弓道人口半減? (投稿145件)[1〜145]


1:元学生さん
日本の少子高齢化が叫ばれていますが、こと弓道に関して検討してみました。
国際弓道連盟によると日弓連会員が13万人いて、高体連によると高校生が6.4万人。つまり日本の弓道人口の過半数が高校生です。多少のずれはありますが、人口統計から16〜18才を高校生とすると450万人ですから高校での弓道人口割合は1.4%。

人口推計によると2050年には14歳未満が現在の1700万人から750万人と予測されています。
つまり、このままだと弓道人口も半減してしまうわけです。また、高校生以外が半数を占めていますが、一般の道場にいけばお分かりのおとり、超高齢化社会です。先日、地区の総会で若い人が入ってくれないため、先生方が引退されればそのまま会員数が減っている状況だと説明があり、事態はより深刻だと感じます。今のままでは、人口減少以上のスピードで会員が激減するのは自然のながれでないでしょうか。

なぜ、高校卒業後にはやめてしまうのか。また、社会人から教室に通ってもほとんど定着しないのはなぜか。
私なりが感じたことですが、先日の靖国神社での出来事です。小笠原流の方々が三三九手挟式を奉納されていましたが、それを見ている一般の方は、単純に的中だけみて当たらないねと話をしてました。なかなか的中以外の弓道のよさはわかってもらえないようで、これが一般の方の認識でないでしょうか。

伝統も大事ですが、弓道を引き継いでくれる人がいなければ、衰退は必死でないかと感じます。弓道が的中だけでないのは、ここでよく議論されますが引く人が激減している今、このままでいいのでしょうか。

みなさんは、どう思われますか。

2:ナナシサソさん
高校や大学時代に弓道を経験した人が、
社会人として続かないことが多い原因として、
最も大きいのは単純に忙しい人が多いと言うことがあげられると思います。
しかし、次に大きいのは一般の的中軽視とも言える風潮でしょうね。

確かに、アーチェリーなどの競技との差別化のためには、弓道独自の価値観として、的中以外の要素は欠かせないとは思います。
しかし、弓道といえど、元々は狩猟や戦闘のための技能である以上、大前提として中ることが必要であると思います。
当然のように的中して初めて、体配などの的中以外の要素を語る価値が出てくると思うのですが、現状の一般弓道はここが逆転しているように感じます。つまり、「体配もろくに出来ずに中ってどうする」というわけですね。本来なら「中りすらしない未熟者が、体配なんて木にしている場合か」となるはずですが。

そうすると一般弓道は、弓道をやったことのない人には、偉そうにしてても大して中らないつまらないものに映ってしまいますし、学生時代に競技として真剣にやった人にとっても、あまり魅力的には映らないことでしょう。

では、なぜ現状ではここまで的中以外の価値が重視されるのでしょうか。

異論は多々あると思いますが、私としては、このことの根本は弓道が生涯取り組めるスポーツであることにあると思っています。
老人が実際に高いレベルで実践可能なスポーツはあまり多くないですが、弓道はその一つだと言えるでしょう。
すると、弓道協会などの重鎮も、単なる指導者ではなく、同時に競技者でもあることになります。
しかし、ここで的中だけで単純に評価してしまうと、重鎮が学生にあっさり負けてしまうという事態が出てきます。
これでは重鎮達はおもしろくありません。
そこで、弓道は単なる競技ではない、特別なものだという「理由付け」をして、的中以外を高く評価することによって、重鎮達のメンツを保っているのではないかと思います。

私としては、先述の通り、もともと戦技である以上は、当然のように中ってこそ、それ以上の価値を求める意味があると思います。しかし現実問題としてほぼ必中といえる競技者がごくまれであることや、カーボン弓まで登場している状況で、なお圧倒的に中るアーチェリーと差別化するためには仕方ないかなとも思います。
そうなると、弓道の生き残る道は、弓道の的中以外の特別な価値を認める人だけの、かなり狭い範囲にしかないのでしょうね。
先細りは必至ですが、それはやむを得ないことかもしれません。

3:T・Tさん
>なぜ現状ではここまで的中以外の価値が重視されるのでしょうか。

そもそもの考え方が逆転しています。
何故、的中を優先する考えを前提として話を進められるのでしょうか?
生涯スポーツだからというのも間違いです。
弓道はあくまで武道であり、「生涯スポーツ」も「競技」も武道に対する
「取っ掛かりの一つ」でしか有り得ません。

 そして武道の第一義は、敵を征する事には非ず、
己を磨き、人格的成長・完成を目指す事に有ります。
これを第一義として、敵を征する技つまり的中は、
それに比べれば付随してくる物に過ぎません。
もちろん、無いよりは有った方が良いのですが。

 ナナシサソ様は学生もしくは学生弓道出身のように見受けられます。
あまりにも弓道の捉え方の基準が的中に偏って居られるように思われます。
その辺り、しっかりとした認識を欠く人が最近多いように思います。

4:GODさん
奇麗事を言っても、中らない弓は弓ではないと思います。

5:炎楼さん
奇麗事と理想とは違う。
>3は本来有るべき姿であり理想だ。

逆に
「中らない弓は弓ではない」等というのが
的中しか見れない人間の自己弁護の言い訳に過ぎない。

6:ナナシサソさん
私の考えるとおりですね。
T・Tさんのような考え方が主流である限り、少なくとも競技人口の面で見た弓道の衰退は必至でしょう。残念なことです。

人格的な成長が武道の主眼だから、的中は重要ではないということですよね。

一見ごもっともですが、人格的成長を目指すのに、あえて弓道を選ぶ必要なんて全くないと思います。
あくまですでに「弓道の特別な価値」を認めている人間にしか説得力がありません。
それでは、設備も道具も多く必要で、かつうるさい人が多そうな弓道をあえて選ぶ人は多くないでしょうね。

また、的中を軽視して、本当に人格的成長は得られるものでしょうか。
確かに、風格ある体配や射をするにはそれなりの修練が必要です。しかし、それが出来ていたとしても「正射必中」である以上は、「中らない=正射ではない」とならざるを得ません。
そのときに、的中という最も明白な結果に謙虚になれない人間が、人格的成長を語っていて説得力があるでしょうか。
別に、中る人間の方が中らない人間より偉いと言うつもりは全くないですが、中らないことを受け入れてしまって、それでも進歩することはかなり難しいのではないでしょうか。「的中の向上」は、あくまで人格的成長の手段としても、全ての競技者が目標としなければなりません。もちろん、T・Tさんにそれを否定するおつもりはないと思いますが、現状の「的中だけを求めるのは間違いだ」というよりも、「的中をあげようとするのは間違いだ」と言った方が良い様な現状はいかがなものでしょうか。


勘違いしないでいただきたいのは、私はいわゆる的中至上主義者ではなく、元学生さんの指摘される、弓道の将来性についての悲観的な見通しの理由として、現状の「弓道人」の独りよがりぶりについて指摘しただけです。

ですので、「人格的成長」という点について、他のスポーツ・武道と比べて、弓道が特に優れていると言える理由があればそれを提示していただきたいと思います。
ただ、正直なところ、身体を鍛えて健全な精神を養うというのは、全てのスポーツの目的であり、例えばサッカーを真剣にやっている人間と比べて、弓道人が明らかに人格的に勝っているというようなことは言えないと思います。
現実に目を向ければ、確かに素行の悪いサッカー選手の方が、素行の悪い弓道人よりも一般的であるように思えますが、それは競技者の平均年齢から来る差(あるいは報道される割合から来る印象の差)に過ぎないのではないかとも思います。

私のようなことを言う人間を、「弓道の本質がわかっていない」と切り捨てるのは簡単なことですが、それで弓道に未来はあるのでしょうか。私が変わる必要がないというつもりはないですが、日弓連を中心とする現在の弓道が変わる必要はないのでしょうか。

(まぁ、弓道そのものも流鏑馬のような、「伝統芸能」として一般人とは離れたところで継承していくというのも、一つのあり方かもしれませんが)

7:流鏑馬・笠懸・犬追物さん
結局、弓道というものを『スポーツ』と置くか、『伝統武芸』と置くかの差ではないでしょうか。


今日の人々には温故知新の意識が薄れつつあると思います。例えば、相撲においても近年観客数が減少し、現在では外国人力士が人気を得てCMやスポーツ番組で活躍していますが、私から見ると今日の相撲は伝統的な国技というよりもスポーツ的な観念が強くなってきているような気がします。


例えば、弓道を『スポーツ』と位置付け、的中による勝敗を第一にすれば、現在のスポーツ社会のような日本において繁栄の道も開けるかと思います。
しかし、その相手、敵を負かすことを第一に考える『キュードー』の中に、古来より受け継がれて来た己と向き合い、磨くという意味での『弓道』は感じ得ないと思います。


今、オリンピックやその他の世界大会において頻繁に聞くのが「日本メダル○○個」。どこを見ても結局のところ相手に勝ったか負けたかで評価しています。実際、今日の日本のニーズは『スポーツ』ですし、私自身も客観的に楽しめる『スポーツ』は好きです。


ですから、弓道というものが、『伝統』と『人気』を両立させるのは難しいと思います。


私個人は、弓道を『伝統武芸』と置き、日々の鍛練の中で自分自身の心身の成長を感じてきました。

数多の『スポーツ』が台頭する中で『弓道』の人気が低迷するのは残念ですが、古来より続く伝統は後世残していきたいと思います。

8:T・Tさん
>一見ごもっともですが、人格的成長を目指すのに、あえて弓道を選ぶ必要なんて全くないと思います。

逆に考えても全く同じ事が言えますよね。
「一見ごもっともですが、的中上昇を目指すのに、あえて弓道を選ぶ必要なんて全くないと思います。」
ですよね。
アーチェリーみたいにスタビライザー付けて、
サイト付けて、バランサー付けて、
極論を言えば、アーチェリーになってしまいます。
スポーツとして弓道を選ぶのに特段の理由が無くても良いのと同様に、
武道として弓道を選び人格形成を選ぶのに、
何の違いが有るのでしょうか?

>また、的中を軽視して、本当に人格的成長は得られるものでしょうか。

逆に御伺い致します。
的中を重視すれば、人格的成長が得られるという妄想の根拠はどこにありますか?
弓術から離れ、的中をそこまで重視しなくなり、
体配・礼儀・作法をより重んじて人格成長を目指すとした弓道に対して、
その指向に反目して的中を重視せよと唱える事が、
弓道よりも人格的成長に繋がる理由を教えてください。

9:T・Tさん
長くなりましたので、分割しました。

>それで弓道に未来はあるのでしょうか。

大変危険な状況に有ると思います。
しかし、あなた方の言うような人口減少に対してではなく、
近年顕著な、スポーツとしての弓道しか見ない者の増加に対してです。
前述の通り私は、存続させるべき前提は
「武道としての弓道」という伝統文化だと考えて居ます。
ここで、スポーツとしてのkyudoを前面に出し、
武道としての分化継承の形態の崩壊を来たす事を考えれば、
多少人口が減る事には目を瞑っても、門戸を狭めてでも、
その質の保持、堅持する事の方がよほど優先する事項だと思います。

従って、「武道」を扱う全日本弓道連盟が現状から変わる必要は、
今の所無い、もしくは逆にスポーツ化への警鐘を鳴らす方に有ると考えています。

10:時さん
武道とは「己との戦い・己を磨く」事が目標です。
しかし、最近?かまでは分かりませんが上っ面の「己に勝つ」だけを知り「己の位置付け」を勘違いしていると思います。
先ず相手に勝つ事、その敵より更に上にいる自己に勝つからこそ「己に勝つ」事は難しいのです。
「的中なんかなくても、自分に勝てればいい」とはつまり、自分を過小評価した悲しい意見だと思います。
己と戦う為に先ず敵を倒す。敵を倒す力が無いのに己と戦おうとは、己を以下に底辺と見ているのか?
学生は敵に勝つ程度で終わってしまう方が多いので残念ですが、やはりまだ学生の方が「弓道」をやっているのではないでしょうか?体配や格好は悪い方が多いですが…

11:T・Tさん
意味を履き違えてはいませんか?
それでは結局、他人を己に変えただけで、
比べて争っているだけにすぎません。
「昨日の自分からの成長」と言えば聞こえは多少は良いですが、
本質的には、競っているに他なりません。

「かつ」とは「勝つ」ではなく「克つ」であり、
「己に克つ」、つまり「克己」であり、その意味は、
『己に克(か)つこと。意志の力で自分の衝動・欲望・感情等をおさえること』
『克己(こっき)=自分のなまけ心や欲心・邪念に打ち勝つこと』
どこにも、「比べて上を行く」ような要素は書いてありませんよね。

自分と比べてそれに勝つのが武道だというのは、
また武道とは違う視点だと、そう思います。

12:鳥打さん
弓道の未来はどうなるのでしょうか?
弓道の魅力をどう感じるかは人それぞれだと思います。私はいまだ本来の弓道が何であるかを模索途中で、はっきりと自分の道を語るに至って降りません。
弓道を始める機会が人生にはいくつかあります。大きく二つに分けて、「中学、高校、大学」と「一般の弓道教室」と言えます。
主に若い弓道人は前者の「部活」として始める機会が多いです。
「部活」での弓道はそれぞれ方針と環境がかなり異なり、一般の弓道教室のような熟練した人が指導する環境に無い場合もあります。
また、大学では「学生弓道」という扱いでも取られ、競技部分に特化して修練を重ねる場合もあります。
「部活」で弓道を始めた若い学生が、弓道を続けていくためには、「部活」の弓道から脱皮し、一般の弓道の中に身を埋める必要性があります。
「三つ子の魂百まで」と言うように、弓道人生幼少期の環境が基盤となると、幼少期を「部活」という形で育った人が、一般の弓道に違和感を感じてしまうのも無理は無いのかもしれません。
もちろん、全ての人がそうではなく、「部活」を経て、今も弓道を続けておられる方はたくさんいらっしゃいますが、「学生」と「一般」のギャップをなくすために、互いが精進をするというのが理想であると思います。
長文乱文失礼しました。

13:天龍さん
武道観、弓道観は人によるし、許容される幅があります。T・Tさん の主張は誰も間違いとは言わないでしょうが、かなり極端に偏っています。
第一義は精神修養と言い切っていますが、やはり普通の見解は、長年技の研鑽を突き詰めてゆくことで、自己を磨くとか人格の成長などと言う成果が得られる、という方だと思います。
技の研鑽とは、言うまでもなく的中の技能でございます。
私自身にしても、40年前も現在も道場でやっていることは同じ。次々に生まれる射技の課題に取り組むことの繰り返しです。精神修養だ、などと考えながらやったことはありません。
まあ、いずれも人それぞれの弓道観だからいいんです。
それをもって日本弓道の未来は暗い、とは如何なものでしょう。
それよりも弓道の普及をことさらに目指して、大衆の興味におもねる風潮こそ戒めるべきと思います。

14:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
>弓道というものを『スポーツ』と置くか、『伝統武芸』と置くかの差
教本1巻P45に、明快な答えがございます。
弓道にはどちらの面も正しい見方なのでしょう。意見の対立は、どちらに重きを置くか、の差ではないでしょうか。

>相撲は伝統的な国技というよりもスポーツ的な観念が強くなってきている
現在初場所が行われていますが、テレビの真正面に、派手な帽子を被り、金色の扇を振りかざすご老人が毎日のようにいらっしゃいます。こういった見苦しい御仁を野放しにしている(若しくは、大スポンサー様のする事として見ぬふりをせざるを得ない)所に、「相撲道」の凋落を見るような気が致します。

>それで弓道に未来はあるのでしょうか。
優先座席に平然と坐る子供、我が子に暴力を振るう親・・・この国そのものが、もはや「日出づる国」ではなく、「日没する国」である以上、「弓道」も同じ道を辿るでしょう。人間がいれば「kyudo」は存続するかもしれませんが。

15:聖鳥さん
>的中を重視すれば、人格的成長が得られるという妄想の根拠はどこにありますか?

私は、的中を追求することと人間的成長は、所謂弓道の最終目標という物に対する達成度の違いに過ぎない、と考えています。…わかりにくいですね(^^;)
つまり、両者は別道ではなく、1つの直線上にある物で、ただ原点からの距離が違うに過ぎない物である、と思うのです。…やっぱりわかりにくいですが、これ以上上手く説明できません(^^;)

最初は当てっこ弓道からはいるかも知れませんが、高い的中を得始め、それ以上の物、的中の完璧性を追求する段階に至ったとき、人格的成長や武士道としての弓道の心得のような物が要求され、"武道"にスライドしていくのではないでしょうか。

それを、最初の"中てることに喜びを覚える"段階、またはそれにすら至らないうちから、「弓道は人格形成が目的であり…的中だけを求めてはいけない…云々。」と、浅慮に全否定してしまうから、「学生弓道」と「一般弓道」という2つの弓道ができあがるという事態に陥るのかなぁ、と思います。

これが、私が「的中を重視すれば、最終的に人格的成長が得られる」と考える、妄想の根拠です。

横やり、失礼しましたm(__)m

16:無名さん
議論が白熱していますが、「なぜ長続きしない」という主題の方で皆さん議論されていますが、「なぜ学生は卒業後に一般の弓道協会に入会しないのか?」の方は議論が薄いように感じます。

それでは学生の立場で考えると
「卒業後に弓道を続けたいけど、どこでできるんだろう?」
と考えるはずです。顧問が弓道協会の一員など、弓道協会と繋がりがあり恵まれた環境にある人は情報を得られるでしょうが、無い人はどうでしょう?

時勢を見ると調べ物がある場合は「まずインターネット!」。そこに情報が無いとあきらめてしまう人もいると思います。(それでも情熱のある人は「電話帳」「市役所」など手段を取るでしょうが。)

そこで、ここで議論されている方が属されている弓道協会はHPを持っているでしょうか?「××弓道協会」と検索ページで引けば最上位に来るでしょうか?
もし持っていたとしてもそこに「どこで、いつ練習している」「見学したいならどうすればいい」「入会するにはどこに連絡すればいい」という情報が載っているでしょうか?

自ら門戸を広げないで、若い人が定着しないと嘆いているだけでは尻すぼみになるだけではないでしょうか?

17:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
>「卒業後に弓道を続けたいけど、どこでできるんだろう?」
できれば近隣に道場があれば、とお嘆きの方は多いでしょう。しかし、決してメジャーとは言えない上に、潰しが利かない(他のスポーツ等で利用できない)弓道場は、なかなか自治体も建設に乗り気ではございません。私も幾度も役所に足を運びましたが、全く梨の礫です。せめて体育館を借りて、とも考えましたが、「他の利用者もいるのに危ない」等との理由で、こちらも手詰まり状態です。

>自ら門戸を広げないで、若い人が定着しないと嘆いているだけ
本県の場合、3月に高校を卒業される方を対象に、県連若手(30代前半まで)との交流射会を開催しております。大学生・社会人になってからも弓道を続けて頂くのが目的ですが、反応は今ひとつのようです。

18:じゅりさん
>11
まさか「上手くなる」ということまで否定する人間がいるとは思いませんでした。
あなたはまるで自分のやっている「弓道」が唯一正しい「道」だと考えているようですけど、もしこれが、現在の「弓道」のお偉いさんが考えていることなら、衰退も仕方ないこととしか考えられません。

「弓を引いているけど、別に中るかどうかは関係なくて、下手糞でも礼儀ができていれば良い」

なんて言われても、一般の人から見れば、

「何を言ってるんだ?」

と思われて終わりでしょう。そんなことを言っても一般の人は弓道に魅力は感じないのでは?
ああ、ちなみに「そんなものは弓道ではない」という「弓道とはどうあるべきか?」というのはスレ違いですのでご遠慮ください。
せめて、一般の方に薦めるべき「弓道」はどのようなものかという観点から書き込んでください。

僕が一般の方に薦める弓道は、「的中の技術」です。
的中があるというのは楽しいですし、弓道における精神の鍛錬とは「どのような場面でも自分を見失わず、的中を出せること」を目標にするものだと考えています。
礼儀作法はきちんとしなければならないと思いますが、それは”しつけ”と同じレベルのものだと考えています。

体配については的中を追い求め、下半身の安定や自然体を修練していけば、自然と身についていくでしょう。

19:DEWさん
 趣味か、競技か。簡単にその二つではないかと思いますが。

 学生は言わずもがな競技の世界。
一般も、国体や全日本選手権などを目指してストイックに射を追求する競技の弓道もあれば、ただ趣味として楽しんで弓を引く弓道もあるわけですし、様々ですよね。

 競技では勝つことが大目標ですから、競技としての弓道では的中はかかせません。

 ただその重要度が違い、学生の場合、的中のみで勝敗が決するので的中さえすればいい。ルールがすでに的中100%です。後ろ狙ったってどんなに冴えのない弓を引いても中れば勝ちです。

 全日本選手権を目指す線上にいる方の場合は、総合的に射を見られますから、ただ的芯に矢が入るだけで良しとはなりませんね。矢勢良く品のある射を目指します。もちろん武道的・精神的側面が備わっていることが前提条件ですが。的中はどう頑張っても的中率100%という壁がありそれより上にはいけませんが、矢勢や射品に限界はない。
 私としてはそれこそが弓道の魅力なんじゃないかと思ってますし、お偉いさんが現代弓道人に求めているのもそこなのかなと感じます。

 長くなってしまいましたが、まぁ最終的に何が言いたいかというと、ほとんど全ての大会が的中制(的中100%ルール)である以上は的中率向上を目指すのは当然であって競技者の考え方が的中に向くのは至極必然の結果ではないかと思うわけです。そんなルールを広めておいて色々言われてもなぁ・・・って話ですよね。セーフティバントで出塁したところアウトとコールされるのと似たような話ではないでしょうか。
 的中主義を改めたいのなら的中制を廃止すればいいのではないかと思います。
 というのはさすがに極論ですが、私は全日本選手権式の採点方式を学生弓道をはじめ、一般の地域の大会などに取り入れていってもいいと思います。(尤も採点基準等全くわからないので筋違いでしたらすいません(汗 )審査員などの問題もありますが、それこそ学生からずっと続ける人が増えれば解消していくことでしょうし。確か戦前の東北では的中を2割程度しか加味しない大会が行われていたというのを聞いたような・・・。個人的には全国大学選抜あたりで試験的に採用してみてほしいですね。

20:休止者さん
話しの流れをぶった切ってしまいますが、昔読んだ論文が頭をよぎったので紹介。
内容はほとんど覚えてないのですが…

『剣柔弓道の継続に関する諸問題 (その三) : 弓道の場合』
著:川村自行、加藤寛、平沼正治
体育學研究(vol14(5),p322)1970

21:Amorphousさん
ジュリさんへ
T・Tさんがどこに「上手くなる事」を否定してますか?「下手糞でも良い」と言ってますか?
より高みに昇るのに、例え己相手であっても「競って」成長するのでは
それは武道の在り方ではないと、そう言っているのでしょう。

一般の人が弓道に魅力を感じないかどうかは
ジュリさんが決めることではなく、一般の方で、
現に海外の弓引きさん等を見ていても、
的中より、よほど礼儀作法を含む「武道の理念」に共感している人の方が多いです。

「スレ違い」に関しても、ジュリさん、他人の事を言えませんよ。
上で言ったように、T・Tさんの話に対する理解は誤解も甚だしく、
また話の脈から、維持すべきは「武道としての弓道」であるとの主張は、ちょっと読めばわかります。

そしてジュリさんの言う意見ですが、
的中がそんなに楽しいですか?的中以外に楽しみ・意義は無いのですか?
「礼儀はしつけと同レベル」だから特に弓道でやらなくても良いのでしょうか?
「体配は的中を追い求めれば勝手に付いてくる」から教えなくても良いのでしょうか?

笑止千万。
それならアーチェリーをやってればよろしい。
結局「中ればよろしい」としか教えられないような意見の持ち主が
T・Tさんの意見を否定できるとは到底思えません。
T・Tさんよりよっぽど幼稚です。

22:通りすがりさん
アーチェリーにだって礼儀はある!!!!

23:Amorphousさん
すみません。言葉が足りませんでした。
言いたかったのは、
「しつけ程度」といった言葉で片付けられる程度の
一般に言われる「礼儀」だけでよいのであれば、と言う意味です。

私が先ほどで言った「礼儀」とは、
挨拶や礼等の「マナー」ではなくて、
道場・道具に対する感謝や、
高段者に対しての立居振舞方も含んだ、
作法や決まり事までをも含んでの意味でした。

24:松さん
こういう議論を見てみると、ひとのいうことにいちいち反論して否定する人と、人のいうことも認めつつ自分の意見を述べる人とに分かれます。

否定ばかりする人が礼儀について語っているのもおもしろいですね。お互いの違いを理解しつつそういう意見もあるんだなぁとおだやかになれないものでしょうか。

これは弓道練習でもよく見かける光景ですね。ひとそれぞれ事情や信念があるのに、合理的説明もなく押し付けてくる人たち。

かくいう私はそういう人たちがいやで長らく一人で練習していました。学生時代も書籍等をたよりに自分で練習してきた口ですし。社会人になっても続けられる人はそういう気質があるひとかな。学生弓道で半ば強制的に練習してきた人は仲間がいないとやる気がしないのではないでしょうか。

しかし、ひとりでできることにも限界があります。ほぼ14年ぶりに合同練習に参加してきます。どうなることやら。

25:いがあさん
その通りですね。同感。

私見ですが。
的中を求めるのは当然のこと。
さらに,日々の修練において射技・射品・体配・人間性を高めていくことが正しき道だと思います。

一般には学生を嫌う傾向がある人や的中を軽視する人が多いのも事実。

もっと全弓連と高体連,学連と話し合いをし、弓道人口拡大の方策を練ったほうがよいと思います。

ついでに・・・。
本当に中るのなら,例えば審査で100射して90中以上できるようなら,称号を与えてもいいような気がします。

26:じゅりさん
Amorphousさんへ
もちろん僕が言いたかったのはあなたのおっしゃっているような意味での「礼儀」ですよ。
弓道をやる上で、あなたのおっしゃるような礼儀、つまり挨拶や一般的なマナーに限らず、弓道をやる上で行わなければならない礼儀のことです。
「しつけ」という言葉を使ったのは「やって当然」という思いがあるからです。弓道をやるのなら道具、道場、師匠、共に練習をする者、普段指導をする相手、弓道に関するすべてのものに対して礼を払わなければなりません(例えば、弓を跨いではいけない、など)。
僕が「しつけ」と表現したのは「弓道をやる上での常識」ということです。

次に体配についてですが、僕は「体配をしなくよい」と言っているのではなく、「正しい射を行っていれば正しい体配が身に付く」と言いたかったのです。

執弓の姿勢で三重十文字が揃っているか、両肘が張れているか。
歩くときに腰が安定し、摺足で歩けているか。
一度的を見たら、目使いが乱れないか。
立ち座りの時に体は安定しているか。

これらのことはその方の射に大きな影響を与えるでしょう。体配の不具合を見過ごしていては確実な的中は望めないと考えています。

27:じゅりさん
長くなるので分割します。
以上の体配のことも踏まえて的中を考えていくのです。
僕の言う「的中のための確実な技術」とは「誰にも文句をつけられない射」です。
緩み・早気はもちろん、伸合いの弱い射、息合いの伴わない射、射品の無い射などは「的中のための確実な技術」があるとは言えないでしょう。

僕なりの弓道における「真」の解釈が上記のものです。「善」は先ほど投稿した礼儀作法をはじめ、弓道に取り込む姿勢を指した言葉であると考えています。

では次に弓道の普及ということについて考えますと、「真」と「善」が魅力的でなければなりません。「善」の部分は現在の弓道連盟の元、かなりアピールされていると思います(礼儀作法に厳しいというイメージ)。

ですが、「真」に関するアピールが十分であるとは思えません。「中らないね」と言われてしまうようでは十分とは言えないでしょう。

「善」だけでなく「真」についてもつきつめていかなくては人を魅了する「美」は生まれないのではないかと考えます。

以上が僕が一般の方にアピールする際に考えるべきことだと思います。

28:ナナシサソさん
>「一見ごもっともですが、的中上昇を目指すのに、あえて弓道を選ぶ必要なんて全くないと思います。」

その通りです。だから、弓道が選ばれなくなることを心配しています。
結局、人格的成長をとっても、的中をとっても、大して弓道には特記すべき魅力があるとは言い難いと思います。
そうなると、なぜそれでも始める人が結構いるのかと言えば、私もそうですが、「和の魅力」と言ったような雰囲気+的当てという原始的な遊びの面白さがあるのではないでしょうか。私がアーチェリーを選ばず、弓道にした理由はそこにあります。
そもそも的当てだけなら、ライフルとかの方がアーチェリーよりも遙かに上ですし。
「和の魅力」だけなら他にもいくらでもあるわけです。そこに、的当てというわかりやすさがあることが、「日本舞踊部」やら「長刀部」がなくても「弓道部」があったりするゆえんではないでしょうか。
つまり、おそらくT・Tさんが重視する弓道の精神論的な面と、的中は車の両輪だと思うのです。
そのうえで、T・Tさんのように、的中を軽視される方が既存の弓道人に多いと、ますます新しい人が入って来にくい環境になります。

>的中を重視すれば、人格的成長が得られるという妄想の根拠はどこにありますか?

質問に質問を返さないでほしいのですが、あなたこそ学生さんでしょうか?
私は一言もそんなことは言っていません。
人格的成長という言葉を最初に出したあなたにこそ、説明責任はあるとおもいますよ?

>体配・礼儀・作法をより重んじて人格成長を目指すとした弓道

これを、当然の前提としないで、きちんと説明する姿勢がほしいものです。
私が提起したのは、人格的成長を得ることは、他のスポーツや活動を通じてもできるのではないか、そればかりを押し出していては、弓道は選ばれなくなるのではないかという問題意識です。
体配・礼儀・作法を重んじるだけでは、弓道でだけ通じるルールしか身につかない場合も多々あると思います。その程度なら、マナー教室でも行けば十分です。


それにしても、人の意見もちゃんと読めない人が、人格的成長を語るから、弓道は見捨てられるのではないでしょうか?
門戸を狭めてでも、その質の保持、堅持するといえば耳あたりは良いですが、結局は意見の合わない人は入ってこなくていいと言ってるだけですよね。

あなただけが投げやりになるのは結構なのですが、的中重視と見るとすぐにかみついて、スレ違いな議論をふっかけるのはやめていただきたいです。

29:ナナシサソさん
>「日本舞踊部」やら「長刀部」がなくても

これらの部が皆無という意味ではなく、こういった部がなくても、弓道部はある学校が多いというつもりでした。失礼しました。

30:Amorphousさん
>ジュリさんへ
そういうのは「的中の技術」とは言いませんよね。
そういうのを「正射を目指す」と言うのだと思います。
「他人から文句を付けられる」かどうかを評価基準とするのには多少の疑問は有りますが、
射形に込められた意義や、礼儀作法まで理解された上での、
私の理解する視点から言う「的中が付いてくる弓道」だと思いましたので、
その点に関しては異論はありません。

ただ、体配や礼儀作法を、射を追い求める事から学ぶ事が可能というのは
殊に弓道の入り口に於いての指導には適さないと思います。
>執弓の姿勢で三重十文字が揃っているか、両肘が張れているか。
>歩くときに腰が安定し、摺足で歩けているか。
>一度的を見たら、目使いが乱れないか。
>立ち座りの時に体は安定しているか。
確かにこれらは射技を追い求める所から学ぶ事が出来ます。
しかし、射会や審査で行う、
一手座射、持的射礼の要領、矢渡しの要領はどうでしょうか?
公共の道場に行ったら、一番後ろの的は利用しない事、
高段者の矢のりは見ない事、矢が余ってても4本で矢取りに行くこと。
こんな物はほんの一部ですよね。
もし流派の門人となれば更に礼儀作法体配は厳しく、多く、特殊になっていきます。
こういった物はちゃんとそれとして学ばねばならないでしょう。
「体配の不具合を見過ごしていては確実な的中は望めない」のに異論は有りませんが、
「確実な的中が望める体配」だけではあまりに不足が多すぎます。
あと、正しい弓道の普及に必要なのは
「真」と「善」と「美」の3点全てです。
そして、「真」には弓の冴えや弦音も、的中と同格に記されています。

31:Amorphousさん
>ナナシサソさんへ
他人の議論に横から口を出すようで悪いのですが、
2つ目と3つ目の質問に関しては、
T・Tさんの言葉でなくとも、随所より見出すことが出来ます。
wikipedia「武道」の項より引用させていただきます。
>武道(ぶどう)とは、心身を鍛え技を磨く稽古を通じて人格の完成をめざす、
>伝統日本武術から発展した素手もしくは武器を使用した格技。
>競技スポーツの形態をとることもあるが、本来は武道の一面に過ぎなかった。
>しかし近年では、試合を中心に考えて取り組む傾向が強くなるなど、
>技術体系としての武道と、競技としての格闘技の境界が曖昧になり、
>本来武道とされるものが格闘技と呼ばれることがある。

このように、人格完成は武道の目標であり、
それは稽古によって為される物だと明記されています。

32:ナナシサソさん
>Amorphous
お答えありがとうございます。

私は別に、「弓道が人格的成長に役立つものだ」というのを、否定するつもりは毛頭ないんです。
ただ、「そればかりを押し出していては、他の武道やスポーツとどのように差別化するんだ」と申しています。
なかなかここをご理解いただけず困っているのですが、私としては、野球であれサッカーであれ、楽しみながら肉体的にも精神的にも成長できることに大きな価値があるとおもっています。そして、それは弓道も同じだと。

で、このスレッドの本題になるのですが、それだけで弓道は人口を維持できるのか? という>>1の元学生さんの問いかけに対して、私は現状では設備・用具の制約に加え、日弓連の姿勢もあり、難しいとお答えしているのです。

33:ナナシサソさん
ついでにさらに追記しますと、「弓道の姿が変わるくらいなら、競技人口が減っても何も替えない方が良い」という意見が何人かの方から出されています。

弓道の永続を願わないのであれば、べつに間違った意見だとは思いませんが、弓道が自分の死後にも続いてほしいなどと思うのであれば、やや問題のある意見だと思います。

ゆるみ離れさんもおっしゃっているように、弓道はほかの競技との共存が施設面で難しい競技です。
しかし、例えば水泳で使うプールなども、(スケートリンクにもなるなどの例もあることはありますが、)巨額の費用がかかり、かつつぶしの利かない施設であるにもかかわらず、都道府県の総合運動公園には必ずと言っていいほどあります。

では、弓道場とプールの違いは何でしょうか?
それは、現状での利用者数の違いです。水泳を全くやったことがないという人はほとんどいないと思いますが、逆に弓道をやったことがあるという人はかなり少数派です。

競技人口は、簡単に言えば発言力でもあるのです。
現状で14万人という弓道人口が、仮に1万人程度になったときに、果たして地方の公営弓道場は管理費に値する利用者が見込めるのでしょうか。今ある弓道場すらつぶれかねません。
それどころか、明治神宮の中央道場すら、至誠館の立て替えと共になくなるなんて事態になるかもしれません。

その為、私は現在の一般弓道に見られる、的中軽視の姿勢を改めるべきだといっています。
そして、何度も言っているとおり、それは的中至上主義にしろといっているのではなく、万人にとって魅力のあるものになるべきだという観点からの意見です。

34:Amorphousさん
確かに他のスポーツでも人格的成長は望めます。
だから他のスポーツで人格的成長を目指すのには何の反対もありませんし、
その人をわざわざ弓道に引きずりこもうとも思いません。
その人が、強制される事無く、楽しく人格的成長出来るのが一番です。

そして、他のスポーツで人格的成長が目指せるからと言って、
弓道の本来の目的が人格的成長である事は揺らぎません。
それが揺らがない以上、他の物を前面に押し出してアピールをするのは
いかがなものかと思う訳です。
つまり、他のスポーツとの差別化にこだわる必要性は無いと思うのです。
他のスポーツと同一視されるのを恐れ、
差別化に進むあまり、本来の目的である人格的成長を見失っては
本来の目的としてそれを掲げる武道の一つ「弓道」としてはその存在自体の致命傷になりかねません。

私の本題に対する回答は、
私も同じく、現状では設備・用具の制約に加え、日弓連の姿勢もあり、難しいとお答えします。
が、上記の理由により、日弓連が姿勢を変える必要は無いと、
あくまで武道として人格的成長を目指すのが弓道であるとの姿勢は、
崩してはいけないと、そう考える次第です。

35:じゅりさん
元学生さん、もう少し脱線した議論をすることをお許しください。

>Amorphousさん
確かに「誰にも文句をつけられない」というのは語弊がありますね。すみません。ただ、弦音が悪く、弓の冴えの無い射は文句をつけられてしまうと思います。

確かに僕は流派弓道の体配についてはほとんど知識が無いので、体配すべてを射法と絡めるのはやり過ぎかもしれません。
例えば、日置流印西派での「的割り」という動作では「的の高さを確認する」という意味があると聞いたことがあるので、体配には射の運行の上で重要な意味があると考えて書き込みました。流派の門人が格式のために体配を制定したとも思えません。

わかりにくい表現であったと思いますが、礼儀作法に関してはしっかり学ぶ必要があると思います。ご指摘にあった矢渡しの要領や数々のマナーについては弓道をする以上必ず「しつけ」られなければならないことだと思います。

>28
でナナシサソさんが車輪の例えをくださいましたが、射法・体配と礼儀・作法が組となるだろうと考えています。
僕はこの車は射法・体配が牽引すべきだと考えています。武術から武道が生まれたのならそれが自然だろうと思うからです。

僕が憂いを持つとしたら、射法”のみ”を軽視するような発言をする人間が実際にいるということです。

36:流鏑馬・笠懸・犬追物さん
弓道の魅力って眼に見えにくいものだと思います。


私自身は、正直言うと的中はあまり気にしませんでした。それでも弓道が好きでした。心を落ち着けて会に入った時の穏やかさというか…とにかく袴を着て静かな道場にいるだけで良かったんです。


皆さんの中には『そんなもの弓道じゃない。的中があってこそ弓道だ』とおっしゃる方もいるでしょう。それもまた一つの弓道の形でしょう。

しかし、私自身の愛する弓道は他人に強いられるものでも、強いるものでもありません。

結局、弓道の異端にならない範囲で、自分なりに目標を決めて切磋琢磨するのが一番じゃないでしょうか?
弓道の空気を味わうのが喜びの人もいれば、技を磨き大会の好成績を目指す人、精神面の鍛練に励む人、様々な弓道があっても良いと思います。せわしく自由が騒がれる今日の社会に弓道が受け入れられるにはやむを得ないことではないでしょうか。


ですから、このスレでも皆さん様々な弓道の理想がありますし、私はその一つ一つの理想を尊重しています。


弓道を無理に一つに集約しようとせず、柔軟な考えで弓道と向かい合い、様々な弓道の魅力を見つけだし、地道に広めていくしかないと思います。

37:Amorphousさん
>ナナシサソさん
一つ疑問点です。
現状でも、弓道の競技人口は、他のメジャースポーツ、武道に比べると、
かなり少ない部類に入ります。

ナナシサソさんの仰るように、
競技人口が発言力だとするならば、
既に現時点でもっと弓道場は少なくなっているはずです。
にも関わらず、なぜこうも多いのか。
私はこれこそが弓道が今なお「武道」である数少ない武道であるからだと考えます。
既に単なるスポーツとなってしまったと言われる柔道等に比べ、
未だに、「武道」として体系維持が出来ているからこそ、
今でも管理費との釣り合いの取れないような弓道場が、全国に数多く有るのでしょう。

最後の段落に関しては、一切異論は有りません。
ただ、同時に追加すべき項目として、
私は現在の学生弓道に見られる、的中重視の姿勢を改めるべきだといっています。
そして、何度も言っているとおり、それは的中軽視にしろといっているのではなく、武道としての体系の維持との観点からです。

38:ナナシサソさん
>Amorphousさん
たしかに、結構あるのですが、他の武道に比べると圧倒的に少ないですよ。
あまり良い資料がみつからなかったので、検索して上位にでたという理由だけでひっぱりだしましたが、下のURLは福井県の公立武道場一覧です。
http://info.pref.fukui.jp/sports/budoukan/kamei.html

柔剣道場に比べると、圧倒的に少ないことがおわかりいただけると思います。そして、弓道は少ないとはいえ、剣道、柔道に続く第3勢力です。

加えて、この福井県のデータはあまりあてはまりませんが、比較的古い弓道場も多いですです。

いわゆる全国総合開発計画が華やかだった時代に、地方に公共施設を整備するときに、「柔道場と剣道場を作って、あとは・・・・」という感じで作られた施設が多いものと察します。なぜなら、柔道・剣道の「畳部屋」「床の間」を作ったら、あとは弓道場があれば、ほぼ全ての武道はできますからね。

これからはそういう時代ではなくなって来ることは明白です。

39:ナナシサソさん
>Amorphousさん
付け忘れましたが、私も他の内容に関してはとくに反論はありません。

重点の置き方をとって、それを正統性の維持と考えるか、衰退への道と考えるかは、人の価値観に加え、おかれている立場によっても大きく変わると思います。

40:Amorphousさん
>ナナシサソさん
>ジュリさん
お答えありがとうございます。
ある程度には得心がいきました。

議論を引っ掻き回しておいて申し訳ありませんが、
商用にて本日昼より来週の金曜日まで、UAEに行く事になっております。
おそらく、Web環境も難しいエリアを渡り歩く事になるので、
ここへの発言が難しくなるかと思います。
来週帰ってきて、まだ議論が続いているようでしたら、
また参加させていただくかもしれません。
それまでは、発言出来ませんので、ご容赦ください。

41:元 ◆ntlC4wAIさん
過去3年間におけるgoogle検索キーワード、およびnews release件数を表したグラフです。

http://www.google.com/trends?q=%E6%9F%94%E9%81%93,%E5%89%A3%E9%81%93,%E7%A9%BA%E6%89%8B,%E5%90%88%E6%B0%97%E9%81%93,%E5%BC%93%E9%81%93&ctab=0&geo=JP&date=all

日本では競技人口に比して国民の『弓道』に対する関心はそれなりにあるようです。
柔道はメディアへの露出が多い武道なので、瞬間的なピークは高いですがそれを差し引けばドングリの背比べってとこでしょうか?

http://www.google.com/trends?q=judo,kendo,karate,aikido,kyudo&date=all&geo=all&ctab=1&sa=N
それに比べ海外の関心はお世辞にも…と言った所。

競技人口はもとより国際弓連も発足したことです。
競技人口の増減はおそらく少子化からくる単純な分数計算の問題では無いでしょう。
国民性の変化、意識の変化、が要因の一と私は思っていますが
それに対して受け入れ側はいかなる手段、対応を取るべきか?
徒に『弓道』の変化=荒廃と結び付け保守的に走る事は、則ち改廃。
これも結果的に荒廃を招く要因となってしまうでしょう。
議論の余地は十二分にあっても論点を定めるのが難しい所ですね。

42:元学生さん
皆さんいろいろなご意見ありがとうございます。賛否両論それぞれ拝読しましたが、このスレで、現状のままで良いのかという課題提議に対し、このままでよいというご意見があることが残念です。なぜなら、今までは人口増加していた日本とは違い、人口ピークを向かえ人口減少時代に突入した現在、弓道のみならず、全ての活動が縮小に向かいます。加えて、忘れてはならないのは、弓道場という公共施設を使う限り、大衆の理解は是が非でも必要です。弓道に理解ある人たちだけに限って弓道をやってもらうというスタンスを取れば、公共施設から弓道場は減少し、気軽にできる武道でなくなります。弓道人口の減少は、まず弓具店の死活問題です。道具が手に入りにくくなり、道場も身近から姿を消し、弓道をすること事態が困難になります。

なりよりも、武道の体系維持は理想でありますが、現実は地方の支部をみれば日弓連への加盟費?を支払うのも四苦八苦しております。夕張でありませんが財政破綻するのは目に見えています。清貧を唱えても経済原理から逃れられないことにもっと目を向けるべきです。

そこから目をそらし、武道の何たるかを唱え理想を追い求めるなら、公共施設を使わず自分たちで道場を建設、維持、管理しなくてはならないのでないでしょうか。

国の動きは、生涯スポーツの振興として総合スポーツクラブの推奨事業を行っていますが、そこに弓道が特段取り上げられておりません。あくまで総合であり、特定競技に力をいれておりません。あえて入れているのは、オリンピックなど酷使競技力向上であります。

人格形成をおっしゃる方もおられますが、今のご意見を見る限り自分だけの自己満足でないでしょうか。未来を担う子供たちに対し教育として弓道が取り組めることがあるはずですが、その動きもなく、またご意見もあくまで自己鍛錬でしかなく未来の弓道をどう広めるかの視点がないと思います。
国の政策に子供たちへの教育も含まれており、弓道がもつ人格形成は非常に有意義と思いますが、昨今の弓道をみれば、的張りや清掃は管理人の役割だという人もおり、大人自身のモラルが問われています。まさに日没する国です。

私は、武道の体系を守るものと弓道を広めるのは別々に両立すべきと思います。
弓道のよさは武道たる面があり否定しませんが、その前に弓道をしてくれる人がいなければ、絶えてしまうのは必定です。つまり、大衆受けする弓道もあって然りで、より高いところ(段位とか)を目指す人に武道の体系を伝えるのはどうかと考えています。

文部科学省の動向から言って、今の日弓連のままでいいとおっしゃれば、弓道場のような専用施設はなくなり、気軽にできなくなります。下手すれば、隣の県に行かないと道場が無く、たとえ行っても人が多いため使わせてもらえないことが発生します。すでに東京周辺では、道場不足のためか在勤、在宅の制約があります。

理想と現実を両立できることを考えていただける機会になれば幸いですが、いかがでしょうか。

43:枕流さん
>元学生さま

1月号の清信先生の文を読まれましたでしょうか?私はすべてソコに行き着くと思っています。またいつか何かしらの機会に詳しく意見は申し述べようと思ってはおりましたが、この小泉改革の結果、残念ながら我が国は本の姿に帰っていくものと思われます。そうすると我が愛すべき弓も本の姿に戻り元学生さまと私の取り越し苦労もなくなります。すると弓道は本来の姿に戻るものと思われます。残るとすれば勧進的。選ぶことができるなら(失礼!)元学生さまはどちらを選びますか?

44:T・Tさん
先日より、禅寺での禅行にお邪魔しておりまして、
こちらを見る事ができませんでして、
失礼致しました。
私個人はスレッドの意義と異なるような発言をしたつもりは無かったのですが、
どうやら気分を害された方が居られたようですので、申し訳ありませんでした。

的中重視、軽視という観点での話に関しては、
これ以上私が意見を述べても平行線で話が収束するとは思えませんので、控えさせて頂きます。
ただ、基本的な点に関しては、amorphous様と一緒です。

その上で、42で改めて元学生様が提議された弓道の存続としての意見ですが、
まず、私の根本にある意見として、
江戸時代より、300有余年続いてきた、
武道としての弓道体系は、伝統の文化であり、保存させる対象であっても、
発展させる対象ではないというのがあります。
少なくとも、ここ少々の人口増減や、財政云々が、
300有余年続く文化を変えさせられる程の重要な問題ではないと思います。

 よく引き合いに出されるネタではありますが、
ここでの議論と同じように、競技人口の増加、世界的普及を目的として、
門戸を拡大し続け、オリンピック種目にまでなった「JUDO」ですが、
現状を見れば、いつの間にやら胴着は青くなり、オリンピックの決勝戦でも
力任せに相手を振り回すだけのJUDOがまかり通るようになってしまい、
「柔道」の本質である「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」が見れるのは、
ごく一部の試合くらいとなってしまっています。

45:T・Tさん


 先日、京都での三十三間堂大的全国大会に顔を出してきましたが、
成人の部での射手の態度には落胆を禁じ得ない物がありました。
本座で跳び跳ね、執弓の姿勢をとらず、
ペタペタと爪先を跳ね上げて歩き、
離れの後に妙なパフォーマンスをして得意気にする者まで。
その後の称号者の部に比べて技術的に劣るのは当然の事で仕方ないとしても、
出来る限り正しくあろうという心掛けすらも感じられない振舞の多い事。
さらにここに来て、元学生様も仰るように社会全体としてもモラルの低下が叫ばれる時代です。

競技人口拡大・社会的認知獲得。どちらも素晴らしい事です。
ただし、それを目的にうかつに門戸を広げれば、
弓道もJUDOの二の舞となり、近い将来、人口拡大・社会的認知に付随して、
スポーツ化・武道体系崩壊を来すでしょう。
私はこればかりは何があっても避けねばならない事だと、
そう考えています。

46:Y.K.さん
三十三間堂の成人の部でそんな人たちがいたんですか…
彼らは空気読めないんですかね…

47:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
>人格形成
>大人自身のモラル
師範席であぐらをかき、談笑しながらかけを差す、射場でコーヒーカップ片手に射技指導をする・・・本県連の重鎮(当然、称号をお持ちです)の先生(?)方です。その中には、昨年中央審査で昇段された方もいらっしゃいます。暴言を承知で申し上げますが、かような方々に組織運営を任せざるを得ない日弓連自体が、既に日没に入っているのかもしれません。その枠の中でいくら倫理を叫ぼうとも、負け犬の遠吠えにすらならないのではないか、と慨嘆しております。
どなたか、「それはおたくの県連が異常なだけだ」と仰って頂けませんでしょうか・・・。

48:天龍さん
私は、手元に統計上の資料を持ちませんが、この数十年で弓道人口はかなりの伸び率で増えてきたと感じています。
昭和40年代に、一部の歴史の古い高校にあった弓道部の出身者が教師になって地元に戻り、多くのの高校に弓道部を創ったたのが大きな要因です。
女子生徒には袴姿がアピールし、男子には柔剣道に比べて大汗をかかなくても済みそうな武道と言う外見が受けたのかどうなのか、人気の運動部になりました。
その卒業生達が、小規模の大学にも弓道部を創り、街で弓を持って歩く姿を見てもそれほど珍しく感じなくなりました。
そして折り良くあのバブル経済の時代に当たり各地に、本当にこんなの造って良いのかと思うほど立派な公営弓道場が出来て今日に至っています。
弓道の普及を願いながら、この流れの中にいた者として良かったと思うし、出来過ぎとすら感じます。

正直申して、将来的にこれ以上の拡大傾向はないと思います。
しかし、弓道愛好者獲得の裾野は確立しています。近い将来激減するなどと言う予測はどこから出てくるのか。
学生弓道出身者が弓界に残るように、愛好者達は皆出来る範囲で努力しているはずです。
施設設備にしても、競技人口にしても少なくとも二世代、50年以上は心配ないと思います。
近代の社会、文化の変遷の速度から、それ以上の未来について言及するのは意味がないと思います。
それではご不満でしょうか。

49:元学生さん
>枕流さん
大変申し訳ございませんが、1月号の清信先生の文について手元に書籍を持っていないため拝読できておりません。本来の姿とは大変興味ある内容のようなので機会を持って拝読したいです。勧進的とどちらを選ぶかについては本文を読んでないため十分理解できておりませんので明確にお答えできないこと申し訳ございません。もしよろしければご意見いただければ幸いです。

>T.Tさん
多数の意見が皆様にありここで優劣をつけるものでないことを前提として一つに意見をまとめるものでないことを了承ねがいます。
 私の意見を述べますと、「江戸時代より、300有余年続いてきた」のは、日弓連の射法、体配でなく小笠原、日置に代表される流派弓道でないでしょうか。流派弓道は、どちらかというと伝統の継承が重要で、その意味では保存させる対象になりえると考えております。流派弓道をされておられる方々に対して浅はかな見解でございましたら申し訳ございません。で、発展させる対象でないという点には異論がございます。なぜなら、今の体配が定められたのはせいぜい明治の時代であり、到底江戸時代からあるものではございません。更に、日弓連で日夜体配を含めた研究がなされ、その手法が定められつつあります。よって現在も発展途上にあると思っていますがどうでしょうか。道具すらカーボンを代表として、かけも射にあわせて、3つ4つかけが出されたようですし、改良が加えられております。これを発展と捕らえずにどのように説明したら良いでしょうか。
 確かにJUDOに武道の良さは無くなりつつあります。弓道が同じ道を歩む必要はありませんが、門戸を閉ざせば、それは公共施設を使う者としての責務放棄です。特殊な人しか使えない公共施設に税金を投じることはできません。特殊な人の活躍が広く公共の福祉に役立つ(たとえばオリンピック選手が金メダルをとり、国の威信を高める。国民のスポーツに対する関心を高める。フィギアスケートなどがいい例)なら許されるかもしれません。武道体系崩壊を起こさせない説明が果たしてできるでしょうか。弓道にとって大切でも武道を知らない人にとって体系など身勝手な理論にすぎません。この冷淡な一般感情を納得させるだけのものが何かあればいいのですが。

50:元学生さん
>天龍さん
激減する可能性については、冒頭に申し上げたとおり、人口減少からの予測です。
弓道人口の過半数を占める高校生人口が半分になっても現状を維持するには、弓道人口の割合を1.4%から倍の2.8%にする必要があります。これは、大変困難なことです。愛好者だけの努力で可能な数値ではありません。生徒数が減って部活の数が減らされる中、弓道部を残すには、相当の折衝が必要ですし、残ってもこれまでの2倍の部員を毎年確保しなくてはなりません。高校が廃校や統合されれば弓道部が一つなくなります。現状の大学を見ても試合に参加する人数を集めるのさえままならないところが出てきております。この説明で減少の可能性を述べるには不十分でしょうか。

>それではご不満でしょうか。
 
不満というわけではありません。議論を切るのは簡単ですが、100年後は自分たちが生きていないから関係ないなんて寂しいことは無しにして子供たちや孫の世代に伝えたい弓道が何か考えてもいいのではないでしょうか。
コメントの中で文部科学省の政策をあげましたが、これは、武道の普及に愛好者だけでなく国や自治体の協力は欠かせないためです。その国の動向を知らずして協力を得るのは不可能です。国は2100年を見据えて話をしております。話が逸脱するかもしれませんが、年金はどうですか?50年以上先を国は考えていませんか?人口減からこのままでは破綻するため、すでに対策を検討しております。老人一人を若者2人で本当に支えられると思いますか?そんな厳しい経済状況で特殊な人間しか使えない弓道場を維持してもらえるとは思えません。食べることすらままならない時代が見えている中、今のままでいいなどとは危機管理の欠如というしかないと考えます。どうやって実施するのかは大変な困難があっても、考えることすら止めてしまうのは組織として終わってます。戦略的計画や構想があって然りですが、日弓連幹部でない私には、まだまだ理解できておりません。いわんや税金を納めている多くの一般市民も弓道に対して同じように理解できておりません。
 それとも国や自治体との協力は不要でしょうか。門戸を閉ざし、理解ある人たちだけで武道体系の維持を唱えてもそれが本当の伝統の伝承になりえますか?もし、本当に武道がすばらしく心打つものがあるなら、今の日本全体に広めるだけの価値あるものでないかと思います。

51:T・Tさん
>元学生様
 流派弓道に関する理解の浅さを危惧して居られるようですが、
浅さに関しては、この際問題では無いでしょう。
それよりも問題とすべきは、軽視されている事です。

 御自身で書かれているように、300年余りの歴史が流派弓道には有ります。
対して、スポーツ性に重きを置いたKYUDOは、
1952年、GHQによる武道禁止が明けてから、各学校に部活として設立されてからになります。
弓道の保存、KYUDOの発展、両立出来ぬとなればどちらを優先すべきか、
明らかかと思います。
そして、私がKYUDO優先の基では両立出来ぬと考える理由は既に45の最後で記した通りです。

 ちなみに、体配・道具の変化について書かれましたが、
体配の変化は、大日本武徳会による各武道統一の流れであり、
かけの種類の多様化においても、各流派の基に編み出された物であって、
武道の本質に関わる必要性の基に変化してきた物です。
今回の議論にある、弓道人口のような、本質に直接関わらない部分によって
その本質を落としてまで変化を要求してはならないと思います。

52:T・Tさん
>本当に武道がすばらしく心打つものがあるなら、
>今の日本全体に広めるだけの価値あるものでないかと思います。
これに関しては、間違いである、と言うべきか、
厳しく言わせて頂くならば、思い上がりであると思います。
本当に素晴らしく心打つものがあれば、
人々は自らそれを求め、広まっていきます。
我々が教えて、皆に広めようなどと、そのような性質ではありません。

 スポーツ性を売りにして門戸を広げる事は容易です。
効果も、柔道で実証されています。
しかし我々は、前述の通り、武道である弓道を残さねばならぬのです。
柔道によって実証された効果は、同時に武道体系の崩壊をも実証しています。
効果…癌の死滅
副作用…患者の死亡
こんな薬を処方しようとしているようなものなのです。

門戸を広げる事、弓道人口を増やす事は確かに良い事です。
ただ、武道であるのだから、武道としての本質によってその魅力を訴え、
そしてその魅力によって、新たな時代を担う弓道人を得るのが本道であると、
そう考えます。

53:元 ◆ntlC4wAIさん
>元学生さん
弓道以外にも、歴史と伝統はあれど現在では殆どキワモノ的な武道もあります。
国・自治体の協力が必要とありますが、国が考えなければならない事は御存知のように山ほどありますので
弓道だけ特別…というわけにはいかないでしょう、実際のところ。
伊勢神宮や明治神宮に専用道場を構えていられるだけでもかなり恵まれています。
というわけで、国立、県立の武道館、道場の運営、主立った大会の協賛という形を取るのが現状出来る事、これが精々でしょう。
そこで弓道人口の少ない地域での資金=税金は縮小、若しくは打切りというのは、政治としては正しい判断です。

で、そうならないためには競技人口拡大というのが一つの解決案なのでしょうが、
門戸拡大とは具体的にどのような事をお考えでしょうか?
武道体系を守るとは言う物の、武道とか武士道とか、そもそもこれは今で言うサラリーマンの心得みたいなもん(言い過ぎでしょうか?)です。
当然今では影も形も見られない物です。現代人のモラルとごっちゃにしてはいけません。
弓術流派も300年と言わず、現存流派だけでも800年近く歴史がありますが、
それはあくまで“射術”と少々の“作法”の保存、という考えの基に行われているのではないでしょうか?
弓の素晴らしさを確かに認識し後世に伝えていく事は確かに有意義なことですが、
あまり武道伝統保存と躍起になるのも、ともすれば右翼的と捉えられかねません。

元学生さんには怒られるかもしれませんが、個人的には100年後に弓道が滅んでいようがいまいが、それは時代と歴史の結果であって残念な気持ちはあっても地球が滅ぶわけではないのでそれほど固執するような思いはありません。
それより年金と温暖化の方がよっぽど大きな問題です。

54:天龍さん
>元学生さん
100年後と言われますが、100年後とは少子化、老齢化社会はとうに終わった世界なのですよ。今の一歳児が100歳になっています。日本は国土に見合った適正な人口密度に落ち着いている可能性すらあります。
もちろん、今の世界の国家概念が変わらず、日本国がこのままとしてですが。
それくらい遠い未来を憂えて、今の弓道をどう変えたいのか。ぜひその具体案の一例でもお示しいただきたいと思います。

55:枕流さん
>元学生さま


 弓道誌1月号の記事については大変に貴重な文で、内容についても確信をつくものであり我々庶民が自らの身分を顧みるに十分な戒めであると思います。ぜひ一読をおすすめ致します。
 ただこの件に関してこれ以上の意見を申し述べると非常に差別的意見に取られかねないので差し控えます。勧進的については現状を的確に表すと思われるので勝手に私が持ち出したまでで記事にはありませんので念のため・・・要するに中途半端は無くなるのではという私のあくまで予想です。
 清務先生の新撰立礼式の冒頭”禮は身を修むること”清明先生も貴重な遺稿の中で同様の事をおっしゃっています。まずは自らの行いを正し自らを律することのできる人間になることこそ古来武士道の根底に流れる精神を守り、しいては弓道の伝統を絶やさない為の骨力を身につけるということになるのではないでしょうか

56:元学生さん
T.Tさんの武道の本質を落としてまで普及をはかることは、結局弓道の衰退につながる可能性がある事は、よくわかります。そこで、武道の魅力で弓道を広めるとして、武道伝統保存と躍起になれば右翼的になると懸念される元DntlC4wAIさんのご意見も、普及のやり方を間違えば大いにありえることだと思います。

私が将来望むことは、今の弓道の環境(道具の入手や道場の有無という設備、道具面)が維持されることです。ご存知の通り、弓道は道場が無くてはできない特殊なものです。つまり、特別扱いされないとやっていけない武道だと理解してます。地方では県に公共道場が2,3箇所しかないところもあります。道具は県外でしか入手できないのもざらです。世間の流れで競技人口の少ない弓道が縮小という流れを変えるには、弓道人口の維持は最低限の条件でないでしょうか。だから、高校生が減ることで今の環境を失い、近所でできる武道でなくなってしまうのが怖いです。弓道が好きで今も続けられていますが、これも道場が近くにあるからできることです。理念の弓道に取り組むのか、大衆受けするKYUDOに取り組むのかは、射手の自由だと思っています。決して押し付けて理解されるものでないだけに、踏み込むことが難しいですが、どちらも道場があって初めてできることだと思います。

100年後、少子化と老齢化社会が終わった世界とは、日本の人口が半減した状態です。国土に見合った人口密度になっているのでなく都市と地方の人口格差が拡大して、多くのインフラの残る都市に人口が集中していると考えています。これは、都市の人口を今と同じように維持しなければ、世界の都市間競争に敗れ、国全体が没落するので、東京を中心として人口を集める政策(最近だと大学の立地が最許可されました)が進められます。よって地方人口は激減し道場が維持されるのは困難極めると思います。つまり、地方では弓道ができず、都会でしかできない特殊な武道となるのでないでしょうか。流鏑馬などは、練習できる場所が限られて地方でできにくい武道の例でないでしょうか。
 具体案については、すでに述べてみなさんからご批判いただいた、武道としての弓道と大衆受けするKYUDOの両立です。今は日弓連を中心に武道としての弓道が進められています。そこに、国の総合スポーツ振興策にKYUDOを加え、生涯スポーツの一翼を担う活動として支援していただき、そこでまずは弓に触れていただき、聞く耳をもってもらい、武道の良さを理解してもらえたら、弓道に取り組んでもらう。その区分けとして段位は、弓道をすることを条件としKYUDOは、弓の取っ掛かりとしてもらうことはどうかと考えました。武道としての本質を失う可能性や右翼的活動になる可能性があり導入の否定的意見をいただいておりますので、このまま国へ要望とは参りませんが、この案に改善できる余地があればご意見いただきたいです。しかし、いまの流れでは、その余地はなさそうですね。

57:元学生さん
>枕流さん

指導いただいている先生方や知り合いを通じて一読してみます。参考になる文献のご紹介ありがとうございました。

58:ヒヨコV3さん
ここで議論されてる内容は重すぎると感じました。弓道をあまり知らない人がこの書き込みを読んだら大半がやるとは思えません。
全員が全員、弓道の武道性を求めて弓道を始めたわけではないでしょう?
このスレを読んでるとある一定レベル以上の弓道経験者が前提で話が進み弓道をあまり知らない人の事を軽視してるようでなりません。武道性だけ求めても初心者や素人の方々はついてきません。
僕自身、弓道しておりますが登録はしておりません。大別するなら趣味の弓道ですが、以前登録してた時よりもこの書き込みでいう弓道をしております。
道場がないと弓道ができない?
いろんな書物があり、こういったサイトで情報も得られますからやる気があれば何処でもできます。体配は家の中でもできます。膝を立てれば家の中で素引きできます。外でも人目さえ気にしなければ素引きできます。安全確保できるなら巻藁もできます。
これが弓道とは言わないのなら滅んでしまえばいいと僕は思います。
別に誰かに頼まれてやってるわけではありませんしいくら綺麗事を言った所で自己満足の世界。中にはこういう考えの人間も居るという意見でした。
長文失礼。

59:元 ◆ntlC4wAIさん
>元学生さん
揚げ足を取るようで申し訳ありませんが、敢えて。

>今の弓道の環境(道具の入手や道場の有無という設備、道具面)が維持されることです。
不可能です。時代毎の情勢に沿って増減する(させる)のが一番持続可能で自然な姿です。

>大衆受けするKYUDO
柔道をJUDOにしたのは広告代理店とテレビ局とお茶の間です。
武道が大衆に媚び売るような低姿勢では、そもそも武道ではありませんね。
大衆に認知してもらうならば姿を変えるのではなく大衆に理解しやすい切り口を模索すべきです。
伝統や本道を捨てたKYUDOを国が支援するのは如何なものでしょうか?伝統とは則ち、国の誇りです。自己否定するような真似は慎むべき。
弓矢が殺人武器である以上、大衆化した後に不幸なニュースが増えないよう慎重に考えなければならない所です。

60:信吉さん
柔術から柔道、そしてJUDOと変質はしても世界に認知され広まることは進化であり発展です。広まったのがいまだ表面上の力の部分であっても、まだJUDOになってからの日は浅く、そこから深く掘り下げていく人が出てくる可能性はあります。また底辺の拡大は頂点を高くし、その頂点の多様性も増やすことができるのではないでしょうか。
流派弓道とスポーツとしてのKYUDOと話題にありますが、現在の流れではKYUDOは生きのっても流派の一部は淘汰されそうです。淘汰は必然性がありますから、流派の遺産をどう正しくKYUDOに継承させるかが必要かもしれません

61:信吉さん
ちなみに私はJUDOはまだ進化中であって(日本選手が勝てないのは残念ですが)偉大な先駆的武道だと思います。
スポーツ化の失敗例のようにあげられている方もいましたが、引き籠もって自ら朽ちるのを待つのではなく、攻める姿勢を持って世界にでて繁栄を築こうとする姿勢を評価し、今現在出ている良い部分、悪い部分を学ぶのはこれからの弓道とKYUDOには良い教材でしょうね。

62:炎楼さん
底辺の拡大は頂点を高めることはない。
頂点を高めても底辺の拡大はない。

更に言うならば、ここで議論されている文化の伝承・保護は、
淘汰される、されないに左右されるものではない。
必然性に従えば淘汰されてしまうために、
それを防ぐために武道の部分を伝承・保護しなければならない。
そして、その対象は、日本の誇りたる伝統、その本道であり、
本道より派生した、亜種たるKYUDOではない。

JUDOがこれから何を獲得しようとも、
嘉納治五郎によって柔道として作り上げた武道たる柔道には戻れない。
同様に、流派の遺産を全てKYUDOに継承できても、KYUDOは弓道には戻り得ない。
KYUDOは所詮KYUDOでしかなく、弓道を維持する為には、
弓道が弓道であり続けるしかない。

63:天龍さん
KYUDOについてあれこれ思いをめぐらせても具体像が浮かばず、結局は62:炎楼さん の示された姿に帰結します。
しかし、KYUDOを無理にイメージすれば、現在の大学生、高校生の学生弓道のようなものかもしれませんね。確かにあれは楽しいし、観戦にもそこそこ耐えます。弓連も苦い顔ながら黙認していますし。
ただ、あの楽しさは完全団体戦であるゆえの興奮であり、社会人の生涯スポーツとしては無理があるでしょう。
そもそも一般の弓道をやっている人の大半は、入門とか師匠とか段位とかそういう古めかしい環境を気に入っているのではありませんか。
さらに、世間から見てマイナーな趣味を持っていることに誇りを感じているのです。手軽なスポーツでなく、専門性が高いことのプライドです。
そういう人たちですから、隣の市にしか道場がないとなったら弓をかついで出かけてゆくのです。東京にしか弓具店がなければ、通販で取り寄せますから大丈夫。つい最近までそうだったでしょう?

64:元学生さん
日弓連の連盟規約に次のような文言があります。
「弓道を普及振興して国民体力の向上とスポーツ精神の涵養に資し、もって社会文化の進展に寄与することを目的とする。」

弓道の普及振興を掲げており、門戸を狭め自己の価値を守るとか、時代毎の情勢に沿って減らすものでないと、私は解釈しています。

どのように普及させるかに関して、本道を外れてはならないという議論の趣旨はわかりますが、これほど強く普及に否定される方が居られることに驚いています。

社会人からはじめた方は、お言葉を借りるなら古めかしい部分に魅せられる点はあるでしょう。また、学生から始めて続ける人もいます。つまり取っ掛かりは多様性にすでに富んでいます。弓道を続ける中で、武道性に触れて自己を高める世界に立てると思うのですが、どうも、取っ掛かりのときから武道性に理解しなければ弓道をやってほしくない人達がたくさん居られるようです。入り口の多様性がここまで否定されると、今の現実をどう理解されているのでしょうか。

それが、弓道を守っていく最善策と考えるのも一つの価値感で理解しなければなりませんが、現実は弓道から人が離れ、いや日弓連から人が離れ、登録者が減って地方支部は財政難にあえいでいます。高額な分担金を滞納せざるを得ない地連が出てくるのも時間の問題です。それが時代の情勢だといわれるかも知れませんが、時代の情勢を作るのは今の自分たちです。他人が決めるものではありません。
嘉納治五郎氏も明治の時代に柔道を世界に広めるべくヨーロッパへ渡って伝えています。決して日本の片隅で共感する人を待っているわけではありません。

国際弓道連盟を作ったり全国大会を開いたりいろいろ日弓連もがんばっておりますが、設立して何十年もたってその活動の趣旨が十分会員に伝わっているかというと、普及を懸念し何もしないことを良しとする風潮がただよっていませんでしょうか。それも時代の情勢かもしれませんが、私はこの人口減少という日本のターニングポイントで、何もせずに枯れる人たちに巻き込まれないで、時代の情勢が作れるきっかけになることは無いかと思っています。

隣の市に道場があっても在勤在住でなければ引かしてもらえないのが通常です。つまり道場での弓道は原則できないのです。(実際はいくらかの例外もありますが、原則が今後強まっていくと考えられます)道場の数が減って遠路から通う人が増えるほど、市外の部外者を拒むことが容易に想像できます。

最後にしますが、炎楼さん達が最初にかかれている3>本来あるべき理想 は、62の弓道が弓道であり続けることと同義と思いますが、これが3に書かれた本当に人格形成に役立っているとお考えでしょうか。もしそうならなぜ、47のような指導者が生まれてくるのでしょうか。しかも称号を与えておられるようですし、規範たる人が低落してませんか。武道性にあこがれた人にとっては、止めていく原因になりませんか。それも弓道人口の減少の一因だと思うのですがいかがでしょうか。

65:T・Tさん
「弓道を普及振興」つまり、武道である弓道を広める事で、
それを通じて、「国民体力の向上とスポーツ精神の涵養」に「資す」。
つまり、「国民体力の向上とスポーツ精神の涵養」は結果であり、
「弓道を普及振興」に、「弓道のスポーツ化」「門戸拡大」の意は含まれません。

66:炎楼さん
 日弓連の連盟規約の誤解に関してはT・T氏の解釈にほぼ同意。
そもそも「資す」とは「あることをするのに役に立つ。たすけになる。」であるから、
国民体力の向上やスポーツ精神の涵養は弓道の本義ではない。
さらに言うならば前述したように、KYUDOは弓道になり得ない、故に、「弓道の普及振興」にKYUDO化による門戸拡大は不適格。

 そもそも、「普及振興=門戸拡大」という概念自体を改める必要がある。
門戸を広げずとも、これまでと同じ門戸より多くの人が入る事、
これが質の向上であり、徒に門戸を広げ数のみを増やせばそれで
「普及振興だ」という安易な着想は慎むべき。
逆に、指導層の数が増えぬまま、被指導層の数が増えることで、
武道としての質の低下を招く危険性が極めて高く、
そうなれば武道体系の崩壊を招くのは明白である。

>「嘉納治五郎氏も明治の時代に柔道を世界に広めるべくヨーロッパへ渡って伝えています。」
氏は、JUDOを伝えに行ったのではない。
氏は当時はまだ日本の誇りたる武道たる柔道を伝える為に諸外国へ渡ったのであり、
その事は、氏死亡後に一気にJUDO化が進んだ事より明らか。

 そもそも、なぜ人口減少に際して弓道人口を増加させようとするのか。
数値を単純化するが、一億人が五千万人になれば、弓道人口も半分になって釣り合いが取れる。
弓道人口が半分になれば、弓道場が半分になって釣り合いが取れる。

>「隣の市に道場があっても在勤在住でなければ引かしてもらえないのが通常です。」
なぜこの問題に対処しようとしないのか。
規則を改定し、現存する道場の利便性を向上させれば、各道場あたりの使用者も多少は多くなる。
KYUDO化して、人口を増やせば近場に道場が増え、やりやすくなる、というような安直な考えは危険である。

47に関しては、私の弓道人生の中で、指導者層にそういう人物は見たことが無い。
被指導者層のそういう振舞は見たことがあり、それを指導者層が注意するのは見たことが有る。
これが私の返答。

67:時さん
KYUDOとは国際的・スポーツ的観念からその字がついているのだと思います。
伝統とは確かに違いますし精神面等の軽薄化の恐れはあると思います。ですが、現在弓を引く人口が減っているのは事実です。
伝統面を維持した人数の保持方法があるのならば出した方が良いと思います。
KYUDO視点からだと、「伝統を守って絶滅するの?」と考えてる方も多いのではないでしょうか?
また、KYUDOに固執した人や字面の弓道のどちらかに偏っている人が多い気がします。
因みに自分は、多少のKYUDO化は免れないのではないかと悲しいながらもそう思います。
伝統は保持したいですが、弓を引く方が増えるのは嬉しい事です。柔道もその視点で国際化されたのではないでしょうか?
武道の達人が海外に行って伝統を誇示して広めようとするのは、文化的な面で難しい事位は承知だったのではないかと考えています。

68:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
>指導者層にそういう人物は見たことが無い

日弓連の批判ばかりするようで恐縮ですが、もう一つ話をさせて頂きます。

47で私がその行いを嘆いた先生から伺った話です。さる高貴な身分の方のご臨席を賜った全国大会において、このお方に対し日弓連の幹部の先生が、「そこの椅子をこちらに運んで下さい」というような事を申し上げたそうです。

軽作業とは言え、来賓としてご臨席を賜った方に労役をお願いするなど、礼を失する行為です。ましてやかような身分の方に対し・・・。人によっては、「それがどうした」で済ませられる話かもしれません。憤る私を右翼呼ばわりされる方もあるでしょう。しかし、私には不遜の極みとしか思えず、どうしても容認できません。このような方が幹部として組織の中枢にある日弓連は、本当に弓道を武道として捉えているのか、とすら言いたくなります。

69:杣人さん
 65と66の御意見は,規約をあまりに狭く解釈しすぎているように思います.

 規約が載っている全弓連のウェブサイトでは,『弓道とは』と題したページで,「弓道は、・・・素朴で親しみやすく・・・誰にでもできる武道・スポーツです」と述べられています.

 これが全弓連の基本的な立場でしょうから,全弓連の目的である「弓道を普及振興して国民体力の向上とスポーツ精神の涵養に資し、もって社会文化の進展に寄与すること」には,武道としての面だけではなく,「素朴で親しみやすく・・・誰にでもできる」ような「門戸拡大」や「スポーツ」としての弓道の普及の意図も含まれている,と解釈するのが適当かと思います.全弓連は,弓道がスポーツに含まれることを前提とし,幅広い国民の「スポーツ精神の涵養に資」することを目的の一部とするということを規約に示していることになりませんか.

70:杣人さん
>隣の市に道場があっても在勤在住でなければ引かしてもらえないのが通常です。つまり道場での弓道は原則できないのです。(実際はいくらかの例外もありますが、原則が今後強まっていくと考えられます)

 これは,公営の施設で一般的なことでしょうか?

 私の経験では,市外在住の場合は使用料金が若干高く設定されていることはあっても,使用できないと言われたことはありません.

71:杣人さん
>現実は弓道から人が離れ、いや日弓連から人が離れ、登録者が減って地方支部は財政難にあえいでいます。高額な分担金を滞納せざるを得ない地連が出てくるのも時間の問題です。

 具体的に,このようなデータはお持ちですか? ここ数年の全弓連の登録人数の推移のような統計はお持ちですか?

72:杣人さん
> 38 「たしかに、結構あるのですが、他の武道に比べると圧倒的に少ないですよ。
あまり良い資料がみつからなかったので、」

 質問ばかりでは気が引けるので,私のわかる範囲のデータを示します.文科省の社会教育調査(平成14年)に基づく,全国の体育・スポーツ施設数です.

 弓道場 999
 柔道場 764
 剣道場 699
 柔剣道場 986
  
 『平成18年版文部科学統計要覧』からの抜粋です.

 柔道場・柔剣道場の数は,弓道場の1.75倍程度です.全柔連の登録人数は20万人以上と聞いているので,全弓連13万人の1.6倍以上だろうと思います.

 全剣連については知りませんが,柔道と弓道については,連盟登録人数と道場数が概ね比例しているようです.

73:T・Tさん
>武道としての面だけではなく,「素朴で親しみやすく・・・誰にでもできる」ような
>「門戸拡大」や「スポーツ」としての弓道の普及の意図も含まれている,

…と判断される根拠がいまいち見えてきません。
「資する」を辞書でひいてみてください。
炎楼様も書かれていますが、
「弓道を普及振興」が「国民体力の向上とスポーツ精神の涵養」ではないのです。
「弓道を普及振興」の結果、「国民体力の向上とスポーツ精神の涵養」の助けになる
と書いてあるのです。

杣人様の解釈は、二つの因果「弓道を普及振興」⇒「国民体力の向上とスポーツ精神の涵養」を、
無条件に「国民体力の向上とスポーツ精神の涵養」⇒「弓道を普及振興」と帰結させた上で、
これが同義であると解釈しており、
私の解釈が狭義解釈である事以上に、
広義解釈、もしくはその域を出つつあると考えて良いと思います。

ちなみに私は、他者の言を解釈するには、
少なからず誤差を生じる事が免れないを考えれば、
広義解釈をして誤解を生じるよりは、
狭義解釈をして相手の真意の内に己の解釈をとどめるのが良いと思いますが、
いかがでしょうか?

74:T・Tさん
ちなみに、私の住む地域では、
実際の明文化されているルール上は知りませんが、
公共弓道場の利用にあたり、在勤在住であるかといった条件による、
料金の変化、使用の可・不可などは一切生じません。

75:いがあさん
伝統を守る武道としての弓道か,大衆化されたスポーツとしてのKYUDOか・・・。
実際,武道として弓道を守っていくには難しいと思います。今の時代,弓道で飯を食べていくわけにいかず,また稽古量も昔に比べ十分ではないのが現状でしょう。自分も武道として弓を始めたつもりですが,やはり自己の体力の限界,例えば毎日300射引く,朝昼晩稽古するなど過酷な修練なしに武道を語れないと感じています。昔の人はそうであったと思います。精神論のみ武道を語り,それを継承していくことは意味のないことだと思っています。今の世の中,今後はスポーツとしての弓道を普及していくべき岐路に立っていると思います。

76:時さん
「国民の……」の助けになるのであれば、普及させた方がいいのではないでしょうか?
辞書で次は「普及」を調べてみる事をお勧めします。
狭い範囲で解釈した方がいいのであれば、文字通り普及させるべきです。
その成る成らない理由・根拠を求めるのは屁理屈です。
弓道はそんな精神面まで理論で丸まったモノではないと信じています。
皆に親しみ楽しんでもらう。只それだけを望んでいるのです。その過程で武道を知ってもらう。
それが普及ではないでしょうか?

77:DEWさん
「弓道と他のスポーツの違いを述べよ」
という昇段審査の学科問題をやりましたけど、これ素直に捉えれば弓道はスポーツってことですよね?
それともこの答えは「いや、そもそも弓道は武道なんですけど(汗」が正しいのかな?
弓道はスポーツじゃない!武道だ!
弓道はスポーツじゃないなら、どうして“スポーツ”精神の涵養の助けになるんですかね?

スポーツ=KYUDO(個人的には嫌いな表現だが)とイメージしすぎるんじゃないですかね。
スポーツは「余暇活動・競技・体力づくりのために行う身体運動。」(大辞林)という表現もできます。(もちろん別の意味合いもありますけど)
要するにおじいちゃんの運動不足解消に気軽にできるといいですね、っていうような意味合いも含んでませんかね。そんな簡単に考えてるようではダメですかね?(汗

昨年大会でお会いしたご年配の方々は楽しそうに弓道してましたけどね。失礼ながら、武道として求められる弓の冴えだとか射の覇気なんてのはとても感じられる射ではなかったですよ。
ですが、そのような状態が認められないような弓道の推進は、明治の武道、江戸の武芸を通り越して、戦国時代の実戦的武術の世界に・・・まぁそれは極端な話としても私がこのスレッドで語られる「武道」から受けた印象ですが。
武道ってそんなに堅苦しいもの?

私としては昨年の大会での光景を見る限り、定年してから趣味として運動不足解消として弓道を始めた方が踏み入りにくい環境になるとすれば、それは忍びないですね。
逆の考えの方もいらっしゃるのでしょうけど。

78:T・Tさん
>時様
私の論点はそこではありません。
弓道の普及は必要です。
なぜそこで、逆に説を唱えて、
スポーツ化を招くような門戸の広げ方を提唱するのか、を問題としています。

私はあの文章を、非常に大雑把な言い方をすれば
「武道」を広める事で、「スポーツ面」に貢献する。
と解釈しています。

>皆に親しみ楽しんでもらう。只それだけを望んでいるのです。その過程で武道を知ってもらう。
>それが普及ではないでしょうか?
違うと思います。あくまで普及は武道であり、
その「取っ掛かり」としてKYUDOを用いるならばそれは良いとも思いますが、
文字面とはいえ、他を前面に出し、
その過程で弓道を知るといったスタンスではそれは武道ではなくなると思います。

>DEW様
私は、そのような人が居る事は否定していません。
学生弓道も然り、そのように楽しむ人が居る事には異論を持ちません。
逆に、楽しく引く事、的中を競う事、大変結構だと思っています。
しかし、ここで言うような、保護・発展、
減少・消滅への憂いを語るにあたっては、
その本質があくまで武道の面にある事を忘れて、
その本質を外れるような方向への変更は慎まねばならない、
と考えているのです。

79:時さん
論点は違いません。
多くの人に興味をもってもらう前提がなければ普及は成し得ません。
今現在、「武道が…武道として…」と唱えた結果、減少しているのは結果として明白です。
現実を見ればそれが理想論であるのは分かる筈です。
普及の際に弓道に変化は起きるでしょう。
しかし、弓道は既に嘗ての「戦う弓」から変化しています。古きに囚われすぎるのは良い事と言えません。
普及は進化・保持する為にするのです。
それでは「保存」している物を他人に「押し付ける」に過ぎません。魅力にひきつかれるのを待っていても仕方ありません。

80:T・Tさん
話題がループしましたね。
例え、理想論であっても、
現実には変化を免れないとしても、
武道が武道である事を外れてはいけないというのは、
炎楼様が既に62で簡潔に述べられてます。
私もほぼ同意見です。

81:いがあさん
つまり,弓道はもともと武道なんだよっていうことを忘れずに,底辺拡大のため,スポーツとしての弓道を普及すればいいんですね。

82:T・Tさん
62で既に、「武道は武道でしかない」
と言っていますが…。

底辺拡大のため,スポーツとしての柔道を普及した結果、
武道体系が崩壊した事例も随分前に述べられてます。

敢えて言うならば、
底辺拡大のため,武道としての弓道を普及するべき。
と考えます。

83:元学生さん
>底辺拡大のため,武道としての弓道を普及するべき。

それでは、どうやって普及させますか。
多くの人に興味を持ってもらう意見を出しておりますが、それを否定するのは簡単です。前向きなご意見はありますか。

84:元学生さん
>日弓連の連盟規約の誤解に関してはT・T氏の解釈にほぼ同意。
誤解は言い過ぎていると思います。お互いの見解の相違でよろしいのでないでしょうか。
>門戸を広げずとも、これまでと同じ門戸より多くの人が入る事、これが質の向上であり・・・。
これができれば、望ましいことですが、より多くの人が入ってこないから、何かできないかと考えております。
この門戸を変えず、より多くの人を入れるにはどうしたら良いのか、ぜひ理念だけでなく、ご意見をお伺いします。

>逆に、指導層の数が増えぬまま、被指導層の数が増えることで、
これも課題であり、指導者をどう増やすかも考えるべきですね。

>そもそも、なぜ人口減少に際して弓道人口を増加させようとするのか。
日弓連の収入が減るから。減れば、大会も縮小され、弓道の普及活動も制限される。
弓道に取り組む全国の仲間と同じ会場(大会、審査)で合うことで、互いに切磋琢磨する機会を得たいがため。大会、審査が減れば、その貴重な機会が減るから。

>>「隣の市に道場があっても在勤在住でなければ引かしてもらえないのが通常です。」
>なぜこの問題に対処しようとしないのか。

納税してなく選挙権がないから。
市立の道場であれば、それは、市の税金で建設・運営されています。そして、納税者である市民のための施設であり、非納税者が多数押しかけて本来使用すべき市民の活動に支障が出るのを避けるため。特に都市部の道場でこの規制が見られます。ただし、ご指摘の通り一般的かと問われると、現状では特殊であります。将来この規制が強まるかは、一つの可能性であり普遍ではないと考え直します。

>>「嘉納治五郎氏も明治の時代に柔道を世界に広めるべくヨーロッパへ渡って伝えています。」
>氏は、JUDOを伝えに行ったのではない。
>氏は当時はまだ日本の誇りたる武道たる柔道を伝える為に諸外国へ渡ったのであり
これは、先人が武道たる柔道を広めた活動をさしただけであり、これまでの意見にあった何もせず興味ある人が訪れるのを待っている姿勢との違いを述べたかっただけです。

>指導者層にそういう人物は見たことが無い
これは、自分の知る範疇でないということでしょうか。少なくとも炎楼さんが見たことがなくても、このような方はおられるのですから、人格形成の趣旨が十分伝わっていないと思うのですが。
指導者不足とも関連しますが、少ない指導者でも弓道を変えずに指導し伝える教育システム?なり指導要領の欠如がもたらした結果だと思います。
 嘉納治五郎氏も柔道を伝えたが、後にJUDOになったことも本質を変えず伝える指導要領がなかったためでないかと考察します。

85:元学生さん
71>具体的に,このようなデータはお持ちですか?

全国大の数値はもちあわせておりません。
近年の日弓連における事業収支報告書の会費収入から推察するぐらいでしょうか。

会員が減っているのはもっと小さい単位である支部のことで身近な支部の一部でおきている傾向です。支部会費ですが、地連、支部によって2倍以上の開きがあます。地方の支部では分担金がまかなえないため会費の増額が提示されています。

86:T・Tさん
意地の悪い言い方をすれば、
その案を私如きが出せるものならば、
中央の先生方がもっと昔からやってみえるでしょうね。
それが出てこないという事は、先生方も悩んでおられるのでしょうかね?
このままでいいんじゃないの?と思って居られるようでしたら話は違いますが。

具体的に案が出ればそれが正しい訳でも無いし、
具体的な案がなければその意見が間違っている訳でもあるまいし。

効果の程が不明であっても良い・実現の可能不可能を問わないというのであれば、
公開技能披露会とでも言うべき場を設けるのはいかがでしょうか?
各流派、その流派の習いに従った射を
一同に会して、弓道関係者、非関係者問わず、
安価もしくは、無料にて公開する。
小笠原流や、日置流印西派、本多流、尾州竹林流等、
無影新月流、日置流騎乗式大弓といった物も聞いた事があります。
流派として存続している弓道だけでも多数有り、
各流派の内にある派、会を含めればその数は多くになります。
更に、そのそれぞれに独自の習いを持っています。
小笠原流であれば、蟇目の儀、大的式、百々手式、三々九手挟式等々。
流派に限らずとも、海外を含めた各地域弓道連盟による、
一般的な所で、持的射礼の披露も良いでしょう。

つまり、何かを競うのではなく、日頃の修錬もしくはその成果(の一端)を、
より多くの人が見られる、そのような場を提供するのが私の一案です。

我々、弓道関係者にとっても、弓道に対するより深い知識を得る場となると思います。
別のスレッドでも挙げられてましたが、
各種報道ですら、アーチェリーと弓道を混同して報道するような現状ですので、
社会に広く、弓道の出来るだけ正しい姿というものを見てもらえる場を作るのが、重要と考えます。

87:炎楼さん
>地連、支部によって2倍以上の開きがあります。
情報ソースの提示を希望。
そして、それが弓道のスポーツ化で解消できると考える直接的説明が無い。
個人的意見ではあるが、スポーツ化による人口増加では、
結局都市部に偏重した競技人口増加は避けられず、
より高い経済格差を生むことは明らかである。

あと、前々から言っているが、
そもそも自然な流れでの淘汰に逆らって保護するにあたって、
経済的理由は一切問題にならない。
そもそも、自然な流れでは経済的にも成り立たない物だから保護すべきなのであり、
それに、「経済的に成り立つようにする」といった安直な思考で対処するのは、
「商品の売れ行きが悪いから、品質を下げて、原価を下げよう」
というような、品位の低い商売根性と同じ類ではないだろうか。

88:天龍さん
そもそも立論の出発点である「弓道人口が激減している」と言う根拠がぶれてきています。

ある支部は会員が減って財政的に苦しいと言っても、日弓連本部の財政危機とは違うでしょう。地方過疎は政治の課題です。
もし本当に弓連が財政危機だとしても審査は行われます。大事な財源ですから。

隣の市の道場は使わせてもらえないから練習できない人がでる、と言う件についても、ずいぶんいろんな道場で引きましたがそんな施設は知りません。
第一、地方都市の武道館や運動施設は、市民の税でなく、国の助成金、かつての郵貯や年金など財投資金等で建設されており公共性が一段高くて、市民以外を締め出す理由がつきません。

人口減少は、これは確かです。近い将来一億人を割っていくのも間違いないでしょう。しかしその時なぜ弓道人口のみ増やさなければならないのか。
今、現在の弓道のあり方が嫌われてどんどん会員が減っているのなら別ですが、どうやらそんな現象はなさそうですね。

そうすると、何を根拠に何に怯えて、弓道の根本理念まで悪者にしなければならないのでしょうか。

89:杣人さん
>73:T・Tさん

>「…と判断される根拠がいまいち見えてきません。
>「資する」を辞書でひいてみてください。
>炎楼様も書かれていますが、
>「弓道を普及振興」が「国民体力の向上とスポーツ精神の涵養」ではないのです。
>「弓道を普及振興」の結果、「国民体力の向上とスポーツ精神の涵養」の助けになる
>と書いてあるのです。」


 もう一度私の解釈を説明しますが;

 この規約の解釈にあたって最も問題になるのは,「資し」の語義やではなく,「普及振興」の基本となる「弓道」の定義です.

 69でもふれたとおり,全弓連のウェブサイト『弓道とは』における「弓道」は,「素朴で親しみやすく・・・誰にでもできる武道・スポーツです」と述べられています.

 この記述からわかるとおり,弓道がスポーツの一種であることを全弓連が認めているのは明らかです.また,「素朴で親しみやすく・・・誰にでもできる」という表現は,幅広い国民への「普及振興」,つまり従来は弓道に疎遠な層をも含む「門戸拡大」を意識したものと考えられます.

 以上のとおり,全弓連の規約では,武道としてだけではなく,スポーツとしての弓道の「普及振興」という手段によって,国民各層に幅広く「スポーツ精神の涵養に資」することを目的の一部としている,というのが私の解釈です.

90:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
>弓道がスポーツの一種であることを全弓連が認めているのは明らかです

「現代の弓道はスポーツの性格が強くなり、したがって大衆的になり、楽しみ愛される弓道になることは当然である。しかし弓道の性格はそれだけではなく、弓道のために苦しみ悩みつつ道の真髄を追求しようとする苦行道もあり、こうして絶えず勉強する専門家がいる。もちろん、これを一般大衆に要求するものではないが、弓道にはそうした高い境地があり、それが弓道の一面であることを見逃してはならない。というのは、底辺の広い三角形はその高さもこれに伴わねばならぬことは当然であって、『高さのない、または深さのない広さだけであってはならないのである。』」
弓道教本1巻P45より抜粋。

91:T・Tさん
「資す」を正しく解釈すれば、
ここでの弓道がスポーツ的意義を持つ事にはならないと言ったのですがね…

「資す」という言葉の用法を調べると、
「Aを以って、Bに資す」と言う言葉に於いては、
AとBにはいる言葉は同義とはなり得ないのです。

ここでの弓道がスポーツ的意味であるとする、つまり
「スポーツの普及を以って、スポーツ精神の涵養に資す」というのは、
当然の因果つまり同義であり、日本語として間違いとなります。
簡単な例え話が、よく小学生に注意しますが、
「おなかが腹痛なんです」と一緒なんですね。

この文章が日本語で正しい限り、ここでの弓道は、
スポーツ的意味を持たない、持っているとしてもそれがメインでは無いとなります。

あと一つ、「弓道とは」のページには、続けて、
最高目標として「真・善・美」が挙げられて居ますね。
ここに、最高に帰結すべきが武道であると明記されているのですが…。
最高に帰結すべきが武道である事から、
前に書かれている「素朴で親しみやすく…誰にでもできる武道・スポーツです」
というのは、所詮は取っ掛かりの部分であり、
本質を捉えるには至らない段階の解釈と言えます。

92:元学生さん
86>公開技能披露会
演舞としての機会が多くの人に弓道と出会える場として、もたれれば、本質を失わない普及振興策になりえると私も思います。

87>情報ソースの提示を希望。
固有名は迷惑がかかるかもしれないのであえて出しませんが、ネットで確認できる範囲で高い部類の年会費12,000円の支部があります。安い部類の年会費はネットでは見出せませんでしたが、都内支部が該当するとだけお答えします。

87>弓道のスポーツ化で解消できると考える直接的説明が無い。
前提として、スポーツ化は一つの案であり絶対これしかないとは考えておりません。いい対案があれば再考し、弓道の振興につながれば幸いです。ただ、説明を求められましたのでスポーツ化が許されるとして話をすれば、スポーツ化で弓道への関心を多くの人にもってもらい、弓道を始めるきっかけにしていただき、会員として入会することで、次の高い目標である弓道の本質に触れてもらい自己を高めてもらう。関心をもってもらうことで会員を増やすのはどうかということです。

87>「商品の売れ行きが悪いから、品質を下げて、原価を下げよう」
というような、品位の低い商売根性と同じ類ではないだろうか。
商品の売れ行きがわるい時に、どうしたらいいのか。品位の低い商売根性でなく、よりいい品を提供し本物を出すことと理解しましたが、では、今日の弓道でよりいい品を出すにはどうされますか。是非すばらしい対案をお願いします。弓道は常に向上心をもって取り組むものです。現状をよしとして留まることを選ばれるなら、弓道の現状に対する見解の相違でしかないと思います。
他者を批判するだけなら容易です。批判だけからは、何も生まれません。

できるなら品の高い商品を提供できる案について議論したいものです。

88>ずいぶんいろんな道場で引きましたがそんな施設は知りません。
ネットで確認できる事例としては少し範囲が大きくなりますが、神奈川県武道館はネット上では明確に原則県内在住・在勤・在学者と規定しています。実情が違っていましたらご容赦ください。

88>なぜ弓道人口のみ増やさなければならないのか。
弓道をする仲間を増やしたいという個人的願望では納得していただけませんでしょうか。ここには理屈はありません。

88>今、現在の弓道のあり方が嫌われてどんどん会員が減っているのなら別
冒頭に申し上げましたとおり、減っている支部はあります。身近な問題を取り上げたまでで、ここが特例であり全国は増えているなら弓道人口減少は杞憂ですね。

72>全国の体育・スポーツ施設数
剣道は普通の体育館でもできますので、ここでさす剣道場は剣道専用でないでしょうか。もしそうであれば、一般の体育館(私は小学校の体育館で剣道をやってました。)も含めるのでより多くなると思います。弓道も体育館でする例は当然ありますが、剣道利用と比べればごく小数でないでしょうか。

炎楼さんの崇高な弓道普及振興策案を期待します。

93:T・Tさん
他人の意見を勝手に解釈するようで申し訳無いのですが
>87「弓道のスポーツ化で解消できると考える直接的説明が無い。」
というのは、その後の
>「スポーツ化による人口増加では、
>結局都市部に偏重した競技人口増加は避けられず、
>より高い経済格差を生むことは明らかである。」
を根拠としているのではないでしょうか?
結局、これまで弓道人口の多い所は、より多く弓道人口を増やし、
弓道人口の少ない所は、余り弓道人口は増えず、
結局、経済格差を減少させる事は不可能である、と。
そういう意味に読めると思いますが…。
いかがでしょうか?

94:通りすがりさん
盛り上がってるとろすみません。

ここでも掲載されるみたいです。
表紙をよく見ると「弓道人口の底辺〜」て書かれてます。

http://www.taiyo-g.com/kyudonippon.html

表紙、金髪さんですし、このスレとリンクしそうな感じがします。

95:T・Tさん
「弓道人口の底辺拡大方策は?」
とありますね。
底辺のみの拡大しか考えてない
文章でなければ良いのですが…

96:杣人さん
>「資す」を正しく解釈すれば、
>ここでの弓道がスポーツ的意義を持つ事にはならないと言ったのですがね…

>「資す」という言葉の用法を調べると、
>「Aを以って、Bに資す」と言う言葉に於いては、
>AとBにはいる言葉は同義とはなり得ないのです。

 用語の細かいことは論議したくないのですが,「資す」の解釈にだいぶ拘泥されるので,参考までに;

 私の理解では,「資す」を用いるということは,「弓道がスポーツ的意義を持つ事」を認めていることになります.

 具体的に挙げられた例文にならえば,「Aを以って、Bに資す」という表現は,Bが成立するために有効な特性をAが持っている,ということを前提としています.したがって,Bが「スポーツ精神の涵養」ならば,A(弓道)はそのために有効な「スポーツ的意義を持つ」と見なされるので,「資す」ということばを用いたことになります.

>この文章が日本語で正しい限り、ここでの弓道は、
>スポーツ的意味を持たない、持っているとしてもそれがメインでは無いとなります。

 後半部で「スポーツ的意味」を「持っているとしてもそれがメインでは無い」と述べているということは,ご見解が今までとは変化したということですね.

>あと一つ、「弓道とは」のページには、続けて、
>最高目標として「真・善・美」が挙げられて居ますね。
>ここに、最高に帰結すべきが武道であると明記されているのですが…。

 これは,全弓連ウェブサイトの「弓道とは」のページを指しているのだと思いますが,「最高に帰結すべきが武道である」と明記されている箇所はどこですか? そのような表現を見つけることができませんでした.

97:Amorphousさん
お久しぶりです。やはり日本のご飯は美味しい!と思った訳ですが…

>杣人さん
それはちょっと単なる揚げ足取りのような気がしますよ。
私も今出来る範囲で「資す」と言う言葉を方々で調べてみましたが、
「資す」を用いるということが、「弓道がスポーツ的意義を持つ事」を認めていることにはなりません。
言語学者であった祖父が遺した辞書の類を色々見ながら今、これを書いている訳ですが、
「資す」を用いるということが,「弓道がスポーツ的意義を持つ事」を認めていることになると、
文意を抽象化していくと、「スポーツがスポーツを助ける」となり、
まさしくT・Tさんが言われた「おなかが腹痛」になってしまいます。
そんな文章意味の載せようものならまさしく笑いすぎて「おなかが腹痛になって」しまいます。
この文章の解釈の点に関しては、間違いなく、
杣人さんの誤解釈であると断言できるかと思います。

あと、これも揚げ足取りのようにしか見えないのですが、
T・Tさんがスポーツとしての弓道を認めていないとは
どこにもそう発言されている場所はありませんよね?
>私は、そのような人が居る事は否定していません。
>学生弓道も然り、そのように楽しむ人が居る事には異論を持ちません。
>逆に、楽しく引く事、的中を競う事、大変結構だと思っています。
と以前しっかり書かれていますね。更に、続けて、
>しかし、ここで言うような、保護・発展、
>減少・消滅への憂いを語るにあたっては、
>その本質があくまで武道の面にある事を忘れて、
>その本質を外れるような方向への変更は慎まねばならない、
>と考えているのです。
と書かれています。
つまり、杣人さんが勝手にT・Tさんの主張を誤解釈して、
ここに来て、T・Tさんが折れたと言っているように見えます。
T・Tさんの意見はずいぶん前から一本通っていて、揺らいでいないのですが…

98:Amorphousさん
>「最高に帰結すべきが武道である」と明記されている箇所はどこですか?
これは、T・Tさんの言葉の選択が悪いかと思います。
明記とはちゃんと明文化されていてこそですから、
この場合、文章内に「最高に帰結すべきが武道である」とかかれて居なければならなくなります。
なので、この場合は、
「最高に帰結すべきが武道である」との意が記されている、と言うべきであったかと思います。
「真・善・美」こそが弓道をスポーツではなく、武道たらしめており、
弓道を武道たらしめている「真・善・美」が最高目標であると「明記されている」ことから、
「弓道とは」のページには、「最高に帰結すべきが武道である」との意が記されている、
事になりますね。

あと、最初の文章で、杣人さんの言葉自体の間違いに気づきましたので、ここで蒸し返します。
「Bが成立するために有効な特性をAが持っている」とありますが、
「Bが成立するために有効な特性を持つAで以ってBが成立する」のを、
世間では「当然の因果」と言います。
当然の因果で以って目標をたてるときは、
例えば「Aによって、Bを目指す」となり、
「資す」という言葉は使えないのです。

99:Amorphousさん
すみません、打ち間違いがありました。
>「そんな文章意味の載せようものなら…」

「そんな意味の文章を載せようものなら…」
に訂正いたします。申し訳ありませんでした。

100:元学生さん
こんばんは。あっという間に100を超え、関心の高さに納得と驚きを感じます。

炎楼さんは、熟考されておられるので期待しております。

86>公開技能披露会で、もし、京都の全日本の範士の部のような演武として評価する(競争することにもなりますが)ことは、弓道の本質から外れるのでしょうか。
切磋琢磨の意味も含め、採点性の大会開催を増やすことに問題を感じますでしょうか。

101:杣人さん
>私も今出来る範囲で「資す」と言う言葉を方々で調べてみましたが、
>「資す」を用いるということが、「弓道がスポーツ的意義を持つ事」を認めているこ
>とにはなりません。
>言語学者であった祖父が遺した辞書の類を色々見ながら今、これを書いている訳で
>す

 どうもご理解いただけないようなので,二つの面から,あらためて私の解釈を説明しましょう.

 まず,多くの人の身近にある可能性が高い,広く普及している国語辞書から,「資する」のわかりやすい語義の例を挙げましょう; 「ある物事に対し材料を与えて助けとする」(『岩波国語辞典』第4版),「何かを進める上のたすけとなる」(三省堂『新明解国語辞典』第5版).

 この語義からわかるとおり,「ある物事」に対して有効な特性を持つ「材料」でなければ「助け」にはなりませんし,言い換えれば「何かを進める上」の「たすけ」にもなりえません.「資する」を用いる場合,「材料」に関連する部分の持つ特性がこのように限定されてきます.

 今回の場合,「ある物事」は「(国民体力の向上と)スポーツ精神の涵養」,「材料」に関連するのは「弓道を普及振興」すること,ということになります.

 次に,この表現が用いられた背景を考えましょう.論議の対象となっている「この法人は、弓道を普及振興して国民体力の向上とスポーツ精神の涵養に資し」は,財団法人としての目的を示した条項の一部です.推進することの「助け」にならないような「材料」を挙げてその目的を示したら,財団法人として認可されることは困難だったでしょう.全弓連は弓道のスポーツ的意義を前提としてこの条項を作成した,と解釈するのが妥当です.

 以上から,今回論議している表現において,「弓道を普及振興」する事は「スポーツ精神の涵養」に有効であること,つまり「弓道がスポーツ的意義を持つ事」を前提としているのは,「資する」の語義およびこの表現が用いられた条項を作成した背景の両面から,明らかです.

102:杣人さん
 長くなりすぎるので,投稿を分けますが;

>あと、これも揚げ足取りのようにしか見えないのですが、
>T・Tさんがスポーツとしての弓道を認めていないとは
>どこにもそう発言されている場所はありませんよね?

>つまり、杣人さんが勝手にT・Tさんの主張を誤解釈して、
>ここに来て、T・Tさんが折れたと言っているように見えます。

 これは,発言の流れを誤解しています.

 私とT・Tさんとの間で主として論議になっているのは,規約の第3条の一部の表現についてであり,他の方々に対する発言内容とは直接の関係がありません.下の発言の「この文章」というのは,この条項の表現に関連するものです.

>この文章が日本語で正しい限り、ここでの弓道は、
>スポーツ的意味を持たない、持っているとしてもそれがメインでは無いとなります。
(T・Tさん)

>後半部で「スポーツ的意味」を「持っているとしてもそれがメインでは無い」
>と述べているということは,ご見解が今までとは変化したということですね.
(杣人)

 上のように,問題としてきた表現について,「『資す』を正しく解釈すれば、ここでの弓道がスポーツ的意義を持つ事にはならない」というT・Tさんの従来の解釈に,「(スポーツ的意味を)持っているとしてもそれがメインでは無い」という解釈が加わっています.そこで,私は,「ご見解が今までとは変化したということですね」と応じたわけです.

103:杣人さん
 論議の対象が異なるので,投稿を分けます.

 T・Tさんの最初の表現に二つのあいまいさが新たに加わったので,文意がさらにわかりにくくなってしまったと感じました.

>「真・善・美」こそが弓道をスポーツではなく、武道たら
>しめており、弓道を武道たらしめている「真・善・美」が
>最高目標であると「明記されている」ことから、
>「弓道とは」のページには、「最高に帰結すべきが武道である」
>との意が記されている、事になりますね。

1. まず,上の「・・・との意が記されている」というのは,「・・・と明記されている」と意味があまり変わらないように思います.

 「・・・との意が記されている」≒「・・・という考えが書きつけられている」という意味ですから,その「意」(考え)が文章内に「明文化されている」ことが必要です.そのような表現がウェブサイトのページにないことは,既にご自身で確認済みでは?

2. 次に,引用部分冒頭の「『真・善・美』こそが弓道をスポーツではなく、武道たらしめており」および「弓道を武道たらしめている『真・善・美』」という表現は最も重要な部分ですが,この根拠はページのどこに示されているのでしょうか.

 弓道が「誰にでもできる武道・スポーツ」であることは本ページに明記されています.しかし,「真・善・美」と「武道」との関係を示す記述はないように思います.このウェブサイトのどこか他のページを探すのでしょうか.

 上の二つが明瞭にならなければ,ご主張を正確に理解することは難しいように思います.

104:遥頂さん
T・T改め遥頂です。

 さて、助けとは所詮助けにしかなり得ないという事では無いでしょうか?
その物の土台、上積み、もしくはその物であれば、
「その物の特性」を持って居なければなりませんが、
「助け」とはその物にはなれないのです。
「その物になれないからこそ助ける」のですよ。

 その物の特性を持っているならば、その物にした方がよっぽど効率良いですよね。
「スポーツ(としての弓道)の振興普及即ち国民体力の向上とスポーツ精神の涵養」で充分です。
「助けとなる」という言葉がいつの間にか一人歩きして、その物になり替わってくれる。
なんと気楽な世界な事でしょうか。

 資すと言う言葉をわざわざ使ったと言うことは、
「スポーツ(としての弓道)の振興普及即ち国民体力の向上とスポーツ精神の涵養」
とはなり得ない、つまりその特性を持たない事の証明です。

105:遥頂さん
まあ、正直そんな言葉の字面の事は結構どうでも良いのですが、

『日本国語大辞典』(小学館2000)「真善美」
「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。理想を実現した最高の状態をいう。」
こんな物を最高目標に掲げるスポーツが有ったら見てみたいものです。
如何なるスポーツであっても、最高に帰結する場所での決着は、
結局「勝った者勝ち」です。例外無く。
テニス・ゴルフ等、最高峰の場では、
衣服の色まで指定される歴史と厳格さを持っています。
しかし、決着を付けるのは、打数であり、ポイントであり、
結局、数値化されるお互いの力の競争でしか有り得ません。
だからこそ、認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。理想を実現した最高の状態を目標とするのは、
スポーツでは有り得ず、では何者かと問えば、武道たる弓道その物でしかなり得ないのです。

とまあ、これも何を説こうともどうせ平行線なのは見えていますので、
http://www.kumagaya.or.jp/~sekio/yumi/haru.html
弓道の本質を探っていて見つけたページです。
どうぞ御一読下さい。

106:遥頂さん
>元学生
うっかり見逃しておりました、申し訳ありません。

採点制であっても、的中数制であっても、
射手の技量を、或る程度まで情報を絞って一面的に評価するという事は、
それ自体は、良い事だと思います。
つまり、その評価は己に返り、己の中での更なる向上の基準となるからです。

しかし、そのような情報を絞った、一側面的評価をすれば、
それが一目で解る、理解し易い評価であるが故に、
射手はそれが一側面に過ぎないと解っていても隣の者と比べ、負けたくなくなり、
観客は、その評価を以って射手の優劣を頭の中で構築し始めます。

ゴチャゴチャしてきましたが、
つまり、評価する事自体は、良い事だと思うのです。
周りの人より上だ下だとか、何位だとかそういう目で見なければ…
難しいとは思いますけど…

107:時さん
遥頂さんは少し「見た目」に拘りすぎているのではないでしょうか?
数値だけによる勝敗を蔑むのはスポーツに対する侮辱ではないでしょうか?
弓道も起源は「中てる」事にあるので数値を気にするのは当然です。
さらに礼儀も徹底的に学ぶから武道は奥が深いのでしょうが…

「スポーツ」が取っ掛かりの助けにしか成り得ないのなら、取っ掛かりの「入門」にはスポーツ的観念があってもいいのではないでしょうか?

108:鎮西さん
弓道を支える方法として、
若年層、特に高校生にターゲットを絞って
部活動としてのスポーツ面を強調して
普及を図ってきたことは明確なのだろうと思います。
かつて自分のいた地域は公立高校の弓道部がほとんどありませんでしたが、
今はほとんどある状態のようです。
日本の人口が減っても弓道を守っていくためには、継続して若年層を丹念に取り込んでいくことだろうと思います。
武道であるとか、流派であることは入門してから学ぶことなので、まずは、気軽にでも入門させる機会をふやすことかなあと思います。
日本古来の武道である弓道という伝統文化を
守るには、弓具などの職業の保護もセットで
考えるべきであるので、
単なる普及と同じように整理するには無理があると思います。

109:遥頂さん
>時様
 前半に関してですが、
私の発言のどこを以って蔑んでいると言われているのか。
私は、純粋に勝てる者が強いというスタイルで伝統を積み重ねてきたスポーツを
尊敬していますし、少なからずそこから学ぶ事は多いと思っています。
数値化されるお互いの力の競いに純粋であるからこそスポーツは奥深く、
数値化されるお互いの力の競いだけではないから弓道はスポーツとは違う奥深さがあります。
「数値化されるお互いの力の競争」が「高みを求める武道」に劣ると、
私が考えているとしたら大きな間違いです。

 後半に関しても、私は以前に書いたはずです。
>私は、そのような人が居る事は否定していません。
>学生弓道も然り、そのように楽しむ人が居る事には異論を持ちません。
>逆に、楽しく引く事、的中を競う事、大変結構だと思っています。
…しかし、取っ掛かるのにスポーツ性を売りにすれば、
スポーツ性を目当てにした人達が入る事になります。
スポーツ性が有るのは疑いの無い事実です。
的中を見て競えば良いのですから。そうして実際に競っているのですから。
しかし、そのスポーツ性を売りにして、普及を狙うのは危険であると、
私はずっとそう言ってきたはずなのですが…

110:山田さん
賭弓か通し矢の復活。
弓で民衆に人気があるといえばこれだろ

111:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
別スレッドで、流鏑馬を題材にしたTV番組の事が載っていました。流鏑馬の稽古をされている方々はその内容をご覧になって、「これで流鏑馬を志す人間が増える」と喜ばれたでしょうか?それとも、「流鏑馬は遊びじゃない」と慨嘆されたでしょうか?私としては、後者が絶対多数である事を祈ってやみません。

112:杣人さん
>T・T改め遥頂です。

> 資すと言う言葉をわざわざ使ったと言うことは、
>「スポーツ(としての弓道)の振興普及即ち国民体力の向上とスポーツ精神の涵養」
>とはなり得ない、つまりその特性を持たない事の証明です。

 いろいろな方面からの根拠をあげて私の解釈を説明したのですが、それでもご理解いただけないようなので、武道関係のもっと具体的な例をあげましょう。
 
 全日本銃剣道連盟では、「銃剣道及び短剣道の普及振興・・・もって・・・人間形成に資する」という目的を持っています。ご主張に従えば、武道としての銃剣道は「人間形成」に役立つ特性を持っていないということになります。
 
 水戸に東武館という剣道・薙刀道の武道場があります。ここは「剣道を中心とする各種の文化活動を行い青少年及び成人の社会教育に資する」という目的を持っています。同様に、ご主張に従えば、武道としての剣道や薙刀道は「青少年及び成人の社会教育」に役立つ特性を持っていないということになります。
 
 これらの例をどう解釈しますか?

113:遥頂さん
「人間形成」の方は後で言いますが、
「青少年及び成人の社会教育」に「役立つ」特性は持っているでしょう。
でも「青少年及び成人の社会教育」になる特性は持っていない。
だから、「剣道を中心とする各種の文化活動」は教育事業じゃないんですよ。
当然の事ながら。

「人間形成」の件は、省略部分に「国民の体力の向上」が入っていますね。
人間形成は本来の目的であるのですが、「国民の体力の向上」は
「各種の文化活動」の結果生じる事象であり、
「各種の文化活動」即ち「国民の体力の向上」ではないじゃないです。
「人間形成」にはなれても、
「国民の体力の向上と人間形成」にはなれません。

 あと、これだけは言っておきます。
「いろいろな方面からの根拠」なんてあなたの文章からは見当たりません。
見当たるのは、貴方にとって都合の悪い情報の排斥、
それと、「思います」で連鎖される都合の良い事実の一方的な拡大解釈です。
他に出た論破意見に対する反論をせずに、
新たな拡大解釈ばかり並べ立てても、一向に意義がありません。

最後ですが、元学生様、106の文頭で敬称を忘れておりました。申し訳ありません。

114:元学生さん
113>遥頂様
入力ミスや書き忘れは良くあることで、また、送信後に修正ができないのですから敬称は気にしないでください。

106>
射技における自己の絶対評価は、己を省みて向上を望めるが、他者との相対評価は、雑念とでも申しましょうか、相対評価ので順位をつけることが、一つの側面ばかりが強調され他の面が見えなくなり全体の整合性を欠いてしまうということでしょうか?

今の制度だと昇段審査が該当しそうです。これは、弓道を続ける上でインセンティブとなっておりますが、弓道を見たこと無い人に入門してもらうことには、あまり貢献していないという感じです。
 体配部門でもいいましょうか、空手でいうなら型の競技部門を増やすとか。近的、遠的、型の3部門制とかどうでしょう。でも、経済的に苦しいため部門を増やすのも難しいのでしょうね。特に国体などでは。

保護されるにも、普及させるにも経済性は不可欠だと思うのですがね。ボランティアにも限界ありますから、いっそNPOを各地に立ち上げて国の援助をもらって国民の体力向上に資するしかないのでしょうか。

110>山田様
通し矢のなごりで成人の日の三十三間堂の遠的がありますね。確かにマスコミに風物詩として毎年取り上げられ、一般の方への広報となっていると思います。でも東京で行っている成人の日遠的大会はマスコミに取り上げられてないように思います。
単なる着物を着た遠的大会では駄目なのでしょう。そこの違いにヒントがあるかも。今すぐにはわかりませんが。

賭弓は無くなってしまいましたね。理由を知らないのですが、競艇、競馬みたいに残らなかったのは、なぜでしょうね。見た目が競馬ほどわくわくせず、商業ベースにならなかったのでしょうか。商業ベースこそ大衆受けそのものですが、それが大衆に見限られた背景を考えるのも、温故知新になりそうですね。

「資する」のご意見を聞くとかなり考えさせられます。「役立つ」≒「そのものになる」というあたりの概念がわかりにくいという感想です。

115:元学生さん
「役立つ」≠「そのものになる」でした。
文字化けしていたらすみません。
「役立つ」と「そのものになる」は違うものというあたりがわかりにくいですね。

116:遥頂さん
>元学生様
 ほぼそういう意味です。
元学生様も例に挙げられましたが、
同じく段位制度を例にしましょう。
段位制度は、試合等の的中のみを見る制度と比べ、
体配、射技、筆記で知識や心構えなどまで見るため、
一般的に武道的要素が強い評価基準として見られます。
しかし、誤解を恐れずに先に言うと(後で詳しく弁明します)、
例えば、己で己を省みて、
「今、自分が参段であるという事は、
“射術定まり…的中やや確実な者”であって、
ここから先は、気息の正しさ、的中確実の域に達する事が、
次の段階への指標となるのだな」
として、自らを上へと進める者は、
自省そして、己の向上の為の向上であると言えます。
対して「俺と同時にはじめた奴が上の段位を取ったから、
俺が下の段位だと癪にさわるから俺も上の段位を取らなければ」
という者にとっては、他者との競争のための指標、
他者との競争のための弓道になってしまいます。

つまり、私が言いたいのは、
周囲及び自身に理解され易い様に、一側面・一次元的評価を行う事は、
その利益と同時に、他者との比較をも容易にし、
結果として競争意識を芽生えさせてしまう可能性を大いに孕んでいるという事です。

で、ここで弁明をしますが、
では、結局、的中評価も総合評価も本人の捉え方次第で同じかというと、
やはり、総合的な評価が期待出来る、段位制度的な評価の方が適しており、
そちらの方が、競争も「比較的」芽生え難いのではないかと、そう思います。

117:遥頂さん
そこで私の意見としては、
的中、射形、射品、態度そのそれぞれを総合しない評価を行うというものです。
試合や審査など、最終的に順位、合否を出すべき場では無理ですが、
私が以前出した、粗案のような、公開の場では、
敢えて総合せず、多面的な物は多面的なまま評価する事で、
競争を難しくすると言う事です。
これは、元学生様の仰る3部門制と似通った理論かと思います。

もう一つ、言葉による評価とする、というものです。
例えどれだけ細かく多面的評価をしても、
数値に拠る評価では、その一面においては競争が成立し得ます。
そこで、数値ではなく、言葉に拠る評価を行う事で、
己への自省を簡単にしたまま、他者との競争を難しく出来ます。

この二つ、多面的・多側面視点からの、言葉による評価。これは、
その規模を小さくしていく事で、道場での師よりの指導にまで帰結でき、
この形式が、日々の修錬から外れにくい可能性が高い事の証明かと思います。

財政的問題に関しては、私は何とも言えませんが、
これからの弓道の理想の姿と、最低限守らねばならない姿を明らかにして、
それから、財政的問題を逆算的に求め、
それに対応する財政策を講じる必要があるでしょうね。

118:杣人さん
 「資する」の用法に関する理解が、T・T改め遥頂さんと一部は共通のようです。

>「青少年及び成人の社会教育」に「役立つ」特性は持っているでしょう。

 「資する」の解釈が初めて一致しました。
 
>「人間形成」の件は、省略部分に「国民の体力の向上」が入っていますね。
>人間形成は本来の目的であるのですが、「国民の体力の向上」は
>「各種の文化活動」の結果生じる事象であり、
>「各種の文化活動」即ち「国民の体力の向上」ではないじゃないです。

>「人間形成」にはなれても、
>「国民の体力の向上と人間形成」にはなれません。

 上の全銃剣道連の例における「資する」の用法に関するご主張を全弓連の規約にあてはめると;

 「スポーツ精神の涵養」にはなれても、「国民体力の向上とスポーツ精神の涵養」にはなれません。

 ということになります。

 したがって、全弓連の規約については、「弓道を普及振興」することは「スポーツ精神の涵養」になる、ということを「資する」の用法の上からお認めになる、と理解してよろしいですね。

(規約)
全銃剣道連: 「銃剣道及び短剣道の普及振興を図り、もって国民体力の向上と人間形成に資する」
全弓連: 「弓道を普及振興して国民体力の向上とスポーツ精神の涵養に資し」

119:杣人さん

>「いろいろな方面からの根拠」なんてあなたの文章からは見当たりません。

 下の五つの面からの根拠をあげたつもりです。

69 全弓連の基本的立場
89 全弓連の弓道の定義
96 「資する」の用法
101 「資する」の語義
101 全弓連の条項作成の背景

>それと、「思います」で連鎖される都合の良い事実の拡大解釈

 「思います」は、意見や推測を控えめに表現したいときに用いています。
 
 「資する」に関する、上の4回の投稿の本文は、合計すると2400字程度になります。その中で「思い」は3回しか出てこないはずです。 
 
 2400字中の3回では、「連鎖」とは言えないでしょう。平均800字、400字詰め原稿用紙2枚ごとの連鎖ですか?
 

120:杣人さん
 真善美は、日本や武道に特有のものではなく、元々西洋の伝統的な考え方ではありませんか。

>「真・善・美」こそが弓道をスポーツではなく、武道たら
>しめており、弓道を武道たらしめている「真・善・美」が

>「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。理想を実現した最高の状態をいう。」
>こんな物を最高目標に掲げるスポーツが有ったら見てみたいものです。

 真善美を用いた表現は、戦前の日本における右翼関係者を含む国粋主義運動に多用されたので、日本古来のものというイメージを持つ人もいるようですが、これは誤解です。
  
 日本で、真善美を理想の状態とする考え方は、カント哲学における「知性・意志・感性」に対応する超越的対象を「真・善・美」とし、ドイツ語の哲学書から明治時代に導入されたものです。

 真や善美を卓越した状態とみることは、スポーツ発祥の地である古代ギリシャに由来し、西洋では古代、中世から続く哲学的伝統です。

121:杣人さん

 要するに、ご主張は、下の2行がご自身の意見;
>「真・善・美」こそが弓道をスポーツではなく、武道たら
>しめており、弓道を武道たらしめている「真・善・美」が

 次の1行が、全弓連ウエブサイト上の事実;
>(「真・善・美」が)最高目標であると「明記されている」ことから、

 最後の2行は、ご自身の意見;
>「弓道とは」のページには、「最高に帰結すべきが武道である」
>との意が記されている、事になりますね。

 このように、意見・事実・意見の順番に混然として一つの文に含まれていたのでは、文の意味自体をなかなか理解できません。
 

122:遥頂さん
>118
日本語出来ますか?と言いたくなるような幼稚な解釈ですね。
私が、「前半は成り立たないが後半が成り立つ」なんて言いましたか?
「武道(ぶどう)とは、心身を鍛え技を磨く稽古を通じて人格の完成をめざす」物であるから、
「人間形成」は武道普及の当然の因果と言えるとしたまでです。
文章構造で同じ場所に位置するから同じ意味などと、
そんな安直な意見を交わす為にここで議論している訳ではありません。

>69 全弓連の基本的立場
>89 全弓連の弓道の定義
>96 「資する」の用法
>101 「資する」の語義
>101 全弓連の条項作成の背景
どこが根拠ですか?
こういったのをまさしく「思い込み」って言うんです。
どっかから文章引っ張って来ても、結局次の行にはあなたの思い込みしか入ってないですね。
ちゃんと、周知の事実及び当然の因果で展開してください。
「思います」を使わなくても、あなたが思ってるだけで事実にしている箇所のなんと多い事か。

「真・善・美」の語源がドイツなどとは何の世迷い言かと言う事です。
カント哲学の「知性・意志・感性」ですか。
「知性のある者は感性がある」「意思ある者も感性がある」。
「一射毎に知性を求めていくのが弓道(求道)」ですか?
これだけ不適合が有るのに、武道における真・善・美の語源がカント哲学ですか。

上二行は周知の事実
真ん中一行は明記されている事項
最後二行が上記二項目の「事実」より算出される新しい「事実」です。

123:・・・さん
初めて書きますが、
人間形成等を語る弓道家が「世迷言」「日本語出来る?」。
また、若年の方の普及意見に「辞書の意味が・・」「武道が成り立たない」「的中を気にするのは構わないが、それと本来の武道は違う」だのの・・・
高年層の方が若年層の意見に対して「文章が・・」「本来は・・」等言ってる内は武道の真髄はまだ極めてないんですね。
物事には加減がありますよ?100%スポーツ視点でやると若年の方が言ってる訳じゃないんです。
その許容は次世代に必要な物です。
かつて、的中至上主義から現代の志向に変わった様に
それは、「若さゆえの愚考」でなく、国そのものの「時代の一つの流れ」です。

124:炎楼さん
>杣人氏
勘違いもここまで来ると腹がたってくる。
カント哲学の真善美とやらはどうでも良い。
真とは弓道の実質を追求する姿勢、善とは弓道の合理性、
美とは、真善を得た者の見えの素晴らしさ。
これが武道たる弓道で示される最高目標の「真善美」であり、
それが最高目標である故に、最後に帰結すべき「真善美」が示すは武道たる弓道である。
「知性・意志・感性」などとカント哲学から発生した言葉かどうかは知らんが、
弓道における真善美をまともに解釈しようとしない輩が
誤解を振り撒いて議論を混乱させるな。
自分の行く道場で「知性・意志・感性」でも目標に弓を引いていれば良い。
>・・・氏
まずそのような使い捨てるような名前をやめよ。
その名前のままこれから通すなら良いが、どうせここで言いたい事言ったら、
二度と見ないか、また別の名前で文句を垂れるのだろう。
まず、保護すべき国の誇りである伝統武芸たる弓道を論ずるに、
時代の一つの流れ」を標榜して本質を変化させてはならないというのは、
このスレッドの初期より叫ばれていたこと。
伝統文化の保護という概念その物が「時代の流れ」に逆行するからこそである。
これを右翼的と誹謗する者も居るが、実際現状の弓道のスポーツ化の様相を見れば、
このような対応もやむを得まい。
柔道のスポーツ化に拠る武道体系の崩壊を見れば、その事は良く解る。
このスレッド内にてその辺りも議論されている筈だ。
あと一つ言っておくが、
私も、この掲示板上で知る限り遥頂氏も大学生であり、
現在は競技弓道を主とする団体に籍を置いている。
若年層たる域にあり、そこで競技弓道をしている身からの発言である。
第一、反論したら武道を極めていないというのは何事か、
間違いは正さねばならず、正さねば、上記のように
弓道にカント哲学とやらを持ち込む輩が現れかねない。

125:・・・より風鈴さん
炎楼さんの意見をしっかりと受け止めます。
確かに、浅はかな意見が多々ありました。
また、やはり杣人さんの真善美は字としては同じですが、中身に大きな差があるのは分かって欲しいですね。
よく弓道で「風林火山」や「紫電一閃」と言う様な感じですね?
そこで少し言い様が変わりますが、「間違いを正す」のもそうですが、「右翼的と誹謗する方に何故そういう風に敢えてするのか」を視点を変えて説明して上げるべきです。
正直な所、遥頂さんに近い意見{少し競技的な考え方に違いはありますが・・}です。
しかし、自分は文章にする程の技量を持ち合わせていないので、「語の意味」ではなく「それによって形成される利点」を明記してもらえると有難いです。

126:杣人さん
 カントに反発するだけではなく,新しい弓道の大系を構築するために,カント哲学の概念まで導入して弓道の理念を明らかにしようとした先人の努力にまず敬意を払うべきではないでしょうか.

127:元 ◆ntlC4wAIさん
発言を引用されてしまったようなので、少々顔出します。

>カント 真善美
『真善美』は確かにドイツ人思想家、イマニュエル・カントが言い出した事です。
正確には『真善美聖』と4つあったりしますが、哲学で言う『真善美』は人間の基本的な価値やら欲求やらを解りやすく分類化して表現しただけのもので、弓連の言う『真善美』とは意味合いが違います。
で、武士の時代が終焉し『飛中貫』の真髄の意味を失った、と明治当時は考えたか、射法統一の流れの中で統一目標を捻り出した折に考え出したのか?勉強不足故に詳細は知りませんが、現弓連では『真善美』を最高目標としていますが、これはあくまで目標であり、皆さんお気づきかと思いますが天上知らずな漠然とした目標としてのメタファー、日々稽古を行う上での道しるべみたいなもんです。
弓連の言う『真善美』の絶対根拠を議論するのはそれはそれで有意義な事ですが、ここでの論点では無いでしょう。

>伝統文化の保護という概念その物が「時代の流れ」に逆行するからこそである。
これはどうでしょうか?伝統保存とは次代にそれを残していく事に他なりませんが、これは則ち未来に繋げる事、と考えられないでしょうか。無形文化財の類いは人間の日々の錬磨、研鑽があってこそ保存されているものです。そもそも現在の弓道は戦後のもので、江戸時代や明治〜戦前までのものとは少々趣を異にします、という事はご理解頂いているはず。
「伝統、伝統」と標榜すればするほど、それは戦後からの弓道なのか、それとも江戸時代からのものなのか、という矛盾を孕んだ「伝統」となり、「300年の歴史・弓道」と謳えばもはや根拠としての「伝統」は破綻、イマドキの右翼方々のしている事と事情が変わらなくなってしまわないでしょうか?
という意味で、右翼的と表現しました。

しかるに、弓道人口・底辺拡大に於いては
弓連は自信のあり方、ガイドラインとしての弓連か、それとも啓蒙対象としての弓連か、今一度考え直す所でしょうか?
地方道場は、もう諸事情ありましょうが各々頑張って頂く…というのが振り出しであり、結論な気がします。

128:遥頂さん
弓道で述べられている真・善・美というのが、
カント哲学の概念による真・善・美では無い
と言ったつもりだったのですがね…

確かに、弓道における真・善・美の語は、
カント哲学を訳した事により誕生した、真・善・美という語と同じです。

しかし、弓道における「真・善・美」とは、炎楼様も仰られて居ますが、
真とは弓道の実質を追求する姿勢、善とは弓道の合理性、
美とは、真善を得た者の見えの素晴らしさ。
であって、カント哲学における「真・善・美」は、杣人様が御自身で仰られている通り、
「知性・意志・感性」に対応する超越的対象なのですよね。
この二つの内容は、全く異なり、どちらかからどちらかから派生したとは考えられません。

よって、偶然の一致、もしくは、語の並びを使用しただけであると考えるのが妥当でしょう。

129:元 ◆ntlC4wAIさん
訂正…
>武士の時代が終焉し『飛中貫』の真髄の意味を失った
武士の時代が終焉し、武道の目的、所謂国防、軍事としての目的を失った

とした方が意味が通りますね。失礼しました。

130:遥頂さん
>元様
伝統保存に関してですが、
私は、完全に変化の無い保存はありえないし、
そう有る必要は無いと考えて居ます。

しかし、昔から人々の中に存在する或る物事(今回では弓道)を、
現代にその名前で読んで良いかどうか、を論ずるに当たって、
最も重要な事は、本質、特にその中でもその物事に特異的な部分を、
今に残しているかどうか、に拠ると思うのです。
仰る通り、「伝統」をどう捉えるかに関しては、
その基準点や、堅持の程には色々考える部分があると思います。

その中で、「これを逃したら弓道ではなくなる」という部分は
私が思う限り、最高目標に真・善・美を掲げる事であり、
他と競うための向上でなく、己を高める為の向上であると思うのです。

131:杣人さん
 正確に定義しないと,議論の混乱を招きます.

>しかし、弓道における「真・善・美」とは、炎楼様も仰られて居ますが、
>真とは弓道の実質を追求する姿勢、善とは弓道の合理性、
>美とは、真善を得た者の見えの素晴らしさ。

 全弓連ウェブサイトの表現では,「真」は「実質を追求」するのではなく「真実の探求」,「善」は「弓道の合理性」ではなく「弓道の倫理性」をそれぞれ指すのではありませんか.

 弓道の目標とする対象が「実質」と「真実」,「合理性」と「倫理性」では,議論の内容がまったく異なってきます.

132:杣人さん
>弓道で述べられている真・善・美というのが、
>カント哲学の概念による真・善・美では無い
>と言ったつもりだったのですがね…

 弓道の真善美を哲学上の概念と最初に結びつけたのは,T・T改め遥頂さんご自身だということをお忘れではありませんか.

(105)
>だからこそ、認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。理想を実現した最高
>の状態を目標とするのは、
>スポーツでは有り得ず、では何者かと問えば、武道たる弓道その物でしかなり
>得ない

>『日本国語大辞典』(小学館2000)「真善美」
>「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。理想を実現した最高の状態をいう。」
>こんな物を最高目標に掲げるスポーツが有ったら見てみたいものです。

 上の定義が,哲学の分科である論理学・倫理学・美学の主題や,価値論における統一的価値と関係づけられることは,用いられた辞書の「真善美」の項に明記されています.つまり,T・T改め遥頂さんは,弓道の真善美と哲学の概念である「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美」とを結びつけた上で持論を論じているのです.このことをお忘れですか.
 私が指摘したのは,ご主張に取りあげられた考え方は,日本古来のものではなく,西洋の哲学的伝統に由来し,直接的にはカントの哲学から日本へ導入されたということです.
 主張をむやみに変転させたのでは,議論が成立しなくなります.

133:杣人さん
>間違いは正さねばならず、正さねば、上記のように
>弓道にカント哲学とやらを持ち込む輩が現れかねない。

 カント哲学と突然言われたので,困惑している方もいらっしゃるかもしれませんが,この哲学と日本の弓道は無縁ではありません.

 わかりやすい例をあげるならば,『弓と禅』はカント哲学者による本です.日本人が弓道の思想的あるいは宗教的性格を述べる際に,オイゲン・ヘリゲル博士の著書『弓と禅』をよく引用します.博士は,「カントにかえれ」と主張した,西南ドイツを中心とする新カント派に属する哲学者です.博士は日本滞在中にも,カントの哲学に関する論文を発表しており,新カント派の哲学者として日本の弓道や禅を研究していたのです.

134:杣人さん
 前回と今回の主張の基本が大きく異なっています.前回は哲学概念としての真善美を高らかに掲げ,今回は単なる「語の並び」の真善美に矮小化しようとしています.主張に多少の修正を加えて改善することは誰にでもあるでしょうが,このような言い換えは不信を招きます.

>だからこそ、認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。理想を実現した
>最高の状態を目標とするのは、

>よって、偶然の一致、もしくは、語の並びを使用しただけであると考える
>のが妥当でしょう。

 全弓連は,「真・善・美」という「語の並び」をただ使用したのではなく,真善美が理想の状態であるという考え方を,弓道の新しい理念を構築するための最高目標を作成するにあたって,「思考の枠組み」として採用したのです.単なる「偶然の一致」ではありえません.

>しかし、弓道における「真・善・美」とは、炎楼様も仰られて居ますが、
>真とは弓道の実質を追求する姿勢、善とは弓道の合理性、
>美とは、真善を得た者の見えの素晴らしさ。

 思考の枠組みとしての真・善・美と,その具体的な実現としての真・善・美は分けて考えなければなりません.引用文に述べられていることは,ある分野における真・善・美の具体的な実現の一つに相当します.私の前回の指摘をさらに説明すれば,「弓道の最高目標」は,思考の枠組みとしてカント哲学の真・善・美を援用しているということです.抽象的な価値を対象とするのではなく,実際のいろいろな分野に真・善・美の考えかたを用いれば,具体的な実現のあり方の表現が対象ごとに変わってくるのは当然のことです.
 

135:明鏡止水 ◆IDFFcYqcさん
>T・Tさま
>「これを逃したら弓道ではなくなる」という部分は私が思う限り、最高目標に真・善・美を掲げる事
横から失礼致します。

この事を判定の大きな柱に据えてしまうと、古来から伝統を伝える武道たる流派弓道は、弓道と云う範疇には留まり得ないと云うことになりそうですね。

其れとも、流派弓道は‘弓道’ではなく‘弓術’と云う方向で除外なさるのでしょうか?

136:元学生さん
全文を再度読見直してみました。25名超?30名近い皆様から熱い議論いただきありあがとうございます。

仕事のため夜中しか記載できず、応答が遅いこと申し訳ございません。

前半は、的中に対する評価をどう位置づけるかを中心になされ、炎楼さんの「弓道を維持する為には、弓道が弓道であり続けるしかない。」とのコメントが根底にあるのかと考えさせられました。反論としては、時さんの「伝統を守って絶滅するの?」と考える人もいるのでないかとのコメントは、若年層の感想を捉えていると思います。これから派生した意見では、将来的に先細りは仕方ない意見がいくつか見られますが、それも本質を失った拡大は避けるべきで、Amorphousさんの「あくまで武道として人格的成長を目指すのが弓道であるとの姿勢は、崩してはいけないと、そう考える次第です。」にまとめられた気がします。

具体的な策としては、DEWさんの一つの極論の例として「的中制廃止を全国選抜あたりで試験的に採用」がありました。私も、体配や型を評価する制度を審査だけでなく大会にもできないかコメントしました。これらについては、競技弓道からの視点であるとコメントいただいたと思っています。ただし、単なる的中制廃止だけで弓道であり続けることにつながるかは、不明確なままで、変える必要性までに議論が至っていない参考意見に留まっていると思います。

後半は、64で日弓連の規約を出してから、「資する」の解釈、今は真善美について熱い議論が続いております。

自分が64で持ち出しながら申し訳ないのですが、スレッドの趣旨から、弓道普及振興にはどうしたらいいという視点ですから、言葉について深く議論するには、別スレッドではいかがでしょうか。

弓道普及振興には、弓道が弓道でありつづけるために指導者からの「間違いを正す」お言葉が必要ですね。言うなれば、師範と弟子の関係に近いかもしれません。

単純に何かを変えれば良い物でないことがよくわかりました。まずは、普及に向けてご尽力されている世界弓道連盟の活動からどうやって普及させていくのか学んで、国内への普及を再考してみられたら幸いです。

137:元 ◆ntlC4wAIさん
>遥頂さん
>本質、特異的な部分を今に残しているかどうか

本質が残っているか、では無く、何が残っているか?で考えた方がよろしいのではないかと思います。それが良くも悪くも現弓道の本質でしょう。
和弓は日本の弓術・弓道と両輪一体で進化したもので、ここ100年の間に武道の目的、目標がガラリと変わっています。弓道そのものの変化もあって当然と言えば当然でしょうか。
(恐らく)日本だけと思われる技術「弓返り」は軽く500年以上遡れますし、弓は弥生時代より7尺前後の長寸、上から3分の2の位置を握っています。
という事で、乱暴な良い方をすれば「弓道の伝統」は「和弓を使って射ってる所」で良いのじゃないでしょうか?

『真善美』なんて各思想の最大公約数を取ったような標語が果たして伝統たる弓道の骨子足り得るか。
千数百年に及ぶ先人の膨大な研鑽をここに任せる、と思うと説得力に欠けるとは思いませんか?
『真善美』は現弓道として語る文脈の座標軸の原点として、或は個人毎、流派毎に語る弓道のコンセンサスとして据え置くに止めておくのが
標語の扱いとして無難ではないかと思います。

138:遥頂さん
>杣人様
 スレ主である元学生様からの提言に従い、
この類の些末な言葉の揚げ足取りはここで切り上げます。
残りをやる必要があるとお考えであれば、
他のスレで討論を続けるのが良いでしょう。
個人的には、本質の方が重要であると思うので、
こちらの議論を重視致します。

>明鏡止水様
個人的な武道の捉え方の根本に、
大日本武徳会による武道統一における、
弓道の各流派統一が多くありましたので、
各流派ともに、一旦はそこで方向性が揃ったと
捉えてしまっておりました。
確かに、それ以前に於ける弓道も、
国の誇りたる伝統武道であると思いますので、
「真・善・美」を掲げる事は、
弓道の捉え方に関しては、些か言葉を選びなおさねばならないと考えます。

>元様
上記、明鏡止水様の御指摘の通り、
「真・善・美」を弓道が弓道たる本質に据える事には、
個人の内でも再考の必要性を感じましたので、
元様の仰る「真・善・美」の扱い方も含めて、
今一度考えてみようかと思います。

ただ、「和弓を使って射ってる所」というのは少々広すぎるかと思います。
「武道」という広い枠で、
「心身を鍛え技を磨く稽古を通じて人格の完成をめざす」と記されて居りますので、
弓道に於いてもそれに応じた物を据えるべきかな、と思います。

139:杣人さん

> スレ主である元学生様からの提言に従い、
>この類の些末な言葉の揚げ足取りはここで切り上げます。

 これに加えて,T・T改め遥頂さん,一つのスレッドの途中から名前を変更するのは,やめていただけませんか.

途中から参加した人は,よく気をつけて読まないと,改名に気づかずに発言の流れを誤解する可能性があります.

140:杣人さん
 私が全弓連の法人としての寄付行為の第3条の解釈にこだわる理由は,二つあります.

 一つは,文科省によって財団法人として認可されている以上,全弓連の事業内容は,この目的条項によって影響を受けるからです.例えば,平成18年度の全弓連の事業計画書の事業方針は,冒頭はこの条項の記述に始まっています.それほど重要な表現であり,その解釈はゆるがせにできません.

 二つめは,この条項の掲げる目的は,他の武道系団体に比較すると特色のあるものだからです.私の知っている範囲では,日本体育協会に加盟している中央競技団体の武道系団体の中で,「スポーツ精神の涵養」を目的に掲げているのは全弓連のみです.これにはいろいろな歴史的経過があるのでしょうが,この進取の精神は今後とも受け継ぐべきものだと,私は考えています.

 全弓連が掲げている「スポーツの精神」というのは,例えば下のようなことを含むものではないでしょうか.

 「スポーツマンシップは、スポーツをすること自体を楽しみとし、フェアプレーを尊重し、相手の選手に対するモラルや尊敬、同じスポーツを競技する仲間としての意識をもって行われる活動であるという姿勢、そこにこそ存在するものである。」(ウィキペディア)

 上の文で,「スポーツ」を「弓道」と置き換えても,弓道の精神の中で多くが通じます.例えば,弓道の最高目標の一つとされる「善」,弓道の倫理性に関する記述には,「弓によって互いに親しみ、弓によって協同し、和平であること」とあります.これは,上のスポーツマンシップの例文と実によく似た内容です.

 『弓道教本第一巻』では,的中のみに走ることを戒めていますが,上のスポーツマンシップに関する引用の後半でも,「しばしば、競技に勝たなくてはとういう重圧や個人の成績、あるいは新しいテクニックを身につけることが、そのスポーツを真に楽しみ競技することを妨げているように思える。」(ウィキペディア)とあります.弓道の修練との共通点が多いのではないでしょうか.

 規約を制定して全弓連が財団法人として認可される直前に第一版が刊行された『弓道教本第一巻』の「弓道の最高目標」の章の最後を引用して終わります; 「今後の弓は昔ながらの武技ではなく,新しい時代の感覚にも訴えかけるものでなくてはならない.時代の感覚をもたないものは時代から遊離し,したがって時代から離れなければならないからである」(改訂増補版P.44).この考え方は,ますます重要です.

 なお,ゆるみ離れさんから90で御指摘いただいた,同じく教本からの「絶えず勉強する専門家」の「高い境地」の一面もあることは否定しません.

141:遥頂さん
名前に関しては、詳しくは言えませんが、
必然性の基での変更故、御容赦願います。

条文の解釈については、前述の通り。
現行の解釈を語る場ではなく、
これからどうしていくのが良いであろうかを考える場だと思うので。

142:元 ◆ntlC4wAIさん
>遥頂さん
>「和弓を使って射ってる所」というのは少々広すぎるかと思います。
はい、かなりぶっちゃけた言い方です。語り出せば膨大ですからね、日本の弓の歴史は。
ま、何が伝統か?という話の入り口のように思ってもらえれば…

以下は遥頂さんの文意を私が読み違えていなければ読み飛ばして貰って構わないのですが
『伝統=歴史』と『目的・目標』を混同して考えていませんでしょうか?
伝統は先人に経緯を払いつつ弁え踏襲するもの、目標はこれから先の為に我々が持つべきモチベーションです。
弓連の文言などは法律でも憲法でも無いので個人的には「あってないようなもの」くらいに捉えていますが、
例えば弓を一張買えば弓具店と弓師が潤うわけで、
例えばコマメに道場を掃除すれば自ずと(自分以外も)気持ち良く稽古が出来るわけで、
個人レベルで出来る事はこれくらいですが、こういう事が以外と基本的な部分で一番大事なんじゃ無かろうかと思ったりします。

143:遥頂さん
>『伝統=歴史』と『目的・目標』を混同
 確かに混同してしまっている…
敢えて混同させていた、と言うべきかもしれません。
私は、個人的な意見としてですが、
「伝統への回帰」を目標とする事が
武道としての姿を維持する確実な方法だと思っていますので、
それが、「伝統と目標の混同」に繋がったのかもしれません。

144:修身斉家治国平天下さん
 今の全弓連の古い体質では,半減もしかたがないでしょう。
 今年の会長の年頭挨拶は,戦前の「修身」を義務教育の必修科目として復活させよ,という内容です(「弓道」1月号)。その辺りから後半の論調は,「世界は一家、人類は皆兄弟」を唱えていた人とそっくりなので驚きました。教育勅語に基づいて,天皇の臣民としてつかえる皇民の育成を第一の目標とする修身の復活が,年頭挨拶の最初の意見として出てくる人が会長とは。弓道について述べている部分でも,古くからの仕来りや道場の長老が定めることに従え,という方針です。これでは,若い入会者が増えるとも,長続きするとも思えません。

145:通りすがりさん
>確かに混同してしまっている…
>敢えて混同させていた、と言うべきかもし
>れません。

 ほとんどが、このような論理のすり替えに終始していますね。これじゃ、議論も終わってしまう。


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