正射必中or必中正射 (投稿159件)[1〜159]


1:へきるさん
はじめまして、へきると申します。
論題はタイトルの通りです、みなさんはどちらですか?
純粋な「的中技術」の延長線上に確実な中りが存在することを私は知っているので必中正射だと思うのですが。

正直な所、正射必中を掲げる人のそれを聞きたい。どういう概念の上で弓を引き続けているのか私は興味があります。

討論しましょう。

2:龍斎さん
面白い内容なので、私も一つ・・

「正しい射をすればおのずと的中はついてくる」

という「正しい」基準とはなんなのか前から不思議でした。




「流派の制定したもの」なのか「教本」なのか・・・

またなぜ、「教本=正しい」なのか・・?(ある一定の範囲内では正しいと思いますが・・)


「綺麗→中る」の根本的な理由・・・



因みに、私も必中の中から正射が生まれると思う側です。
ご教授お願いします。

3:ぬふぬふさん
どちらかって言えば『当たるんならどんな引きかでもいいじゃん』って思ってる側の人間です。
各流派の教え通りに進んで行けば必ず中りはついてくる=正射必中
周りと比べると独特の引き方だけど殆ど的に中ってるから別に見てくれなんてイイじゃん=必中正射
だと思っています。 
師について稽古に励むが正射必中で独学で己の道が必中正射かなとも思います。
どちらにしろ安定した中りを出すにはある程度整った射型が必要だと思うのでどちらでも遠・近道関係無しにどちらでもいいんでは?と思うのが正直な所です。 
で、私の経験ですが独特の中る射型をすてて教師の先生にアドバイスをいただきコツコツと治して行った射系は以前の当て射程の的中率は出ませんが当て射には無かった安定感が身につきました。
多少ですが正射に近付いたおかげかなと思っています。 あと正射の中には体配等の内容も含まれているのでは無いかと思います。 射を楽しむのではなく弓道を楽しむには正射必中が必要かなとも思ったりします。  

4:あさん
礼儀作法をしっかりし、
心を落ち着かせ、
なおかつ美しく、
もちろん中てる。

これらを全て両立させればいい。

目的を果たすために方法はある。
どんなルートを通ろうが、最終的にこれを目指し、
バランスの取れた射になるようにすればいい。

・必中するのが正しい射
・正しい射は必中する

似てるようだけど最終目標が全然違う。
最終的な目標を考えれば、おのずと答えが見つかると思う。

5:天龍さん
射撃の目的は的中にあり、技能はその方法論ですよね。
普通の論理と言うものは、不動の目的があり、その達成のため方法論、技術論が構築されるものと思います。
ところが、思いつく範囲では武道の範疇のみ、目的は一応置いておいて修行の過程に価値の重きをおく考え方があります。結果のみを追うのは何か卑しいみたいな。
「勝つと思うな、思えば負けよ」など。「正射必中」もその典型ですね。
反発を感じる若い人がいて当然だと思います。

6:明鏡止水 ◆IDFFcYqcさん
「正射必中」-「必中正射」
一体何が違うのでしょう。
どちらも目指すものは「必中」と、同じではないでしょうか。

此処での「必中」の定義は「必ず全て中る」と考えて下さいね。(九割とか九割五分・・とかではないです。)

7:無影心月さん
的中は目的でなくて、結果です
的中を求める射は弓道ではなく、ただの遊びだと批判されても、致し方ないですよ

厳しい文章で、失礼

8:へきるさん
こんにちは

>>龍斉さん
師を持つとしてもその師が中るノウハウを持っているかどうかですよね、的中の無い方のそれはまるで曇を掴むような指導ばかり、それで本当に正しいのかと。必中はいつ訪れるのかと。

>>ぬふぬふさん
そういう見方もありますね。行き着く先も間違ってはいないと思います。

>>あさん
いまいち意味がわからない、いやわかるんですけど国語力がないもので。
つまり正射が先ってことですよね?すいません正しい射ってなんですか?どこに行ったら見れますか?すごく見てみたいんです。他県でも国外でも行きますから。

>>天龍さん
結果に繋がる過程を重んじるならなにも問題はないと思います。

>>明鏡止水さん
正射必中…正しい射は必ず中る。
必中正射…必ず中ってるってことは正しく的を射れてる。
結構違いませんか?

>>無影心月さん
何が面白くて弓くかって聞かれたら私は的に中るのが楽しいからと答えます。技術向上すればするほど確実性が増すから。
決して体配は楽しくない、まして礼が楽しいなら華道か茶道をやってます。

9:たぶんおやじさん
>師を持つとしてもその師が中るノウハウを持っているかどうかですよね、的中の無い方のそれはまるで曇を掴むような指導ばかり、それで本当に正しいのかと。必中はいつ訪れるのかと

判らないでもないけど的中は自分の才覚で
引き方は先生の指導の下で・・・

体配と礼法は違うんだがな

10:黒紫さん
たぶんおやじさんと似たような意見ですが、

「体配と礼法は違う」です。
礼は、技や術ではありません。

正射必中と呼ばれる様な方は礼法も素晴らしいですが、だからといって「礼が技に直接繋がる」事はありません。


因みに私自身の意見としては

意識の差程度のもので、
「正射必中は技・術の極地である。」だと思います。

なので、的中の後に綺麗を求めています。

11:無影心月さん
体配も礼法も全てを合わせて弓道ですよね?

相対射程度のレベルになれば、外す事はなくなりますよ

12:龍斎さん
>>へきるさん

師の選別となると話は難しいのですが・・ただ、師の全てを「正」とするのであれば、指導には従うべきですね。

>>無影心月さん

申し訳ありません。解答としては曖昧過ぎて、棒理論に見えてしまいました。
的中は結果→的中を求める射はただの遊びだと言われる理由も教えて頂けると・・

「的中のみを求める射」では、先の見えた射だとは思いますが、遊びだとは思いません。
「的中と共に何か(私の場合は静)を求める射」を弓の条件と思っています。
的中を求めない射は娯楽(私的です)と感じてしまいます。
求めずに中る等と云うオプション程度の易さでは無いと感じています。

>相対射程度のレベルになれば、外す事はなくなりますよ
それだけでは「そういうもんだよ」で、説明
は出来てないかと・・

>>たぶんおやじさん

>引き方は先生の指導の下で・・・

賛成です。
引き方の基本は経験者に教わる事が最良だと思います。

私はどちらかと言うと、意識程度の範囲内で正射が先か必中が先かと言うことでした。(個人差もありますが・・)

ほんの一例ですが、かの阿波先生は「百射皆中してから、正射を目指す」として実行したらしいです。
最もそのせいもあってか、射道教の他の人には「あの人は的中を求めすぎている」という批判が強かったとか(聞いた話によると、他の教者は、的中に関しては全く無かったそうです(正確には的を狙っていなかった)。)

13:たいがさん
いろんな考え方があると思いますが,
中る人は必中正射。中らん人は正射必中を目ざしている場合が多いと思います。

私は正射必中。
中たる射になるように日々精進しています。

14:ヒヨコV3さん
僕はどちらでもありません。
弓を引きたいから引く。
正射云々、的中云々気にしてたら重すぎて11年も引けてません。
出来、不出来があるから面白く楽しく引かせてもらってます。
僕は完璧にはなりたくないな。

15:初心者さん

>相対射程度のレベルになれば、外す事はなくなりますよ

 「相対射」というのは、どういう意味なのでしょうか?

16:飴さん
私は「正射」「必中」どちらも不可能なことだと考えています。
仮に「正射」が可能であるならば、それは「必中」を呼ぶ。逆もまた然り。
不可能の体現に限りなく近い、そのような方々が範士の先生方なのではないでしょうか。
言葉のレベルでの話になってしまうと、その人の哲学での論議になるので、皆さんの意見が一致する、ということは困難だと思います。お互いの意見を参考として、冷静な考察がなされることを願います。

17:初心者さん

>解答としては曖昧過ぎて、棒理論に見えてしまいました。

 皆さんの発言を読んでいると、意味のわからない言葉が時々出てくるのですが、「棒理論」というのはどういうことを指しているのでしょうか?

 繰り返しになりますが、「相対射」というのもわかりません。反対語は「絶対射」ですか?

18:ひさしさん
>>無影心月さん
無理は続きません。自分が理解できているならそんなに抽象的にはならないですよね?
本題から外れてしまいますが、「中って当然」にならない限り真の意味での正射は望めないと思います。特に中て気は中らないうちには捨てることができません。従って少なくとも初心のうちは的中至上主義になるのはしょうがないと思います。

19:あっしーさん
僕にとっての「正射必中」「必中正射」の二つの意味を述べたいと思います

「正射必中」
正しい射(間違いのない射)をもってすれば、必ず中るのだという教訓、あるいは正しい射により必中を目指すという目標


「必中正射」
これは僕なりの解釈では、必中を目指し、正射を行うということ(上の二つ目とほぼ同じ)だと思います。
 これを、「必中する射は正しい射」というように解釈するならばこれは間違いであると僕は思います。
 例として、「狙いが後ろなのにいつも中る」があります。こういうケースはよくありますね、角見が不十分であることがまず第一に頭に浮かぶでしょう。角見というのは射法でかなり重要な技術であることは言うまでもありません。これをきちんと行わずに「正射」なんて言えますか。言えないと僕は思います。

結局、的中を求めるならば、正しい射に近づけなければならないし、正しく射を行えば相応の的中は付いてくるもの
というわけで基本的に二つとも言ってることは同じであると思うのですがどうでしょうか。


非常にまとまりのない文体で申し訳ありませんでした。
一つの意見として受け入れてくれたらなぁと思います。

20:流れ者さん
まず「正射」についてですが、
そもそも「正しい」「正しくない」
なんてのは、絶対的な基準が存在しなければ、
個人個人の主観によるものとなってしまいます。

しかし弓道における「正しい」とはおそらく先人たちが弓を引いているうえで感じたことの集合、いわば主観の集合でしか無いでしょう。

ある人の射を数人の範士の先生方が見るにしても、全員の意見が一致するとは限りません。
せいぜい共通項的なものが存在するだけです。
でもその共通項を「絶対的な正しさ」として、共通項だけを満たした射をしても、中るとは限りません。
範士の先生方は長年弓を引いている中で、中るためにその共通項的な物の上に、何かしら経験によるものを積み上げてきているはずです。
しかし他人とまったく同じ物を積み上げてきた方というのは存在しないはずです。
それゆえどんなに段位、称号があがろうと、
絶対的な「正射」にはたどり着けない。
というか「正射」という言葉が一種の矛盾を内包している。

次に、「必中」に関してですが、
どんな射形であろうと最終的に的まで届く引き尺、正しい狙い、狙いを崩さぬ離れをすれば、必中はするでしょう。(なので正直「的中技術」なんてものの存在に疑問を感じざるをえませんね。)
ゆえに、「正射」ではあらずとも、「必中」は存在する。
しかし、それでは中りを度外視してまで正射を求める一種の求道者(笑)にはあまりにも理不尽だ。
ということで、「正射必中」とは「正しい射をしていればいつかは報われる。」という初心者に言い聞かせるための文句として生まれたのかもしれません。

「必中正射」なんて考え方はそもそも弓道修練の理念・目標に反するのでそういうのを考える人はほかのスポーツへの転向を考えるか、新しい流派の立ち上げを図ったほうがいいかもしれません(爆

弓道をする上での目標は的中ではありません。(学校における弓道など、年数が短く限られている場合は別ですが。)
純粋に的中のみを目標とした場合、弓道の存在意義は薄いものとなるでしょう。(せいぜい日本の伝統文化であることくらいか。)


・・・そもそも「正射」という言葉が矛盾を内包してたらこんな議論はナンセンスか。

21:龍斎さん
確かに言葉である以上、個人で考え方も動機も違って来てしまいますね。

多分、各々の疑問をディベードするならば、



「正しいって何?」


を解決する必要があるのでしょうね。



極端な例だと、
(正しい→「中りのみ」と「綺麗なだけ」の場合、どちらがマシかと云う仮定論)

「中る人は綺麗だよ」「綺麗な人は中るよ」という常識は一回置いた仮定の話ですけど・・

22:初心者さん
 数学IAの例題にならったのですが、

 命題 P: 正射であるならば、必中である。
 Pの対偶: 必中でないならば、正射ではない。

 Pの逆: 必中であるならば、正射である。
 Pの裏: 正射でないならば、必中ではない。

 命題Pが真ならば、その対偶も常に真である。ただし、その逆と裏は、必ずしも真ではない。正射であることは、必中であるための十分条件である。必中であることは、正射であるための必要条件である。

 正射を目指すということは、正射であるための必要条件の達成を図ることを意味する。少なくともその必要条件の一つである、必中、つまり的中率の向上を図ることは、正射を目指す場合には当然である。

23:流れ者さん
「正射」だけでなく「必中」のほうも少々ニュアンスを考えなくてはならないかもしれません。

例えば、練習中、8本引いて3本あたったとします。
このとき、「正射必中」を
「正しい射ならば必ず中る」というニュアンスで捉えるなら、
そのうちの3本は正射をしていたことになります。
したがってこの場合ならば正射必中の逆が必中正射であると認められ、なおかつ逆の命題も成り立つでしょう。(というか、そのままひっくり返しただけなので成り立たないとおかしい。)

まぁその三本の中りにおける射の共通性を模索していって、たどり着いた先が正射であるかも疑問です。

すなわち、「正射ならば的中率100%である」というニュアンスで捉えた場合、
8射3中では間違った射をしている。
ということになります。
しかしこの場合の逆、すなわち、このニュアンスとして「正射必中」を受けとったときの「必中正射」という命題の成立に関しては疑問視せざるをえない。
まぁそれもおそらく「正射」という概念がぐらついたものであるためでしょうが。

24:弓道部員Nさん
初めてこのスレに書き込みます、弓道部員Nです。途中から入ってなんなんだよ、と思ってもかまいませんが…、私が思う「正射必中」と「必中正射」を述べたいと思います。
まず、正射必中は、正しく引けば必ず中る、だと思います。数ヶ月前に講習があったのですが、そこでも講師の方は、同じことをおっしゃっていました。「的までのこの距離と、その的の大きさは、どうやって決めたかというと、誰もが正しく引けば必ず中る距離、大きさだからなのです」と。正射にこそ必中は有り、という感じです。
必中正射は、必中する人は誰でも、正しく引いている、というような感じがします。でも実際は、中る人でも射形の悪い人はいますよね?まぁ、射形の悪い人は必中することはあまりないことですが。
だから、必中正射は私はおかしいかと思います。弓道関係のアクセサリーなどにも正射必中というふうに書かれていますし、私は正射必中が正しいと思いますし、そう信じて練習しています。悪い射で中っても嬉しくないですし。

25:黒紫さん
>弓道部員Nさん

失礼ですが、確か
的の距離は「攻められた時に、対応出来る最低限の距離」で
的の大きさは「人間の胴の幅」だったと記憶しています。


師範レベルの方ですら知らないとは…



私の意見ですが、「古来から弓道の原点・存在理由」を考えれば、射の美しさに文句・偏見の主張はともかく、

中りは論ずる必要すらないハズです。


なので、射形は何してようと「弓道」だと思いますが、
中らないのが、例え過程だろうが何だろうが「弓道」ではないと思います。

型中心の弓道は、ただの舞踊だとすら思います。

26:紅一入さん
「正射」って何でしょう?
 先人が伝えてきた射、先生が教えてくれた射、あるいは書物に書いてある射、いずれにせよ今現在求めている射の理想像といっていいかと思います。射型・力のはたらきを含めての「正射必中像」があると思います。
 人の感覚は毎日ゆれ動くので、「正射」に照らして修正する。癖を直しているなら、「正射」に照らして矯正する。これが稽古ですよね。
 その「正射」は教えられたり、うまい人の射を見たり、書物を読んだりして作り上げたものです。だから「正射」は人によって違ってあたりまえ、というより同じになりようがないものだと思います。
そしてその「正射」は変動します。変動要因の1つは環境、1つは教養。
 環境について言えば、例えば先生が変わったり、周囲のうまい人が引っ越したり、道場を替えたりすると、「正射」も変わります。
 教養について言えば、新しい本を読んだり、写真を見たり、このようなHPなどで情報が増えれば、「正射」も変わってきます。
 「正射必中は人によって違う」
 「正射必中はゆれ動く」
 まあ考えてみればあたりまえの事でしたね。「正射必中」といってもたかだか自分の現在思い描く「正射」でしかないわけです。
では何故わざわざ「正射必中」と謳うのでしょう?
 中て射等の「邪射」を排除するためか・・・「正射」が人によって違うことを考えればこれはないでしょう。
 「正射」をすれば「必中」するのだという「おまじない」か・・・これかな、という気がします。もちろん「正射」通り出来たとしても「必中」するとは限りません。ただ、行射中において「必中」より「正射」を念頭に置いた方が結果は良いように思います。
 そういう意味で、「結果よりも過程を重視せよという教え」とすれば納得できるように思います。「中てるためにはただ中てようと思ってもダメ、八節を丁寧にひたすら実行することが中てるための近道だよ」といい換えれば「正射必中」も生きてくるかなと思います。
 長文失礼しました。

27:あさひさん
弓道をスポーツとして考えるのか、純粋に求道として考えるのかによって違うと思います。
スポーツとして考えるのならば的中が目標となるのは必然ですし、後者に関して正射を目指すのも自然な事だと考えます、人に意見を求めても永遠に平行線でしょう

28:弓道部員Nさん
>黒紫さん

距離と大きさは本当はそういう意味だったのですか・・・。参考になりました!ありがとうございました。

29:紅一入さん
正射必中or必中正射でしたね。すいません「正射必中」への意見で終わってしまっていました。
 前に述べたように、私は「正射」は個人的なものであり情報の集積・分析で出来ていると考えます。その情報は射型・働きに関し先人の伝え・先生の教え・書物の知識などから成り立っていると書きました。その情報の中に「自分が中った感覚の記憶」も入ると考えます。つまり「必中正射」は「正射必中」に含まれるわけです。
 結果いわゆる「中て射」になる人は「正射」の情報分析において「自分が中った感覚の記憶」のウェイトが高すぎる人だといえると思います。

へきるさん
>純粋な「的中技術」の延長線上に確実な中りが存在することを私は知っているので

 これすなわち「正射必中」そのものではないでしょうか。

30:流れ者さん
少々論点がズレているような・・・・^^;

って意見を端的にまとめてない自分も同じか。

絶対的な「正射」というものがあると仮定した場合、正射をし、かつ必中が出るというパターンは一つしかありません。
しかし、必中だけを満たせばよいならば、パターンはそれこそ無限に存在するでしょう。
従って、この場合必中ならば正射と言い切ることは不可。しかしこの場合は絶対的な正射が必ずしも必中をするのかどうかが不明瞭になります。従って正射の条件の中に「必中している」という項目を加えなくてはなりませんが、それは正射した結果がそうでなくてはならないことなので、矛盾が生じ、正射をすることは出来ないことになります。


次に、絶対的な「正射」というものは存在しないと仮定した場合、(つまり正射というものがいくつも存在するとした場合。)
射にもある程度「正しさ」というものが存在することになります。
従って「正射」とはある一定以上の「正しさ」を持った射ということになります。
しかし、絶対的な正射が存在しないと仮定した以上、その判断は師範の主観や、書籍に載っている射(まぁ書籍も誰かしら人が書いたのですから一種の主観ですが。)との比較に頼らざるをえません。
しかし人によって骨格、筋肉の量、関節の可動域、性格、使用している道具は違います。
ゆえに師範といえど中りを出すべく、教本に載っているような基本事項の上に経験的知識を積んできているでしょう。
しかしそれでは、師範、もしくは書籍によって、正しさの基準が異なり、射が一定以上の正しさを持ったとき、ある基準を満たせばある基準を満たさなくなり、それ以上正しさをあげることが難しい。という状況へ至るでしょう。(「射はどこまでも正しさを得ることができる」と仮定しても、師範の人数は有限なのでそれは不可。)
しかしその状態を正射としてしまうと、正射は絶対的なものとなってしまい仮定と矛盾する。
ゆえに正射に至ることは出来ない。

以上から、正射という概念は根拠ある確固としたものではなく、「(弓引く者の間で言われていることと対照して、)射のここが悪いから直した方がいい」の基準を持たない集合体であると思われる。
従っていくら必中しようがここが悪いといわれてしまえば正射とは成り得ないし、正射であろうが必中しないことも有り得るでしょう。
よって自分としては

「正射必中」も「必中正射」も一種妄言にすら聞こえます

31:黒紫さん
色々、参考になります。


ようは、「正射の中に必中がある」からそもそも二つの言葉を並べる意味がない
ってことですね。

32:へきるさん
こんにちは、黙って見てるだけのへきるです。

>>紅一入さん
誰が一番にそこについて突っ込んでくれるか待っていました。
じゃあ的中に関して明らかな矛盾を抱えていて中らない方が正射必中を唱えていても私は同じ正射必中として区別されてしまうのでしょうか?



もう少し黙って観覧させてもらいます。

33:紅一入さん
へきるさん
 
>的中に関して明らかな矛盾を抱えていて中らない方が正射必中を唱えていても私は同じ正射必中として区別されてしまうのでしょうか?

 いまいち状況が読みとれないのですが・・・。特に「正射必中を唱える」という部分がよく解りません。「同じ正射必中として区別されてしまう」という部分はさらに壊滅的に解りません。いま少し説明をお願いします。

34:流れ者さん
>もう少し黙って観覧させてもらいます。

発起人であるへきるさんにこそ積極的に自説を展開していただきたいものですが・・・・・。^^;

35:ああるさん
未熟な身ながら口を挟ませてください。
僕は「正射」と呼ばれる「究極の射」が存在し、その射は当然中る。コレが正射必中である、と考えています。
中る射のうちのどれか一つが正射であるので、正射は必中ですが、必中するからと言って正射とは限らない。
そして、何を以って正射と呼ぶかと言えば、
紅一入さんの仰るように、個々人によって差が在り、また個人の中でも変化していくと思うのですが、「美」であるかどうかだと思います。

これは、直感です。
上手い射、より正射に近いと思う射を見たときに「綺麗だ」と言う感想を抱く、と言う根拠でしかありません。

僕の思う「美」から私の好み(大離れだとか弓返りするとか)を排して一般化すると、
「合理性」が正射の基準になるのではないでしょうか?
・体に無理の無い力で引き分けているか、
・弓の力を効率よく体に受け、押し返しているか
と言う合理性を突き詰めていけば正射になるのではないでしょうか。
(この二つはあくまで例であり、これを満たしていれば即正射である・と言うつもりはありません)

例えば、「緩み離れは、会までで弓に蓄えたエネルギーを矢に伝える際にロスするので、合理性に欠ける。よって正射ではない」と言えるのではないかと。


>へきるさん
32でへきるさんの仰る事の意味を取りかねています。配慮の欠けた言い方であるとは思うのですが、
「へたっぴが『正射をすれば必中するのだから、私は目先の的中は気にせずに美しいと思う射を目指して練習する』と言っていて、彼の的中は一向に上がらない。私の思う『的中するための技術の先に必中がある』と言う弓道観と、彼の弓道観は同じく『正射必中』と呼ばれるべきなのだろうか?」
と解釈してもよろしいでしょうか?

そうであるなら、同じく「正射必中」と呼ばれるべきであると考えます。
僕の先輩からの受け売りですが、
「綺麗な射も中て射も、通る道が違うだけで、弓道と言う山の、同じ正射という頂上を目指している」
当時、的中を二の次に置いた練習をしていた僕に向かって、先輩は「俺は中て射の道から山を上ってっけどな」と続けられました。

乱暴に議論に踏み込んでしまいました。至らぬ点等ご指摘いただければ幸いです。

36:リハビリ弓人さん
こんにちは。盛り上がってるようなので、僕も自分の見解を。

「正射」というのは、僕はひとつの固定的な型を指すものではないと考えています。
理由は例えば個々人の骨格の違いや、道具の違い、弓やカケもひとつひとつ特徴が違いますから、それぞれに合わせた正しい引き方をしようとすれば、見た目上は全く同じ射型にはならないはずだからです。

では、「正射」とは何を指すのか。これは、的中させる為の技術として、それをより高度に積み上げていった先に存在する射型を、概念的に論じたものではないのかと考えています。

多くの先人達が様々に研鑽を重ね、その技術を伝承してきたものが、今日の弓道の礎となっているわけですが、その先人達の中に、「的中しなくてもよい」と考えて修練を重ねた人はいたでしょうか?

そう考えると、先人達の努力の粋としての射型というのは、常に的中を目指して研鑽された理想の射型であり、それが同時に理想とされる「正射」に限りなく近い射型なのではないでしょうか?

つまり、僕は「正射必中」も「必中正射」も、卵が先か鶏が先かみたいな論議だと思います…。
もし「正射」という射型が存在するなら、それは必中を目指して研鑽された射型であり、また「必中」を目指して限りない努力をする射人がいたとするなら、本当に人生の終わり寸前まで研鑽を重ねれば、その人の射型は限りなく洗練された「正射」と呼べるものに近づくと思うのです。

いずれにせよ、「正射」とか「必中」とかいう言葉に関してはあくまで目標であって、一個人がそれを一生のうちに手にすることが出来る可能性は限りなく低いと言っても差し支えないほど高度な目標であると思います。

もしかしたら、我々が先人達の教えを参考にしながら、更に研鑽を重ね、それを後世に伝えていけば、いつの日か「正射」というものを完成形として体現できる射手があらわれるのかもしれませんね。

いずれにせよ、「私は正射です」とか、「私は必中です」という人は、まさかいないでしょう?いたらおこがましいことです。
だから、個々人の目標としては、「正射必中」でも、「必中正射」でも、それを限りなく追求し続ける努力をその人が怠らないなら、どちらでもかまわないと思います。

あ、前述の通り、体配は別ですがw。

内容の濃い論議につい熱くなりました。
長文ごめんなさい。

37:流れ者さん
結局「正射必中」重視でも「必中正射」重視でも無い人が多いようですね。
自分もですが。^^;


でもそれはスレ主の「討論する」という意向に合っていないためスレ主は出てこないのでしょうか。

そんなことはどうでもいいですけどね。

38:天龍さん
正射を、雲上の至高の技、もしくは観念の世界に存在する完全無欠な一射、と読めば諸氏の熱い論議は広がるでしょう。

しかし、「正射必中」は、どちらかと言えば初心者向きの言葉ではないでしょうか。とすれば、そのような崇高な境地を示す解釈はそぐわないように感じます。
そこで、こう考えました。「正射」を「正しく引けば」と読みます。そうすれば、「教わったように正しく引けば、的に中るよ」と優しく初心者を励ましている。そんな程度のことと。
一年生だって、時々おっと思うような良い射が出て、ポンと気持ちよく中ることがありますから。その感覚を忘れるなと言う意味で。

しかし、それでは全く面白みがないのも確かです。

39:欒使用者さん
正射とは、中るためでなく、射法において正しい引き方をした射、正しい心で引いた射の事ではないのですか?

40:リハビリ弓人さん
>39

確かにおっしゃる通りだと思います。
そうでなければ正射ではないでしょうし、それが目指すべき正道だと思います。

ただ、では射法において正しい引き方とは何を目的にその正しさを磨かれたものであろうか?
ということを考えた時に、射法というのが、目的物に対して的中させることを念頭に研鑽されてきたものである以上、正射の最終到達地もまた必中に至るのではないでしょうか?

その中には心の正しさももちろん内包されるものであると思います。

もし必中のみをひたすら求める人がいたとしても、その必中の為の努力と考察が本当に高度に積み上げられれば、きっと最終到達地は正射であり、正しい心になるのではないかと僕は信じているのですが…。

僕がどちらにも全く至らないのは、修練が全く足りていないからだと思います(笑。
目標は正射必中です。今は正射でも必中でもないですが、心だけは正射のつもりで頑張りたいです。

41:欒使用者さん
中りが目的では弓を引いていて虚しくないですか?

42:リハビリ弓人さん
>中りが目的では弓を引いていて虚しくないですか?

虚しいとはどういうことでしょうか?
中りが目的という意味のとらえ方にもよると思いますが、いまひとつおっしゃりたいことの真意が理解できません。

中らなくてもいいから射の見た目をなんとなくかっこよくなるようにしたいと思って練習されている方はいらっしゃるのでしょうか?

正射を求める方であっても、その練習の目的の中に的中させるという事が全く含まれていなければ、それはそれで弓道としての正道を外れるのではないでしょうか?

的中を目的としないかたちだけの練習に意味があるとも思えませんが…。

仮に、正しいと思われる射型を身につけるために、今は的中を求めないという練習をしている方も、それは将来の的中と将来の素晴らしい射型を求めてのことであると思うのですが…。

的中だけを目的として何も考えずに弓を引くなら虚しいかもしれませんが、的中を目的の一部分に置くのは当然でしょうし、仮に的中を練習目的の中心に置いた人がいたとしても、その的中の為に良く考え、技術を磨き、矢数をかけて精進するのなら、それは虚しいなんてことは無いのではないかと思いますよ。

僕は別に的中だけを目的に練習するつもりはありませんが、仮にそういう方がいたとしても、「虚しくありませんか」などという物言いで突き放すのは、多少失礼なのではないでしょうか?
立派な的中を目的に多大な練習を重ねている方々を見下しているように聞こえますが…。

43:たぶんおやじさん
>的中にも質が存在する

44:リハビリ弓人さん
>43

おっしゃる通りだと思います。
その点は全く反論の余地なく理解できているつもりでいます。
未熟者なので「つもり」ですが。

僕は、どちらか?と問われれば、正直に言うと的中より射型を気にしてしまう方です…。

こういった場での「虚しくないですか」という過激な発言に、つい過敏に反応し過ぎましたね。

すみませんでした。
自重します。

45:たぶんおやじさん
>リハビリ弓人さんに発した言葉では有りません。
気にしないで下さいな。

46:sudachiさん
横から失礼致します。

正射と中りとの関係で言えば、中りは正射の最低条件ではないかと思います。

では十分条件はなにか?

その十分条件を何に設定するかで各人諸々の考え方や目標が発生してくるのだろうと思います。

とはいっても弓道教本第一巻にはかなり明確にそれに関することは述べていると思いますが...。

47:初心者さん
>弓道教本第一巻にはかなり明確にそれに関することは述べている

 具体的には、どういう条件が述べられているのですか?

48:sudachiさん
初心者さんへ

>とはいっても弓道教本第一巻にはかなり明確にそれに関することは述べていると思いますが...。

と書いた後でしまったと思っていた矢先のご投稿、恐れ入ります。

「弓道教本第一巻」というのは「全弓連の刊行物」の間違いで、大変失礼致しました。

しかしながら、更に言わしていただけるならば、これも必要条件であって、更なる十分条件があるのではないかと思っています。

まかり間違っても「こうでなければ弓は引けない!弓道ではない!」なんてことはないのではないかと思います。

49:初心者さん

 議論の骨休めに、単なる話題提供ですが;

 全弓連主催の大会で、「正射必中」の体現を求められているのは、全日本弓道選手権ではないかと思います。予選における射品・射格・射法射技の得点と決勝における的中で争う、まさに、「正射」かつ「必中」であることを要求されています。その大会の優勝経験者4人による座談会が「月刊 弓道」誌に掲載されたことがあります。
 その座談会の記事のタイトルは「正射必中を目指して」ということになっていました。しかし、その中身は中りを目指して以下に努力してきたかということが中心であり、「正射」に関する発言は、建前か、お飾り程度になっていると感じました。(これには司会の流れも影響しています。)
 いかに的心をねらって中てるか、弓の籐に鉛筆で印をつけて練習した話や、1本でも外したらその日の的前練習は終わりにすることを1年間続けた話、的への執着やとらわれをとにかく集中力に結びつける話など、興味深いことが語られていました。
 何回も優勝した方は、若い頃は常に優勝を意識していたようです。一人の方は、正直に、正射必中ではなく「必中もまた正射」と語っていました。ただし、すぐに正射必中の路線に沿って発言をフォローしていましたが。
 記事のコピーをなくしたので、ノートのメモをもとに書きましたが、2002年夏頃の号に載っているはずです。

50:弓暦四年目四回生さん
「的中を目的として弓を引く」ことを「遊びだ」とか「虚しい」とかおっしゃる方々にお聞きしたいのですが、どうしてそのように思われるのでしょうか?

横槍すみません。

51:黒紫さん
的中を目的に弓を引かないのであれば、的を狙わなきゃいいだけでは?


「こういう人は哀れだ」と他人評価だけで持論も理由も語れないとは可哀相な…


と、敢えて酷く言ってみます。


的を狙う以上は「あたる」
ついでに綺麗ならなお良い程度だと思って励んでいます。

52:通りすがりさん

 最近,古武術の甲野善紀氏の著書をいくつか読んだのですが,武術から武道へと移り,精神論によって変容した典型的な例として弓道が時々出てきます。
 結果よりも過程を重視するというフレーズがこのスレッドに何回か出てきましたが,それは,甲野氏の指摘によれば,「単なる未熟な技術の言い訳として、使われる傾向が強い」ということです。

 「弓道なんかでも、単に技術が下手なのを『いや、これは当てること自体が目的じゃないんだ』と言ってとりつくろうという、一種のファッション的精神論というか・・・精神論がデコレーションになってきている」(『武術の新・人間学』文庫版P24より)

 甲野氏は,精神修養を重視する弓道家をみな軽蔑しているわけではありません。弓禅一如を唱え、弓道における禅の意義を強調した弓道家である梅路見鸞氏のことは,「明治以後の武道関係の人物では私が最も尊敬している先哲」と高く評価しています。
 梅路氏は本多流であり,禅の深い境地に達するとともに,他を圧倒する弓の技術を持っていました。

53:無影心月さん
確かに私の言葉は、とても無礼を感じますね…遅ればせながらもここに深くお詫び申し上げさせていただきます。真に申し訳ありません

あくまで、私の個人的な意見としてですが、遊びだと言ったのは、弓道修練の目的は本来の理想の人格形成にあるもので、あくまで的中ではないということです(中てることは簡単ですし)的中は過程であって、的中が最終目標では中て弓になってしまいます(私の文が浅はかでしたね…)
見苦しい弁解、長文ともに失礼します

54:明鏡止水 ◆IDFFcYqcさん
>無影心月さま
>中てることは簡単ですし
貴方さまは、非常に崇高な目的や精神修養を目指して弓をお引きのように見えますが、庫の一文を見る限りでは、なにやら口先だけのような気がして参ります。

55:初心者さん
49の補足と訂正です。

>2002年夏頃の号に載っているはずです。
 2002年の8月号と9月号だそうです。

>しかし、その中身は中りを目指して以下に
 「以下に」→「いかに」の誤変換でした。

56:あっしーさん
>無影心月さん

中てることが簡単であるならば、ここまで弓道が普及し、全国の人々に楽しまれているわけがありません。

必中を目指して稽古で正射を築き、その「過程」で人格形成されるのです。
人格形成は目的ではないです。その「過程」で自然に行われるものだと思います。

その過程というのはいろいろあります。例えば早気に長年悩んだり、染み付いた射癖を直そうと努力したり。それらは必中を目指して正射を作っているということに変わりありません。

そして僕は「必中」という道も終わりはないと思います。だからこそ、弓道は飽きる事なく、続けられるのだと思います。

57:初心者さん
>全弓連の刊行物
>にはかなり明確にそれに関することは述べていると思いますが...。

 難解なものは避けて、おもしろそうなものをつまみ食いしている状態なので、これからいろいろ読んでみようかと思います。

58:リハビリ弓人さん
>あっしーさん

素晴らしいお考えですね。
感動致しました。
まさにその通りだと思います。
正射も必中も、終わりが無いからこそ弓道は奥が深く、また楽しいものですよね。

自分が少し上達して、また違う世界が見えてくると、今まで気づかなかった自分の悪癖に気づき、前よりも下手になったような気がすることも良くあります。
それをずっと繰り返して今に至るような感じで…。
次々悪癖が出てきて、全然解決しません(笑

しかし、あっしーさんのお話で、これからもめげずに精進したいと改めて思いました。いつの日か正射で必中であることに近づけるように頑張りたいです。

59:けんたろさん
すばらしい議論ですね。
こういう議論も弓"道”の一環ですね。

さて、私は正射必中だと常々考えています。
私が考える大きなポイントは二つ。
@的中は目的か、手段か?
A正射とは何か?

@については、弓道という技術体系が元々、的中させることを目的として組み立てられている以上、”射法”の目的は的中させることを根幹に持っていることは間違いないと思います。
ただ、この戦国の世ならいざ知らず、現代において、矢を飛ばして的に中てること自体に実利が伴うか?と考えると、答えは否かと思われます。
つまり「的に矢を中てたからといって何なの?」
という疑問が発した時にそれぞれの射手のなかに、”弓道"をする目的が見えてくるのではないかと思います。

つまり、技術体系としての射技、射法が自ずから持つ目的と、射手が何の為に弓を引くのか、という部分を分離しないと、この問題は解決しないと思います。

60:けんたろさん
つづき

Aの正射とはなんぞや?という問題も実は同様なのではないかと思っています。
技術的側面から捉えた時に、おそらく確実に的中する論理というものは、存在するのではないかと思います。
それは例えば人体を正確に模した機械に動作をプログラミングして、もっとも省力、もっとも高精度に的中する方法を探り出すことは、現在の技術力では可能だと思われます。

しかしながら、弓道は人間が行うもので、動作の精密さ、再現性が機械と比較して劣る条件で行われるものです。
まして、精神的な要素、また射手の体格の違いなどもあることから、絶対無二の正射というものは存在しえないと思います。

ソースが無いのですが、実は私は古来言われてきている”正射”という言葉はこういうアプローチから生まれてきた言葉ではないのではないか?と思っています。

仏教的な思想、もしくは儒教的な思想背景から生まれた言葉なのではないでしょうか?
この事は「真善美に関する文献」また「射法訓」等からも読み取れます。
どういうことかというと、弓道において、自己を成長させようと思うとき、この世には存在し得ない(もしくは到達困難な)”正射”という考えを目標におくことで、無限の成長が可能ということになります。
そこには”正しい"ということはどういうことなのか?という探求自体も含まれているものと思います。
ですから初心の内は正射というのはある一定の枠内の合意の上にある射法、射型でかまわないと思うのですが、熟達につれて、むしろ正しさを探るむきになるのではないか?
そうでなくては、限りない向上はありえないのではないか?
と思います。

こうした動作的な側面に加えて、弓を引くときの心的態度や、心理の方向性が色濃く動作に影響する弓道においては、行射中の心のあり方、考え方等も含めて、”正射”というものが出来上がっているように思います。

極端な反例をあげると、試合に出場した選手がすばらしい射ですべての矢を的中させて、優勝したその射位で、飛び上がってガッツポーズをとったら、それは正射か?
という話です。

こういった考えで私は「正射必中」と考えて弓道をしております。

長文となりまして申し訳ありません。

61:初心者さん

>仏教的な思想、もしくは儒教的な思想背景から生まれた言葉なのではないでしょうか?
>この事は「真善美に関する文献」また「射法訓」等からも読み取れます。

 この「真善美に関する文献」というのは、具体的には何をさすのでしょうか。 読んでみたいのですが、教えていただけませんか。

62:通りすがりさん
>52
>梅路氏は本多流であり,禅の深い境地に達するとともに,他を圧倒する弓の技術を持っていました。

 勘違いしていました。本多流ではなく,橘流です。無影心月流とも呼ばれているのですが,無影心月さんは何か関係があるのでしょうか。

63:ひさしさん
そういえば無影心月さんの言っていた相対射とは総体射の事でしょうか?僕はこの言葉の意味はわかりませんが本に載っていたので聞いてみました。

64:アチャチャさん
正射必中とは修練の未熟な段階の弟子に、師匠が自己流を禁じる意味で言った言葉ではないのでしょうか。

それでは、何が正しい射かということになりますが、それは師匠の教える射です。

師と仰いで弟子入りしたにもかかわらず、しかも基本も身に付けぬ段階で、自己流は師への反逆であり侮辱です。

そうすると正射とは、弓道の基礎・基本ということになります。
しかも、その師匠が教える基礎・基本です。

全弓連でにも、射法八節という弓道の基本があるようです。
しかし、如何に基本とは言え、私のような初心者には非常な困難を感じます。

私の場合、今までに離れを確実に捉えた射は、一度だけです。

確かに、基礎・基本が出来上がれば、安定して的中できるような気がします。

私は、その段階で一人前の弓道人と言えるのだろう、と思います。

そして、その先には自分の射を作り上げることが待っているのでしょうし、更に先には悟りの射を目指し、道場以外の場でも弓道の精神を生かす事が求められるでしょう。

そうすると、この正射必中という言葉の内容は、拡張されることがありそうです。

つまり、教えを請う師とその弟子の双方のレベルに於いて、正射の内容も変わってくるだろうということです。

65:龍斎さん
「正射必中」が議論の話題の中申し訳ありませんが・・・


私は、「法射必中」という言葉を使います。

何故なら、流派によって「何が正しい」かは変わるからです。

決まった指導・引き方がない流派(失礼ですが、日弓連のような)だと「法」とは書けないでしょうが、日置・小笠原・大和の様なものでは「法射」と書けるのではないかと思い言っています。


因みに私自身は「必中の上(次)に正がある」と考えています。

66:けんたろさん
「真善美に関する文献」について
すいません。書き方が悪かったですね。
「真善美に関する文献」というものがあるわけではなくて、
真善美についてかかれた複数の文献を読んだ限りでは、という意味です。

一番手っ取り早いのは弓道教本一巻だと思いますよ。


改めて読み返すとここでの議論は弓道教本の1巻、34ページから47ページを読むと考え方が出ているようですね。
全日本弓道連盟に所属してそこの弓を引く人にとっては、これが一応の答え、ということなんでしょうね。

みなさんは読まれましたか?

67:通りすがりさん
 「正射」を弓人の目指す至高の境地と考える人から,初心者の一年生でもポンと中ったときの感覚に近い軽いものとまで考える人がいるようです。
 本多流の「正射」は,初心者から上級者,宗家まで,弓道における最高目標の一つです。
 本多流では,全弓連の「真・善・美」や他流の「飛・中・貫」などに相当する,射の目標として「正射・善中・品位」を掲げています。
 正射は,外面的には縦横十文字が整い,内面的には張切った力の調和と精神力の充実による自信に満ちたものを一射一射に目指すとされています。中らない正射はありえないし,正射の結果は中りでなければならないとされています。
 「善中」というのは,このスレッドでも出てきた中りの質や飛・中・貫などに相当するものです。「品位」は正射や善中の総合された結果としての修練の総和,真善美の美にも相当するかもしれません。
 全弓連の最高目標とする真善美に関する教本の文章は私にはあまりに難解ですが,石岡久夫先生などが御著書で解説している本多流の目標は比較的とりつきやすいかと思います。

68:アチャチャさん
通りすがりさんへ

正射が必中であること、本多流が求めるものが本多流の正射であること、正射がそれぞれの修練の段階の者に於いての目標である等、私がこの言葉から受ける認識と通りすがりさんのそれとは、共通点があるようです。

69:初心者さん
>真善美についてかかれた複数の文献を読んだ限りでは、という意味です。
>一番手っ取り早いのは弓道教本一巻

 弓道教本以外の文献には、どのようなものがあるのでしょうか。参考に読んで見たいのですが。

70:けんたろさん
>初心者さん
以前に読破した雄山閣の”現代弓道講座”に記載があったと思います。
何巻であったかは手元に無いのでお答えできません。
すいません。

71:初心者さん
>”現代弓道講座”

 ありがとうございました.近くの図書館に揃っているので,探してみます.

72:へきるさん
熱く語ってくれた方々、質問を投げかけられた方々、叩かれて反論できなくなって逃げ出した方々、夜分遅くにすいません、へきるです。

この人自分に少し近いなぁとか、こういう見方もできるなぁとか、腹筋攣りそwww笑わせんなwwwwwとか
そんなことを思いながらスレを読ませて頂きました。

このスレが一人でも多くの学生射手、一般射手、和弓が大好きな人の目にとまったらいいなと願います。



物凄く関係ないんですけど、お腹が空いたのでレストランでランチを食べていたら知らないおっさんが「箸の持ち方がなってない、こう持つんだ!!」って親切につっかかってきたらどう思います?

73:ヒヨコV3さん
>72

そんな人居たら、
右から左へ聞き流す。

74:ああるさん
・心の中で「暇なんだな」と言う。

・小さなものを素早く食べて自分の箸には問題ないコトを地味にアピールし続ける。

・数日後、話のネタにする。

75:初心者さん
>この事は「真善美に関する文献」また「射法訓」等からも読み取れます。
>以前に読破した雄山閣の”現代弓道講座”に記載があったと思います。

 教えていただいた「現代弓道講座」に目を通してみました.
 「正射」についてではありませんが,「真善美」の方は昔から相当強い批判があったということがよくわかりました.
 ある執筆者は,日本の伝統にはなじまない「真善美」を用いて弓道の最高目標を記述することを厳しく批判しています.真善美は西洋哲学由来のあいまいな概念であり,弓道で特に強調されるようになったのは敗戦以降にすぎない,お作法の指導を主とし,個性のない型どおりの射の原因になっている,という論調でした.
 この批判に対応して執筆された部分でしょうが,教本の編集委員だった別の執筆者は,戦争に負けたために弓道界も理念や目標を見失ってしまい,新しい考え方を導入する必要があったので真善美を用いたと述べています.弓道界も戦前は国粋主義一色だったでしょうから,確かに混乱したのでしょう.
 教本の「真善美」を理解することが難しい理由の一端がわかったような気がします.
 

76:ぐれおさん
スレを斜め読みした程度ですけれど、喋ってもいいですか?

正射必中か必中正射かという問題設定はあんまり意味がないような気がします。
いずれの概念も目標として提示されているのならば、稽古をする射手にとって規範的な意味を持ちます。つまり「正しい射なら必ず中てなきゃダメ」or「中ったって正しい射でなきゃダメ」という風に働きかけてくるので、中りがない人(究極的には的中率100%以外の全ての射手を指す)も、中るけど正しいと言われている射と遠い人も、自分をよくよく省みて更に精進せねばならぬとなるわけです。
目標である以上、それを目標とする人は最も合理的に目標を達成すべく努力するべきだし、その努力の内容は正射でも必中でもどちらに重きを置こうと大して変わらないはずです。なぜなら、誰だってなにか目標を達成しようとするときにはその道の先輩に意見を求めますし、弓道であればその先輩は歴史あるどこかの流派の教えを受け継ぐ先生であるはずだし(必ずしも、流派だけやってる先生という意味ではないです)、技術的に多少の違いがあろうとも、いきつく先は的中を兼ね備えた所謂正しいと言われている射法です。

このように正射必中or必中正射という標語の稽古における教育的効果から考えてみると、よっぽど極端な例(我流のわけのわからん引き方でいつでも的中100%とか)を持ち出さない限り、どっちだって大して変わらないんじゃないかとか思うのです。
ただ「正射とはなんぞや、必中正射がわかりやすいじゃないか」という話ならわかる気はします。上の方に書いてたような、下手糞の言い訳の正射がまかり通り、理も何もない我流に先生方が勝てない状況へ異を唱えるために「的中技術」を強調する必要があるということには賛成なのです。
しかしそれはそれ、これはこれ。
邪推かも知れませんけれども、スレ主さんは内実の伴わない口先だけの精神弓道家を釣りたかったんじゃないの?
(>>管理人様 問題発言だったら削除してくださいませ。)

77:ゆ〜さん
どっちでもいいじゃん。

78:リーさん
どっちにしても、的中が大事なのは一緒だし、的中率100%の人間がいないのも事実。叶わぬ夢をどう追い求めるかの違いでしか無いんではないですか?

どっちが正しいとか、自分の意見を絶対視しようとする姿勢が私は気にいらない。的中率100%という初歩的な目標すら叶えられないのに、どれが正しいなんて、なんで言えるんですか??いい加減、自分にウソをつくのは止めて欲しいです。答えなんてまだ誰も見つけてないはずです。真に求道者になることを祈念いたします。

79:流れ者さん
そもそも学生が部活として3年間だけ弓道をする、ということを前提として話す方と、

それこそ一生涯かけて弓道に打ち込もうということを前提として話す方とでは議論にならないかと。

前者の場合は、たかだか3年で弓道を極めることは出来ない上(一生かければ極められるってもんでもありませんが。)、競技として行われる為、どうしても短期的目標として的中を掲げざるを得ません。

しかし、後者の場合はそもそも中りを出す事が目的とは限りません。

しかし、学生側としては、極められもしないものをただやっているってのも少々納得いかないのかもしれません。

故にここのスレ主のような、
「必中ならば正射でいいじゃないか。」
的な意見の持ち主も現れるのかと

80:おせんべいさん
正射正中がよいですね。  正しい射は正しく中るのです。

81:ロモさん
そもそもこの世に「正しいこと」なんてないですからね。
あるのは「多くの人間が正しいと思い込んでいること」だけです。
ですから「正射」なんてものは、いくつもの答えがあることでしょう。
目標も同じで「正しい目標」なんてのはありません。
人々が「正しい」と考えていることから遠ざかれば遠ざかるほどリスクは大きくなりますが、
そのリスクを背負う覚悟があるのならば自分の信じる道を進んでよいのではないでしょうか。

82:Kさん
自分は高校1年生でまだ弓道を始めて半年です。こんな新米な僕が言うのもなんですが、やはり弓道は正射必中が大切だと思います。学校柄もあって僕たちは正射にすごくこだわっています。なので射は見せるものであって中りはその延長にあるとしか思えません。
たしかにたかが高校3年間で正射にするのは難しい…というより一生かかっても不可能です。もしそれができるなら歳をとってまで弓道を続ける必要はありません。
必中正射の面から言うと別に正射だからと言ってただ教本みたいな射をする必要はないと思います。ただ自分の射を極めると言って弓を引くのではなく、色々な人から指導を受けて、中るために必要な合理的な射が正射なのではないでしょうか?
とにかく綺麗な射は当たります。それだけです。

83:無影心月さん
射道芸術の探修には真射正中という、表記があります。私は真射とは正しい形(流派によってそれぞれですが)で正しい心を持つ射であり、弓道人はその射(言い方はそれぞれです)を目指し、稽古をつむのでは?というような意見です、私はまだまだ未熟ですので(中学生です)どなたか、御指導お願いします

84:へきるさん
>>Kさん
正しい射の定義を教本か何か?
みせる射とは誰に見せるの?

85:二千翔さん
長い間静観させて頂きました。誠に考えさせられる内容の議題ですね。横槍な様で失礼ですが意見を述べさせていただきます。

この議題に対してレスをされた方々の殆んどがハッキリ申し上げて主観的意見だと思います。正射必中という言葉は弓道人なら誰でも存じている大変有名な言葉ですよね?と言うことは、この言葉の持つ意味そのものに共通理念があると言っても過言ではありませんよね?そこに如何なる解釈の差別があってはなりませんよね?じゃあ「正射」とは?と問われたときに、世の弓道人達は今のあなた方の様な共通点の感じない答えが出てきてしまいます。(なかには同感をなかには反感を)またそのような現実があります。「正射を指差して!」360度あちこち指が向けられます。このような言葉に対し、一体全体どこに共通理念が感じられるのでしょうか?では共通理念としてこの正射必中という言葉が成立するためには何が必要かと言う事です。

私が考える処、思想の共通化、これは心にあたる部分ですね。それから射技の標準化これは技にあたる部分ですね。そして、以上の二つを定着させるべく制度の定着化、これは体にあたる部分ですね。つまり、この正射必中と言う言葉が共通理念として成立するには全ての弓道人が同じ心技体を目指させなくてはなりませんよね?できますか?不可能です。思想にしても流派教派によって多種多様ですし、(流派やその他多数の教派がある時点でもう意味を成しません)射技にしても、斜面打ち起し、正面打ち起し、ってもう標準化できるどころの話ではありません。じゃあ又、射法制定委員会を発足して一元化しましょう!手遅れです。

どちらかと言うと私は非常に理屈屋ですかつまらない意見を申し上げてしまいました。乱文長文大変失礼致しました。ひとつ、これは辞書的な意味合いでの話です。その他意見がございましたらご教授願います。

86:ああるさん
>二千翔さま
僕も随分前に勝手な事書き込んで今更、、、なのですが、二千翔さまの書き込みを読んで、疑問に思うことがあったので、お聞きしたいと思います。

心、思想の定着化に関しては何を以って否定されるのか分かりませんでした。僕の読解力の無さ故ですので御教授頂ければ幸いです。

技、射技の標準化が無理である事は同意見です。体をその二つの為の制度であるとするなら技が否定される時点で体も無意味です。

では、心技体が否定された「正射必中」なる言葉は、意味を、或いは意義を持つのでしょうか?

87:二千翔さん
>あある様
心に関しては、今のこのスレッドの現状を見ていただければ分かりやすいのではないでしょうか?つまりこれだけの意見が飛び交っていますからね。
では心技体の否定された「正射必中」なる言葉は、意味、或いは意義を持つかという問いですが、ハッキリ言ってありません。これだけ広く知られた言葉が個人毎に解釈が異なっていては意味を成すわけがありません。もしかしたら錬度未熟な初心者で学生が造語したものなのかもしれないと最近思うようになりました。

もし、必中の前提定義を唱えるとしたら、私は「理射必中」ですかね...理に適った射は必ず中る。当たり前です。

88:ユタカですさん
>二千翔さん

では本スレに戻ってお尋ねします。

「必中理射」ではいけないのですか?

中る射は理に適った射だと思うのですが...。

89:ユタカですさん
>二千翔さん

では本スレに戻ってお尋ねします。

「必中理射」ではいけないのですか?

中る射は理に適った射だと思うのですが...。

90:百夜 ◆WR1hQljoさん
横槍失礼

もっと視野を広く、思考を柔軟に、心を大らかにしませんか?

何かを理解した気で得意げになって、追求をやめてしまえば面白くないじゃないですか。

一生涯をかけて「弓の道とは・・・」を追求してもいいと思うんですけどね。

「正射必中」然り。

91:二千翔さん
>ユタカです様
意味においては同義と捉えてください。

>百夜様
>一生涯をかけて「弓の道とは・・・」を追求してもいいと思うんですけどね。

「正射必中」然り。

弓の真体を求める上では貴方がどういう思想で臨まれるかは貴方次第です。ですが、他の弓道家達と思想を共有しようとした時に「正射必中」となるとあまりに広義的な意味合いが強くなりすぎているのもお分かりかと思います。それはあくまで主観的なものです。貴方の個人的な意見を述べているに過ぎません。このスレッドを閲覧なさってご自身と共感を得る方、または得ない方がいらっしゃる以上は、「正射必中」イコール「弓の道とは・・・」とは成りえないと思いませんか?当然、貴方の意見に賛成する方もいらっしゃるのも事実。でも私は正射必中という考えには納得しかねません。またそうお考えの方もいらっしゃるのも又事実です。

92:百夜 ◆WR1hQljoさん
え〜と・・・私はここで何かについてを議論するつもりはありませんので悪しからず。

というよりもこの話の流れにおいて、議論や話し合いを成立させるだけの言葉を私は持ち合わせていませんので・・・。

ですので、本筋に関した意見を述べるつもりは一切ありません。

93:たまさん
 「理射必中」と「正射必中」の違いがわからない.「理射」と「正射」の違いがわからない.
 なぜなら,「理に適った」ことを「正しい」と言うのでしょう?

94:けんたろさん
>二千翔さん
「正射必中」という言葉を成立させる為に、枝葉末節に到るまで共通化、共有化させる必要性があるというのは論理の飛躍であるように思います。

言葉や思想が、この世の中に存在する時にその解釈に多様性があるのは世の常です。
法令然り、宗教然り。

さまざまな考え方がある中でも、ただ一点「弓を引く上で、自分が正しいと思うことを為そう、また、何が正しいことかを模索しよう」という姿勢は、それぞれの思想、流派でコンセンサスが取れる部分かと思います。

このスレでさまざまな意見が飛び交うこと自体が”模索の過程”とも言えますし、大変有意義なことだと思います。

また、物事は捉え様で、自分にとってよい方向に使おうという意識があれば、先人の知恵をいくらでも活かす事ができると思います。

そもそも否定から入ってしまうと、なんでも否定することは可能だと思いますから。

「正射必中」という言葉はもともとかなり理念的な概念だと思いますので、具象の共有化や比較は、なじまないと思います。

95:たまさん
>正射必中という言葉は弓道人なら誰でも存じている大変有名な言葉ですよね?と言うことは、この言葉の持つ意味そのものに共通理念があると言っても過言ではありませんよね? ・・・

 皆さんの「共通理念」として成立していないから,このような論争が起きるのでしょう.言葉の使い方と論理の運び方が理解できない.

96:たまさん
 結論として何を主張しているのか,よく理解できません.「正射必中という考え」に同意できる部分もある,という意味ですか?

>でも私は正射必中という考えには納得しかねません。またそうお考えの方もいらっしゃるのも又事実です。

97:二千翔さん
>たま様
>93の返答についてですが、
理に適った射と言う射はいくらでも認知できるものがあるではありませんか。(技術的に)では正射、正しい射とは?と成ると以前に申し上げましたが流派や教派によって解釈が違いますよね?その差です。
>95の返答ですが、
私の文章力の無さに理解が得られなかったとしたらお詫び申し上げなくては成りません。私がその文節を書いたのは私自身の意見を述べる上での前提文としてのことです。
>96の返答ですが、
私の主張はあくまでも「正射必中」という言葉の成り立ちはこうあるべきだと申し上げたに過ぎません。ですが、主張の一部とてその考えには賛同しかねないということです。その賛同しかねない方もいらっしゃると言うことを申し上げただけで一里たりとも賛同するという意見ではありません。
>結論として何を主張しているのか,よく理解できません。

では本スレッドの議題に則ってお尋ねしますが貴方は如何お考えでいらっしゃるのでしょうか?引用返信では何を意図なされているのか検討にも及びません。どうかご教授願います。

98:二千翔さん
>けんたろ様
私は正射必中に対して否定論を述べている立場ですのでその捉え方に関しては問題ございません。確かに飛躍して持論を展開しているに過ぎないと批判されるのも分かります。

99:けんたろさん
>二千翔さん

たぶんたまさんが仰ってるうちの一つ「結論が理解できない」というのはのは、
「賛同しかねない」という言葉の意味が賛同なのか、賛同できないのか?
わからない?ということじゃないですか?

日本語としては
”賛同しかねる=賛同できない”
ですから、”賛同しかねない”となると
”賛同できない”の否定形で賛同できるといういみなのか、
それとも
”賛同してしまうかもしれない”
という意味の”〜しかねない”という意味でしょうかね?

文意からいくと”賛同できない”立場のようにも読めるので混乱します。

繰り返しこの表現を使っていますが、もしかして使い方を間違っていませんか?

100:二千翔さん
>けんたろ様
申し訳ございません。なにぶん国語力が無いもので...

101:たまさん
 ますます御意見の内容がわからなくなってきました.

 御意見は,

「正射必中」という言葉には納得できないので「理射必中」を提唱する,あるいは「正射」より「理射」の方が定義が厳密である,

という意味ではないのですか?

102:二千翔さん
>たま様
提唱?ですか。私は必中の前提定義として理射という言葉を挙げたに過ぎません。しかしながら、確かに私の考えの上では正射という曖昧な意味を持つ言葉よりは、理射の方が必中の前提定義としては厳密的であると思いますが。正射と言う言葉の定義付けが成されているのであれば話は別だと思います。

私の乱文に大変読解が困難となっているようですね。大変申し訳ございません。

それで、貴方はどちらの側の人間なのですか?

103:たまさん
 またわからないのですが,今回書かれている「厳密的」な「理射」というのは,「正射」のようなあいまいなものとはことなり,流派などにかかわりなく,ひとつの実体があるという意味ですか?
 ところが一方では,「理に適った射」は「いくらでも認知できるものがある」ともさきに述べられています.「理射」にも,いろいろなものがあるということなのでしょうか.

>貴方はどちらの側の人間なのですか?
 「どちらの側の人間」というには,なにかを敵と味方に二分しているようですが,何と何をさすのでしょうか.「理射必中」に賛成か反対かという意味ですか.

104:二千翔さん
>たま様
それこそ貴方の解釈の仕方に問題があるのではありませんか。少しは理解する努力をしていただきたい。

>正射」のようなあいまいなものとはことなり,流派などにかかわりなく,ひとつの実体があるという意味ですか?ところが一方では,「理に適った射」は「いくらでも認知できるものがある」ともさきに述べられています.「理射」にも,いろいろなものがあるということなのでしょうか.

理に適う射というのはあくまで技術的にと言うことです。逆に理に適わない例としてあげるなら、見栄えのきれいな射でも良く見ると肩が抜けていて的中する条件としては当てはまらないといった感じです。そういった意味でご理解いただきたい。もしこの言葉に対し一つの方向性を求めるとしたら、技術論的な部分も含ませながら議論しなくてはなりません。これはこのスレッドの議題に対して、オーバーディベートです。議論する余裕がありません。

>どちらの側の人間」というには,なにかを敵と味方に二分しているようですが,何と何をさすのでしょうか.「理射必中」に賛成か反対かという意味ですか.

以前にも申し上げましたが、このスレッドの議題に対して貴方の意見を求めたいということです。私の場合は別観点から正射必中に対して意見を述べさせていただきました。ですので、正射必中とう理念を掲げている方に対してどのような弓道の取り組みまたは思想で臨まれているかをスレ主様は問いかけているのです。また反対に必中正射に対しても同様の意見を求められている。貴方の場合、私の意見に対する疑問や疑念でレスをしていらっしゃるだけで自身の意見を述べられてはいないではありませんか。私は只、質問に答えるだけで貴方の発言意図が見えないままです。
又、私がこのような考えを持っているからと言って、貴方の人格や弓道に対する姿勢思想を否定するつもりは毛頭ございません。ただ反論させていただくものは反論させていただきますが。

105:けんたろさん
正射は理に適った射だと認識しています。

ただし”理”というものは、複数の方法で構成が可能だと思われますので、それが複数の射法を生むと思いますよ。
現実にそれが流派を生んでいるとも思いますし。
仰る”理射”も現実に即して突き詰めていけば結局は”正射”と同じ議論になると思います。
ワンベストウェイはありえないと思います。

「見栄えのきれいな射でも良く見ると肩が抜けていて的中する条件としては当てはまらないといった感じです。」
これは正射でもないですよ。理射と正射を判別する縁とはなりえませんね。

106:二千翔さん
>けんたろ様
それで何を仰りたいのかわかりません。複数の構成、射法、流派の各々の射技で必中の前提に合理的なものが有ればそれは理射と認識できますが、正射の定義が定まらない現状でそれをイコールとして結びつける理由が無いと思われますが如何お考えで?

>仰る”理射”も現実に即して突き詰めていけば結局は”正射”と同じ議論になると思います。

貴方は私の意見に対して飛躍していると仰りましたが、私から言わせていただければ貴方の意見は対照的にあまりに遅鈍だと思います。理射を突き詰めて結局は正射と同じ議論?なら最初から正射の定義と言うものを貴方なりの意見で以ってレスして頂きたい。ただし、貴方は正射は理に適った射だと認識しておられるようなので、技術論も織り交ぜてその具体論を述べていただきたい。最も、それを正射と他者が捉えるかと言ったら必然的に反論も出てくるとは思いますが。(私の意見として)なぜなら、今現在、射技の標準化がされていませんからね。

>ワンベストウェイはありえないと思います。

それはそうですね。私一人の意見が全ての賛同を得られるわけが無いと認識しています。むしろ反発を受けてもしょうがないのか。

>「見栄えのきれいな射でも良く見ると肩が抜けていて的中する条件としては当てはまらないといった感じです。」これは正射でもないですよ。理射と正射を判別する縁とはなりえませんね。

貴方は
>正射は理に適った射だと認識しています。

と仰っている。正射で無い射は理に適った射ではないと、逆に言えばそうお考えのはずですが、何を以って理射と正射を判別する縁と成りえないとお考えなのか?矛盾してはいませんでしょうか?私の理解力が無いと感じられたら申し訳ございません。その際はご教授願います。

107:百夜 ◆WR1hQljoさん
>>106
>それで何を仰りたいのかわかりません。

>>105
>正射は理に適った射だと認識しています。

これでいいじゃないか。


>>106
>何を以って理射と正射を判別する縁と成りえないとお考えなのか?

>>104
「逆に理に適わない例としてあげるなら、見栄えのきれいな射でも良く見ると肩が抜けていて的中する条件としては当てはまらないといった感じ」は「理射」でもないし「正射」でもない。
つまり、このこと「を以って理射と正射を判別する縁と成りえないとお考えなの」だと私は理解しましたが。

ん〜、けんたろさんのレスを私なりに好意的に解釈するとこうなるけど、別に悪意はありませんので誤解されませんように・・・

108:二千翔さん
それはご本人から伺いますので。

109:元 ◆ntlC4wAIさん
>正射必中という共通理念………解釈の差別は無し
まず「正射」の扱いですが、「正射」も「理念」も固有名詞ではなく「理想的概念」なので何かを1つを限定して指している言葉ではありませんね。
「美人」が特定人物の顔面を差す言葉ではないのと同じでしょうか。
ついでに「理想的概念」なので「正解」は決っていません。
同様に「美人」の顔を特定人物の顔面に定める必要もありません。

「正射」の“正”は「正解」の“正”ではないのは理解出来るかと思います。
「正射」=「正しい射の運行」、則ち「理に叶った射」。「理に叶った射」とは「理(ことわり)」、則ち「理想的概念」に則した射。

この「理想的概念」則ち「正射」に対する各流派個人各々の考え、思想はイデオロギーとしてそれぞれが研究、持ち合わせている事ではないでしょうか。
「理射」という「理想」に向けた解答を各流派個人が出している、若しくは探している、または議論する土俵が「正射」。
「正射」を皆が共通言語として理解しているからこそこんな議論が可能なわけです。

で、「正射必中か必中正射か」ですが、的中を目的から外した「正射」なぞ聞いた事ありません。
“的”に対する邪心から射が乱れる事を防ぐ意味合いで的中を遠ざける“稽古方法”は良く見聞きします。

110:二千翔さん
今更ながら核心的な疑問ですが、正射必中を掲げている人間はそれを理由に他者の射に対して排他的になってはいないだろうか...またその理由で傷ついている人間はどうこの理念射を感じているのか...果たして、正射必中を己自身の為だけに掲げているのか...中て射に対して執拗な嫉妬心を抱いていないのか...崇高理念として己自身のみに掲げている人間がどれだけいるか...他者を傷つけたり、蔑んだり、また嫉妬したりしていない断じてないとハッキリ言える人間がどれ程いるのか...このレスを閲覧なさった全ての方に問いたい...

111:さぼてんさん
>二千翔さん
>正射必中を掲げている人間はそれを理由に他者の射に対して排他的になってはいないだろうか…

これに関しては必中正射を掲げている人も同様に考えなければならないことですよね??

文体だけから判断すると、『正射必中の人は視野が狭い!』って言っているように見えてしまいます。ヒートアップしすぎているように思ったので、確認の意味も込めてですが。

ちなみに私は必中正射タイプです。
『正しい射型』というのが曖昧である以上、的中や矢飛び、弦音といったものから“自分の”『正しい射型』を判断すべきだと思うからです。

112:二千翔さん
>さぼてん様
まぁそうですね。

>文体だけから判断すると、『正射必中の人は視野が狭い!』

そのようなことは一切感じておりませんので、私自身の疑問としてレスさせていただきました。ご返答ありがとうございます。

113:けんたろさん
元 ◆ntlC4wAIさんのお考えに全く同意いたします。
もっともよく整理されて理解しやすいですね。
同じような考えで書込みしているつもりなのですが…。
>百夜 ◆WR1hQljoさん
ありがとうございます。
ご賢察の通りです。
>二千翔さん
このスレの従前の書き込みも含めた上での論議と思っていますので、59,60で書き込ませていただいた内容が私の考えとなります。

いやぁ〜、難しいですね。
私の文章力がないせいなのでしょうが、ことごとく文意が伝わっていないようです。
ですが一個ずつ解答させていただきます。
>複数の構成、射法、流派の各々の射技で必中の前提に合理的なものが有ればそれは理射と認識できますが、正射の定義が定まらない現状でそれをイコールとして結びつける理由が無いと思われますが如何お考えで?
正射についての考え方は59,60の書き込みの通りです。
理射については、理に適った射ということですから、逆に言いますと”理"の数だけ理射があるということで、例えば全国の方に共通理念として”理射の技術論”を統合しようとしたら、これまた正射の現状のように、共通のものが築けないのではないかと考えています。
ワンベストウェイがありえないと申したのはこの点においてであって、二千翔さんの考え方がどうこう、といったつもりはございません。
悪しからず。

この点まで考え進めたときに正射と理射の何が違うのでしょうか?
というのが私の文意でした。

>正射は理に適った射だと認識しておられるようなので、技術論も織り交ぜてその具体論を述べていただきたい。

これも繰りかえし述べていますが、唯一無二の論理がない現状で私見、私論を述べても、今回の議論にはなじまないと考えます。
敢えてと申されるのであれば、三重十文字が守られている射を一例としてあげます。

>何を以って理射と正射を判別する縁と成りえないとお考えなのか?
百夜 ◆WR1hQljoさんが書いてくださったのがそのまま正解です。
矛盾はないと考えます。

114:二千翔さん
>けんたろ様
59,60でのレスを拝見させていただきましたが、それは精神論に近いものでは有りませんか?

>理射については、理に適った射ということですから、逆に言いますと”理"の数だけ理射があるということで、例えば全国の方に共通理念として”理射の技術論”を統合しようとしたら、これまた正射の現状のように、共通のものが築けないのではないかと考えています。

なぜ理射の技術論の統合の話になるのかわからない。これはオーバーディベート。先に私が述べさせていただきました。鎌を掛けてしまい申し訳ございません。

>元 ◆ntlC4wAI様

>まず「正射」の扱いですが、「正射」も「理念」も固有名詞ではなく「理想的概念」なので何かを1つを限定して指している言葉ではありませんね。「美人」が特定人物の顔面を差す言葉ではないのと同じでしょうか。
ついでに「理想的概念」なので「正解」は決っていません。同様に「美人」の顔を特定人物の顔面に定める必要もありません。

なら全く異なる考えの正射必中も存在しても構わないと言うことですか?理想的概念として存在ならば他人と共有すべきでは無いです。正射を指差しさせ、360°あちこち指が向く...そこが気に入らない。

>「正射」=「正しい射の運行」、則ち「理に叶った射」。「理に叶った射」とは「理(ことわり)」、則ち「理想的概念」に則した射。

理=理想的概念に則した射?理にかなう射とは的中条件としての技術に問題が無い意味合いが強いと思いますが。理=ことわり、普遍的絶対、平等の心理って辞書を引いた解釈では納得しかねます。そこにまで曖昧なものを持っていかれるのか...やはり私の意見は猿が月に着陸したようなものだったのですね。

>110
お二方、またご覧になった皆様。できればこの私の疑念に答えていただきたかった。

115:犀星さん
指導者として>110に対してですが、やはり個人の目標は多々あり、精進する上での理想概念は個人に委ねて、と言いますか何つうか、任せていますが、それにより他人に無理矢理な指導や考え方を押し付けて、傷つけるのは確かにあるなぁと。って当のスレ主さんは!?

116:けんたろさん
いやぁ、まいりましたね。
いくらかでもご理解いただいたところもあるんですかね?

>それは精神論に近いものでは有りませんか?

私はそうは思いません。

>なぜ理射の技術論の統合の話になるのかわからない。

正射の技術的側面を捉えて、統合が取れていないことを問題視されている二千翔さんが理射という言葉を持ち出して正射と異なるとされているのに対し理射と正射に差異は生まれないのではないか?、という論証をするために必要だからです。

どうもかみ合わないようですが、これも「正射」という言葉の捉え方がそれぞれ異なるが故、に思えてきました。
多分お会いして話すと文意では伝わらない部分が解消して、納得行きそうな気もしないでもないですね。

>110について
曲がりなりにも、学生の指導をしていますと、そのような気持ちを持って正射必中を語ることは、恐ろしくてできません。
人を指導する事の恐ろしさ、責任を知っているものは、そういったことでは本当に恐ろしくて指導なんてできませんし、あってはならないことだと思っています。
よって、ハッキリと、そんなことはないと断言できます。
この点に関しては議論の余地はありません。

117:二千翔さん
そうですね何かの縁でお会いできたら文で伝わらない話もできそうですね。いやはや、貴方の討論は非常に有意義でした。お付き合い頂き心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

>110
ご返答ありがとうございます。貴方がそのような人間で良かった。

118:二千翔さん
>犀星様
そう言えばお見えになってませんね??
>110のご返答ありがとうございます。

119:ヒヨコV3さん
110について
正射云々について深く考えた事がないからわかりませんが、自分が良いなと思う射を真似したり他人から学ぶ事はあります。
中て射についての妬みはありません。
自分より中たってるならそれは的中に関して内面の力の働きが自分より正しいんじゃないかなと思うから(射の見た目は問題ではない)
ただ、誰しも手本や見本となる射は存在する筈です。それを正射と重ねて練習するんじゃないかなとは思います。ま、僕みたいに正射という言葉を知らずに(後から知った)引いてる人も居ると思いますし、誰しも手本や見本になる射が正射じゃないとは思わないんじやないかなぁ?
僕自身、正射がどんなモノや理射がこんなモノなんてどうでもいい的な考えな人間です。
逆になぜ正射じゃなきゃいけないんだ?と聞き返したいくらいですね。
正射の答えが十人十色なら中て射なんて言葉生まれないんじゃないかな?
中には中て射が正射だという考えの人も居てますからね。

120:百夜 ◆WR1hQljoさん
>>110
>他者の射に対して排他的になってはいないだろうか...
>またその理由で傷ついている人間はどうこの理念射を感じているのか...
>果たして、正射必中を己自身の為だけに掲げているのか...
>中て射に対して執拗な嫉妬心を抱いていないのか...
>崇高理念として己自身のみに掲げている人間がどれだけいるか...
>他者を傷つけたり、蔑んだり、また嫉妬したりしていない断じてないとハッキリ言える人間がどれ程いるのか

このすべてを満たせているかというと、残念ながら断言はできません。私は学生ですが、後輩の指導をする際につい厳しい言葉遣いになってしまうことがあります。だいたいは三重十文字を無視して引いている後輩に対してですが・・・。厳しい言葉を使ってしまうときほど自分の未熟さを思い知ります。

弓道は、精進道の一つだと私は思います。誰かに与えられたり押し付けられたりするのも好きではありません。他者からの指導・助言は自己を省みるための方法の一つと位置づけています。自分の弓道を誰かに押し付けるのも嫌いです。


ちなみに、私は「正射必中を掲げている人間」ではないです。

121:元 ◆ntlC4wAIさん
>二千翔さん
>なら全く異なる考えの正射必中も存在しても構わないと言うことですか?
全く異なる考えの「正射」で「必中」ってどんなのでしょう?射法なんてどこも似たり寄ったりですが。
「正射」は特定のものを指さないとは書きましたが「必中」は確実に限定的な語ですよ。
その「必中」を目指すための「正射」であって、やり方に様々あるだけです。しかし結局目指す所は「必中」。
故にそれぞれが「正射」になり、それぞれの理に則した射は的中へ繋がり、則ち「正射必中」となるわけです。
どんな名人の射でも、それを指して「あれが正射だ」なんて普通言いませんよね。
見かけ上の射と目標たる正射を混同して考えてやしませんか?

110のレスですが。。。漠然とした危機感から問題提起したいのでしょうか?
「正射」だろうが「中て射」だろうがそれ相応の稽古の蓄積が無いとまず中りません。
「正射」だろうが「中て射」だろうがそれ相応の信念を持たないと集中した稽古もままなりません。
信念を持ってそれに集中する事と、独り善がりで排他的になる事とは全然違います。
なぜなら理念・イデオロギーは利害関係なく共有しうるものだからです。
全体的に見てにどんな理念の人がどれだけ居るかなんて知りませんし知った事ではありません。
なぜなら理念・イデオロギーは押し付けるものではないからです。

122:二千翔さん
>ヒヨコV3様
>百夜 ◆WR1hQljo様
貴重なご意見ありがとうございます。
>元 ◆ntlC4wAI様
110に関しては貴方自身に主観を於いた考えを述べていただきたいと存じます。

>正射」は特定のものを指さないとは書きましたが「必中」は確実に限定的な語ですよ。
その「必中」を目指すための「正射」であって、やり方に様々あるだけです。しかし結局目指す所は「必中」。故にそれぞれが「正射」になり、それぞれの理に則した射は的中へ繋がり、則ち「正射必中」となるわけです。

それが曖昧だと私は申し上げているのですが。必中は確実的に限定的な意味を持つのはわかります。しかし、具体的に言えば、正面と斜面の射手が互いに的中条件として満たされていても異流同士それは認め合えるのでしょうか?やり方に様々あるのなら正射という言葉は果たして適切か言うことです。まぁ、それは私の意見ではありますが、それはお互いに譲れぬものがあるからこういった討論が楽しめると言うものでしょうね。貴方に対しても皆様に対しても貴重な議論の場を提供していただき誠に感謝申し上げます。

123:流れ者さん
"理にかなった射"="正射"

というのは少々短絡的かと。
本当に理詰めで弓道を考え始めたら、
「なぜ打ち起しをするのか」
「大三を取る理由は何か。また撮らない流派もあるのは何故か。」
「和弓はなぜあれほどまで長く、また握りより上が長いのか」
など多くの疑問が生まれますが、
そこに全て機能的理由があるとは考えにくいですね。
むしろ弓道が発達してくる際に、恣意的なものが介入して、現在の弓道を形成したと考えるべきでしょう。

それゆえ"正射"なんてモノは実体が無く、その射を見る人間の恣意性(観る人の美的感覚や慣例など)に左右されるものなのかも知れません。

また、恣意性が介在するが故に"中て射"は"正射"とは成り得ないのかもしれません。


要は「正射か正射ではないか」ってのは「美しい射か美しく無い射か。」
ってことなのかもしれません。
外れるよりはあたったほうが美しいし、
会も短いよりは少々長い方が優雅に見える。

結局それだけなのかもしれません。

124:元 ◆ntlC4wAIさん
>二千翔さん
>異流同士それは認め合えるのでしょうか?
人によるでしょう。

>それが曖昧だと
>正射という言葉は果たして適切
「正射」という厳密に決められた射法があるわけではないですからね。
誰に対しても一部の隙もズレも許さない射法が果たして射技たりえるか、
「正射」と言う言葉の定義をそこまで厳密に定める事に意味があるのかどうか、です。
弓はそんなにお手軽なものじゃないですよね。

125:けんたろさん
>流れ者さん
>多くの疑問が生まれますが、そこに全て機能的理由があるとは考えにくいですね。

なぜ、そう思われるのでしょう?
それぞれに疑問に機能的な意義を見出していけば、八節にそれぞれ意味があることが見えてくると思うんですが。
もちろん弓の長さのように歴史的な経緯や背景によるものもありますが、それは射法の話ではないですから。。。

打ち起こしには明確な理由があると思います。
どうぞ周りの方と話し合ってみてください。
逆説的に「打ち起こしをしないで楽に弓がひけるのか?」と考えると見てて来ると思います。

私は自分の今までの経験から判断して、現在の射法は高度に整合性が取れた射法であると感じています。
そう感じられないのは、射手の側が一つ一つの動作の前後とのつながり、機能性というところに意をおいて考えていないせいだと思います。
例えば、執り弓の姿勢でなぜ肘を張るのか?
射法を貫いて肘を張ることの理が有ると私は認識していますし、生徒たちにも概念と論理展開、発想法、実技を通して教えています。

126:社会人さん
八節それぞれに意味があると思いますが、機能的かどうか私も疑問をもっております。もし的中に関して機能的になるならアーチェリーに近くなるのが合理的です。

道具と射法は一体だと思うのですが、射法の話と切り離していいのでしょうか。不合理な形状故にその道具に合わせた、今の射法ができたのでないでしょうかね。

肘を張る理ってどのように思われていますか?私は理を知りませんのでご指導願います。
肘を張る理由の一つにもっと機能的な理由がありますよ。着物を着たときに肘を張らないと袖はどうなりますか?

長文失礼ですが、議論できれば幸いです。

127:黒紫さん
前々から見ていましたが…失礼ですが、はっきり言います。

道具に合わせて射が作られたのが歴史です。
手の内はその典型です。

あと、的中から射が生まれたのが歴史であって、たまたました射が中ったなんて馬鹿げた事はありません。

教本は読んでますか?ちゃんと文献を見ましたか?
ネットは多くの人が見ています。空想で言わないようにして欲しいです。
正射を掲げたのにも当時の背景に影響があります。
例に矢場での博打ですが、それ位は知った上で議論されては如何でしょうか?

128:二千翔さん
そろそろ黙って静観しようとした矢先に...

>流れ者様

>「なぜ打ち起しをするのか」「大三を取る理由は何か。また撮らない流派もあるのは何故か。」

機能的には全てが合理適とはならない?逆にお尋ねしたいが、射法八節以上に精密なコンビネーションを構築が現代弓道で可能ですかね。和弓術と言うのは和弓の性質を理解した上で行うべき武術です。それから、大三とは、押し(弓手)大目引き分け三分の一を収める意です。正面と斜面の射で手の内や骨法の技術的差異が見られても、引分け手前その過程には矢束をある程収めないと、けんたろ様が仰ったように楽に引けないでしょうということです。

>社会人様

>もし的中に関して機能的になるならアーチェリーに近くなるのが合理的です。

それこそが和弓術および和弓の性質を理解なさっていない。和弓は弓の外側に矢を番える以上、また下弦が上弦より短いため復元力に差が見られるため、矢は上方に飛ぼうとする。又、下弦の復元力が強いため弦が回転しようとします。これは弓返りの働きになります。つまり絞りと上押しと言う技術が重要に成ります。これを欠けばやは前に飛び、上方に飛びます。アーチェリーの八節の場合、性質上それらの和弓術独特の技術は不必要なのです。ですから和弓でアーチェリーのように引けばそれらの技術が削除される結果になり、和弓を引く上で適切と言うわけではありません。

>肘を張る理ってどのように思われていますか?私は理を知りませんのでご指導願います。

円相の構えと呼ばれる技術です。肘を張れば、引分け、会(詰め合いの過程)で肩線に対して肘入れがし易くなります。弓手は肘を返し弓がてる動きや肩が上がるといった弊害を抑える事が出来ます。妻手は前肘になることや手繰り引きといった弊害を抑える事が出来ます。まぁあくまで期待できる程度と捉えてください。何分、文中では表現しきれないものですので、ご容赦願います。

129:へきるさん
こんにちは

デビール田中のレジェンド真尻さんが現れないので(当然か)
http://ecoecoman.com/kyudo/bbs200509/2004051214322009.html
わかってる人はこんな陳腐な話題に食い付かないですか、納得します。当たり前のことなんですよね。

*追記*
私が学生射手で低次な弓を引いてるなんて勝手に妄想された方が居られるようですが勘弁してください。私はただの才に恵まれた弓引きです。

130:へきるさん
*追追記*
ましてや私の提示した「必中正射」の意味すら理解できない方(俺が悪い意味で中ればなんだって良いなんていつ言った?)まで居て子供の私はすこーしオヘソを曲げてしまいました。

131:二千翔さん
>へきる様
貴方は何者なんですか?HNとIDが一致しておりませんが...?

132:二千翔さん
>131
おっと失礼。携帯電話からの投稿でしたか。申し訳ございません。

133:元学生さん
>二千翔様
横レス済みません。
>円相の構えと呼ばれる技術です。肘を張れば
とかかれておられますが、教本のP89には、「肘を張らず、両手は相対し円相となり」とあります。
このことは、過去の弓道誌にも範士の先生がご指摘されているのですが、どのように二千翔様のコメントを理解したらいいでしょうか。

134:二千翔さん
>元学生様
鋭いですね。教本上では弓構えの際には肘は張らないとしています。ですが現状では肘を張ることに関しては一定の理解があるようです。これも教派による差でしょうか。確か、範士の先生方のご指摘では、弓構えの際肘を張る動きそのものには合理性が視られるが、単に肘を張るだけでは、本来弓構えの際に胸割りを行い、矧糸一巻き分の羽引きを行う力の働きを無視することと成るので...だったかなぁ...そういった感じのご指摘だったように記憶しております。(胸割りを無視するような型造りは認めないと)円相に関しては色々な教え方、付加技術があるようです。

ついでに返信する機会があったので、
>スレ主様
>デビール田中のレジェンド真尻さんが現れないので(当然か)わかってる人はこんな陳腐な話題に食い付かないですか、納得します。当たり前のことなんですよね。

ご自身で議論の場を展開しておきながら、陳腐な話題と批評し又、特定の方に返信を望まれていらっしゃったようですが、今までにこのスレッドの議題に対して発言された方々に対してその言い草は失礼ではありませんか?私としては遺憾に思います。

>私が学生射手で低次な弓を引いてるなんて勝手に妄想された方が居られるようですが勘弁してください。私はただの才に恵まれた弓引きです。

何方がそのようなことを考えていらっしゃったでしょうか?貴方の弓道に対する姿勢は貴方だけのものであって誰も文句は言いません。妄想を抱かれたのは貴方のほうです。そして“私が学生射手で低次な弓を引いてる”これは学生の方々に対して極めて失礼な物言いではないでしょうか?才に恵まれた弓引きと自己評価されている故にですか?

>ましてや私の提示した「必中正射」の意味すら理解できない方(俺が悪い意味で中ればなんだって良いなんていつ言った?)まで居て

ならなぜ今までご自身の考えと食い違いのある意見に対して積極的な反論をされなかったのでしょうか?貴方にはこのスレッドの討論に消極的な姿勢で臨まれていたように感じました。

135:へきるさん
>>二千翔様

そんな無茶苦茶に食い付かれたら私困ってしまいます。


>>陳腐な話題
貴方だったらこのスレを全部読んでどんな名前をつけますか?差し支えなければ「〇〇な話題」で答えて頂けると有難いです。

>>特定の方の返信
当方求めておりません、妄想を抱かれたのは貴方のほうです。

>>学生射手うんぬん
学生射手が低次なんていつ書いたのかがわからない、妄想を抱かれたのは貴方のほうです。

ダルいです。すいません百回程読み直して頂けませんか?
言葉遊びやあげ足とりのためこのスレ立てた訳じゃないですから。

136:けんたろさん
へきるさんが才に恵まれているかどうかはこの際、置いておいてwww

文章で真意を伝えるのは難しいですね。

難しいですから、読み手はよくよく読むことが必要ですね。

それでも文意が伝わりにくいのは仕方のないこと。最初からある程度誤解されるものだ、と覚悟しないと文章に頼る議論は困難ですよね。

書く側にも切り捨てるような書き方を慎み、誤解に対しては補足をしていく姿勢も必要と思います。

要は相手への思いやりの気持ちですね。
”射は仁の道”ですから。
相手を思いやる心が大事ですね。
建設的な議論の為には、双方の努力は欠かせないですよ。

137:流れ者さん
>>二千翔さん>それぞれに疑問に機能的な意義を見出していけば、

「見出す」というところに恣意性が介入しているのではないでしょうか。本当に機能的なものは見出さずとも見えてくるはずでは?
また、打ち起こし以降の流れも、
教本の第一巻によると

一、正面に打起し、「大三」を考え途中とめずに引分ける。
ニ、正面に打起し、「大三」-押大目引三分一-をとり引分ける。
三、左斜面に打起こし、途中とめずにあるいは「三分の二」をとり引分ける。

と、大別して上記の三通りありますが、
大三をとることに機能的理由を「見出し」た場合、上記のニの方法は「合理的でない」ということになりますし、弓構えで肘を張ることに機能的理由を見出した場合は、左腕で弓を押し開く斜面の構えは「合理的でない」ということになります。
「八節の全てに機能的理由がある」という説にはやはり無理があるかと。
また、同じ和弓を使っていても、ここまでそれを取り回す手法が異なるとすると、「射法が和弓の構造に合わせて進化した」という考えもあまりしっくりいかないものに思えます。

>精密なコンビネーション
もう少し具体性をもたせていただければ幸いです。ちなみに八節はそれ自身がコンビネーションであり、それによって「コンビネーションを構築する」という表現は少々おかしいかと。

>引分け手前その過程には矢束をある程収めないと
その説ですと、教本の「途中とめずに引分ける」という点と合致しません。


>下弦の復元力が強いため弦が回転しようとします。
弦が回転しようとするのは、矢が弓の右側へ出ているため、矢が進んでいく方向と、弦が戻ろうとする方向に差異が生まれるためです。
アーチェリーのように矢が弓の真中を通っている場合は弓返りはしません。

>まぁあくまで期待できる程度と捉えてください。何分、文中では表現しきれないものですので
それはあなたも「肘を張る理」を「期待できる程度」のものとして考えていて、「絶対必須」のものとしては考えていない。と捉えてよろしいんですね?

古くから伝えられてきたものといえど、必ずしも合理的とは限りません。「八節は合理的である」という考えを、再考せず盲信してしまうのは少々考え物かと思われますが。

138:流れ者さん
>>へきるさん

>ましてや私の提示した「必中正射」の意味すら理解できない方

議論の前提として、言葉の正確なニュアンスを説明しておくことはあたりまえです。
まして「必中正射」のような、様々な意味のとり方が出来てしまう言葉ならなおさらでしょう。


>ダルいです。

俺もです。(爆


>>>陳腐な話題
>貴方だったらこのスレを全部読んでどんな名前をつけますか?差し支えなければ「〇〇な話題」で答えて頂けると有難いです。

いやー、スレを全部読んでいなすったか、これは立派なお方じゃ。
それにしてもこんな陳腐な話題を提供してくだすった陳腐なスレ主殿に感謝、感謝ですじゃ。(爆

139:二千翔さん
>流れ者様
これに関しては本スレッドの議題とは少しニュアンスがかけ離れているようです。続きは新たにスレッドを建てて議論するとしましょうか。私も正直ダルい次第で...このスレッドは...しかし、なかなかいい観点に基づいた問題ですね。機能的理由、その中にある非機能的=非合理性を発見していくのも現代弓道の醍醐味ですかね。

140:流れ者さん
>>二千翔さん

先ほどは少々乱暴な物言いをしてしまい申し訳ありませんでした。

たしかにここではスレ違いですね。

新スレを立てるかどうかは二千翔さんの裁量にお任せいたします。

失礼かと思われるかもしれませんが、(自分から食いついたのにこんなことを言うのは妙かもしれませんが、)自分はあまりこの問題にそこまでこだわっていないもので・・・^^;

141:二千翔さん
へきる様
揚げ足を取るようで申し訳ございませんでした。

>貴方だったらこのスレを全部読んでどんな名前をつけますか?差し支えなければ「〇〇な話題」で答えて頂けると有難いです。

貴方ご自身で陳腐な話題と批評されておいて
「〇〇な話題」で答えてとは...そうですね「スレ主が投げっ放した陳腐な話題」。どうです不快に成りましたか?申し訳ございませんでした。

>当方求めておりません、妄想を抱かれたのは貴方のほうです。

ならなぜ真尻様の返信を臨まれたかのような発言を為さったのですか?妄想を抱いて申し訳ございませんでした。

>学生射手が低次なんていつ書いたのかがわからない、妄想を抱かれたのは貴方のほうです。

不必要な誤解をしてしまい失礼しました。

>ダルいです。すいません百回程読み直して頂けませんか?

そうですね私もダルいです。そんな消極姿勢でスレッドを建てていたのですか。積極的に意見を述べ、熱い討論をしてくださった方々に対してもそのような目でみられているのですね。不快な思いをさせてしまい申し訳ございませんでした。それから私の疑問にも答えてくだされば良かったと存じます。

142:二千翔さん
>流れ者様
そうですね〜どうしましょうか...一応検討させていだきます。

143:へきるさん
>>みなさん
御 免 な さ い

ついつい言葉が荒くなってしまいました。私の器の小ささ故です。スレを荒
れさせてしまったことについても反省させて頂きます。
ただ一つ聞きたいことがあるのですが、
wとはどういう意味でしょうか?

144:二千翔さん
>へきる様
w=笑いの意です。ネット隠語です。

145:けんたろさん [url]
>へきるさん
二千翔さんがフォローして下さった通りです。

146:七氏さん
>72:へきるさん
>この人自分に少し近いなぁとか、こういう見方もできるなぁとか、腹筋攣りそwww笑わせんなwwwwwとか

とあるので、wに意味ではなくて、笑われた理由が知りたいんじゃない?

147:狂月さん
自分もどちらかと言えば必中正射派の人間です!!!
的中する射に善し悪しはあっても的中しない射には必ず悪い部分があるから中らないはずだと思います。
つまり中っていること前提で射形を磨いていく…それが自分の理想で目標でもあります。しかしまだカケダシのため現状では夢のまた夢〜ですが目標は高く大きく!!!射に迫力と威厳のあるいい弓引きになりたいと思っています!!!
それに射形も大切だと思いますが、中と楽しいじゃないですか?!だから自分は確実な的中のために正しい射形と思い日々練習しています。この考え方ってきっと必中正射思考だし、弓道の本質である正射必中に反しますが弓道を楽しめているからいいのかなぁ〜とゆうのが持論です!!!
まぁ後輩にはちゃんと正射必中と教えていますがねッ!!!笑)

148:まぴさん
私の意見を言いますと、
正射には個人差がありますね。骨格的な問題とかです。
理想的な体格の人にしか正射は出来ないなんてそんな馬鹿なことがあるわけないですから。
その人に最もあった射がその人にとっての正射であり理想です。
そして「その人に最もあった射」というのはどのようにして判断できるものでしょうか?
絶対に個人差のある射の型を他人が見て判断できるわけがありません。
その指標は的中以外に考えられません。
だから私は必中正射派です。

149:たぶんおやじさん
>絶対に個人差のある射の型を他人が見て判断できるわけがありません。

では、自分がどのように引いているか、いつも認識できているのですか?

例えば先生が自分の認識と違うことを指摘されれば、それは違うということですか?

150:流れ者さん
まだこの板が生きていたとはwww

>>狂月さん

>的中する射に善し悪しはあっても的中しない射には必ず悪い部分があるから中らないはずだと思います。

悪い射=中らない
って先入観はどこから生まれてくるんでしょうか。
悪かろうが良かろうが最終的に矢が的に向かうように発射されれば中ります。
早気は一般に良くないとされますが、早気でもガンガン的中を出す人はいます。

>中っていること前提で射形を磨いていく…それが自分の理想で目標でもあります。

中りを目指して引くのではなく中っていること前提でですか。"的中しない射には必ず悪い部分があるから"という考え方の人は射形を磨く気になれませんね。


>>まぴさん

>そして「その人に最もあった射」というのはどのようにして判断できるものでしょうか?

それは師が教えられるところを全て身につけた上で自分自身で求めていくところではないでしょうか。
一人として同じ認識・体躯を持った人間は居ませんから、師範が教えられるのは、どうしても共通項的な部分となります。
「自分の体躯に最もあった射」を他人に教えてもらおうなんて、なんともおこがましい考えにも思えますが。

151:鏡さん
1諸動作が全て繋がっているか。
2諸動作に無駄や偏りが無いか。
3会において五重十文字ができているか。
4会から残心までがつながっているか。
5これらが結果として達成されているか。

正射とはこういうものだと私は捉えています。(4は重複気味ですね)
大事なのは「結果として」達成されているかであり、3と4を意図的に作り込むと1と2が達成されません。
これだけできていて的に付かないのであれば射以外に原因があると思いますが。

最近初めて教本読んでみたら「五重十文字ができていれば正しい射とされる」って書いていたから、
書いてある言葉だけを追うなら3だけでいいのかも。
やってみようとしたら結局3だけじゃダメなところが「教本」の言葉通りなんだけどね。
「教科書ではない。指標は与えるから詳細は自分で学び取れ」ってことなんだと思った。

152:狂月さん
確かに流れ者さんの言うこともわかります。。。
書き込みありがとうございます!!!

矢の軌道とか、弓の弦のはこびとかを考えると少し変わってくるかもしれませんが、まだ自分の技術でそこまで微妙な誤差を考えるよりはシンプルにまとめ中を物理的???普通に考えると的に向かって矢を真っ直ぐ打ち出せば中ますよね???

今はこの考えを基準に練習しています。

まず立ち位置が的に向かって真っ直ぐであること。

次に三重十文字ができていること。

また五重十文字ができていること。

そしてこの射形を維持したまま会から離れを行なっていき、会と離れた後とで射形がくずれていないこと。

これらができていれば射形としては正射になるのではないかと思います!!!

つまり中らないのはこれらのどれかが大きく欠けているのかと思うのですが???


これが中らない射に良いはない!!!の根拠というか自分の考えです!!!

153:しななさん
ついつい言葉が荒くなってしまいました。私の器の小ささ故です。スレを荒
れさせてしまったことについても反省させて頂きます。
ただ一つ聞きたいことがあるのですが、
wとはどういう意味でしょうか?

縦読み・・・

つ れ た w

154:流れ者さん
>>狂月さん

>矢の軌道とか、弓の弦のはこびとかを考えると少し変わってくるかもしれませんが、まだ自分の技術でそこまで微妙な誤差

どうも「誤差」って言い方が気になりますね。
まぁどう表現するかなんて人それぞれなんでどうでもいいですが、「誤差」という言い方から読み取ると、どうも狂月さんは「絶対的な正射」ってものがあると考えていると見えますが・・・。

(あくまで私見ですが、)
その考え方は少々本質を捉えていないように思われます。
というのも、人はそれぞれ体格・骨格が違い、それによって微妙に射が変わってくるということはもちろん、流派によっても射の様式は大きく異なります。
故に、ある人間が正射だと考えていることが必ずしも他の人が見て正射だと考えるとは限りません。
また、昔の人と現代の人では体格が大きく異なります。
従って、昔の人が考えていた正射と、現代人の正射はかならずしも同じとは限りません。

ですが、「教士」や「範士」と呼ばれる方々(=その射がとりわけ良射であると認められた方々)は居なくなることは無く、現在でもいらっしゃいます。

従って、「正射」すなわち「射のあるべき姿」の決定的な要素は必ずしもその「形(といっては少々誤謬がありますが。)」にはなく、あくまでその射がかもし出す「品格」や「重み」にあるのではないでしょうか。

それゆえ、自分は矢の軌道や弦の運びなど、同じ射手が引いても差が出てくるようなところに正射の決定要素は無いと考えています。

155:狂月さん
流れ者さんは弓道に対して自分の意見や想いをしっかり持ってる方なんですねッ!!!


カキコ見ていろいろと考えさせられます…笑)
なんだか答えを急いでしまっていました。自分も弓道大好きですが、始めてまだ3年でまだまだ未熟者ですがこれからも時間をかけてゆっくり考えてなにか自分なりの答えを探していきたいです!!!

156:Y.K.さん
>>153
>しななさん
よくぞ気づいてくださいました。
その縦読みは>>143ですね。やられた…

157:C.Cさん
初めて書き込みます。
皆さん真剣に語られていて感動しました。
では私の考えを聞いてください。
私の考える『正射必中』とは、文字通り正しい射形で引けば必ず中るということだと思います。先ず弓道を学ぶにあたって射形を学びます。そして引き続けることで狙いや上押し加減・押手、勝手の入り具合など中てるコツ、いわゆる『技』を習得します。しかしこれで『正射必中』が完成したわけでなく、それを何時何時どのような状況下でも実践し全く同じ様に中てなければならないのです。それには、『技』の次に『心・精神』が必要になってきます。緊張や焦りの中でも自分を律し、常に平常心を保つ、それが何時何時でも動じることなく実践しつづけて初めて『正射必中』が体現できたと言えると思います。

上達するにしたがって『技』から『心』に重点が移り変わるとおもいます。その過程でさまざまな癖に悩まされたり、人間形成が為されていくと思います。

しかしこれは生半可な事では無く、相当険しい道程だと思います。だから楽しくもありますけど(笑)私なんかは一生かかってもそこまで行けるかどうか…
拙い文章でしたが許してください。

158:天龍さん
>157:C.Cさん
純朴な良い意見だと思います。
中段に「鉄のハートを持ちたい」と言う切実な望みが出てきます。永遠のテーマです。
またその後に、「上達するにしたがって」とあります。上達ってどういうことだろう、と40年以上弓を引いてきた我が身を振り返って考えます。確かに、大学時代に今の射ができていたら良かっただろうなとは思います。そう感じるのは自分の射に対して多少の矜持を持つに至ったということか。
若くても「うまいなー」と感心する射手もいるし、県のエース格の中堅たちには唸らされます。
そういう実力者たちも日々自分の射に微調整を加え、進化させてゆきます。どんなに高齢の先生方だって見ていると同じです。
射技が一定の高みに達して、後はハートだけだなんて日は、おそらくどんなに年季を積んでも来ないでしょうね。

159:かっチャンさん
天龍さんのお言葉には、重みが感じられますね。一射にその時のすべてを打ち込むという気迫が静かな物言いの中から、醸し出されています。僕もそのようになりたいです。

ここのテーマですが、各人が各様の正射必中に向かって精進するとしか言えない様な気がします。或る時に分かったと思っても、その後に、この前のはまだまだだったと思い、所詮はその繰り返しではないでしょうか。

むしろ、正射必中とは、射を悟ったとは決して思わず、常にその先へ歩めという、戒めのような意味ではないでしょうか。


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