中て気 (投稿18件)[1〜18]


1:弓和さん
段丘審査の筆記を勉強しているときに『中て気』について書かれているところがありました。
そこには中て気は学生に多いと書かれていました。
でも私たちは、弓道を「趣味」ではなく「競技」として行っているわけで、当然『中り』を求めていると思います。
中り気に走るという言葉もありますが、中て気に走って当然だと私は思うのですが、みなさんはどう考えていますか?

2:明鏡止水 ◆IDFFcYqcさん
>私たちは、弓道を「趣味」ではなく「競技」として行っているわけで、当然『中り』を求めていると思います。
>中り気に走るという言葉もありますが、中て気に走って当然だと私は思うのです
仰る通りだと思いますよ。(一つの側面としてね。)
当面は其れをとことん追求なさって構わないと思います。


>段丘審査の筆記を勉強
一つの考え方として聞いて下さい。
「競技」としての弓道のなかに「中り」を追求なさる場合、其処に受審は必要なのでしょうか?

3:tommyさん
 「競技」として弓道をしてる「私たち」って誰ですかね?
やはり、学生に多いのではないですか?

 「弓道」は「武道」であり、「競技」ではありません。
本義のみを追求すれば人殺しの技術であり、
武「道」としては、そこに人格的な成長、完成を目指す物です。

 「弓道」を「競技」として捉える弓道は
決して悪い事とは思いません。
しかし、それは弓道のほんの一側面を、
しかもほんの浅く捉えているだけに過ぎないと言う事を
しっかりと自覚しておかねばならないでしょう。
そして、それが、リーグ戦等、試合の多い学生に多い事も。

 失礼ながら、「段級審査の筆記を勉強している」
という時点で既にその辺りの理解が余りにも浅いと思います。
普段から的中の事に余りにも捕らわれすぎている、
それ故にこの様に「審査の為に勉強」等という
本末転倒と言えるような事になるのでしょう。

4:いがあさん
あて気はいろいろな解釈があると思いますが,自分は的中にとらわれ,本来の自分の射を見失うことと思っています。したがってあて気はよくないと思います。(特に3本詰めて4本目を抜くなど,大事なところで外したときによく使われる傾向にあると思います。)

しかし,的中を追い求めることはよいと思います。明鏡止水さんもtommyさんも一つの側面と考えておられるようですが,ほとんどの弓道家の根底にある欲望だと思います。

何故なら,ほとんどの試合は的中制であるし,審査もある程度受審段位が上がると,束中しなければ話にもなりません。

今や武道として弓をする人は少なく,学生は競技として,一般は競技か生涯スポーツとして行っていると思います。

的中を求め続けても,生活,人格,人間性は豊かにしていけると思っていますが。

むしろ,中てたいという欲望を無理に抑えすぎて射だ体配だといって弓をすることのほうが人間完成には遠いと思っています。

5:鳥打さん
弓道には「的中」が必要になります。
中〜高段審査、競技両方を含めて。
時には喉から手が出るほど「的中」を求めることもあるかもしれません。
「中て気に走る」のはそういった環境から生まれるものだと思います。
しかし、仮に中て気に走って「的中」を手に入れても、良い結果が得られるのは競技だけでしょう。
弓道には射の美しさ、且つ的中があってこそ技量を認められると私は考えています。
中て気によって、私的な的中合理性から成った射がどのようになるかはわかりませんが、弓道の良い結果(例えば、試合に勝ち、他者に賛美され、他者に道を諭す等多く)は、中て気に走るだけでは手に入らないと思います。
中て気に走るとするならば、出る杭を打つようなことはせず、同じだけのエネルギーを、射型や体配にも掛けてやるべきです。

ただ、中て気に走るのが見て取れるのは、ある意味、周りに気合の伝わる射をしている事です。美しい射には、気合の伝わることが必要だとも思います。

6:ネコバスさん
私は中て気になって当然だと思います。というより的があるわけですからはずすより中たほうがいいですし、的中を否定してしまったら弓という道具そのものを否定してしまうような気が…

私のまだ弍段なのでたいしたことはいえないのですが、的中は弓の面白さの一部(というより大部分?)なわけですし、日本で一番権威のある全日本弓道選手権でも的中は競技で大きな役割をはたしているわけですから中きはそんなに悪いことではないと思います。

7:明鏡止水 ◆IDFFcYqcさん
>「中て気」
>「的中」「中り」を求めること
此れ等は、同じものなのでしょうか。


どうして「的中」を否定!・・・と云う処まで話しが飛躍してしまうんだろうか。

8:tommyさん
>いがあ様

如何に今やっている人が少なくとも、
弓道は武道であり、それを忘れては弓道ではありません。
それを承知の上で、一つの宿木として一時的に
的中を追い求めるのならばそれは構わない事でしょう。
しかし、的中を重んじる部分が有るからと言って、
それを追い求め続けても、武道として完成への道がある等という
馬鹿げた錯覚を感じてはいけません。

「ほとんどの試合は的中制であるし,
審査もある程度受審段位が上がると,束中しなければ話にもなりません。」
とありますが、弓道は試合と審査だけではありません。
試合の優勝も、高い段位も、あくまで弓道の一角に過ぎません。
弓道の一角に過ぎない部分に必要な物だけを追い求める事が
弓道として追い求めるべき本来の姿でしょうか?

>ネコバス様
「的中が不必要ではない」事は充分に理解出来ております。
ただし、それが「的中を追い求めれば良い」事には
金輪際繋がりません。
「全日本弓道選手権」といえどもあくまでも試合であり、
弓道の全てを見れる訳ではありません。

9:聖鳥さん
的中と人格形成って、"弓道の違う側面"なんですかねぇ…。
的中を追求し、本物の的中を追求していく過程で、心理的動揺を行射に影響させない、一切の動揺をしない心の形成、則ち人格形成が要求されるものである、と、勝手に解釈しておりました。

すみません、それだけです。

10:笹岡 ◆mRq5DITcさん [url]
 的中を求めることと中て気に走ることは違いますよ。
 個人的には、前者は会に入る前の問題、後者は会に入った後の問題だと考えています。
 的中を求めることが弓道で大事なことであることはいうまでもありません。
 しかし、中て気に走ることは、的を射抜きたいという欲望にかられて、本来するべき自分の射を見失うことだと解釈しています。これは結果的に的中を求めることに反しており、的中至上主義でも良しとはされないことだと思います。
 『学生に多い』ということは、精神的にまだまだ若いということを指していると思います。中て気は精神的な問題ですから、弓道の経験はもちろん、人生の経験も影響してくるでしょう。また、学生は3年、4年という限られた時間の中でトップを目指さなければなりません。身体が許す限り永遠に時間がある一般の弓道と違い(学生と比べての話です)、中て気に走りやすい状況にあることは確かです。

11:いがあさん
すみません。話が本当に飛躍しております。
別スレを立てたほうがよいかもしれませんが・・。
>tommy様
>武道として完成への道
わからないので教えてください。
どういう姿が武道として完成された姿なのか?

それから,少し本題に戻りまして・・・。
大きな目標として,
「的中」を追い求めることはOK!
しかし,一本一本の射の中で中てることだけを意識しすぎて回りが見えない様(あて気)はだめ!ということですかね。

12:tommyさん
私にも解りません。
ただ、言えるのは、
的中はその完成と言う言葉に包括されてしまう程度のものだと言う事、
的中や射型や礼儀だけでは完成には程遠いと
気付いた程度の些末な者の考えすらも
包括して埋没するほどの大きな概念だと言う事です。

13:tommyさん
連投御容赦下さい。
wikipedia「武道」の項より引用させて頂きます。

 以下引用

武道(ぶどう)とは、心身を鍛え技を磨く稽古を通じて人格の完成をめざす、伝統日本武術から発展した素手もしくは武器を使用した格技。

競技スポーツの形態をとることもあるが、本来は武道の一面に過ぎなかった。しかし近年では、試合を中心に考えて取り組む傾向が強くなるなど、技術体系としての武道と、競技としての格闘技の境界が曖昧になり、本来武道とされるものが格闘技と呼ばれることがある。

特徴の項で、嘉納治五郎がはじめて武道とした柔道で挙げられるように「試合」や形競技・演武競技をおこなう武道もあるが、合気道のほとんどの流派は誰もが武道と認めるが試合は無いように、「それがない武道は武道とは言えない」という要素ではない。

 以上引用

競技・試合を的中を競う場として捉えれば、
的中は武道「弓道」の一面に過ぎず、
「的中を追い求めない弓道は弓道とはいえない」という要素ではない。
返せば、「的中を追い求めない弓道が存在する」となり、
「的中のみを追い求めては完成はされない」となります。

14:T・Tさん
更なる連投すみません。
以上投稿者「tommy」は「T・T」です。
弓道関係外でのハンドルネームとで混用してしまいました。
申し訳ありませんでした。

15:本学生さん
「的中を追い求めない弓道が存在する」(条件A)なら、「的中を追い求める弓道」(条件B)もあるわけで、「的中のみを追い求めては完成はされない」とは、条件Bだけでは条件Aが欠けるという意味ですよね。

それなら「的中を追い求める弓道」も武道「弓道」成立のためには必要なわけで、ことさら否定しなくてもいいんでないの?

>12の回答は、自分もよくわかなないが、ものすごい概念なんだ!誰も理解できるものでないってこと?
なんだか宗教じみてる。一つの回答ではありtommyさんの主張だとわかりますが、あまりに崇高すぎて平民には理解に苦しみます。

tommyさんがその概念を受け入れるにいたった経緯に興味があります。わからないものを受け入れるってなかなかできないです。

16:いがあさん
難しい・・・ですね。そこに非常に奥深いものがありますね。
自分は弓道≠武道という考えなので,いかに自分が満足できるかどうかを考えてしまいます。
自分にとって満足することとは,中たることによって,試合や審査で結果を出すことや日々のストレス発散。
さらに,弓道をする中で,他の人に認められたり,褒められたり,信頼されたり,感謝されたりなどですか。
このような経験が生活を豊かにしていくと思うのでこのような経験ができるよう練習しているつもりです。(もちろん失敗経験も最終的には生活を豊かにすることにかかわるものと思っています。)
結局,いくら中ってもまわりに認められなければ,本当の意味で心は豊かにならないと思っています。

17:T・Tさん
一つ目に関しては、全く異論は有りません。
的中も確かに必要です。
私が否定したのは、
「的中のみ」に捉われる事をも良しとする考え方です。

二つ目に関しては、私の最初に指導を受けた先生にあります。
もう11年以上前になるのですが、私が弓道をはじめた時の先生です。
その先生は、私がはじめる随分前から試合に出ていません。
審査も受けていないので高い段位も取っておらず、称号も取っていません。
しかし、その射は一目で見て解るほど素晴らしく、品に満ちていました。
人望にも優れていて、高段で称号者の先生すらもが、
その先生の下で指導を受けている私達に対して、
「あんな素晴らしい先生に教わる機会なんてそう無いんだから、
教えて貰える今のうちにしっかり教えて貰っておきなさいよ。」
と仰るほどでした。
それから10年以上経った今でも、
その先生は審査を受けておられませんし、
試合にも出ておられない筈です。
でも、あの時以上に素晴らしい弓道をしてらっしゃいます。
あの時以上の人望を持っていらっしゃいます。

今にして気付くのですがその頃から既に、
弓道は的中でも段位でも礼儀だけでもはかれないもっと大きな物なのだと、
良いお手本を見させて頂いていたのだと、そう思います。

18:本学生さん
T・Tさん ご回答ありがとうございます。
言葉でなく、目標とできるすばらしい射に出会われたことがきっかけですか。

百聞は一見にしかずですね。
そのすばらしさを広く伝え後世に残せるといいのですが、そう簡単に見れないのは残念です。T・Tさんがそのすばらしさを身に付け先生から受けた感銘を次の世代に伝えられることを希望します。
私にもいつかそのような出会いがあるといいですね。


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