いで調整するようなもので、けっして好ましい事ではありません。僕は、そういう反省のもとに、暴発してもなんとかまともに矢が飛ぶように工夫しつつあります。でも、久にはまだまだですね。

54:紅一入さん
かっチャンさん へ

竹弓とグラスファイバーやカーボンの弓とでは返り方に違いがあると思います。
グラスファイバーやカーボンの弓は横方向に硬いので、握り位置で回転力を与えていれば、ほとんどダイレクトに弦も回転してくれます。
一方、竹弓は横方向に軟らかいので握り位置での回転力を竹が吸収してしまって弦は少ししか回転しません。
角見マシンでの実験も、今度は是非竹弓でトライして欲しいと思っています。
極端にいえば、グラスやカーボンの弓では、「ねじって引っ張って離せば中る」のですが、竹弓ではおそらく前矢になるでしょう。

つまり、竹弓の場合、離れの瞬間に角見を押し込む動き(力ではない)が必要になるが、グラスやカーボンの弓の場合これが不要であると思います。
角見で離れを起こす場合、角見と弓の動きは同時ですが、かけ口で起こす場合はタイムラグが生じるおそれがあります。

ご参考になさって下さい。

55:かっチャンさん
紅一入さんへ

僕も竹弓と合成弓の両方の使用経験が有ります。紅一入さんが言われるような性質かそれぞれに有る様に思います。有難う御座います。

唐突ですが、手の内は見せない、という言葉があります。馬手の力の抜き方は既に書き込みましたが、僕も手の内はそんな感じです。

竹弓の捻りに対する柔らかさはそうなんでしょう。ところが・・・一例ですが、水面に指を入れることは造作の無いことです。しかし、相当なスピードで水面に衝突する場合には、水のやわらかさは消えうせて、板にもコンクリートの床にも感じられる程の衝撃がありますね。射の場合でも、離れ直後の弓力には、この衝撃に近いものがあると考えています。水のような柔らかい液体でも、短時間に変形させようとする場合には、まるで固体のような感じです。

僕の場合の弓返りでは、捻りは副次的なもので、むしろ上記で記したような現象を利用している、と考えています。よって、竹弓の場合でもさほど苦労しなくて済むようです。

56:紅一入さん
かっチャンさん へ

物理は詳しくないです。ごめんなさい。
用語も変かもしれませんが、無理して書いてみます。
素人目での感じでは、衝撃に対する抵抗の強さと引っ張られての動きの強さはちょうど逆になるように思います。瞬間の強い動きでは力点と作用点があたかも繋がっていないような動きをします。高速度撮影の弓や弦がグニャグニャに曲がって見える、あの感じです。瞬間の強い動きは力点だけが独立して動くような度合いが強くなる、だから水はへこむのが遅れて固く感じる、握りの回転は握りだけ回転して弓や弦の追従が遅れる、ように思います。
握りで受けた回転力は、長い弓を伝わって末ハズと本ハズを動かし、弦を動かします。この動きと、弓の復元で弦が戻る動きとの速さの関係が問題になります。
竹はタテ方向にはとても硬い(=力の伝達が速い)一方、ヨコ方向のねじりには軟らかい(=力の伝達が遅い)素材だと思います。グラスやカーボンはタテヨコの差がない、あるいは少ない素材です。竹弓の場合、回転力の伝達が遅く復元が早い傾向になると思います。

57:かっチャンさん
紅一入さんへ

物理は詳しくないとのことですが、筋の通ったお話で内容も分かり易いですね。
恐らく、この分野は物性と言われるもので、僕も詳しくはありません。
まあ、そういった認識の上でお読み下さい。

弓には端的に3つの作用が働いている、と思います。
@、弓の各部に於いて、そこに在ろうとする働き。
A、弓の形状を保とうとする働き。
B、弓を捻る働き。

話を簡単にする為に、矢を番えないで弓を張っただけの状態で考えます。
第一段階・・・ゆっくりと弓を捻ります。そうすると、弓はその形状のままで変形せずに回転します。
第2段階・・・速く弓を捻ります。そうすると、弓は弓把の部分から捻りが順次両端へ伝播して、弓に捻じれた状態が生まれます。この状態を経て後、弓は変形が解けて回転した状態になります。
第3段階・・・更に速く弓を捻ります。そうすると、弓はほぼその形状のままで変形せずに回転します。
第4段階・・・更に急激に弓を捻ります。そうすると、弓は全体的に回転しませんが、弓の強度を越えてしまい、弓把の上下辺りで破損して弓把だけが回転するでしょう。

紅一入さんが表現された内容は、上記の第2段階のことのように考えています。僕が水で例示したかった内容は、第3段階の状態でした。第3段階では、弓を変形させる働きの伝播する時間に比べて捻りが速過ぎる為に、弓の各部には形状を保とうとする働きはありますが、変形させる働きがまだ伝わってきていません。それで、ほぼ変形をしないまま回転を起こします。

これらのことは、単なる思考実験というより直感みたいなもので、正直あてにはなりませんね。ただ、井の中の蛙から冬の蛙に変身したかっただけです。・・・寒蛙(考える)です。
失礼致しました。

58:かっチャンさん
皆様のおかげで、自分の射や目指すものがどの程度のものか、凡その見当がつきました。それをもとに更に精進いたします。真に有難うございました。

特に、スレ主様と紅一入様には、感謝申し上げます。

59:初心の者
さん
百夜さん


確かに、以前力んで引いていると指導されたことがあります。今はどうかわかりませんが、今日から気をつけて引いてみたいと思います、ご指摘どうもありがとうございます!




皆様方、とても勉強になるご意見をありがとうございます!

60:紅一入さん
かっチャンさん へ

こちらこそありがとうございました。やりとりする中で、話とは直接関係ないこともあれこれ考え、いくつか工夫ができそうです。

一つだけ。離れは馬手かけ口で起きますが、かけ口を一定にして弓手中心に自然な離れを考えると、「押し切りを自然に行えるのか」ということになると思います。
「押し切り」は唐突に起こすものではなく、力の増加の連続の中で起きる、さらに言えば、「押し切り続ける」ことも可能かと思います。「押し切り続ける」=「離れ続ける」中でいつか本当にかけ口がハジケて離れが起きる。超人的な気力と持久力が必要だと思いますが、妄想してみました。
離れは永遠のテーマですから、これからも考え続けていきたいと思います。

61:初心の者さん
かっチャンさん


いえこちらこそ貴重なご意見をありがとうございました!

お陰様で、射の改善が出来てきたような気がします。

誠にありがとうございました。

62:かっチャンさん
僕の射の方向性は、無為の感覚系であることは既に述べました。
そういった日々に於いて、無駄な力の抜き方にもレベルがあり、次の段階に移行する時には、段差の様なものを体が如実に感じるようです。

今日は、大三から離れ終わって後、今でも恐怖心が残っています。以前にあった数度の経験もそうでした。しかし、その時の感覚は良いとしても、後まで尾を引くのは未熟なあらわれですね。結果、一射で終了しました。

そういえば、赤ん坊の体を洗ってやるときには、タオルかなんかを胸の辺りに掛けてやります。赤ん坊はしっかり手を握り締めてもいますね。
もし、タオルを掛けてやらないと、赤ん坊はおお泣きしてしまいます。

さっきの射で、僕はおお泣きの赤ん坊同様ということでした。握るのではなく、無為の感覚系の射では、恐怖心まで鮮やかに増幅されます。・・・参考まで

63:かっチャンさん
手の内は難しいですね。ある程度弓道に習熟してくると、体の中心から肩や肘等を通して押すのは気持ちの問題で可能だと思うのです。

問題は、人差し指と親指の間で弓を挟んで角見を利かせるのでしょうが、その辺りです。内竹の右側を確実にゴリッと押すには、本多流の綿所という部分・親指の下の肉球の方が遥かに強いように思います。結果として親指が押し出されても、自分からそのようにする必要がない位に強いです。

強い押しを実現しますと、ほんの少しの伸びで、驚くほど弦がかけを解きます。

もうひとつのポイントですが、握皮の内側には厚紙などが入って、曲面になっています。内竹の右を押すような形状ではない気がします。僕は改造しました。
汗をかいても滑りません。形で弓を支え力を受ける感じです。

64:紅一入さん
かっチャンさんへ

改造握り皮、どのような形状なのですか?
痛くないのでしょうか?

握らずに押すのは難しいですね。苦闘中です。

65:かっチャンさん
紅一入さん

綿所で押すことが前提なので、三角や一般的な中押しの手の内では、使いにくいと思います。

一様、形状としては、弓把の内竹に向かって、右側に縦の稜線があり、左側が低くなっている感じです。
高低差は極端ではなく、ほんの少しです。

弓を購入したときの弓把の丸い感じは、指が巻きついてしまるのには向いていると思いますが・・・.

66:紅一入さん
かっチャンさんへ

ありがとうございます。入木の弓の状態に近いですね。最近小山弓具で売っているゴムの形でしょうか。あれ、ゴムでいいのかな、とは思いますが。

67:かっチャンさん
紅一入さん

小山さんで調べたら、K6という当てゴムが極似していました。既に、考えていた人がいるんですね。

実用新案は無理ですね。涙の雫・2個です。

68:まるたさん
>かっチャンさんへ
僕は、自然に離れなくて悩んでいます。

かっチャンさんは、自然な離れを体得してあるように文面から感じ取れました。

僕も是非、自然の離れを習得したいと思うのですが、具体的な練習方法がわからないのです。

かっチャンさんが自然な離れを習得するまでの具体的経緯を教えて頂いて参考にしたいのです。

是非、よろしくお願いします。

69:カッちゃんさん
まるたさんへ

弓道では、離れと言って離しとは言っていませんね。教本や指導者の方々も基本的には自然な離れを志向しているのだ、と思われます。
ただ、各人において、たとえ範士十段でも自分で経験が無く、また理解の及ばないものを否定する傾向が有ります。無為な離れとは、そういった領域の射です。

ここのスレには、僕の稚拙な方法論等が書かれています。自然な離れを実現するには、方法論から工夫して実践していく、そんな気概が無ければ辿り着くことなど出来ないでしょう。

また、射の核心に近い部分を習うということは、師を仰ぐことであって、自分を捨てる覚悟が必要です。ネット指導で事足りるものではないことをご理解ください。

70:まるたさん
>カッちゃんさんへ
ありがとうございます。
師の伸び合いの末に離れがあるという言葉を受けます。

師は、離せとおっしゃっています。

ですが、カッちゃんさんの体験された自然の離れ、その方法論を文字上でも見る事が出来れば、何かヒントになるのではないかと思っています。

このスレッド内でのカッちゃんさんの記述には、カッちゃんさんが自然の離れを体験され、取得している状態に近い事がわかったのですが、その具体的方法が良くわかりませんでした。

是非、参考にしたいので、その具体的取得された練習方法を知りたいのです。

ご無理を言ってすいませんが、是非ともよろしくお願いします。

71:カッちゃんさん
参考まで・・・

角見は充分に利かせ、馬手からは余分な力を除き、離れを微塵にも思わず、伸び続けることでしょう。そうしていると、いつしか気がついたときに、残身になっています。
やごろなどというような一瞬は、自分で判断するもので、自然な離れではありません。ただ、コンデッション良く的中させるには、有効でしょうが・・・。

角見が不十分で離れの瞬間に小細工しなければならないような状態では、弦で顔を打ちます。また、馬手の指の結びは、力ではなく、形で保たれていなければなりません。その為に、僕はかけの帽子の形も改造しました。

72:斯道さん
こういった類の議論に参加するつもりはありませんでしたが、若い弓引きを道に迷わせるべきではないとの信念から、書き込みをさせて頂きます。

無念無想の離れは到達するものであって習得するものではありません。

意識的な正しい離れの積み重ねが、それを無念無想のうちに行う境地にまで至らしめるのです。

だからこそ、自然の離れ、無念無想の離れは達人の技なのです。

ただ意図せずに離れれば「離れ」なのであれば、そんな離れは尊くもなんともありません。

一分の隙もないほどの精密かつ正しい射が無念無想のうちに行われることが尊いのです。

まるたさん、私は貴方の先生のおっしゃっていることが正しいと思いますよ。
弓道界によくある「勝手に離れる」という信仰は、馬手の緩み、馬手離れを生み、上達を妨げます。

このような掲示板上で、姿の見えぬ相手の言葉に射術の向上を頼るのはおやめになったほうがよろしかろうかと存じます。

故中野慶吉範士の言葉に「口先で弓を引くのは、手先で弓を引くよりたちが悪い」というものがあります。

その人の射も見ずに、その人の到達している境地は見えません。口ではなんとでも言えるからです。

まるたさんはまだお若いようにお見受けします。
どうぞ、ご自分の先生の教えを素直に聞いてみて下さい。
それが上達の近道だと私は確信します。

73:カッちゃんさん
斯道さんへ

射の真実は、自らの射によってのみ感じ取れるものですね。

>意識的な正しい離れの積み重ねが、それを無念無想のうちに行う境地にまで至らしめるのです。
この言葉の根拠は、ご自身の射によるものでしょうか。さもなければ、ただの妄信です。

>だからこそ、自然の離れ、無念無想の離れは達人の技なのです。
貴方自身が達人なのか、さしたる根拠も無くそのように考えているだけなのか、不明です。

若者の修練をお気遣いのようですが、達人の技を語るには、自らの射のみが、その根拠です。

ただ、ご自身の器に合わせた尺度で、量れない器のあることをご承知おき下さい。

74:茜丸さん
〉まるたさま
〉師は、離せとおっしゃつています。
はい、この言葉が絶対的に正しいこととか、全ての人・全ての状況に対し当て嵌まる指導であるかは一先ず置くとして、とりあえずは現状の貴方自身に対する最適なアドバイスや指導と受け止めては如何でしょうか。

稽古とは、下から一つずつ地道に積み上げることが大事なことだと考えます。
勿論、その過程に於いては、師を信じて共に歩む姿勢が必要でしょうね。

75:斯道さん
>かっチャンさん

私は私の言う達人ではありません。

しかし、貴方の言うような「勝手に離れる」という信仰を指向し、その方法では「自然の離れ」には到達し得ぬという確信に至った者であります。
貴方は、所謂「自然の離れ」を体現しているとの自認されているのですか?

76:カッちゃんさん
斯道さんへ
二点について、申し上げます。

まず、一点目・・・
>私は私の言う達人ではありません。
つまり、貴方は達人の立場(虎の威)を借りて意見を述べたということで、ご自身が「>口先で弓を引いた」ということですね。

二点目・・・
>その方法では「自然の離れ」には到達し得ぬという確信に至った者であります。
「その方法」とは如何なるものでしょうか。
>その人の射も見ずに、その人の到達している境地は見えません。
貴方が言われるように、私の射を熟知すること無しに、その方法では無理と言えないでしょうね。

総括的には、・・・現在の自分に出来ないという事実から、他者や将来の自分自身に対してまで、同様な結論を出し得る論理性は何処に有るのでしょうか。
そのような個別の事例から、一般性を導き出すのはおこがましい事です。

77:斯道さん
その点に関しては、たしかにおっしゃる通りですね。
自分ができていないことをさも物知り顔で語ったことは間違いでした。謝ります。申し訳ありませんでした。

私の言う自然の離れではないという確信というのは、かっチャンさんが上で述べられている「角見を効かせながら伸び合っていればいつのまにか勝手に残身に至っている」という理法への信仰では自然の離れには到達できないという確信であります。
これは、類似の教えによる私の経験から得た私の考えですが、説明したほうがよろしければ長くなりますが説明致します。

私の質問にお答えになっていませんが、貴方は「自然の離れ」を体現なさっているのですか?

78:カッちゃんさん
斯道さん へ

このスレッドも長くなりましたが、自分の射で感じたことを中心に書いています。自然な離れもそのひとつです。
たとえ一射でも自然な離れを経験できれば、基本的には論理的に有ると言えるでしょうね。現在は八寸の的で、10射に一・二本が自然な離れで中るくらいです。全体の中りは半矢程度ですが。

僕自身は、率直を通り過ぎて乱暴な物言いだったかもしれませんね。
折角のご縁ですから、斯道さんのご経験を伺いたいと思います。
よろしく、お願い致します。

79:カッちゃんさん
暴発の種類分けをしてみました。
1、指の結びがほどける前に、弦が弦枕から外れる。この時、親指と人差し指や中指に接触して結びをほどき離れていく。
2、指の結びがほどけてから、弦が弦枕から外れる。この時、弦がかけに接触して出て行くか、そうでないかで、二つに分かれます。

さて、1の様な暴発は、暴発そのまんまですね。親指より他の2指が長いため、最終的には弦の軌道が変えられて、頭などを打つのでしょうね。
2の場合は、基本的には一般的な離れと同じです。弦がかけに接触しないように出て行けば、このような暴発も立派な離れになります。

80:ふらふわさん
>カッちゃんさん
カッちゃんさんの思っていらっしゃる、自然の離れは、暴発の事なのでしょうか?

私は、暴発した事はもちろんありますが、暴発は、暴発としか思えませんでした。


私は、自然の離れに肯定的ではないのですが、暴発とは違うと思いますよ。
自分が暴発したって、感じてるんですから。

81:カッちゃんさん
ふらふわさん

暴発と自然な離れには、共通点と相違点があります。一概には述べられないのですね。射の失態とも言うべき暴発には、それを昇華させることで、自然な離れにつながる要素を含意している、ということでしょう。

失敗もよくよく味わうことで、旨みを見つけ出すことが出来る、ということですね。

82:ふらふわさん
>カッちゃんさん
暴発は、弦の角度が変わってしまう事によって起きると思います。
指のすべりよりも弦と弦枕の噛みの角度が変わる事によって起きると思うんです。

ですので、私の考えとしては、弦枕と弦が最後まで噛んでいない暴発という現象は、自然の離れに昇華しないと思ってるのです。


それで少し違和感を感じたのです。

83:カッちゃんさん
ふらふわさん

僕とは受け止め方や考えが異なりますが、それでいいでしょう。それが自然です。

84:カッちゃんさん
離れを意識的なもので分類してみました。

1、明らかな意志で、一気に離れを出す。これは、更に3つに細分されそうです。
a)馬手から離れを出す。
b)弓手主導で離れを出す。
c)左右のバランスで、離れを出す。
2、離れを意識した瞬間に、無意識的に体が反応して離れを出す。これも3つに細分されそうです。
a)馬手から離れを出す。
b)弓手主導で離れを出す。
c)左右のバランスで、離れを出す。
3、意識にかかわり無く離れが出る。

上記を大別すると、1と2の場合は離れを意識しています。3の場合は離れを意識していません。
また、1の場合は、離れを想起し、その動作を起こす意志を働かせています。
つまり、「離れを想起し」が想で、「動作を起こす意志」が念です。ですから、有想有念の離れということですね。
2の場合は、離れを想起することで、反射的に離れが出ています。ですから、有想無念の離れということになります。
3の場合は、離れを想起することなく、また離れを生じさせる意志を働かせることもなく離れが出ています。ですから、無念無想の離れということになります。

「やごろ」という言葉は、2の場合の「離れを意識した瞬間」を象徴的に表していますね。また、このスレッドに参加させた多くの方々のご意見は、2の有想無念の離れを自然な離れ、あるいは名人・達人の技等と表現されているようです。

ここで僕が考えていることは、事の是非ではありません。弓道に於ける価値観の多様性ですね。弓道の精神性と射技との統合性も興味深いですね。

85:カッちゃんさん
一般に近的では尺二の的を使い、何処でも中りは中りです。場合によっては中心からの遠近で優劣を競うことがあります。また、遠的では中った部分での得点制もありますね。
そういったことを考慮すると、射の在り様にも膨らみが出てきます。
つまり、近的で的中させるという射と、それ以上の可能性を持った射です。そして、矢勢や的中の精度を高めることは、弓道の奥深さを探ることにも繋がっている、と考えています。

例えば、尺二の的で中りの方が普通になってくると、的を少し小さいものに替えます。八寸の的にすると、面積は元の9分の4になりますから、中りは半矢を下回ります。この時、集中力などの精神的な面と技術的な面の両方の向上が求められます。この技術の向上に大きく影響していると考えられるのが、ここのスレッドで語られてきた離れということになります。自然な離れは、離れで悪さをしないものです。無駄な思い・力・動き、これらを削ぎ取ることが出来れば精度は高められますね。

中るのが普通なら進歩に陰りがさし、外れてばかりなら正直楽しくありません。半矢が丁度でしょう。
やがて、中りが普通になれば、また小さい的に替えて、新たな可能性を探らなければなりません。

86:AAさん
意識しないで離れが出るって恐ろしいですよね・・・
つまり矢道に人が入るとか動物が入るといった突発的なアクシデントに対応できないってことでしょう

87:カッちゃんさん
そもそも、道場とはそうした必死な側面を持ち、飛び道具を扱うところですね。
侍の子供が刀を持つ前に、身につけることがあったのと同じことです。

アクシデントに関しては、自然の離れでも早気でもさほどのかわりはありません。弓を戻せる余裕があれば、危険は回避するでしょうし、そうではなく矢の軌道に人が入れば、確実に射抜きますよ。

88:紫弓さん
かっちゃんさんへ。
 前回は共通の話題をお願いしますと言いましたが今一度言います。
 暴発は一般的に危険行為です。その認識が余りにも薄すぎます。今のスポーツは安全を保たれてこそ行えるのですから。道具の見方も曖昧な人がいる中で、暴発は自然の離れに繋がると言うのは時期が早いでしょう。誤解を招くのでこれ以上は控えた方が良いですよ。

 それに今まで発言した事を自分の弓友に話していますか?正直な所、射術や道具の見方を知ってから始めて頂きたいと言うのが本音です。余りにも順序が逸脱した後付論法が多すぎます。まず、自分でスレを立ててでも聞き役になる事をお勧めします。

89:幻さん
7番目のかっチャンさんが書き込みされた投稿には「暴発をコントロールする」という、明確に離れのための作為が記入されています。
つまるところは単純に離れの技術の一つが述べられているに過ぎないでしょう。
二者の食い違いの原因は修練の方向です。かっチャンさんのように事前に暴発を含めた離れの準備をして極力離れのために手を加えず離れを待つか、他の方のように離れの機を捉え離れで何かをする(補足すれば、意識的に離れると言っても余計な手を加えたいわけではなく、良い矢がでる助け、またはそれを阻害しないように働かせることが目標のはずです)か。
良い矢が出れば十分と思いますが、どちらの射が上等かは誰が決めるのですか?
かっチャンさんは自身の言う「自然の離れ」が他者の「意識的な離れ」より上等という自負があると読みましたが、比較対象をどこまで広げているか分かりませんが、場合によっては甚だ失礼なことです。

かっチャンさんは暴発という言葉で射術の説明をしているので危険性が指摘されていますが、「これは作為を排した」という意図が中心での言い回しであろうと思います。実際には離れが制御下にあるのなら問題はないでしょう。

一番の問題は、断片的なヒントはちりばめられていますが、すっきりした方法論が明示されないことです。後者の方法で稽古した方からすると「無念無想で離れるか」は必ず抱く疑問です。かっチャンさんは「ある」と言いますが、71番目の投稿に記した内容のみでは不十分だった経験を多くの閲覧者が持っていると思います。かっチャンさんに説明の義務はありませんが、後進を惑わさないためにも一度射法をおまとめになって書かれたらいかがですか。

タイトルは「自然の離れ」ですが、「自然」「無念無想」では言葉に振り回される感があります。「無発の発」も同義だと思いますが、如何ですか。要は離れの気配を出さずに離れれば良いのではないですか。後者の方法論で言い換えれば、離れを意識する前に十分な形で離れが出れば良いのではないですか。
この段階に至れば、実践の段階での意識・無意識の話は無意味になると考えます。
以上の理由で「人間の意識が加わった瞬間に自然でなくなる」というかっチャンさんの論には賛同しません。

77の斯道さんの経験論を楽しみに待っています。

90:カッちゃんさん
幻さん

前段については・・・
>良い矢が出れば十分と思いますが、どちらの射が上等かは誰が決めるのですか?
かっチャンさんは自身の言う「自然の離れ」が他者の「意識的な離れ」より上等という自負があると読みましたが、比較対象をどこまで広げているか分かりませんが、場合によっては甚だ失礼なことです。

僕はレス84の終わりに・・・
<ここで僕が考えていることは、事の是非ではありません。弓道に於ける価値観の多様性ですね。弓道の精神性と射技との統合性も興味深いですね。

他者の文章を読解する場合に、各個人によってバラエティを生ずるのは、各自の経験等を元に論旨を再構成するからでしょうね。あえて書き足したことわり書きさえ無視して、自分の視点で物事を捉えることを、曲解と言います。

後段については・・・
>以上の理由で「人間の意識が加わった瞬間に自然でなくなる」というかっチャンさんの論には賛同しません。

上記のような判断を下せたということは、僕が一定の内容を表現していたということでしょうね。そうすると、僕があらためて射法をまとめる必要もないでしょう。

>71番目の投稿に記した内容のみでは不十分だった経験を多くの閲覧者が持っていると思います。
僕のレス71・・・
<角見は充分に利かせ、馬手からは余分な力を除き、離れを微塵にも思わず、伸び続けることでしょう。

僕がレス71で記載した内容が不十分という結論をお持ちのようです。その答えは各自に任せます。ただ、読点で区切られた4つの事柄は、それぞれが非常に難しいことですね。手の内は一生と言われます。完成の域にまで行かなくても、充分に利かせること自体難しいことです。馬手の無駄な力が抜けている射手もざらには居ないでしょうね。離れを微塵だに思わないで離れる射手は更に少ないように推測されます。基本的な伸びを続けることさえ、緩まないで離れることは、ある程度以上の実力を持つ射手に限られるでしょう。

僕は多くの閲覧者がこのような技術と心持ちを兼ね備えて、レス71の内容を試みたということには疑問を感じます。むしろ、僕の内容が不十分であったという以前に、射手の技術や心持ちが不十分だったという可能性も有るかも知れませんね。それであれば、結論の信頼性はありません。ただし、貴方自身に限って言えば、そうした条件を満たして試みたのであれば、個別の事例としての意味が確かにあると思われます。

91:茜丸さん
〉90
そんなことに長々と反応する前に、先ずは〉〉88の紫弓さんの問い掛け・問題提起に対して、真剣に向き合い、お応え戴きたいと思うのです。

弓道をする上での最重要課題である『危険防止』について、もっと真摯に向き合ってほしいですね。
(『暴発』とは、打起してから離れに至るまでの、どの時点で起こってもおかしくない…との認識を持つべきです。)

92:幻さん
カッちゃんさん
なるほど84ではそのように仰られておりますが>>69ではなかなか率直な意見を述べておられます。
ただ私の口が過ぎたのは事実なので、カッちゃんさんの意図と外れたところで批判した点は謝罪します。すみませんでした。

技術的なことに関しては、カッちゃんさんが90で再度言葉を重ねたので、「角見は充分に利かせ、馬手からは余分な力を除き、離れを微塵にも思わず、伸び続けること」の上、離れの時機の察知と、離れで崩れない構えが出来ていれば自然の離れが出る、という思想であるということで自分は納得したので十分です。
個人的には71の帽子の改造が面白そうですね。

余談&邪推ですが、暴発という言葉を多用するのは、カッちゃんさん自身が自然の離れの片鱗を掴んだきっかけが暴発によるからだったりするんでしょうか?
また、あまり詳細に技術を語らないのは、下手に真似られて暴発で事故を起こすことの懸念でしょうか?
カッちゃんさんの言葉を初心者を含めた誰が見るか分からないので「暴発」という表現に神経を尖らせていると思うのですが。
カッちゃんさん自身は大丈夫なのでしょうが、何か他に良い表現、ないでしょうか?

93:紫弓さん
 後付される前に先に書き込みますが、暴発は危険を伴います。その共通認識すら薄い状態で自然な離れを語るには材料が足りません。帽子を削った位では感触は変われど暴発は起こりません。寧ろ帽子を削れば空間に余裕が出来るので暴発は起こりづらくなります。なので、本当に暴発ギリギリまで責められている道具を知っているとは思えません。

 今までの文を読んだ限り、かっちゃんさんは暴発は起きているとは思えません。ただの三味線離れとか2段離れの類です。本当に暴発が起きるなら残心について明らかに書かなければいけない事があります。

 ここのスレはスレ主さんが立てたものです。ここまで持論を展開するのであれば自分でスレを立てないと、スレ主さんやそれを見ている人を混乱に招き入れてしまいます。これまで危惧した点はこれです。

 私も論理的だとか体系化とかをしたいとは思いますが基本事項は抑えないと書けません。そこで
「考えをまとめるかは各人の恣意性」
 背景を学ばずに他人任せ発言したら書きたくても書けません。(正直、これは誤字を指摘されるより屈辱的ですよ。)私たちはかっちゃんさんの道具ではありません。その点をどうぞ自覚ください。

94:カッちゃんさん
幻さん

返信、ありがとうございます。

仰るとおり、レス81で書きましたが、自然な離れを暴発と捉えるのは好ましくありませんね。確かに、アイデアを得るきっかけでしょう。

かけの改造は、そういう方法論もあるという程度でご理解ください。
まあ、一言申し上げれば、形や角度の加減で滑りやすくなり、力で押さえ込むようになります。それを取り除くための手段でした。

重ねてご配慮に、感謝いたします。

95:カッちゃんさん
弓道で表現が難しいのは、感覚でしょうね。形ならば、写真や図解などで分かりやすく表現が出来ます。しかし、感覚、つまり行射における筋肉などの緊張や弛緩、それと体にかかる圧迫感や牽引感など、又これらの大きさや方向を明らかにするのは至難の業です。

僕は、このような感覚を味わいという言葉で表しますが、それこそ塩梅がいいという感覚は、本人にしか見極めようが無いように思われます。

僕は、自然な離れが出る為の最大の条件を次のように考えています。
それは、馬手からの無駄な力の抜き方でしょう。

まず、手首から力を抜くことですが、無駄なではなく全く手首の力は不要です。まさに腕から手首が抜け落ちた感じで、頼りなく不安な感覚になります。しかし、このことは矢飛びの直進性とは深く関わっていますが、離れ自体とは直結していません。
特に、捻りは上腕でかけるもので、手首ではかけません。

自然な離れが出るための力の抜き方は、指の結びそのものに関するものですが、二つのことが考えられます。
一つ目は、指の結びに要する力で、小指と薬指を丸めたことで中指が曲がる、その力ですむように思います。
二つ目は、弦にからませる帽子の角度によって結んでいる指に感じる圧迫感が異なるということです。帽子を深くかけて体の前の方を向くか、矢と平行に近い程度までにするのか、ということですね。
僕の経験から言うと、かけの帽子が矢とのなす角が小さい方が結んでいる指に感じる圧迫感は小さいですね。その辺にフェザータッチの離れの秘訣が有ると思っています。
しかし、ある限度を超えて角度が小さくなると、弦枕から弦が外れて単なる暴発になってしまいます。いい塩梅を感覚で見つけようとする時には、ご自身の経験や習熟度をよくよく見極めた上で、安全第一に留意しなければなりません。

弓道をやっていると軽く鋭い離れというものが重視されてきます。軽さは馬手にありというのが僕の考えです。
また、しっかりと馬手で握りこんでいると、一心に伸び合いを続けても離れが出ないということが考えられます。いい塩梅を見つけると軽い離れが出るようになり、自然な離れへの架け橋になると思います。

96:はぎさん
>カッちゃんさん
普段、八寸を引いて練習されていると、どんな効果を感じる事が出来ますか?
私は、普段尺二しか引かないので練習効果を知りたいです。

97:カッちゃんさん
はぎさん

僕は弓を始めた初期のころから残身が長いのですが、八寸の的にすると更に身も心もジーンとして、すぐに弓倒しは出来ません。集中力の関係だと思いますが、正直一射が非常に重くて疲れます。

尺二だけで練習していた昔、僕は本番の方が的中率が良かったんです。練習の時はその日のポイントや目標を考えながらですが、本番では何も考えない(迷いが無い)からですね。

そして今は、尺二の的に向かうと一回り大きく見えるので、普段の集中力を保ちながらもプレッシャーを感じないのでリラックスできます。勿論、結果にもつながりますね。こんな感じです。

98:カッちゃんさん
自然な離れの後は至福の喜びを感じます。より高い頂に立つほど、その感覚は強くなります。ただ、より高く登るには、より深い会が必要です。

残身(心)に早気という言葉を聞きませんが、作為で残身を長くは出来ても、作為で深い会からの残身(心)を短くは出来ないものです。

言うならば、残身(心)の早気の方は、弓の喜びの半分程を知らない、ということになります。

99:茜丸さん
大変に失礼なご質問で恐縮ですが、カッチャャさんは「師」というものをお持ちでしょうか?
ご自身よりも、力量が上と思われる方に、見て戴いたり指導を賜ったりしていらっしゃいますか?

100:茜丸さん
失礼致しました。
カッちゃんさん←カッチャヤさん

101:響と弦音さん
>かっチャンさん
残心の早気って何ですか?

102:かっチャンさん
響と弦音さん

文脈からご理解できると思いますが、単なる拡大解釈による適用です。

103:響と弦音さん
>かっチャンさん
拡大解釈による適用というのが分かりませんが、残心は長い方がよく、短い方が悪いという事でいいですか?

104:かっチャンさん
響と弦音さん

残身(心)には総括して射の良否が現れる、と言われていますね。会では、詰め合い・伸び合いを行い、心気を充実させて離れるということです。このことは、会を深めると言っても良いでしょう。そして、この会の深さも残身に現れる、と考えています。

客観的に会を保つ時間は、各自において差が有ります。1秒以下・2.・3秒などの短時間でも、会を深めて離れていれば、それで充分ですね。
しかし、そうした方々の大半は、客観的な残身の時間が実に短時間だったりします。つまり、実質的に浅い会で離れる(早気)と、残身は短時間となって現れます。そのことを、因果関係から、残身の早気と表現しました。

105:かっチャンさん
自然な離れで、的付けはどうするのか。
的は視野の中心に見えていれば良い、ということです。
半月でもない、何にも無い的付けです。
ただし、顔向けをしたら戻す時までは、視野の中心に的が在ります。

普通的付けでは、的と籐のある部分を重ね合わせたり、的と矢筋の感じでも狙いを確認しますね。これらの場合は、標的と標準の関係にある2点を重ね合わせて狙いを決める訳です。至極当たり前のことです。ところが、この方法ですと、心は動揺することになります。つまり、標的と標準との不一致は残念、標的と標準との一致は的中を、それぞれ予感させることになります。こういった会の状況では、的付け・的中ということに心が奪われて、一心に伸び合うということからの離れが出なくなります。狙いが外れれば修正しようと体が動き、狙いが合えば早気で離してしまいそうですね。

そこで、自然な離れでは、標的という一点にしか視線を送らない的付けをするのです。この方法では、的付けや的中に心が奪われることがないのです。それで狙いが付くのか,という疑問を感じるでしょうね。答えは練習を積み重ねて、自分の射で確かめるしかありません。

ちなみに、有為の離れで的付けをするなら・・・。
矢筋の先に真っ直ぐ的が見えて、矢先が的心に付いている。
この的付けを成立させるためには、会で弓は多少伏せ、顔向けが浅めで、右目が矢筋の真上にこなければなりません。更に、矢尺の長い矢を使用するか、口割と押手を高めに設定するかなどの条件が必要です。胴造りや引き尺などが安定していれば、高的中につながりそうです。ただし、離れで矢が狙い通りに飛んでいくことをクリアーしていることが、前提条件ですね。

僕の場合は、これらの的付けを実践してきましたが、自然な離れ用の的付けと有為の離れ用の的付けに的中の差を感じません。

106:かっチャンさん
補足

野球では、塁間の距離は27.431mで、投手板と本塁間の距離は18.440mです。ピッチャーはボールを投げるときに標的とも言うべきキャッチャーミットを狙います。この時、大きく腕を振ってボールを投げるのですが、何処にも弓道でいう的付けのような標準はありません。
しかも、弓道ではほぼ静止しているところからの発射ですが、野球ではからだ全体の大きな動きの中でのリリースです。にもかかわらず、コントロールの良い投手はそれなりにいますね。

この事例は、標的のみを目視することで、充分な的中の精度を得ることが出来るという客観的な根拠に成り得るでしょう。

107:かっチャンさん
有為の射に励むということは、弓道の世界で実績を上げ名をはせることである。
一方、無為の射に励むということは、凡夫にとっては先の見えぬことであり、生涯を徒労に帰すること大なりである。しかし、そこに至れば自己と世界の在り様をも同時に知りえることになる。

弓道が実戦では用いられない今日では、競技弓道こそ的中主義の有為の射であろう。その指導者もまた、競技での勝利を担うことになる。かつては、一国の安寧を弓射にかけていたが、現在では翌年の受験者数という学校経営がかかっているのである。

無為の射には何のしがらみも無く自分が味わうだけのものであり、他者の評価など求めようとも思わぬものである。

しかし、更に至れば有為も無為も心の赴くまま、カナァ?

108:黒紫さん
>かっちゃんさん
御自身の射法に対する価値観のお披露目はもう充分ではありませんか?
他人への無返答、独り言がやや過ぎるのではないでしょうか?

以前にも、このような浮いた事例で不快になった方が大勢います。申し訳ありませんが、もうお止めになったほうが宜しいかと思います。

109:はげさん
結論は、自然の離れは存在しないという事になりそうですね。

110:かっチャンさん
既に分岐してしまったチンパンジーがいつしか進化をして人間になることはないのです。
有為の離れも修練の末に無為の自然な離れになるという妄想は捨てるべきですね。的中・標準を設けた狙い・反射的な離れを極めれば極めるほどに、自然な離れから遠ざかるばかりです。

111:百夜 ◆WR1hQljoさん
少々雑感を

・かっチャンさんの考え
自然な離れとは、即ち無為の離れ、暴発の延長線上、(隠喩的に)人間の離れ。
無為の離れの反対にあるのは、有為の離れ、小手先の技による離れ、(隠喩的に)チンパンジーの離れ。

切り口がかなり大雑把ですが、私はこのような印象を受けました。

私は、射手が成熟しないうちは、射の流れの中で的中の確信が得られるその瞬間・時機に意識的に離れを出す(放し)ことを幾度も繰り返すことで、射の成熟とともに次第に反射的に離れが出るようになる、と、漠然とですが考えています。初歩の間は、離れを強く意識しないと離れませんが、修練を重ねるにしたがって離れに必要な意識が薄くなっていき、より無意識のうちに離れが出るようになっていきます。これを更に究めていくと、「気がつくと残心になっていた」というような境地に至るのではないかと。

自然な離れというのは、過不足無く矢筋に伸び合った末に正しいやごろで出る離れを表現したものだと思っています。この場合、無意識に近いことと離れが自然であるかどうかというのは別の問題だと思います。つまり「自然」というのは意識に関連した表現ではなくて、力の流れを表現したものではないでしょうか。無意識に近い状態で離れが出せるほど射が熟している射手の方が、結果的に自然な離れが出る可能性・頻度が高くなるということは言えるかもしれませんが。

私は「(ここで言う)無為=全く作為の無い」と解釈していますが、
「自然の離れ=無為の離れ」とするカッちゃんさんの意見と私の考えでは、そもそも出発点が異なりますね。

ちなみに、標準ではなく照準ではないかと。

112:響と弦音さん
>かっチャンさん
自分の認めない射をチンパンジーとか言うのなんとかなりませんかね?


あなた自身、暴発だとか、顔を払うだとか、非常に低レベルな自然な離れから程遠い射をされてるようではないですか。

113:茜丸さん
もうどうでもいいんですけどね、>>107でご自身がおっしゃつてることですがね、読んでみて“おかしい?”“矛盾してる!”とお感じになりませんかね。

>無為の射には……(云々)……
ご自身がそれを習得なさっていて、実践なさって窮めた…とお考えならば、それを殊更ひけらかしたり、自慢したり、またそれを以って他者を見下したりバカになさるのは、ちょっと痛い行為じゃないのでしょうか。
お言葉通りに、ひっそりとお一人で弓をお引きくださいな。

掲示板の反応やら評価などお気になさらずに、ご自身の信じる道を、日々粛々と稽古を続けて行かれたら宜しくように思います。
それことに関しては、誰も否定しないし、邪魔もしないはずです。→だから貴方様も、掲示板の他の人達の考え方に干渉したり、あからさまに否定するのは止めに致しませんか。

114:ジーザスさん
>既に分岐してしまったチンパンジーがいつしか進化をして人間になることはないのです。
このようなコメントが出て残念に思います。どういう解釈も出来るし言い訳も可能でしょうが、一連の内容を見てきた方にどう受け止めれれるかは想像がつくと思います。
己の信じる道を究めるため、技術を高めるのは無論大切な事ですが、弓を通して人としてどう有るべきか考え、己自身を高めていく事が弓道の本質で有ると思います。

115:かっチャンさん
或る範士の写真を見た雑感です。段位を記すと個人を特定してしまうのでふせておきます。まあ、東北の方です。
握りは籐にまで及び高めです。口割りも高めで、それより弓手は更に高めです。矢尺は引き尺よりかなり長めで、顔向けは浅めです。

さて、これらの現象が何を示唆しているのか。
僕の推測では、先に記した有為の射の的付けと極似しています。
他に、この説を補強するものはあるのか。
伝聞では、彼の範士は、「的は漠然と狙うのではなく、しっかりと正鵠を狙うものです。」という趣旨のことを言われているそうです。
その言説の裏付けこそ、右目の下から矢が真っ直ぐ的を向き、その矢先が的の中心についているという的付け、僕の記した有為の射の的付けではないでしょうか。

弓道の世界では了見の狭いところもあり、矢のりさえ見てはいけないのでしょうから、ご本人に的付けの方法を尋ねる方は居ないのでしょうね。
この方は、現代の弓道界の頂点辺りにいらっしゃるのでしょうが、その言説は正に有為の射を表すものですね。

以前、天龍さんがお書きになられたように、高名な射手の写真や映像などを見ることは、とても勉強になります。

116:響と弦音さん
>かっチャンさん
範士の先生を引き合いに出さないで下さい、失礼な。本当に失礼な人ですね。
主張する事もコロコロ変わるし。
何か独り言みたいなスレは、自分でブログ作ったりすれば自由に書けていいんですがね。

117:かっチャンさん
全弓連の審査規定には、十段の資格基準が記されていないのは周知の通りです。
例えば、範士十段というレベルに達したとしても、無為の射が必須と言うことではないようですね。有為の射のみごとなものが有るということで、その積み重ねでやがては無為になるとは言い難いようです。現在、日本に3名でしょうか。

118:響と弦音さん
>かっチャンさん
かっチャンさんって、多分、低段者ですよね。
範士の先生の射を参考に、目標に頑張るんなら分かるけど、批判、批評は出来ないでしょう。


何か書き込みの常識もないし、弓道の常識もないし、失礼かそうでないか人間としての常識もない。


ダメだこりゃ。
あなたが一番チンパンジーに近いよ。

119:百夜 ◆WR1hQljoさん
>右目の下から矢が真っ直ぐ的を向き、その矢先が的の中心についているという的付け

私はそんなアーチェリーみたいな狙い方をしている人を見たことがないです。厳密には矢筈を右目(利目)のほぼ真下に置き、サイトでエイミングするという形をとるようです。
アーチェリーは顔の前までしか弦を引かないので利目の視線と矢線を一致させることに困難ではないでしょうが、弓道の場合覗き込んだぐらいでそんなことが可能なのか、そんなことをする必要があるのか疑問です。矢の先に的が見えるほど覗き込めば、肩根が浮くわ、縦線は崩れるわ、押し手肩は後ろに逃げるわ、矢こぼれしまくるわ、右側の髪だけひどい枝毛になるわ、何一つ利点が無い気がします。
頬付けが高くなれば頬骨が邪魔になるので逆に低い方が右目の真下にきやすいんじゃないかと。それと、矢の真上に右目が来るのなら矢尺を長く取る必要がどこにもないような・・・

弓道では、矢先と的の見え方で狙いをつけるのは射癖の一つとされ、籐をすかして的付けをするのが普通です。
矢が真っ直ぐ的を向いているのを後ろから確かめてもらい(俯角・仰角はこの際考えません)、そのときの籐と的の見え方を覚えて、その位置に来るように引分けてくることで正しく的を狙えるようになります。

的の狙い方を教えないと、初心者はほぼ間違いなく的の後ろを狙います。後ろを狙って前に飛ばす射を続けていると手の内・角見の技術は向上しません。正しい的付けなくして、良射の体得は成し得ません。

120:かっチャンさん
可能なのか、必要があるのか、疑問です。

その通りですね。自分の射で試したことがないので、長い矢の意味が分からないのでしょう。でも、こんなことを試したことがない方があたりまえです。・・・普通です。

121:百夜 ◆WR1hQljoさん
そうですね。上記のような射は特異だと思います。かっチャンさんはその射についてよくご存知で深く考察されているようですので、私の率直な疑問点に関して解答あるいは、解法を示してくださることを期待したのですが。

122:かっチャンさん
貴方は基本や常識を重んじられる方のように拝察いたしております。
特異・奇異なものに対する好奇心は、お捨てになられた方が良かろうと思います。
どうしてもと言われるのであれば、その前に貴方の信じる射を捨て、変な親父を師と仰ぐ覚悟とが必要です。・・・そんなことをする必要もなければ、する気もないでしょう。
初心者のようではなさそうですね。お分かりのように、一から自分の射で確かめてこそ、身に良くつくものです。

123:百夜 ◆WR1hQljoさん
はい。「三重十文字、手の内、五重十文字、的付け」の基本を正確に出来れば的に中るのが弓道と考えております。

端折って言えば、「何の利点も無さそうに思える”矢線と視線を一致させる射”について、なんでそんな射をあえてするんだろう。そもそもそんな射をする弓引きがいらっしゃるんだろか。」ってことなんです。この疑問を解決するのにそれほどの覚悟が必要とは思えないのですが、かっチャンさんがそう仰るのなら、強いて追究はいたしません。スレ違いですしね。

124:響と弦音さん
>かっチャンさん
矢の根狙いって事ですよね。
矢を的の中心に向けると、矢は大分後ろを狙ってます。それで、的中が出るようになったら、何年も直すのに時間かかりますよ。


先生に見てもらいながら、弓道教本に沿った基本的な理論と実践をやり、頭をリセットしてやり直した方が将来のご自分のプラスになると思いますよ。


基本をまず固めないと。
それからですよ。

125:水戸さん
押し手を的に伸ばしながら、勝手指の力をほんの少しずつ抜くと自然に離れますよ。

126:水戸さん
ほんの少しずつ張りをなくさないように緩めると暴発にはならず、自然に離れます。

127:かっチャンさん
水戸さん

自然な離れと暴発との共通点は、離れる時期が射手にも分からないことですね。それ以外は暴発と異なっていて、痛い目に遭うことも無いですし、矢飛びも正直です。無駄な思いも力も動きも必要としません。

出来れば会で少しずつ緩めるのではなく、会に入る前からもう少し馬手の無駄な力を抜いておけば、後は伸び続ける中で離れが出て行きそうにも思います。

でも、フェザータッチの軽い離れに近付いて来ているようですね。
もし、競技弓道を目指されるのなら、有為であっても的中の精度に充分役立つテクだと思われます。

ところで、馬手から力が抜けると弓手の手の内からも握り締める力が抜けてきませんか。
僕の場合は、会で角見(綿所)と馬手の肘以外の感覚がほとんど有りません。

128:水戸さん
なるほど、引き分けの時に準備しておくと良さそうですね。
私も勝手の指先の力を抜くと、押し手の手の内の力も抜けてきます。
感じが似ていますね。

129:水戸さん
今日は新たな発見をいたしました。
大三よりかけほどきをしながら引き分け、した筋を張りながら伸び、かけほどきを続けると勝手に離れました。
自然の離れだと思います。

天に昇った気持ちです。

130:かっチャンさん
水戸さん、それは良かったですね。僕も嬉しいです。
最近は、競技弓道としての練習ばかりで、無欲の弓は引いていませんでした。

僕も以前自然な離れが出たときは、的に中った以上の感慨がありました。その感覚も大きく二つくらい有りました。
ひとつは、喩えるならば、最後の一歩を踏み終えて顔を上げたら、山頂からの眺望が見渡せたという感じです。二つ目は、死から生還して、今まさに生きているという感覚です。

どちらも、精一杯の伸びから開放されて、これ以上は無いという清々しさですね。
よく会の充実は時間では計れないと言う方がおりますが、3秒や5秒では、この感じは出てこないように思います。

疲労が徐々にほぐれていく体と感動が込み上げてくる心、その残身(心)は弓道のご褒美でしょうか。

131:かっチャンさん
残身(心)のご褒美は、弓の醍醐味ですね。早気の方や残身の短い方は、恐らく知らないでしょう。

僕の趣味にはサイクリングもありますが、それはダイエットから始まりました。4年前には100キロの体重で、現在は76キロ(身長180センチ)です。
いつもの75キロコースには心臓によくない長い上り坂があります。僕のすぐ横をトラックやらマイカーが追い越していきますが、必死になって重いギアのペダルをこぎ続け、一気に上まで登ります。

ところで、以前中学の運動会を見に行ったことがあります。どの学年にも100メートル走がありましたが、僕が見たときには3年生の女子は、みな申し合わせたようにだらだら走りでした。それに比べると、幼稚園の徒競走は子供たちの必死さに涙が出てきます。
どうも、熱くなって限界まで挑むようなことは、カッコ悪いのでしょうね。

さて、本題ですが、会で一心に伸び続けるということですが、力んでガチガチになる必要はありません。しかし、限界近くまで自分を追い込む必要はあると思います。体力・気力のどの辺りが限界なのかを不断に経験していないと、弓の場合でも浅い会になってしまうでしょうね。

自然な離れを実現するには、このような馬鹿馬鹿しいほどの必死さが必要だと思います。
また、一射に込めるものによって、残身でのご褒美は決まってくるようです。
僕がやる行射の前の澄ましは、このような覚悟を呼び起こすものです。

132:臼さん
あの、カッちゃんさんに質問なんですけど
「角見は充分に利かせ、馬手からは余分な力を除き、離れを微塵にも思わず、伸び続けること」とか
「会で一心に伸び続ける」とか
離れで必要になるのはなんとなく分かるんですけど、「伸び続ける」って、具体的に会でどんなことをしているのでしょうか

アホな文章ですいません(汗)

133:かっチャンさん
臼さん

伸び続けるというのは、恐らく皆さんがやっていることとさほどの違いはないことでしょう。

結果的には矢筋方向の伸びですが、引き尺を直接的に手首や腕などから増加させるのではなく、からだ全体を天地左右に伸張させることで、伸びの限界に近づくといったところでしょうか。

僕の場合は、会で詰め合い、矢筋・横線方向の伸び、縦線方向の伸びの3段階を考えています。
特に、縦線を伸張させることで、肩線と矢筋が近づき離れに繋がるであろう伸びが出てきます。その為には腰から足の裏までの伸びが横線の伸びと一体になって、頭が天に伸びます。このことによって、実際の引き尺も多少伸びているだろうと思われます。

ところで、貴方はどのように伸びていらっしゃるのか、僕の質問にもお答えして頂けますか。

134:臼さん
どうといっても、私自身、的前で弓を射るようになってから半年ほどしか経っていない初心者ですので(汗)

私のしている伸びは、会で詰めあった時の射形で、両手首の余分な力は抜きつつも、弓・弦の反発力を支えている腕や背中の筋肉を左右にじりじり伸ばしていく感じです(曖昧な表現ですいません)
全身にガチガチに力を入れるというよりも、弓を引いている筋肉だけ、会で緊張を少しずつ高めていきます
実際には、おそらく筋肉なんて伸びてないし、引き尺もほとんど伸びていないでしょう。自分が実感しているものを示しただけです
縦線については、伸びる意識はしていません(汗)背筋をピンと伸ばして姿勢良く立っているだけのようなものに胴造りを加えたようなものです

正直、自分の知っている射は間違いだらけだと思っています。というより何が正しいのかわかりません(苦笑)
もし間違いがありましたら、ご指摘お願いします

135:かっチャンさん
臼さん、返信ありがとう御座います。

貴方の伸びは、立派なものだと思います。何が正しいかには、時間がかかりますね。云わば歴史の認知が必要かも知れません。しかし、それさえ時間が経てばまた更新される運命にあるのだ、とも思われます。

とりあえず、中貫久とか飛とか、そういったものが満たされるのなら、射技としての正当性は確保されるでしょうね。個人として、何が正しいかの基準はこの辺りだ、と考えています。

能の花伝書では、基本を一通り会得した状態を初心と言っているようです。一概には言えませんが、例えば習い始めて10年でしょうか。一般に理解されている意味とは異なりますね。基本を身につけたら、今度は自分なりのあり方を探ります。そして、行き詰った時には、また初心・基本に戻れ、と言われているようです。

僕は、このようなことを考えながら、練習しています。

136:水戸さん
昨日は、勝手の力を抜いた状態で会に入り、押しに意識を集中しながら、勝手のかけほどきをしていたところ、自然に離れる時もありますが、暴発が多くなってしまいました。
暴発は怖いですね。

137:水戸さん
自然な離れをやろうとすると暴発するようになったのは何故なのでしょうか?
どうやったら治りますか?

138:かっチャンさん
水戸さん 、こんにちは。

暴発の頻度が高まったということですが、僕の経験で書きます。

無駄な力が抜けてくると、馬手の捻りが浅くなると思います。もうひとつは、かけの親指が矢筋となす角が小さくなったのではないか、と思われます。

同じ暴発でも、指の結びが先に解けて、その後、弦枕から弦が外れるのを良い離れと考えています。
この逆ですと、出て行く弦が人差し指や中指にぶつかって進路が変わります。その結果、顔などを打って痛い目にあいます。

あくまでも、指の結びが先に解けて離れを出さなければなりませんから、右手の上腕の力こぶをからだの前上方からもう少し上に向ける感じにしてみては如何でしょうか。この方法ですと馬手の捻りで暴発を防ぐことが出来、同時に前腕(手首など)に無駄な力が入らなくてすむと思います。・・・上腕の捻りで、馬手の立てる角度を調整してみてください。

いずれにしても、水戸さんは立派です。最近の僕は競技弓道の練習をしていましたが、馬手に無駄な力が入りっぱなしです。

139:かっチャンさん
久々に一射自然な離れを試みました。
出ました。きっと20秒に近いくらいの会でしたが、伸び続けて緩まず、真っ直ぐ的心でした。難を言えば、マメ等は一切無いのですが弓が2センチほど落ちたので、手の内は不完全でした。

140:響と弦音さん
自分は前にも書きましたが、競技用の射、自然の離れ、何で2つ射を持つ事が出来るんですか?


修練は一つ、自分の出来る射も一つだと思うんですよ。


その一つの道がいつかは、自然の離れと言われるものに繋がっていくと思っています。


今日は、自然の離れを久しぶりにやってみました、出来ました。
これは、私は、ありえないと思いますよ。

141:かっチャンさん
弓に矢を番えて放つのが射です。或いは弓道と言っても良いでしょう。射はそれを行ずる人の数ほどあり、また、射る数ほどにある、とも言えるでしょう。それほどある射でも、たとえ試みても同じ射は無く、精々に似た射があるのみです。

自然な離れの射は良く中りますが、その核心は的中ではなく自然な離れ自体にあります。また、ご経験されれば分かると思いますが、始終何かに思いをめぐらして生きている人の脳から、その何かを取り去って空っぽにすることは、非常に疲れるのです。例えば、中てるということ、離れるということ、これらを一射の間忘れて行射することが、難しいのです。人の脳は使わなければ脳細胞が死滅し易いので、始終外部からの刺激を脳に反映させ、それでも不足するので、脳自体が情報を作って脳を活性化させているのです。

だから、百射会で連中させることや競技で的中数を競い合うなどには適していません。または、無理があります。脳にとって顕在意識を空にすることは、別な言い方をすれば肺にとって呼吸を止めているようなものです。長く息を止めたり、長く脳を空っぽにするようには、元々ひとのからだが出来ていないのでしょう。ですから、もし人前で行うとすれば、矢渡しとか審査のような一時の場合でしょうね。

さて、貴方には貴方の自然な離れがあるのでしょうから、僕の弓道と同じ必要はどこにもありません。ご自分を信じて、僕の書き込みは左の目から右の目に、受け流されるのが無難のように思われます。

142:響と弦音さん
自然の離れとそうでない時のかっチャンさんの射の違いが大分分かりました。


私は、離したんですか?と聞かれたら『はい、思い切り離しました』と答えます。
ただ、離れたんですか?と聞かれても『離したつもりですが、離れたと言っても間違いではない』と答えます。
私は、そういった段階です。
思い切り離すのを意識し、長年やってきましたが、今は、離れたと言えばそれも正解になってきたかもしれないです。
ですので、精神も技術も常に一つなので、その点は違いますが、おっしゃりたい事は大分分かりました。


限界の澄ましにより、自然の離れに一時的に昇華させてある訳ですよね。
確かにそれでしたら、可能かもしれません。

143:かっチャンさん
水戸さんに自然な離れが出るようになったことは、非常に喜ばしいです。そして、暴発が出るようになったという現象も、自然な離れにとっての必然な通過点です。無駄な力が抜けてきた証ですね。後は、その微調整でしょう。

そして、この時期に体感する暴発にこそ、自分の意志では離していないという、言葉では表すことの出来ないものがあります。そして、大変な恐怖です。強気の僕でも、からだが怖がって弓を引けないこともありました。しかし、ちらとも離れを思わない離れの感覚をよくよく味わなければ、先には進めません。なぜなら、自然な離れの真贋は経験するまでは似かよりで、経験すれば全く違うものだからです。

さて、その先は、単なる暴発から自然な離れの射にならなければなりません。端的に言えば、残身で弓が立ち、弓返りがして弓は落ちず、弓と弓手が十文字です。馬手は軽く離れ、矢飛びは特に縦線が重要ですから、矢所が縦に揃うようにならなければなりません。射法八節にあるように各部を適時に整えて、その後、全体をひとつとして離れが出るようにということです。

特に、自然な離れでの馬手は飛びやすいのですが、弓手のきれいな弓返りは難しいものです。暴発した時に、充分な弓返りでなければ、手の内はいけません。また、痛い目にあうときは、馬手の手の内などがいけません。両方の手の内ともに卵中かと考えます。

ということで、僕自身の目標を含めて記しました。

144:名無しさん
離れはとりかけがしっかりとしていれば会の状態で力をかけ続ければ勝手に離れてくれないんですか?

145:響と弦音さん
話が噛み合わないですね。。。

146:かっチャンさん
僕がスレッドを立てたホストならば、多少の困難さを感じても応答するでしょうが、事実はそうではありません。

レスの中には、荒れる可能性の高さを予感させるものがあります。また、余りに短的な表現であるため情報が不足していて判断を下せないものがあります。直近の質問はそのように考えています。時には、必然性を感じない単なる個人情報入手の質問などもあります。
基本的に、これらに該当するようなレスには応答をしていません。

147:名無しさん
考えすぎと言ったら失礼かもしれません。考え方が異なるので、申し訳ありません。
自分のというより監督の話ですが自然な離れはようは自分から離しにいかないことですよね。押しは弓に負けない程度、勝手は弓力と同じくらい力をかけ続け会に入れば普通にとりかけていれば親指を弾いて勝手に離れてくれないでしょうか?

148:かっチャンさん
水戸さん

折角自然な離れが出るようになっても、中りが伴わなければ、射というより禅の修業になってしまいます。ご承知のように、いつ出るのか自分でも分からない、というより、その自分が無くなった射ですから、会で伸び続けたら後は残心明けに我にかえるまで、何も出来ません。小細工する自分がいない、ということです。
そこで、正直な矢飛びを安定して出す無為の弓手の押し方を紹介します。
もし,参考になるようでしたら、後で細かいところは調整してください。

会での形を書きます。
虎口は下から弓に巻きつき、内竹を虎口で正面から受けます。人差し指と親指の根元辺りで側木を軽く挟み、あと小指は弓が揺れない程度に軽く触れるだけです。虎口を除けば、弓に触れるのはこの3点だけです。この時、卵中を意識して弓の前後に空間が出来、親指と小指が近づいていることも大切です。また、弓自体が多少伏せているかもしれませんが、基本的には左拳の上の部分は水平だと、考えてください。

さて、押し方です。
虎口でそこに接している内竹(弓把)の中心を、ただ真っ直ぐに押し続けるだけです。十文字に押して、離れるだけです。
皮による捻りとか、指の締りによる捻り、親指の押し込み、手首の返しなど、全く必要なしに見事に弓返りして、矢色の付かない正直な矢飛びが得られます。丁度よく入木に調整されている弓であるならば、矢飛びの縦線は狂いません。後は、高さだけの問題です。

このように、自然な離れでは離れに際して何も出来ないことが、的中に於ける最高のテクニックだと考えています。狙いは正鵠を捉えていても、離れに際して何かが加わるから、外れるのです。何も加えなければ、狙い通りに飛んでいきます。そのように弓は出来ています。

僕にとっては無駄な知恵や力や技術を取り除くことは至難の技ですが、そこにこそ弓道たる深遠な到達点があるように、思っています。
水戸さんのより一層のご活躍をお祈りいたします。

149:かっチャンさん
もし、僕に問いかけていらっしゃるのなら、宛名くらいはお書き下さい。僕がスレを立てたここのホストではないことを、再度ご確認下さい。

まず、初めにお話しすることは、貴方と僕とではレベルが違いすぎて、僕には対応しきれない、ということです。

貴方は、普通に取りかけて勝手に離れるのでしょうが、僕にはそう容易くは出来ません。
寿命が尽きる前に、一度でも貴方のような自然な離れを出せたらと思うばかりです。

ところで、僕の好きなアンデルセンの作品に絵の無い絵本というのがあります。実は、岩崎ちひろがちゃんと挿絵を描いているのです。
貴方のHNを拝見していましたら、名無しを枕に置いて与一を名乗る弓人を思い出してしまいました。

まあ、余談でしたが、お二人とも機知に富んだ方のようでした・・・。

150:紫弓さん
>>貴方と僕とではレベルが違いすぎて、僕には対応しきれない
失礼極まりない。「見知らぬ道場に訪れた」と言うシチュエーションでそんな事言えるのですか?以下を参照ください。
http://ecoecoman.com/kyudo/bbs/index.html#kakikomi

151:弓之助さん
紫弓さん
最後まで文章を読んでください。
あくまでも、自分を謙遜し、相手を誉めている表現ですよ。

152:紫弓さん
>>弓之助さん
確かにそうとも取れるでしょうけど。146の様に自分に都合のいいように解釈して、都合が悪いと無視。更には比較なき射法の否定までされました。これは土足で道場に上がるようなものです。
論点も曖昧模糊そのものです。更に言うと、なりすましの可能性もあります。誠意のある態度とは思えません。

 これ以上書き込む事は私自身荒らしに成ります。以下、このスレは控えさせていただきます。

153:ワイン弓さん
横から失礼します。
よく自然な離れは苦心の末偶発的にできたものという話を聞きますが再現性や永続性のない技術が優れた技術とは思えないのですが。いわゆる「久」は不可能なのでしょうか?

154:かっチャンさん
ワイン弓さん

自然な離れは会者定離の理が示すように、偶発的ではなく必然の現象です。握るは易く放すは難(かた)しなのですが、無駄な知恵や技術で縛り込んでいる射からは、偶発的に無為の離れが出ても、それは暴発です。痛い目に遭ったり、弓返りも不充分で矢飛びがいけません。その辺を解決する為に、消去すべきものは消去して、諸条件を整えなければなりません。また、自然な離れが単独にあるのではなく、射の流れの中で出るものですから、残身や的中等にも繋がるものでなければなりません。有為の射は、有為の離れによって満足するもので、無為の離れによっては完結しないでしょう。よって、有為の射からは偶発的に有意味な自然な離れが出るとは、考えていません。

また、有為の離れは技術です。しかし、無為の自然な離れは射手の意思に関わりがない現象であるため、超越論的には技術と言えても本質的には技術としては捉えられません。

上記の二点につきましては、認識の相違がありましたので明記しました。

さて、久ですが、不可能ではないと思います。僕は必要以上に自然な離れの射を続けようとは思いませんが、それを続けていくこと自体が久ということでしょうね。

自然な離れが射として有意味に成立するための条件は、真行草の真、つまり基本であって射技の真髄でしょうね。修練に於いて色んな技術等の岐路がある訳ですが、ここに、取捨選択をする判断の基準を設けています。現今は、行草・応用へ向けて、諸条件・技術の磨きと定着を図っています。

ところで、あなた自身は、どの様な基準で弓道の方向性を決めていますか。お聞かせ頂ければ、嬉しいです。

155:にるべさん
かっチャンさんが思う自然の離れっていうのは、数種類ある理想の離れのうちのひとつってことですか?
書き込まれている内容を見ると、理想的な離れを数種類に分けており、暴発をうまく操って出す離れを自然の離れとしているようですが

156:かっチャンさん
にるべさん

理想の離れを幾つかに分類ということですが、心当たりがありません。

157:にるべさん
エレガントでソウルフル
スパークリングでパワフル
というやつです
別スレで射を2種類に分けて、説明してらっしゃいますね

私は、書き込みを読んでいて前者(エレガント…)をかっチャンさんご自身の射
後者(スパー…)を浦上先生の射を指したものだと感じたのですが

ところで、かっチャンさんのいう自然の離れとは理想の離れであるということで間違いないでしょうか?

158:かっチャンさん
理想の離れについては、別スレにカキコされた方が良いように思います。

また、別スレで書き込んだ内容に対するご理解は、僕の意図するものと異なっていますね。

159:ワイン弓さん
丁寧な解答ありがとうございます。

僕の弓の方向性ですが、いかに的に当て続けるかです。知識や技術がその土台です。かっチャンさんのおっしゃる有為の離れなのでしょう。

160:はげさん
自然の離れは存在しないというのが、このスレの結論だと思いますね。

161:かっチャンさん
レス160の様な立場は有って良いのだが、結論に至るまでの前提や過程を提示しないから、殊更肯定も否定も出来ない。こういったやり方は、射法八節を無視し、的中すれば所かまわず踊るようなものである。弓道のあり方が、まるで生かされていません。

自身の信ずるところは、貴方の心の中にある正鵠に向けて、しっかりと一射すべきです。

162:ななしさん
ここまで無知だと怖いねー

163:tokumeikibouさん
かっちゃんさんへ。

このスレは、貴方が立てられたものではないと認識しておられるようですし、

かっちゃんさんの考えが万が一正しかったとしても、少なくとも初心者の方々には、マイナスの書き込みと思います。

「自然の離れを考えよう!」とかの新スレを立てられるか、どこか別の場所でご自身のHPかブログでご持論を展開されてはいかがでしょうか?

164:かっチャンさん
162・163のレスは、160と同様です。主張の根拠なども書かなければ、只のヤジに終始するばかりです。
また、スレのテーマとその付帯事項以外を目的とするようなレスは、荒しです。ご注意を喚起します。

165:かっチャンさん
離れや弓返り等の言葉は連綿とした弓射の歴史の中で生み出され、現在に及んでいます。
離れは離しではなく、また離れに見える離しでもありません。同様に、弓返りは弓返しではなく、弓返りに見える弓返しでもありません。

弓道との向き合い方は、各人各様が自然でしょう。そして、これらの離れや弓返りという言葉に含意されている意図を弓射によって探索するのも、至極当たり前のことです。なぜなら、弓を始めるごく初期の頃から、これらの言葉を耳にし、その様子を目にし、やがて自ら体験するからです。
もし、ご自身が指導者ではなくても後進にこれらの言葉の意味を尋ねられた時には、何と返答するのでしょうか。
たとえば、射法八節の図解や弓道教本に書かれている表現は適切ではないと、理由を添えて説明されるのでしょうか。もし、そういう確信を持っての投稿でしたら、離れの表記を変えて所信を明らかにするべきです。

射法八節は射技の一つの形態です。これは基本でありながら一つの到達点をも示唆するもの、と考えています。特に、離れの習得に関しては困難を要します。そのせいか、離れや弓返りを経験したことが無く生涯を終えた方のほうが多いのではないでしょうか。ここのスレの状況には、そうしたことの反映が感じられます。  

166:西田幾多郎さん
ここまでスレが伸びているので大変興味があります。失礼ですがどちらの流れで弓を引いているのでしょうか。実際に見に行きたいのですが駄目でしょうか?
御発言をみるかぎり、普通の環境では考えつかない様な事ばかりです。自分で考えたのならそれはそれですごいとおもいます。

ここまで来たらかけと矢と弓の銘を教えて頂けませんか。形から入る部分も私達は知る必要があると思います。

是非よろしくお願いします。

167:茜丸さん
>かっチャンさん
>離れは離しではなく……。同様に、弓返りは弓返しではなく………。
その考えは完全に間違いです!
「離し」も「放し」も離れ(の内)です。
それを否定してしまえば、初心者にどのように教え対処すれば宜しいのかな!?
(暴発など危険な行為を持ち出さない)一般的な意味での自然な離れを否定は致しません。
此処で自然な離れを二つに分けて考えたいと思うのです。

客観的に見た、自然に離れたかに見えるものが先ず一つです。
今一つは、自らの感覚のみに頼った…思い込みや一人よがりの『似非(えせ)自然な』離れです。

僕は以前に、>>99の書き込みにて「師」の存在や稽古に於ける被指導形態をご質問致しましたが、ご都合の悪いご質問だったのか未だご回答が無いのが現状です。

最後になりますが、初心者の方々に危険な「暴発」を奨めることだけはくれぐれもお控え戴きたいです。
>162のななしさまのように「無知」を断じは致しませんが、他人を指導しようとお考えならば、いま一層の勉強や経験、更には師の方よりご指導を受けられることをご期待致します。

168:ワイン弓さん
私自身はかっチャンさんのおっしゃる離れや弓返りの実証例を見たことがないのでなんとも申し上げることができません。是非離れや弓返りを実践されている方を紹介して頂きたいと思うのですが。見た上で見聞を深めたいと思います。

169:かっチャンさん
レス146に記載した通りです。
レス166とレス99は上記に抵触しています。

>茜丸さん
離しを否定することはありません。離れの意味を教えて、離しが当分の方便であることを明確にすれば良いことです。

>客観的に見た、自然に離れたかに見えるものが先ず一つです。
ここに記された「客観的に」という語は、「他者の主観によって」という程度の意味ですね。これは、それに続く「何々したかに見える」という表現と呼応して、離れ自体を規定するのにその実態を持たない表現です。分類を試みて発表されたことは評価いたしますが、僕には伝わってくるものがありません。

また、暴発を推奨するとは、貴方の思い込みです。
暴発は好むと好まざるを問わず、誰しもが経験することでしょう。ならば、暴発をしても矢が巻き藁や安土に納まり、弦で顔などを打たない指導が必要でしょうね。貴方自身は、いつ出るか分からない暴発の危険を避けるために、今お話射たような暴発対策を身に付けていますか。
また、他にも暴発対策が有りましたら、皆さんに役立つことですから、是非ご紹介ください。

170:ワイン弓さん
追記しますと、おそらくかっチャンさんは自然の離れや弓返りは周りの人間が判断できるものではない、射手自らが感じ、結果としてあるものだ的な感じの回答が返ってくることでしょう。しかしそれでも見てみたいのです。これは自然な思いじゃないでしょうか??是非お願いします。

171:ワイン弓さん
それともこの質問も146にある通り個人情報の詮索になるのでしょうか?

172:西田幾多郎さん
ここまで知り得ない情報は私ははじめてです。純粋に拝見したかったんですけどね。残念です。

では道具の紹介はないのですか?正直な個人が特定されない部分でも説明すべきかと思いますよ。

かっチャンさんは意図して他の方の顔色無視していますよね。暴発の話題を出した以上説明するのはカッちゃんさんだと思いますよ。そこで人任せで謝れないのは、ネチケットの理解が足りないと思います。

ここまで伸びると読み手も負荷がかかっているから説明責任は免れませんよ。どうかはぐらかさないで教えていただけませんか?

173:かっチャンさん
ワイン弓さん

見聞を深めるというのは、響きの良い言葉ですね。いや、既にそういう射に出会っているかも知れませんよ。
僕の心当たりでは、某連盟のトップの方でしょう。しかし、常にそうかと言われれば、そうではないようですね。

見聞を深めるためには、それ相応の実力が必要です。自然な離れを見聞するのなら、自然な離れをご自身で出される程の実力が必要です。結局は、自分が費やしたものに応じてのものしか得られないでしょうね。

見聞を深めるためには、まずご自身がそれに挑むという気概が必要のようにも、思われます。

174:ワイン弓さん
私自身多くの地連会長や中央で活躍されている範士の方々の射を拝見し、お話させていただいたことがあります。もちろん多くの方は大多数が認める名手、周りは自然の離れだと感じる方々ばかりです。しかしこれらの方々の多くは自分は離していると仰っています。自然の離れなどないと仰った方もいます。よって私は未だ実証例を見たことがありません。

175:かっチャンさん
トップというのは、会長さんです。お話をしてみて下さい。出来れば、その報告も・・・。

176:ワイン弓さん
もちろん会長さんですよ。離しとるわ!と仰ってました。かっチャンさんの思い描いている方と同じかどうかは知りませんが。

177:sudachiさん
>169、貴方自身は、いつ出るか分からない暴発の危険を避けるために、今お話射たような暴発対策を身に付けていますか。

 これは、一言で言えば「弛まない」もしくは「緩まない」で対処できます。

 一生懸命頑キチンと満遍なく頑張っているつもりが本来キチンと詰めていないとこが緩んだりしていることが結構あります。

 押し切って離したいと思っている人はこの現象は勝手に起こります。

 会では左右均等に張り合いながら頑張っていますが、弓を押す意識が強い時に知らず知らずの内に勝手の詰めが戻ることがありますが、この時は必ず暴発します。

 言葉を変えれば、「勝手でキチンと弦を摑まえて弓を引いていないと暴発する」とでも言っていいかと思っています。

 ご参考になれば幸いです。

178:かっチャンさん
某会長さんは、機関紙のグラビアに掲載された射形について、我が射を省みるという文章を書かれています。ご自身の射が心外であり、読者の精錬の糧にもなるべく、自己分析をしていらっしゃいました。

レス173にも書きましたが、自然な離れが常に出るのかと言われれば、そうではないのです。
貴方がお会いした時に、ご自身満足な射でなければ、離れを口にするようなことはないのでしょうね。そうした謙虚で、後進にも気さくな方のように思っています。

179:ワイン弓さん
そうかもしれませんね。しかし私も読みましたがこの文章からは未だ自然の離れには至っていないという風に読みとれると思います。また自然の離れはできないが後進の教育のためにあえて言ったかもしれません。穿った見方でしょうか?結局現代では実証例はないように思えます。

180:ワイン弓さん
会長は文章の中で自らの射を迫力なくおもしろみのない凡射だと仰っています。もちろん謙遜や自己の戒めも含んでいるでしょうが少なくともご自身は自然の離れではないと仰っています。

181:ワイン弓さん
ちなみに会長はご自身の弓道人生の中で納得できた射はたった二射だったそうです。かっチャンさんは何射ですか?一射でもありますか?前スレを見ると何射かあったようですがそれだと会長を上回ることになりますね。僕も的に当てた射は何万本かありますが、会長の基準からすれば納得できた射はゼロでしょう。

182:かっチャンさん
ワイン弓さん

たとえ実証例を見ても、その是非を判断するのは貴方自身です。射手本人が今のは自然の離れだと言ってもです。もし、本人が言わない場合は、尚更に貴方自身の判断です。いずれにしても、判断の基準が自分に無ければ無理ですね。特に、自然な離れを暴発と同一視している一部の方の認識では事足りません。

解決策は、自分でそれに挑んで出来ない場合は、元々自然な離れが妄想なのか、それとも自分が未熟なのかの何れかです。自然な離れが出来れば、確信を持って自然な離れはある、と言えるでしょう。それだけの話です。

僕には、自然な離れと言う文字は見えませんでしたが、そのように言及されていましたか。

183:ワイン弓さん
返信ありがとうございます。つまり確固とした自然の離れの実証例はないわけですね。実証されてないものを目指す気には僕としてはなりませんね。実証例がない以上未熟なくせに自然の離れを公然と吹聴している輩に同調はできませんね。だからこのスレでも多くの方が不快な反応を示されたのでしょう。当然だと思います。

184:ワイン弓さん
さぁ?その号にはないかもしれませんが何かに書いてあったと思いますよ。

185:かっチャンさん
精一杯の射に納得も反省も後悔もありません。上回るも勝つも関係ありません。

例えばね、お金持ちが一万円寄付して、路上俳諧者が有り金の総て100円を寄付しました。
考えてみて下さい。

186:ワイン弓さん
すいません。意味が分かりません。路上徘徊者?

187:ワイン弓さん
名人が自分にシビアでいるのと凡人が自己満足に浸るのは金持ちと路上徘徊者の関係のようなものなのですか?意味が分かりませんが。弓引きに上手下手はあれ貧富の差があるのですか?意味が分かりませんが。

188:かっチャンさん
考えてみて下さい、と念押しをしたのには、二つのポイントが有ります。一つには精一杯の意味です。もう一つは、思い込みが曲解を生むということです。

お金持ちと路上俳諧者が貧富の差に於いて対比される関係にある、と思い込まれるかも知れませんね。確かに、読点の前後で対句の関係になっています。また、路上から生活者や徘徊を思い浮かぶんでしょうね。しかし、この文で100円を寄付するヒトは誰でも良いのです。路上俳諧者が示すように、道端で俳句をひねっている人でも意味が成立するのです。大切なのは、その人が「有り金の総て」を寄付したという点にあります。捨身飼虎、もうこれ以上のことがなければ、何も悔いることは無い。極限の布施ですね。

射も同様、精一杯やれば、後に尾を引かないものです。納得も上手下手もありません。

189:ワイン弓さん
精一杯やればそれでいいというわけですね。素晴らしいことです。

それが結論なら自然な離れじゃなくても一生懸命ならいいんじゃないでしか?

190:環 ◆1HBuO8jIさん
横から失礼します。


議論が抽象的でイマイチ何を表現なさりたいか掴めてないので、誤解ならすみません。
かっチャンさんの仰る精一杯の中には、今の一射をより良くし、更に高みを目指そうという姿勢が感じられないのですが。

それと、自然な離れを意図的に行える時点で、それはもはや自然な離れでは無いのでは、と感じました。

以上二点、どうでしょうか。

191:ワイン弓さん
この掲示板を見ている方々は皆さん精一杯弓道に取り組まれている方々ばかりだと思うのですが、どうもかっチャンさんの持論は皆さんの反感や疑問を買っているようですね。もう少し配慮すべきか距離を置くかすべきでしょうね。する気もなさそうですが。ここはかっチャンさんの布教活動の場ではありませんので。

192:かっチャンさん
昨日は天候が悪く、弓射を休んでネット三昧でした。
五月を待たずして小さき虫の多く飛び交い、青き雲の一つだに見られず。

さて、心して今日の一射。

193:静泉さん
はじめて書き込みします。
自然な離れを模索していてこのスレにたどり着きました。

かっチャンさんの書き込みに私は非常に興味があります。
また非常にネチケットを心得た方であるとおもいました。

スレ主ではないので反感や疑問を感じた方はその意見はスルーして、他の方と議論をすればよいのではないのでしょうか?


自然な離れに対して様々な方の考え、大変参考になりました。
色々な知識を深める場ですので他の価値観を潰すというようなことは非常に残念に思います。



風が入り不自然な離れになる私は自然な離れに憧れます。
どのようにしたら自然に離れるか毎日苦心しております。

194:幻さん
ここはかっチャンさんの個人掲示板ではないということです。
192はスレッド「自然の離れ」にまったく関係がない話です。関係のない話を書き込むのはマナー違反なので常識的に考えて慎むべきです。

そうでない方もいらっしゃいますが、かっチャンさんを攻撃することを主眼にした書き込みをする方もそろそろ控えたらいかがですか。
かっチャンさんは鈴木会長の射を自然の離れと評し、鈴木会長は離していると仰っている。私自身は会長の発言のソースを持っていませんが、これが本当ならばもうそれでいいのではないですか。
また「離している」という言葉を使ったとしても、それがいわゆる「自然の離れ」を全て否定するものでないことは皆さんご存知なのではないですか。

195:かっチャンさん
静泉さん

青き雲の如き、志し高き方に出会えて、うれしい限りです。
目指すものの門口に凛と立たれたということは、既に道半ばと思われます。
頼もしいですね。どうぞ、よろしくお願いいたします。

196:かっチャンさん
静泉さん

自然な離れは、伸び合いから生まれる無為の離れで、真行草の真です。基本であって、また一つの到達点でもあり、難しいところもあります。離れの際に十文字に詰め合って後、十文字に離れるだけです。離れを微塵にも思い浮かべないことが、精一杯の伸び合いに繋がります。
頭の中を空っぽにすることですが、初めは離れの前後の僅かな時間でよいのです。一射の間とか、道場に入ったら出るまでとか、長い時間は僕にも難しいです。

弓を虎口で正面から受けると、親指の付け根の骨が弓の右側に働いているのが感じられます。後は手の内と弓の関係で十文字に押すだけです。弓返りする為には、握らず包むだけです。このように弓手の力が抜けると、馬手からも無駄な力が抜けてきます。

何処を意識することも無く伸び合えば、ついには体も弓の感覚も無くなってしまいます。というより、顕在意識の飛んだ状態を経験することがあります。これが、古人の云う弓道での見性です。ただし、この見性の経験を求める事と、弓道界で名を上げようとすることとは、全くの別物です。

詳しいことは、このスレに散在しています。何か有りましたら、改めてお声をおかけください。

197:響と弦音さん
かっチャンさん

ホストじゃないんだったら、どんどん書き込むのいいかげん止めたらどうかな。自分で言ってる事とやってる事反対でしょ。
後、あなたを攻撃するレスも目立つけど例えば、自分とか茜丸さんとか、紫弓さんとかの質問には、全く無視だよね。
おかしいと思わないわけ?いいかげんこのスレに書き込むの止めて下さいよ。

198:響と弦音さん
かっチャンさん

もうスレ主さんの自然の離れに対する答えは、数は出てますよ。この中から拾うのは大変ですが。
このスレは、一旦沈んだスレでしょう。
かっチャンさんの自然の離れに対する見解で新たなものが出てきたから浮上したのならいいが、単に160スレに言い返す為に上がってきたんじゃない。
それを見た色んな人が、あなたの態度にレスしてこんなに長く意味がないレスになったのさ。
あなたにケチがつくのは、あなたに原因あるんですよ。
自分で考えて下さいよ。
そうでないとあなたが書いたスレは、全部こんな風に無駄レス、荒らしの塊になるよ。
書き込み方、誠意もって考えて下さいよ。

199:かっチャンさん
自然な離れが何故、真行草の真なのか。
真にこめられた基本と到達点の意味付けです。

射の基本とは、正直な矢飛びで安定した的中を得るための技術等と考えられます。それは、特別なオプション、つまり遠矢とか矢数とか堅物を射抜く等の特別な技術を含まないものです。また、よりシンプルなものです。
そうすると、まず一般的に行われている28メートルの近的を想定することが出来ます。
次には、この的前で最低限必要な技術や考え方になりますが、いわゆる射法八節だろうと考えます。

射法八節を端的に表現すれば姿勢と動作と言えますが、その本質は何なのでしょうか。例えば、立ち姿勢に於いても既に詰め合いとそれを土台とした伸び合いが働いています。伸び合っているから姿勢が正され、詰め合っているからより楽で、用途に適っているのです。そして、射の運用、いわゆる射法八節に於いても、常にこの詰め合いと伸び合いが働いています。そして、この二つの働きの基本的な方向を決定している原理が、十文字という考え方です。この十文字には構えと働かせの二つがあり、それは一如と言えます。代表的なもので言えば、静的な3つの十文字を土台として動的な5つの十文字の運用を図り、射を完結させるわけです。この時、特記すべきことは、釣り合いです。詰め合いと伸び合いとの全体には、この釣り合いがとれていて、完成形となります。特に、会に於ける詰め合いと伸び合いでは、構えは凡そ目で見ることはできても働かせを直接見ることは出来ません。しかし、後の残身にて、構えと働かせの実体を知ることが出来るのです。十文字に構え、十文字に働かせ、十文字に離れが出るのですから、十文字の残身でなければなりません。

さて、自然な離れでは、このような十文字の構えと働かせによって弓返りもし、正直な矢飛びと安定した的中が得られるのです。離れの際に余分なことはしません。また、離そうとする余分なことも考えません。実にシンプルです。それでも、射として成立するから、自然な離れを生むための射は、基本であると言えるのです。

また、暴発した時に弓返りが不充分で矢が的の前に飛んだり、弦で顔を打つなど現象は、両の手の内に問題を持っています。にも拘らず普段に、普通に行射されているとすれば、それは基本の不備を代賛行動でカバーしていることになります。射手の多くがそうであることが、この自然な離れを含むいたってシンプルな基本が難しいという証です。そうした意味に於いて、この一連の射が、一つの到達点としての意味を持つのです。

200:響と弦音さん
分かって頂けなくて大変残念です。
はぁ、あほらしかった。。

201:茜丸さん
>199
>自然な離れが何故、真行草の真なのか。
あのー、どなたか上記の質問か問い掛けを貴方様になさってますか?

それより先ず、幻さまや響と弦音さまの直接的な問い掛けにお応えすることが、マナーでありネチケットってものでしょ。
誠意あるご対応を切に希望致します!

202:かっチャンさん
さて、自然な離れを出すための条件は、前のレスで調いました。

しかし、あとひとつ。
それは不屈の魂・・・。だから、ソウルフルなのでしょうね。

203:響と弦音さん
かっチャンさんの様な書き込みの仕方は、問題あるんじゃないですか?
自分が嫌なスレにはスルーする、それはそうですが、この人は、放っておいたら100でも200でも続けるんじゃないですかね。
立派な荒らしなんじゃないですかね。

204:黒紫さん
もはや、人間的に「可哀想」としか言いようがありませんね。
内容は個性の関係で問題ありませんが、本人の対応は充分削除以来に値すると思うので、検討してもらえるよう頼んでみます。

以前から度々言われていますが、改めてこのスレには書き込みを遠慮したほうがよいと思います。


>かっチャンさん

もう充分に御満足頂けたと思うので、これ以上の独り言は別の場所でやった方が良いのではないでしょうか?

205:かっチャンさん
放たれた矢を惜しむ気持ちはありません。

206:百夜 ◆WR1hQljoさん
人が集まるところにはトラブルはつき物です。以前、トラブルの渦中にあったとある方の書き込みからの引用です。
>こういったトラブルの生じた場合、一方だけが全て良いも、また悪いもありませんね。

またその方は続けて次のように仰いました。
>今後このサイトが更に充実し、弓道の普及と向上、そして親睦が図れるように留意していく所存です。


信念を貫くのも道ならば
礼節を守るのも道かと

放った矢について後悔をしても戻ってはきませんが、
次の一射を良くするために反省をすることは大切なことだと思います。

207:デビ@管理人 ◆5h7.ceJYさん
>>205
>放たれた矢を惜しむ気持ちはありません。

では、そろそろ終わりにしましょう。



どうぞ、このスレッドへのこれ以上の投稿はご遠慮ください。

208:パパンプさん
Blogやmixiなどなら思う存分御自分の考えを書けますよ。自分も自己満足でやってますんで宜しかったらどうぞ。

皆さんお疲れ様でした。


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