金体白色、西半月のくらい (投稿56件)[1〜56]


1:アチャチャさん
某ネット上で、金体白色、西半月の位という表現の解説を読みました。

その解説によると、時は早朝、東の空に金星が昇りかけ、西の空には沈み行く下限の半月が見える・・・というものでした。

しかし、高校生程度の地学の知識が有ると、これが誤りであることはすぐ理解できます。

金星を見た時間が早朝ならば、西の空に沈み行く月はほぼ満月でなければなりません。
決して半月ではないのです。

この解説は、自然界ではあり得ない事です。

どなたか、おわかりの方が居れば、お教えください。

2:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
天文学的な事は存じませんが、「金体白色、西半月の位」の詳細な意味は次のサイトを参考になさってください。
http://www.kajita-m.jp/0001matsui1shahokun.htm

3:Soulさん
弓道教本をお持ちでないのでしょうか…?

4:鷹さん
そうですね。

宇野要三郎先生が解説されてますね。

本来は、
土体・黄色・中・四角から次元(?)を
アップして、
金体・白色・西・半月にいたるという
仏教思想(?)から出た言葉らしいですね。
→どなたか詳しい方ご教示を・・・

「もののたとえ」なので、深く突き詰めると
判らないのは当然と思って受け止めています。われわれは有りもしない「丹田」を意識しているわけですから。

5:六連星さん
これは私の想像ですが、
金体…金とはものを満たすもの、即ち、満を時すこと
白色…白とは何も無いこと、即ち、小手先の技術が無いこと
西半月…射位に立ったときに、上座を東として西側(つまり弓の左側)の半月の狙い
と考えてます

6:初心者さん
>金星を見た時間が早朝ならば、西の空に沈み行く月はほぼ満月でなければなりません。
>決して半月ではないのです。

 地学をとらなかったのわからないのですが,これはなぜなのですか?

7:天龍さん
半月とは、月の真横から太陽に照らされている状態を地球から見ている状態で、地球を挟んで月と太陽が90度の位置関係ですね。
満月は、月が正面から照らされている状態なので、月と太陽は地球を挟んで一直線の位置関係です。すなわち地球から見て月の正反対に太陽があるわけで、太陽が東から昇ろうとしている時刻西に月があるならほぼこのケースに当たり、満月ということになる、ということでしょう。
同様に、月はおぼろに東山♪、というと、日が暮れた時刻ですのでやはり正反対の位置関係で、満月ということになりますね。

8:枕流さん
竹林派「五輪砕」の最高位のことです。

*土体黄色中四角
*水体黒色北円形
*木体青色東円形
*火体赤色南三角
*金体白色西半月

みごとに陰陽五行道の思想を取り入れていますが当時としては至極当たり前だったのでしょうね。

ちなみに。宇野先生は紀州竹林の大家岡内木先生のお弟子さんですからご存じなかったはずはありません。教本の解説は先生なりのお考えあってのことと思われます。

9:アチャチャさん
皆様のご教示に深く感謝致します。

只今、お寄せ頂いた情報を元に、勉強中です。
近々、このスレッドの内容について現時点での認識を書き込もうと思います。

又、天龍さんには地学の解説をして頂き、お礼を申し上げます。

10:初心者さん
 最初の質問の理由は,書かれていることが私の実感とは異なるからです.
 最近の日の出は5時前後だと思いますが,早朝に用事があって週に何回か4時過ぎに出かけることがあります。すると,東の方の空に金星が見えて,それからあまり離れていない左側(東西でわければ西側)に月が見える日があります.その月は決して満月とは限りません.
 これは,高校地学の知識や天体の動きから考えると,おかしいことでしょうか?

 また,教本の解説の「西に位する半月が」というのは,金星の真西に月があるという意味ではなく,金星との位置関係を東西で考えれば,西側にあるという意味ではないでしょうか.
 1年のうちで金星が一番輝いてきれいなのは,今頃から10月にかけてだと思いますが,この時期をもとにして上のように考えれば,宇野先生の解説にある月と金星の関係は,おかしくはないように思います.

11:sainomiさん
Yahoo!きっず星空

の星空シミュレーションをご覧になってはいかがでしょう?

12:sainomiさん
えーと,天文学や地学はよくわからないのですが,シミュレーション上は,東に明けの明星,西に下弦の月はありえそうですね.

それから,2:ゆるみ離れさん紹介のサイトと,『道の弓 礼記射技・射法訓の解説』(松井巌著)とは,若干差異があるのですね.

13:sainomiさん
あ,誤字でした...

誤)礼記射技
正)礼記射義

14:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
sainomi様
>若干差異があるのですね
双方とも著者は同じようですが・・・「道の弓」は未見なので、一度読んでみたいと思います。

15:アチャチャさん
更に、投稿を頂き有り難う御座います。

只今、当方は五輪砕きの流れに沿って、解釈をすすめています。

そもそも、五輪砕き自体が七言の5句であり、”即ち”を交えた形です。

これが簡潔な表現である事を考慮すれば、その内容も射行の細部にわたるものではなく、むしろ大まかな捉え方として、その指針や要点等をまとめたものではないのでしょうか。

弓を志す者としては、解説を他者に委ねるのではなく、一度は自分なりの検討を持つべきだ、と考えたのが、このスレッドの本意です。

16:初心者さん
>只今、当方は五輪砕きの流れに沿って、解釈をすすめています。

 これより先にすすめるべきことがあるのではないでしょうか.
 1の御発言は,宇野先生の著名な解釈について,高校生程度の知識もわきまえていない誤った珍説であるかのごとく,十分な根拠も示さずに述べています.まず,その見解の基となった地学の知識なるものを明示して,検討した結果を述べるべきではありませんか.
 そうしなければ,偉大な先人に対して失礼であり,教本でこの解釈を学んでいる多くの初心者にも混乱をもたらします.
 
 

17:アチャチャさん
【金体白色西半月】・・・五輪砕についての考察
その一、土体黄色中四角
その二、水体黒色北円形
その三、木体青色東団形
その四、火体赤色南三角
     即ち
その五、金体白色西半月

五輪砕の形式は、七言四句からなる最も盛んな漢詩形である七言絶句に、”即ち”以降の部分が付加されたものではないでしょうか。
但し、形だけで漢文の呈は成していません。
簡潔にまとめるには、格好が良かったのでは、という感じです。
私の解釈では、漢詩形としながらも全くの破格である、と思われます。

”即ち”は前の四句を受けて、その帰結を述べる為に、総括的な意味合いで書かれたもの、と思います。
この理由は、後で述べるつもりです。

さて、詩にはその技法が幾つかありますが、この五輪砕を漢詩と観た時、最も特徴的な表現技法は対句です。
語の並べ方を同じくして、意味が同じようになるよう句を連ねています。

このように、形式から考えた時に、解釈の糸口が生まれそうな気が致します。

18:アチャチャさん
つまり、五輪砕のその五のみを読み解くのではなく、その一から五までを通して、それぞれの句にある語の位置で、文の成分や意味の範疇等を検討するのです。

それでは、実際にやってみましょう。
まずは、土体・水体・木体・火体・金体です。
宇野先生は、五行の思想で金(ごん)という基本元素が惑星では金星と対応していることから、直接的には”金体"を金星と捉えたようです。

その五・金体白色では、確かに金星は白色に見えると言えそうです。
しかし、その三・木体青色では、木星は実際には茶色と白の縞模様ですが、どう見ても青色とは言えません。

もう一つは、先に述べた東の地平線近くに明けの明星があり、西の地平線近くに下弦の月があるという光景が、自然の摂理に反しているということです。

これらのことから、各句の初めの2字が惑星を直接的に表現したものという解釈は、否定する方が自然だ、と思われます。

19:アチャチャさん
では、各句の初めのニ字は何を表すのでしょう。

ここは、私の恣意的な解釈ですが、”体”は射手の”からだ”を表し、その前に在る一字は隠喩として”体”を形容しているのではないでしょうか。

その様に思う理由は、敢えて言えば自然だからです。

具体的な解釈は、後にします。

次に、各句の三・四字目は色を表現していますね。
しかし、表現通りに色彩として解釈しては、射法訓の含蓄が現れてこないのです。

そこで、色彩に隠された意味を探ってみよう、と思います。

まず、仏教的には、”色(しき)”は形在るもの・物体を意味しています。
しかし、これは深読みで、前にある一字が色彩を表しているのですから、この二字で”何色”と解釈するのが、自然でしょう。

さて、色彩を表す一字ですが、古代日本語ではアカ・クロ・シロ・アオがあるのみで、その原義は明・暗・顕・漠、と言われています。

明を"みょう"と読むと、明には”煩悩の闇を破る”から由来する”智慧”の意味があります。
それでは、暗は明の対義語ですから、”煩悩の闇・無明・見えない”といった意味にとれるでしょう。
顕には、”あらわれること・物事のあきらかなこと”という意味があります。
漠には、”広々としているさま・取り止めの無いさま”という意味があります。

20:アチャチャさん
ところで、五輪砕のその一の”黄色”はというと、黄については特に裏の意味のようなものは見当たりません。

ただ、陰陽五行説によれば、その一の木は、陰と陽の中間にあるものと言われています。

そうであれば、甚だ恣意的ですが、”普通の様子・平常心”などといった中間性の意味で捉えることが出来ます。

また、私の肌の色は、黄色人種の黄色です。
興奮すれば赤くもなりますし、恐怖におののく時には青くもなります。
つまり、ニュ−トラルな状態の時に、黄色であるわけです。

更に、土から考えれば、中国では黄色が大地の色でもあります。
先取りして、その一を足踏み・胴造りの段階と捉えれば、土の体が大地に”馴染む”、といった意味に取れるかもしれませんね。

この辺りは、後で全体の検討を終えてから、再考しようと思います。

まあ、ここでも吉見順正氏の恣意的な表現が匂われますね。

21:アチャチャさん
日本に於いては、方位というのは東西南北の”四方”です。
中国(大陸)では、”五方”と考えます。
これは自分(中心)と言う方位があり、四方が生まれる。
つまり、中央と言う方位+四方=五方となります。

この”五方”という解釈とその一の”中”が”自分・中心”を表しているということには、ひとまず納得がいけそうです。
問題は、東西南北の各方位を、具体的にどのように割り付けるかです。

まず、その一にある”中”は射手である自分を指します。
次に、その五にある”半月”を先取りして”残身の弓”と捉えれば、左手が西の方位に相当します。

その次ですが、この東西南北を水平面で捉えるか、それともその面と垂直な面で捉えるかの二通りが考えられます。

私は、この方位を表す一字と後に続く図形の二字の関係が、射行に伴なう身体の位置関係とその形に、対応しているように思われるのです。

22:アチャチャさん
それで、この五方を垂直な面で捉えました。

つまり、その一の”中四角”は、中心にある四角。
その二の”北円形”は、上にある円形。
その三の”東団形”は、右にあるまるみ。
その四の”南三角”は、下にある三角。
その五の”西半月”は、左にある半月。
となります。

さて、最後の3字まで一気に解釈してしまいましたが、以上のことから、この部分は射行を視覚的に捉えた表現にとることができるでしょう。

五輪砕をここまで見てきますと、各句の最初の四字は心の持ち方を述べ、後半の三字は主に射形について述べているように、思われます。

次の検討は、五輪砕の五つの句が、それぞれどの射行に対応しているのか、ということです。

23:アチャチャさん
この問題のヒントですが、句の並び順が基本的に射の運びと対応していると思われます。
また、直前に述べた方位と図形による射形とを対応させれば、凡そは解けそうです。

その一は、足踏み・胴造り(・弓構え)の辺りでしょう。
その二は、上と円相を表現しているとの解釈から、打ち起し・引き分けとなるでしょう。
その三は、”右にあるまるみ”をユガケから肘にかけての曲線と見て、会と判断しました。
その四は、流れの上で、離れまでと解釈しました。
その五は、残身でしょう。

この四と五の理由ですが、陰陽では相対する2つのモノの一方が極まれば、他方に転ずるといった考えがあるからです。

五輪砕では、土は中間・水は陰・木は陽・火は陽・金は陰のような配列です。
その四からその五に注目すると、陽から陰に転じています。

つまり、離れの特性を考えれば、離れは人の意志によって為されるのではなく、まさに陰陽の思想のように、陽が極まって自然に陰に転ずるということになります。

そういう意味に於いて、人が射で為せるのは離れの直前までということになります。
ですから、射方訓としては、離れに至るまでの教えをもって完了なのです。

私が五輪砕の表現を、本来は四句と捉えた理由が、そこにあるのです。
そして、一句から四句までの当然の帰結として、”即ち”が置かれ第五句があるのです。

24:アチャチャさん
訂正です。
レス20とレス21との間に、次の部分が入ります。

さて、ここまでを見てみると、色彩の二字の前に、主部となる二字があり、この部分は述部としての働きを持つように思われます。

今度は、各句の初めから五番目の一字ですが、”中・北・東・南・西”です。

25:アチャチャさん
さて、ここで陰陽五行説に照らして、五輪砕をもう一度眺めてみます。

「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず」という関係を『五行相生』と言います。
こうした五行の『相生』関係を、この順序を『木(もく)火(か)土(ど)金(こん)水(すい)』といい、このように、五行が『木火土金水』の順序にあれば、「おたがいに助けあうよい関係にある」という考えかたが『五行相生』です。

また、土から水、火から金は五行相こくと言われ、悪い流れである、と言われています。

五輪砕にこれを当て嵌めると、その一からその二が土から水で相こく、その四からその五も火から金で相こくになっています。
これらは、決して良い流れではありません。

吉見順正氏は、陰陽五行説を五輪砕に取り入れてはいますが、本質的にはここでも形を拝借したという程度になっているようです。

では、何故陰陽五行説に合致しなくても、それを採用しようとしたのか、という事になります。

私の推理では、離れというものの本質が、人為の為せる技ではないこと。
そして、膨大なエネルギーの発現が一瞬に消え去ること。

その考えの拠り所が、陰陽の思想と合致したからなのでしょう。

そして、”即ち”で、その五を指し示したということは、この離れというものが基本とは言われながらも、如何に稀有の現象であるか、ということを示唆しているように、思われます。

その五は、体現した者のみが表せる句だ、と思います。

26:アチャチャさん
ここで、私の現今の心境を語れば、会は8秒間伸びるとか、離れを待つ等というのは、離れではありません。
無になりきって、ひたすら静中に動を注ぎ続けるのみです。
この時、心体弓は一体となり、火の球体と化して、淀みなく均質に膨張し続ける。
これが、私の一度だけ離れた時の体験です。

まあ、これは余談でしたが、それでは五輪砕の解釈に入りましょう。

その一、身体を土と化し大地と馴染ませ、両肩と両腰にて四角を作るべし。
これは、足踏みと胴造りについての教えであり、道場を離れて山野での行射に於いても、射の土台となる足踏みと弓に直接関わる筋骨の重要性を説いたもの、と思われます。
道場での立ちでは、水平な床や整地されたところでの射となりますが、実生活の射では、そのような恵まれた足踏みは叶いませんし、場合によっては命の遣り取りさえあるのです。

土地の傾斜によっては、押手の上下や上半身の反らしや屈曲、また上押しべた押し等を用いるのではなく、下半身を地面に対応させて、上半身は道場で弓を引く時と同じ様に構えなさい。
そして、射を行いなさい、という教えだ、と考えます。

この解釈は、道場等の特定な場でしか行射をしない現代では、思いつかないことかもしれません。
まさに、弓とる者を感じさせるものです。

27:アチャチャさん
その二、身体を水と化し力みを消して、円相にて射行を行うべし。
これは、打起しと引分けについての教えであり、弓の張力に負けて構えが崩れないようにするには、一部に力が偏ることなく、一様な力でからだ全体を使うことが肝要だ、というものです。

建築学に於いても、アーチ構造は善く力を分散させて、堅固な構造だ、と言われています。
まさに、理に叶ったものといえるでしょう。
また、射手を水に喩えたことは、「容器に閉じ込められた液体の圧力は、同じ大きさでその各部に伝わる。』というパスカルの原理にも、叶っています。

その三、身体を木と化し天地左右に伸び、勝手のユガケから肘までは円(まろ)やかにすべし。
これは、会についての教えであり、木の曲直しながら成長を続ける性質で、会のあるべき姿を示している。
特に、直(ちょく)の押手に対する曲(きょく)の勝手について、その重要性を説いている。

射手の体が天地左右に伸び続けることは、来るべき離れにとって最重要である。
また、からだをそのようにさせるのは、心の伸びでもある。
この時に、勝手の手首や指等に力が篭(こも)るのを戒(いまし)めている。
尚、詰め合いの軽視を意味したものではない。

28:アチャチャさん
その四、身体を火と化し炎上させ、その炎を両足の先までも伝えるべし。
これは、離れに至る教えであり、心身の(詰め合い・)伸び合いさえ忘却し、心体弓が一体に成った瞬間、それも忘れ、ただ成仏を迎える魂となる。
この極限に於いてこそ、他力によって離れ・成仏するのである。

即ち、・・・その一からその四までの過程を通じて、次の通り当然の帰結を生むのである。

その五、生きながらにして智慧を得たものは覚者と成り、ただその左手には弓が残るのみである。
これは、残心(身)を表し、直接的には射行を通じて死を体験し、それを乗り越えたことを意味している。
間接的には、静慮による三昧によって、無を悟り成仏したことを示している。

最後に、私の五輪砕の解釈は、大変恣意的なものと思われます。
しかし、弓をとるにあたって、その真髄たる教えを自分の血肉とするためには、弓を引く情熱と同様な思い入れで、解釈せざるを得なかったのです。

今回の投稿を通じて、今まで迷っていた幾つかのことが、吹っ切れたのです。
その一つに呼吸法があります。
私は目から呼吸する、臍下丹田から呼吸する、かかとから呼吸する等、いろいろ試していましたが、今回の思索でからだ全体から呼吸するという感覚が納得いきました。

多少時間がかかりましたし、ここ数日弓を引いていませんでしたが、大きな心の拠り所が出来たようです。

以上です。・・・長文で申し訳ありません。

29:アチャチャさん
初心者さんへ、

レス1でお書きしたように、金星と半月の疑問は某ネット上で拝読したもので、宇野先生を名指しして批判したものではありません。

私の見た複数のサイトで、同様な記述があったので疑問に感じたのです。

初心者さんの疑問には、天龍さんが説明されましたが、私の認識と同様です。

どうしても腑に落ちませんでしたら、それは初心者さんご自身で地学を学習されて、確信を持たれる以外、道は無いように思われます。

私は知識を広めるのではなく、見識を深める為にこのスレッドを立てました。
その為に、ご迷惑をお掛けしたのであれば、申し訳なく思います。

初心者さんには、このスレッドに投稿を頂き、感謝致しております。

30:アチャチャさん
訂正です。レス20の3行目・・・『ただ、陰陽五行説によれば、その一の木は・・・』の木を土に訂正致します。

31:枕流さん
>吉見順正氏の恣意的な表現

射法訓にはもう一つ十二字からの引用があります。すなわち鉄石相克云々の下り。最高位、老木晴嵐でなく鉄石相克を引用したのも陰陽五行の知識から金体白色との関連を持たせるためでしょうね。

32:アチャチャさん
枕流れさんへ
私の駄文をお読み頂き、嬉しく思います。

鉄で石を打ちかき火花が出るように、胸の中筋から離れる、という内容かと思います。

しかし、その四の解釈からすると、離れは人為を越えたものでなければならず、離れのイメージを持っている間は、離れでないような気が致します。

唯一の離れのイメージは、イメージを持たないこと、そんな心境です。

33:初心者さん
 御解釈は,竹林派に深い影響を及ぼしている真言密教や仏教の基本とあまりに矛盾している部分があります.たとえば,

>その四、身体を火と化し炎上させ、その炎を両足の先までも伝えるべし。 
>・・・・・ ただ成仏を迎える魂となる。
>この極限に於いてこそ、他力によって離れ・成仏するのである。

 仏教ではお釈迦様の教えによって,肉体から離れた精神,つまり「霊魂」や「魂」などというものには本来言及しません.したがって,「成仏を迎える魂」というのは,ありえない表現です.

 また,「他力」というのは,浄土宗系の阿弥陀仏信仰による概念です.これは,大日如来とともに修業し,生身のままで仏となることを目指す真言密教の大日如来信仰とは相容れません.したがって,「他力によって離れ・成仏する」は,竹林派の教えの解釈としては非常に奇妙です.

34:sainomiさん
>アチャチャさん

まずはじめに,射法訓の解釈について勉強させていただきありがとうございます.

11及び12の補足をさせていただきます.
11であげたサイト(Yahoo!きっず星空)から転載させて頂きますが,
・上弦(じょうげん)の月のころは、月は昼間にのぼってきて、ま夜中にしずみます。
・満月(まんげつ)のころは、月は夕方にのぼってきて、朝にしずみます。
・下弦(かげん)の月のころは、月はま夜中にのぼってきて、昼間にしずみます。
・新月(しんげつ)のころは、月は太陽といっしょに朝のぼってきて、夕方にしずむので、月を見ることはできません。
とありますように,まさに「西の地平線に月が沈みゆく」のであれば,満月でなければならないということは,おっしゃるとおりだと思います.
ですが,金星との「相対的」な位置関係から,明け方,金星の西に位置する下弦の月を「沈みゆく」と表現しても,あながち間違いではないのでは?
というのが,私の真意です.(ここでいう下弦の月齢は16から21の間を想定しています.)

35:枕流さん
>お釈迦様の教え

アートマンの否定ですね。なるほど。
初心者さま博学でいらっしゃいますね。

しかし真言密教も大乗仏教。江戸期にはすでに葬式仏教と成り下がり自己鍛錬による成仏など軽んじられていたことでしょうね。

正直このたぐいの伝はどこまで掘り下げて考えて良いモノか迷うところですね。

36:sainomiさん
34の更に補足です.

私は,射法訓の解釈は,12で挙げた松井先生の「道の弓」の解説をそのまま受け入れています.
(自分でイチから解釈しようとするには,あまりに浅学なので)

ちなみに,同書124頁には,
「「金体白色西半月」は残心の教えです・・・(中略)・・・その有り様は夜明けの寂莫たる大自然の様に,東の空に夜明けの明星が白く凛然と輝き,これに対応して西の空には半月が煌々と輝いて,雄大で崇高な姿を表現しています.」
とあり,「沈みゆく」との表現はありませんでした.

37:アチャチャさん
saimomiさんへ 

saimomiさんが解説された前段部分は、私の認識と同様です。

さて、後段部分です。
下弦の月は夜の10時頃に東から出て、明け方南に昇り、昼頃に西に沈みます。
この場合、内惑星の金星が見えるのは、同じ方向の地(水)平線から太陽が顔を出す前の僅かな時間です。
つまり、薄暗いかわたれ時です。

この時、南の空には下弦の月があともう少しで南中しようとしており、金星は薄っすらと白みはじめた東の空に輝いています。
そして、太陽が地平線から顔を出した時には、下弦の月は南中しますが、金星は既に消えています。

さて、この状態を説明するにあたって、”相対的に金星の西にある月が沈みゆく”、というのにはうなずけないのです。
金星が輝いている間、月は南に近い東側のやや下の方から弧を描いて真南に向かって昇っているのです。

西にということにはならず、南にでしょうね。

38:アチャチャさん
続きです。

もう一つは、月齢についてです。
新月から次の新月になるのには、約29.5日かかります。
月齢はこの日数を基準にしています。

原文では、西半月となっていますので、下弦とはまさしく(肉眼で見たとき)月の左側が半分輝いている半月です。
月齢で示せば、20または21辺りです。

saimomiさんが示された月齢の幅は、下限を16としていますが、満月は十五夜と言って、その月齢が15ですから、下弦の月(半月)とは形容しにくいのです。
月齢16の月は、十六夜(いざよい)月と言って、満月に近いものです。

さて、話を転じますが、・・・
私が先に書いた考察では、その一から五についての比較しながら、解釈を進めました。

その二で水体黒色と書かれていますが、見る機会の少ない水星を肉眼で見ると、金星と同様な色なのです。
決して、水星は黒くは見えませんし、内惑星ですから薄暗い空をバックにして黒いのなら見えないのです。

ただ、天文学的方法で、太陽を横切る水星を望遠鏡で捉えた時、黒くは見えますが、これが可能になったのは現代のことです。

これらの反例も含めて、私は各句の初めの二字を惑星と捉えることが不自然だ、と感じたのです。

39:アチャチャさん
初心者さんへ

吉見順正氏が真言密教や仏教の基本に深い影響を受けたのかどうかを、私は知りません。

しかし、彼が”金体白色西半月”を書いた時は、内容に於いては陰陽五行説の影響をより色濃く受けているように、感じました。

また、形式では七言絶句の形に近いようにも思われます。
真言には般若心経がありますが、七言での表現ではありません。
理趣経の記憶は消えましたが・・・。

真言密教と釈迦の仏教という範疇だけでは、というよりは、それ以外の影響が大きいかもしれません。

さて、魂ですが、その意味です。
初心者さんは、肉体を離れて存在するもの、と捉えているようです。
一般にその意味もあります。
その他に、肉体とは分離しない形での精神や気力という意味も一般的なのです。

『これは、離れに至る教えであり、心身の(詰め合い・)伸び合いさえ忘却し、心体弓が一体に成った瞬間、それも忘れ、ただ成仏を迎える魂となる。』と述べましたが、魂になったのは、体から離れたのではなく、”それも忘れ”と書いたように、からだが意識に顕在化していないだけで、体と魂は一如なのです。

後半についてですが・・・。
法然の浄土宗では念仏三昧、その弟子親鸞の浄土真宗では、後年、念仏さえも自力と観て、阿弥陀さんの誓願に成仏を委ねました。

念仏にせよ、マントラを唱えて念ずるにせよ、(弓にせよ、)初めは自力とも思えるのですが、結局は阿弥陀さんや加持による他力と観ることが出来ます。

また、”自己がその意志で行動しているように見えても、その実、人に自性などと言うものは無いのです。”

ですから、成仏する・しないは、他力の働きに他なりません。
因縁生起の法則からしても、絶対他力と考えられます。

” ”で示した内容は、空海が最澄と喧嘩別れした理趣経にも、釈迦の諸法無我にも共通して言える事です。

40:アチャチャさん
初心者さんへ、続きです。

真言の教えには、唯識(4世紀)に近いものがあるように、思います。
以前、高野山大学の教授とお話をした時に、言葉によって総てが在るのだ、という認識論的な話をされた記憶があります。

こういう考え方は、釈迦にはありませんでした。

一概に、魂が肉体と分離して有る・無しとは語れないのが、仏教だと思います。

ちなみに、私はかつて認識論的存在論と現実論的存在論を統合して、自己と世界の在り方というものを、自分なりに捉えています。
その上で、肉体と分離した霊的な魂には、否定的な立場です。

41:sainomiさん
>アチャチャさんへ

月と金星の位置関係のお話は,本意ではないでしょうから最後にします.

Yahoo!きっず星空の星空シミュレーションで,2008年1月29日午前5時から午前7時くらいのアニメーションをご覧いただけたらと思います.

42:瑠吽 ◆QTJtMY0Aさん
>39:アチャチャさん

小生、浅学のため、よくはわからないのですが、弓には、仏教・密教(?)の言葉があるようですね。

本題から少し離れるかもしれませんが、以下の部分に興味を覚えました。

>”自己がその意志で行動しているように見えても、その実、人に自性などと言うものは無いのです。”

ここの部分なのですが、そのヒトの行動は、受け継いできた潜在意識の中にある因と縁によるもの。と考えたらどうなるのでしょう。

>ですから、成仏する・しないは、他力の働きに他なりません。
>釈迦の諸法無我にも共通して言える事です。

お釈迦様は、解脱成仏された方、お釈迦様が説かれたのが仏教とされているようです。

諸法無我とは、約めると、どのような事なのでしょうか。

よろしくお願い致します。

43:初心者さん
>吉見順正氏が真言密教や仏教の基本に深い影響を受けたのかどうかを、私は知りません。
>しかし、彼が”金体白色西半月”を書いた時は、内容に於いては陰陽五行説の影響をより色濃く受けているように、感じました。
>また、形式では七言絶句の形に近いようにも思われます。

 吉見順正先生の「射法訓」をきちんと読まれましたか? 「彼が”金体白色西半月”を書いた時」の「七言絶句の形に近い」というのは,五輪砕のことを指しているのでしょうが,これは吉見先生がもともと書いたのではなく,竹林派の伝書に載っているものです.射法訓では,伝書からの引用として述べられています.竹林派の流祖は真言宗の僧侶出身であり,伝書には仏教の影響が強いとされています.
 
 宇野要三郎先生による「射法訓」に関する元の解釈は,きちんと読まれましたか?
宇野先生は,お釈迦様が悟りを開かれた時について,「その日の黎明に,金体白色,西半月の間」だったという説があることも紹介しています.

44:アチャチャさん
saimomiさんへ、

saimomiさん、有り難う御座います。
と言うのは、貴方が示唆される内容が、私が初めに疑問に思った内容に、直結しているからです。

私も貴方のお考えを検討いたしました。
細かく考えてみると、新しいことが解ったりして、勉強になりました。

これからも、宜しくお願いいたします。

45:アチャチャさん
瑠吽 ◆QTJtMY0Aさんへ、

はじめまして、アチャチャと申します。
実を言うと、貴方のHNが読めないでおりますが・・・。

初めに、ご質問にお答えいたしますが、私は仏教徒ではありませんし、特に信仰のようなものを持っておりません。

それで、これからのことは私なりの認識とご理解ください。

諸法無我は、釈迦の三法印と呼ばれるものの一で、”総てのものに主体は無い。”という意味です。

私は、この主体を自性と書きましたが、自性とは、確固として有る自分らしさ、と認識しています。

また、三法印の中には、諸行無常というのが有ります。
例えば、物でも心の在り様でも、それがそれ自身で永遠に有り続けるのならば、確固としたものといえるでしょう。

しかし、この無常観のように、総ては変化を続けるのだ、と思います。

だからこそ、因縁の法と相まって、総てのものは、その関係性によってのみ存在するという、考えになる訳です。

無始の過去からと無限の宇宙からの影響を受けて、また現在あるものとの関わり合いによって、自分の意志と思い込んでいるのもが、浮かんでは消えていく。・・・こんな感じです。

46:アチャチャさん
初心者さんへ

いつも有り難う御座います。
勉強になります。

私は、五輪砕を悟りの射と認識しています。
そういう意味では、仏教に深く根ざしていますね。
悟りは、釈迦の発明のようなものですから。

私が特に重要だと思うのは、この五輪砕の内容を弓道を行う者として、どのように思われるか、ということです。

私にとっては、宇野先生も五輪砕の履歴も貴方が思われるほどの興味を持ちません。

五輪砕自体を、自分の射なり、自分自身とどのような関係に捉えているのか。

私が解釈の文中で、”恣意的”という語を使用したのは、まさにこの解釈が五輪砕と私自身との関係性を表現したものであるからです。

各自がそれぞれの認識を持って当たり前だ、と思われます。

さて、新たな疑問です。
この五輪砕を理解するには何が必要だ、と思いますか。

初心者さんも、どうぞお考え下さい。

47:初心者さん
 先人の業績を正しく評価して,比較検証しないものは,単なる自己陶酔,ひとりよがりに陥る危険性があります.

>ちなみに、私はかつて認識論的存在論と現実論的存在論を統合して、自己と世界の在り方というものを、自分なりに捉えています。

 これも,独自の「恣意的」「関係性」の用法ですか? 「認識論」と「存在論」あるいは「認識論的」と「存在論的」ならば聞いたこともありますが,「認識論的存在論」となると,どういうことを指すのでしょう.ましてや「現実論的存在論」となると,見当がつきません.さらに「認識論的存在論と現実論的存在論を統合」ともなると,とてつもない距離を感じます.
 

48:アチャチャさん
初心者さん、レスを頂いて嬉しく思います。

初心者さんから頂いたレスの前段についてですが、「伝書にある・説を紹介してある」というより、ご自身が述べられたように、それを比較検討された内容や初心者さんの評価内容をお聞きしたいのです。

さて、後段部分です。
ほとんど横道ですが、お応え致します。

まず、認識論的存在論という表現は、私の発明ではありません。
現実論的存在論の方は、一般に現実存在を実存とも表現しますが、存在の捉え方が異なる為に、このように表現したのです。

私にとって、認識論的存在論は、原初的な表象を捉えることから始まり、その存在性を示すという考え方です。
しかし、認識する主体のようなものが無くなれば、総ての存在性が消えうせるという、非現実的な観があります。

これに対して、現実論的存在論は、世界と自己との存在を肯定するところから始まり、その理念を求めるという考え方です。
しかしながら、存在を肯定するというのは、仮定に過ぎないのが空しいところでもあります。

そこで、この二つの考えを統合することで、存在の原初とするのが私の思考した内容です。

証明の過程は、非常に難解ですので、その分野を専門的に研究されている方でなければ、理解は困難のように思われます。

結論だけを申し上げれば、『現実論的存在と認識論的存在は、同値を示すである。
よって、〔主体と客体は存在し、意識の外部に定位する。〕と、措定するのである。』

さて、”独自の「恣意的」「関係性」”という表現がありましたが、新しいイメージが生まれることは、新しい語句を生むことでもあります。

初心者さんが知らなかったり・理解できないのは、何の不思議もありません。
私の知る限りでは、他で原初的な存在論は歴史的に証明されていないのですから。

私の場合は、知っていないこと・理解できないことの方が、ずっと多いと思われます。

49:アチャチャさん
前の方のレスで、私は五輪砕による射を”悟りの射”と記述したのですが、どうも釈迦の開いた悟りとは異質のような気がしたのです。

悟りにもバラエティがありますから、これを悟りと呼ぶのは良いのですが、釈迦の悟りはもう少し理知的ですし、五輪砕の悟りはもう少し感覚的であるような気がします。

それで、五輪砕の”悟りの射”と言った時の悟りは、直接的には仏教的ではないかもしれない、と思ったのです。

そこで、陰陽五行を含む道教に、釈迦とは異なる一種の悟りがあるのではないか、と考えたのです。

調べてみると、仙学というのがありました。
まさに、感覚的で五輪砕の離れの前後と似ています。

では、真言密教自体がこの道教とどういう関係なのか、ということが次の疑問でした。

道教は中国において、儒教という組織体制のための哲学と対になる教えで、専ら仏教伝来によってその姿を整えていったのです。

そういうわけで、道教と仏教は兄弟関係にあります。

中国の密教はこの道教をベースにしています。
この中国密教も表面的には鎮護国家を謳いながら、個人救済宗教なのです。
ですから、密教は道教と本質を同じくするといえるのです。

中国では儒教の易が組織体制、官僚機構を担い、道教の遁甲(九星法)が個人救済を担うという関係にあります。

また、密教と顕教という言い方が、即道教と儒教という言い方に対応すると考えて、間違いないと思います。

そんな密教を空海が恵果から教わり、独自に日本に馴染ませたのでしょうが、個人救済宗教の色彩は、色濃いと思われます。

つまり、五輪砕の思想的な背景には、釈迦の仏教というよりは、道教というものがあるようなのです。

まあ、道教と言っても広いですから、実は整合性の取れていないところもあるのですが、五輪砕の中にもチラホラしているようです。

50:アチャチャさん
情動・気分は非言語的な生活をしていた人類の歴史、約700万から12万年前の間の情報処理に於ける行動の契機でしょうか。
この間は、人類は脅迫的なほど情緒豊かな時代だったのではないでしょうか。

その後、言語を所有し始めてからは、感情と理性との主導権争いが、人類の歴史を描いてきたとも言えそうです。

その過程の上で、単に争いだけではなく、両者の融合も起きた筈です。
その一つに、情操というものが有りそうです。

さて、私が想う志向性には、事実や事態の認識に快と不快が同時に記憶させていますが、これは顕在意識が感情と理性の二重構造になっているからでしょう。

我々は、人類の歩んできた非言語と言語の両時代を携えて、今も生きているのです。

弓を引く場合は、こうした大脳皮質の働きを更に遡って、どれだけ古い脳だけで行射を行えるかが、問われているようです。

弓の悟りは釈迦の悟りとは異なり、宇宙と自己の一体化を虚無を感得することで実現させるものだ、と思います。

虚無とは死であり、虚無であるからこそ絶対不変と考えられるものです。
この考え方は、一種土俗的であり、神秘的な香りがするものです。

しかし、弓が命の遣り取りをしていた時代にあっては、現実的に恐怖感を拭い去って、(虚)無になって敵に対することが如何に重要であったことか、想像に難くありません。

平和な世にあっては、心を平静にして事にあたり、愚痴を言わない・後悔をしない等の為には、充分役立つものに思われます。

また、宇宙と自己の一体感ということは、仁・博愛・アガペー等というものに繋がっていく考えです。
人と獣や物、更には自分と他人等の差別の概念が無くなる訳です。
ここまで来れば、釈迦の苦からのがれ、楽を与える、という慈悲の心にも共通してきます。

私の書いた五輪砕の解釈、その五の後半、”ただその左手には弓が残るのみである”の表現は、行としての弓で、悟りへの道を拓いた古人の自負のようなものが感じられます。

出家するという条件も無く、密教の本質を得られる訳ですから、ものすごい発明でね。偉い。

51:アチャチャさん
釈迦は悟りを開きました。
そして、人々が悟りに至るようにその道を示しました。

ところが、現今まで釈迦に従った多くの者たちは、悟りを得る事が出来ません。
それは、何故なのでしょう。

悟りを得ることを目的として、釈迦に深く帰依すればするほど、それは釈迦を信仰し神格化する宗教に他ならないからです。

自己の信仰によって、その対象である釈迦は、更に高みへと押し上げられてゆきます。
その結果、相対的な自己は、どんどんとへりくだって行くのです。

ところが、悟りを得るということは、自己を高みに押し上げ、その自己を発見し、そうした自己を確信しなければ成立しないのです。

こういう意味に於いて、仏教の中で悟りを得るということは、至難の業だろう、と思われます。

釈迦が悟りを開くことが出来たのは、釈迦自身が特別な信仰を持っていなかったからでしょう。
釈迦と同様の方法で、仏教徒が悟りを得ようとしても、彼らは既に信仰を持っていますから、釈迦とは同じ結果にならないのです。

この点は、釈迦の不明と判断します。

例えば、真言密教の教主は大日如来で、釈迦のような生身の人間ではなく、宇宙を意味するイメージ・キャラクターです。
釈迦でさえ、その宇宙に含まれる存在です。

密教ですから出家もしない私にとっては、その内容は秘密そのものです。

もしかすると、真言密教は宗教ではない、ましてや仏教などではない、というのが私の感想です。
その本質は、悟り養成センターでしょうか。

52:アチャチャさん
我が友からの助言より

私のネットで知り合った信頼のおける友人は、僧侶です。
彼の説明によると、釈迦は生前約500名の弟子を悟りに至らせたということです。

しかし、釈迦は自分の教えを考えるように示唆はしましたが、それを頭から飲み込むようなことを戒めたそうです。

釈迦が望んだことは、弟子の一人一人が自己を信じ、釈迦が教えた内容を理解して悟りに至ることでした。

彼の友人も、このような営みは宗教ではないと、私と同意見です。
更に、彼は続けて、密教もその延長線上にあるので、基本的には宗教とは趣を異にするものである、と文を締めくくっていました。

さて、五輪砕・・・、竹林派の流祖が真言密教の出身で、仏教の影響を深く受けているというのは、密教を仏教と混同した曲解のように思われます。

53:アチャチャさん
弓道と儒教との関連

以前、メッセージ49で、中国では儒教と道教が対になる教えである、と述べました。
その儒教が弓道にどのように関わっているのかを、書きたいと思います。

みなさんご存知の通り、弓道や武道一般では、礼が重んじられます。
この礼は、まさしく孔子の唱えた儒教のものです。

この礼は、単独では考えられない考え方で、仁との関係で礼も成立します。
仁とは簡単に言えば、人間愛です。
その仁を形に現したのが、礼という事になります。

仁にもとづいて人に接する時、そこには他者に対する敬意があらわれてきます。
この敬意を行為の上で表現するのが礼です。

孔子は形だけ礼に叶うあり方も、心で思うだけで礼としてあらわれない仁も、ともに不充分であるとし、仁と礼を兼ね備えたあり方を人間の理想としました。

さて、ここでも、仏教ではなく、儒教の教えであることが判ります。

まとめますと、五輪砕からの出発で、その解釈をするにあたって、私は仏教には否定的な立場をとり、射については道教の影響としましたが、もう一方の礼については儒教ということになりました。

五輪砕及び弓道の思想的背景は、仏教にあらず、道教と儒教にあり。
そういう認識での捉え方が、必要のようです。

54:瑠吽 ◆QTJtMY0Aさん
>45:アチャチャさん
>53:五輪砕及び弓道の思想的背景は、仏教にあらず、道教と儒教にあり。

・お話を、ありがとうございます。

(本題とは離れますので端折って書きます)

・私のHNは、音にするならば「ル」と「ン」、どうということもなく、十、十五、三十、五十間程先の的に向かって矢を飛ばすだけ、鈍で、ただ弓が好きなだけのひとです。

・私は、仏教といって思い出すのは、悪ガキのころ、お経なんてチンプンカンプンですから(今もですが)、家に和尚さんがお経をあげにくる度、どうして和尚さんは足が痺れないのか不思議に思う程度のものでした。その内、悪ガキも和尚さんと、お話をするようになり、どうも原始仏教というものが、お釈迦様の説いたものであり、経典は、お釈迦様の入滅後、弟子達が記録したもの。だから、なぜかしら如是我聞という言葉があるのかも知れないという程度までは、聞きかじり、読みかじりの独りよがりレベルで、なんとなくわかったつもり程度の、とても乏しい知識(知識ともいえないかな)です。あらためて、仏教を原始仏教あたりから勉強してみたいと思います。

・五行をお使いのようですね。
五行といえば、五方、五音、五色、五臓が思い浮かぶ程度、相生相剋、例えば九星にしても、表、裏、まだまだ、おぼつきません。

・そういえば、道教のお寺に行く機会があり、仏教?の法具があったことを思い出しました。機会があれば、もう一度たずねてみたいと思います。

・私が先生に習ったのは、日本の弓は、儒教の影響を受けているようだ。とだけで、何ということもなく、そうなのだろう、と思ってきまたし、今もそう思っていますが、もう一度、勉強して見たいと思います。

本題とかけ離れ、かつ、話が飛び飛びとなってしまい、申し訳ございません。

勉強をする機会を与えていただき、ありがとうございました。

55:アチャチャさん
瑠吽 ◆QTJtMY0Aさん

私が貴方に勉強の機会を与えたのでは無い、と思います。
確かに、ここで貴方にお会いしたのも縁でしたが、貴方には真摯に弓に向かうお心があったからでしょう。

私が記した内容には、誤りや曲解や独自な思い入れがたくさん在るようにも思われます。

一人一人が、自分の金体白色西半月の位を築いていかれることが、望ましいと思われます。

ネットの世界ですが、この様な返信を頂き、とても嬉しい気持ちです。
有り難う御座います。

56:アチャチャさん
私は日に精々10射です。
しかも、時間をかけてです。

射法訓のような射は、一射絶命の射ですね。
それを目指して引いているだけでも、大変です。

体力・気力もそうですが、いくら体力トレーニングを重ねていても、重すぎます。

むしろ、悟りの射は、一度経験すれば、それで良いのかもしれません。


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