「指導」のあり方について (投稿9件)[1〜9]


1:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
「指導」の難しさを思い知らされる話題を幾つか拝読し、投稿致しました。

弓道誌12月号で、範士の先生が「出来もしないことを教えてはいけない。口だけの指導をしてはならない(鈴木三成先生)」「自分が手をかけていない人には直接指導はしない(山下三ヶ十先生)」と述べていらっしゃいます。私もたまに地連審査を受審される方の講習会をお手伝いしますが、自分と射技の異なる方(主には、私は正面打起しなので、斜面の方ですが)には満足な技術的な指導ができる自信が無いので、主に体配について申し上げるようにしております。しかし、そういう指導のやり方はどうにも不評のようで、懇切丁寧に技術指導をされる方の周りに受講生の皆さんが集まり、私は暇を持て余す、という事もございます。
無論、まずは自分自身の技量不足・勉強不足を反省すべきでありましょうが、やはり自分の体得していない事を、知識の上だけで知ったかぶりをしてあれこれ申し上げるのは如何なものか、と思われてなりません。

長々と駄文を並べ立てましたが・・・自分でできない事は「指導」すべきでないのか。自分のやっている事は誰彼なく「指導」すべきなのか。指導を受ける側としてのお考えも含めて、皆様方のご高見をお願い致します。

2:明鏡止水 ◆IDFFcYqcさん
>ゆるみ離れさま
「自分のやっている事」に「自分のやろうとしている事」を含めて考えれば、「自分でできない事」も「自分のやっている事」と等号で結ばれて構わないように僕は考えます。
(↑ちょっと解り難い論理展開でしょうか?)

単純に云えば、出来ていないけど>>やろうとしている>>>やっている・・と云う感じなのですが。

3:タコ焼きやさんさん
教えて頂く側の意見としてお聞き下さい。
自分は先日三段受講のための講習会を受けました。
教えてくれた方にはたいへん失礼なのですが、失の処理についての説明が非常に曖昧で、私の質問に対する返答もあやふやでした。

教えて頂く側としては説得力のある細かい説明、そして注意して頂くのも可能な限り些細なことでも指導して頂きたいです。
よって曖昧で知ったかぶったような説明はさけて頂きたいです。それと、これは人それぞれだと思うのですが、私は出来るだけ厳しい指導を望みます。

わがままな意見を失礼致しました。

4:ソバ矢さん
 明鏡止水さんの論理、よく解りますし、その考えに賛成です。

 その上で、正面であろうが斜面であろうが矢筋の押し引きとその結果としての矢筋の離れ、残心をもとめていることに違いは無いと思ういます。
 もし受講生の方がその部分で弱いなぁと感じられたら、どうしたら”その人”が出来るようになるかをアドバイスし、次に逢った時に出来るようになっていたら、どうして出来るようになったのかを逆にアドバイスして貰えば、お互いの修練の糧となるのではないでしょうか?

 指導者と被指導者の立場というのは段位などで固定されるものではなく、その時々によって変わるものだと思います。

5:紫弓さん
 指導に関しては私はわかることの確認から、わからないことの認識へ一歩踏み出せるようにしています。
 推測で話すことは詭弁になりますが、実践を伴う推測で話すことで受講側の考える力やプロセスになれば良いかと思っています。(明鏡止水さんと似た意見ですが)
 
 体配指導は射礼含め武射系と礼射系の違いや失の処理の説明等をより細かく出来るように努力しています。指導者講習会などで改定もあるので、結構アンテナ張り巡らせたいですね。

 射技指導はそれぞれの指導者の引き方を説明するべきであると考えています。この点が直接指導しないの本意がある様に感じてしまいます、、。そうしないと癖のいたちごっこが始まることの方が多いと感じています。 
 受講生も自分と違う引き方の方に会ったら、どの様に対話すべきかであって、時には自分の引き方の疑問を聞く事も必要かと考えています。
 どちらにせよ指導者に賛同する受講生が集まれば良いと考えています。

 課題を常にもち、その課題を提供出来るように努力していますが、理にかなっているかが問題だと思います。

6:弓遊び ◆.t4dJfuUさん
字面や言葉そのものに、とらわれる事無く、もう少し柔らかく考えてもいいと思いますが。

如何でしょう?

7:射楽斎U ◆5aoi8gEMさん
私にとって、最大の転機は、「これが本物の弓か・・・」という衝撃の射を見たことにあります。
全身が震え立つあの思い・・・、言葉がありません。
こんな射を見せ付けられれば何の指導も必要ありません。ただただ、「俺も実現したい」「俺も弓引きになってやる!」と言う思いだけが自分を駆り立てます。
そういう意味で、現鈴木三成会長の言葉があるのだと思います。
自分が引いて背中で導けるなら、それが理想です。
多くの知識と経験が必要なのは事実ですが
指導せざるを得ない場面にあっては、3つの基本があると思っております。
1つは、「弓道観」です。
どんな弓道を理想と描き、「今」の時代の弓道をどう捕らえ指導するか、と言う問題です。過去を知り、現代を知り少なくとも近未来をきちんと見据える覚悟が必要になります。
2つには、「生徒観」です。
これは3つ目の「指導観」と密接に関連します。
指導する相手の今の状況と今後の展望、それに対する指導の組み立て・・・、30数年指導をしてきて、常に悩み、工夫してきた日々を思い返すと、簡単ではありません。
「そこまで考えなくてもいいじゃないか」という言葉が聞こえてきそうですが、指導理念の深さは際限なく、どこまでも謙虚に工夫しつづける以外に無いと思っています。
よき指導者たらんとする道は、背中で指導できる指導者たらんとする道と同じ深さと苦しみがあると思っております。
最初から無理なのは承知です。しかし、指導者たろうとするならば、それだけの覚悟は必要だと思っています。

8:くまたかさん
的私には、指導者は「失」の処理と同じで講習会の目的に応じ指導出来ればと考えます。
「審査前講習会」「技術向上講習会」「段位別講習会」等、地方により違いが有るとは思いますが。また、とある範士の先生は、範士は範士の教えるべき事を。教士は教士の錬士は錬士の教えるべき事を教えるべきであり、範士が錬士の先生でも教える事ができる事を指導するのではなく、範士しか教える事ができない事を教えるべき。とおっしゃつてました。私は指導を受ける側に合わせ、自分が出来なくても褒める事を含め、自分の出来る(知りうる事を含め)指導が出来れば。と考えます。

9:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
謹んで新春のお慶びを申し上げます。

ご覧になった方も多いでしょうが、別スレッドで教士の先生に大切なかけを台無しにされ、日弓連を辞めるとまで書いた方がいらっしゃいました。文面から察するに大変真面目な方とお見受けしましたので、同志が袂を分かった事のように感じ、心を痛めております。

一方で、くだんの教士先生も、自分の行いを正しいものと信じた上でなさった事でしょう(悪意を持って台無しにしようとした、自ら失敗と分かっていて認めようとしない、という事であれば、もはやその行いを論ずる必要もございません)。それに適応できない人を「未熟者」と切って捨てる非情さも、指導者たる者の資質なのか、と感じております。

結局、万人に共通の弓の引き方、というものは恐らく存在しないのでしょう(共通の基本となるものはあるにしても)。その中では、各自が「自己流」を貫く事が大切なのではないか。教える側に立てば、自らの会得したものを正しいと信じ、正しいものとして教える。教えられる側としては、自らの射というものを確固として持ち、これと違うものには敬意を表し参考にしつつも、合わないと思えば退ける、という態度が最も望ましいような気が致します。

蛇足ながら、昨年より私の所属する地連の講習会では、正面・斜面それぞれに分けて射技指導をする事になったようです(お呼びがかからなかったので存じませんでしたが)。

最後になりましたが、様々なご意見を賜り、厚く御礼申し上げます。


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