学生弓道と社会人弓道は共存できるの? (投稿12件)[1〜12]


1:元学生さん
先日、初めて地元の射会に参加させていただいた時の出来事ですが、参加された皆さんが竹弓を使っていたという状況の中、カーボン弓持参で参加させていただきました。

結果はダントツで勝ってしまい的中ばかりが目立ってしまいました。試合後にぼそりと、「学生弓道だから・・竹弓でないから・・竹矢でないから」といわれてしまいました。学生も社会人も目指すところは同じで、その過程が違うと考えておりましたが、その射会では「学生弓道」という概念を全面否定されました。

そもそも学生弓道とか社会人弓道って何なのでしょうか。それは、互いに受け入れられないものでしょうか。
次回は、少しお金がかかりましたが竹弓竹矢で挑戦しようとしておりますが、これで当ててもやはり学生弓道と非難されそうです。

社会人の方が言われる学生弓道ってなんなのでしょうか。皆様のご意見をお聞かせ下さい。

2:天龍さん
我が国のスポーツ風土に、学生スポーツ上がりの選手は本格派で、社会人から始めた人は普通の愛好者だという競技者像が出来てしまっていることは確かです。この問題は根が深いので置いておくしかありません。

本当は学生弓道という射術はありませんよね。しかし、運動能力がピークの年齢の時に組織的な指導を受け、短期間で相当の技能を体得して、厳しい団体戦で鍛えられたタフな神経を持っていれば、一般の射会で目立ってしまい、見ている諸氏が複雑な顔をするのはよくあることです。
けして敵視しているわけではありませんよ。一種の羨望であり敬意も混じっています。
一人や二人は大人気なく本気で嫌味を言う人もいるかもしれませんが、それはどこにでもいる例外ですので、ニコニコとご意見拝聴です。

ただ、学生弓道部出身者が全員そういう実力者ではもちろんなく、多分に一般側の勝手なイメージであるとは思います。

3:ぬふぬふさん
なんつーか“僻”なんですよ。元学生さんの的中に対する僻。 影てコソコソと言われてたら陰湿ですが、面と向かって言われたなら愛情です。 学生上がりで高的中の人が誰でも通る道ですよ。 
私だって何人の社会人1年生に言ってきたことか(笑) 今では殆どの人がいい仲間ですよ。
仲良く和気あいあいとやるのが社会人弓道。中には完全に入り込んで一人競技弓道をやる人もいますがそれも社会人弓道。 自分の居場所をみつけ自分の道に進んで行くのが社会人弓道ではないでしょうか?

4:銀杏ボーズさん
僕は高校を出て、地元の弓道会に入ってます。
僕もいろいろ言われました。
今年は、ある学校の監督さんより指導してもらいました。

その後は半端なく非難浴びましたね(笑)
教士七段の三人の先生からもでも
僕は、そこまで気にする必要ないと思います。
あ〜しなさいとかこ〜しなさいて言われましたけど僕は出来ないものは出来ないと言っちゃいました…。(笑)
僕みたいにならないようにはして頑張って行きましょう

5:けんたろさん
道具の問題じゃないですよ。
一般の人と同じく指導者について、
何年か弓を引いて、考え方みたいなものや、
諸動作への注意みたいなものが身についてくると、
同じだけ中てても、ブツブツ言われなくなってきますよ。

こういう声はある面では一理あるけど、大抵はやっかみですから。
気になさらぬよう。

ただし、学生弓道では実際、体配や動作を呼吸に合わせる、ということを
最大の目的として弓を引いているところは少ないですから、
一般と違いがあることは事実だと思いますね。

批評を受けて悔しかったら、努力するしかないですよね。
否定、ととらないほうが自分の為になります

6:明鏡止水 ◆IDFFcYqcさん
>学生弓道と社会人弓道は共存できるの?
屁理屈のようですが「元」学生とお書きのようですから、最早‘学生弓道’では無いことは云うまでもないでしょう。
一般の道場や弓道会に所属している訳ですから、其の中ではもう認知されていると考えられますよね。

今回は初めての射会とのことですから、此れからも積極的に、射会や講習会や審査に参加して行けば宜しいように思います。
其の積み重ねが、何れ外の弓道会や県連の方々の認知に繋がって行くように思います。

けんたろさまの仰るように、道具の問題じゃないと思いますよ。
カーボン弓が中る!(カーボン弓で中った!)と云うのならば、竹弓をやめれば好いんですから・・・。
何れは竹弓への移行を考えねばならないのでしょうが、直ぐに焦る必要はないと思います。

>学生弓道
最後に、今迄の学生時代の自分の弓や中て方・・などに、あまりに拘り続けて変革(進化)を拒むことは、あまり得策ではないと考えましょう。
学生時代に培った的中や集中力などを元に、今後ご指導を受けたことを融合して行けば、自然と変って馴染んで行くのだと思います。

7:元学生さん
皆様、ご意見ありがとうございます。

学生の時には確かに的中にこだわって努力した結果、教本に書いてある基本が一番当たることを実感しております。ただ、それを完全に身につけることは程遠く、道のりははるか先という状況です。

しかし、学生時代の練習のおかげで矢所はまとまっており、これが的中につながっております。学生の時の壁を越えるためにも正射を目指して、指導を受ける中で癖を直す努力をしております。

正しい的付けを行うと全て的の外に矢が集まります。射がまだまだだという証拠でありますが、射会の場では、今の実力でできることとして、的付けをずらしてます。練習と射会は分けて的前に望んでいますが、この考えが受け入れられていない感じがします。

正射は確かに当たりますが、一つでも崩れれば外れますので別の修正(不正を重ねることになりますが)を行って実力に応じた的中を出すのは、社会人としてはあまりよくないのでしょうか。
きっとこの考えが共存できない原因かもしれませんが、一つでも不正があるうちは的に当てないことが美徳だと言われている気がします。このあたりは、どう受け止めたら良いのか悩み所ですが、もう少し指導をいただいて、今の自分と指導の融合の仕方を考え直したいと思います。

ありがとうございました。

8:射楽斎Uさん
元学生さん の苦しみ、同じ体験者としてよく分かります。
でも、「7:元学生さん」のレスにあるように、すでにお気づきですね。
だんだんわかってくると思いますが、「正射」とは「正しきを己に求む」弓道です。
しくじったら、潔く的中を逸することも辞さない覚悟で全力を尽くす「射」です。
そんなの堅苦しくてやってられないよ…、という場合は、レクレーション弓道でもいいのです。
でも、遠からずつまらなくなってしまうでしょうね…、私がそうでした。
中てまくって、賞状集めて、国体に出て…、どこまで行っても満たされないのです。
そんなとき、見たこともない矢勢の鈴木三成(当時錬士七段)や、全身桜色に染まるまでの持満のすえ的芯をはずさない川村光良(当時26歳、錬士六段:全日本準優勝直前の講習会での射)らの射を見る機会に恵まれ、ものすごいカルチャーショックでした。
自分の射など、子どもの遊びだ…、とまで思い、情けなくなった時期があります。
できれば、より本物に近い射を見てください。
幸い、最近の若手の範士には、見る者の
心を射抜く射手が何人もいます。
数年後、全日本選手権の舞台で、的だけでなく観客の心をも射抜く元学生さんの射を楽しみにしています。

9:明鏡止水 ◆IDFFcYqcさん
>射楽斎Uさま
好いお話をありがとうございました。

>しくじったら、潔く的中を逸することも辞さない覚悟で全力を尽くす「射」です。
また新たな気持ちで稽古に望めそうです。



>元学生さま
>一つでも不正があるうちは的に当てないことが美徳だと言われている
僕は其の考え方(受け止め方)は間違っていると思います。
自分に此処!と云う好い処・・秀でた処・・・が在れば、必然的に‘中って’好いと僕は思いますよ。
勿論、悪い点(仰る不正)とのバランスや力関係になるとは思いますが。

「美徳」などと云うことは考える必要は無いように思うのです。
他人の目と云うか、好く見られたい・・と云うようなことはあまり意味の無いことで、弓道とは自分との戦いで在るはずです。
(射楽斎Uさまの仰る「正射」とは「正しきを己に求む」弓道です・・と云う部分です。)

>別の修正(不正を重ねることになりますが)を行って
ただでさえ射癖や欠点を抱えているのに、わざわざまた‘悪い点’(不正)を増やすことも無いように思ってしまいます。

>実力に応じた的中を出す
正しい的付けをして中らないことが実力なのか、小細工をして‘当てる’ことが実力なのか・・・?どっちなんだろう??
勿論、個々の考え方や求めるものによって違うんでしょうがね。

仰るように、途はまだまだ遥かで果てしが無いですが、焦らずに一歩ずつ進むしか在りませんね。
社会人となって一般で弓を引く場合には、弓をやめてしまうまで・・・・・・時間は充分に在るのです。
頑張ってくださいね。

10:元学生さん
射楽斎U様。 貴重なお話ありがとうございます。なんというか虚無感にさいなまれる瞬間はあります。本物の射に出会われたこと大変うらやましく思います。
目標となる射に出会うことで「正しきを己に求む」心を強く持てるような気がします。

明鏡止水様。
自分はまだまだ心が弱いため、周囲の声を気にしてしまいます。これは道としての修練でしょうか。逆にいえば、これが弓道の魅力とも言えるのかもしれません。

今の自分が完全に「正しきを己に求む」ことを求めたら、射会には出ないと思います。「正しきを己に求む」ことを射会で求める必要性が現在見出せていないからです。

射会には同じ道場の仲間との懇親も含まれると思います。競技である限り、当たりを期待される面もあります。出る限りは、懇親という社会面を否定して、ひたすら己の射を求めるのは問題があるのでないかと考えるためです。今の技術でどう射会に望めば良いのか迷うところです。

ご指摘の通り、「正しい的付けをして中らないこと」が実力だと思います。それを受け入れず、未練のように迷っているため、中途半端で立ち止まっているのかと皆様のご意見から考えるようになりました。

いまたくさんの課題を抱え目指す先が見えず進む方向の手がかりも見えない草原に立っているような気分です。
このまま突き進めば小細工の先の虚無感が待っていそうです。
正しきを求めると、当たらないことを「正しきをもとめているんだ」と言って正当化してしまいそうな自分も見えます。

射楽斎U様がおっしゃられた全日本選手権は一つの回答かもしれません。今は10点も取れませんが目指すにはいい目標かもしれません。

11:MLさん
問題というのは難しく考えるから余計難しくなるものです。
もっと単純にいきません?
原点に返ってみましょうよ。
ただ的に中てるのが好きなのか、純粋に弓を引くのが好きなのか。
私には難しい話はよく解りませんが、時々思うんです。
「何故、弓を引くことを辞めないんだろ?」って。
その答えに今後の方向性を見つけることができるはずです。

周囲の声が気になるとのことですが、結構なことではないですか。
気にしなくなったら、自分勝手、それこそ肩で風きり我が道を行く。
そのうち相手にされなくなりますよ。

12:かおりんさん
過去ログっぽくなっておりますが、内容が大変興味深いため一言意見させてください。

私は去年大学の弓道部を引退しまして、長崎の道場で弓を続けております。いま自分がお世話になっている道場も、当然大学弓道がお嫌いな先生方がたくさんおられますが、そのほとんどの方は、「目先の中りのみにとらわれた」とか「体配をおろそかにした」弓道が嫌なようです・・・・最も、自分が直接その先生方とお話をさせていただいた限りですが・・・。
中には「大学弓道は、若若しい!すばらしいじゃないか。細かいことをいろいろ言うのは、一般の道場入った後で、先生方に教授してもらえばいいのさ!試合のときは熱いのが良いのさ!」なんておっしゃる先生もなかにはおられます(もちろんごくごく少数です)。

自分は、今の道場でも、幸い多くの先生方にかわいがられております。理由は「弓道に対する姿勢が真摯だ」「指導に対する姿勢が真摯だ」等です。また、今年、道場では、北海道の大学の現役の弓道部の学生が、夏休みに来て練習されておられましたが、同様の理由で大変熱心な指導を先生方から受けておりました。

「大学弓道」「学生弓道」に対する偏見はありますが、射士である「元学生さん」に対する偏見は、真摯な態度で望まれる限りないでしょう。

 また、これは余談になりますが、一般のかたの「学生弓道だから」は一種の冗談で、そんなに気になさらなくても良いのかもしれません。自分なんかは、試合で的中が悪いと、「おい学生!」といわれたり、「学生に勝った!」とか言われますが、それはもちろん冗談です。「まだ初段ですから」と返すのには少々時間がかかりましたが(^^)ただ、自分が試合に出る際は、多少の「大学弓道経験者」としてのプライド(?)は持つようにはしています。精一杯引いて、的中を出し、かつ指導をいただいて帰るのが理想の試合の一日です。


長文、駄文、大変失礼いたしました。


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