無影心月流(?) (投稿11件)[1〜11]


1:kouzannsuisyaさん
今日、市が運営する道場にいきました。
そこには普段は見ない流派の人が弓を引いてました。聞いてみると、無影心月流(漢字もこれであてるかは?)といってました。
どういうものか知っている人がいましたら教えてください。

2:雁さん
こんにちは。
時々無影心月流についてはスレが立ちますね^^;
過去ログを検索してみてはいかがでしょうか?
それにしても、あの流派の方々が一般の方と
一緒に練習されるのも珍しいですね、、、
海老名か姫路か金沢の道場ですか?

3:kouzannsuisyaさん
愛知です。

4:kouzannsuisyaさん
の犬山というところの道場です。

5:kanzukasaさん
 私は、現在の無影心月流については解りませんが、梅路見鸞の意志を
継ぐものならば解釈できます。 まず梅路見鸞は、様々なもののなかから、禅を理解する為に弓道が1番適していることから弓道を選んだということです。 これは、一般人が禅をそのまま理解するのは極めて難しい為、弓という純粋な道具を利用して、禅を体現する方法です。 梅路見鸞は橘流の継承者でありますが、正面打起を得る為に本多利実の元で阿波研造と共に修行しており、この頃に本多利実より、梅路「見鸞」阿波「見鳳」の名を頂いたとされています。 これは、「鸞鳳 らんほう」と文字から取ったとされ、梅路見鸞と阿波見鳳が表裏一体の人物であった事を裏付けるものでもあります。 実際には、阿波研造が梅路武禅道場に何度か稽古に訪れており、梅路見鸞に相談や稽古を受けている様子が、「武禅」には残っております。
 さて、この梅路見鸞は生まれた頃より、中津藩より武道・武術を始め
あらゆることの英才教育を受け、幼少の頃より麒麟児といわれた秀才で
した。 25歳にして禅の印可をうけており、日本の書道に限界を感じ
た梅路見鸞は中国に書道の修行にでて行ったりと様々な事に逸脱した人
物でもありました。 梅路見鸞は一般人が禅を得る事によって社会全体
がよくなることを信じておりました。
 禅というものを解りやすく説明すると「正しい答えを導き得る為の方法」だからです。 だから、梅路見鸞の弓道は、決して「中てる」の技術の集積ではなく、正しい答えを得るために弓を用いて弓道としたのです。
 また、他の道場と大きな違いは、各個人の骨格の違いに応じて射法も
変えており、武禅の写真には誰一人として、同じ射影をした者が居ない
のです。 また、梅路武禅道場では初心者に限り、「とりかけ」直前に
右腕を差し上げ「とりかけ」をする方法を用いており、軽率なとりかけ
を行おうものなら、棒矢で妻手を叩いて直していたそうです。
 これは、とりかけの大事さを知り、またとりかけに余分な雑念を持ち
込まないようにする意図があり、妻手を差し上げてとりかけに移りはじ
めてから「おーーーーーーーーーーーーーー」を声を出しながら、
とりかけを行うように指導していたそうです。

6:枕流さん
>kanzukasaさま

横やりを入れるつもりではないのですが結果的にそうなるかもしれません。先に謝ります。ただ阿波先生のことになると放っておけません。
本多先生が事故でなくなったのは大正6年。阿波先生が「凡鳳」から「見鳳」と改号したのは大射道教設立とほぼ同じ頃ですので大正から昭和に変わる頃(大射道教が昭和2年設立)です。しかも数年で改号されています。
櫻井先生の大著「大いなる射の道の教え」では大正14年見鳳、昭和6年改号(宏鴻)になっています。
ですから本多先生が授けた号とは考えにくい。
見鳳時代が一番の円熟期であり、たまたま似たような号なので後生の人がそう考えたと言うことではないでしょうか?

7:枕流さん
今思いついたのですが実は私は子供の頃夏目漱石が大好きで故にHNを枕流としています。漱石の由来、漱石枕流の後の部分です。
梅路先生は阿波先生よりたしか10年ほど年少。阿波先生への憧憬の念から鸞鳳にかけて見鸞と号したとも考えられなくはないですね。年代的にどうでしょう?

8:Kanzukasaさん
こんにちは、枕流さん
レスが遅くなり申し訳ない次第です。
さて、まず私の話の出所を記述しておきます。
私の師は、梅路見鸞の内弟子の一人あった方で、今も現役で弓道
に励んでいらっしゃいます。 多分、梅路見鸞また梅路武禅道場
の事実を知る最後の方だと思います。
 また、阿波研造とも幾度となく接触しており、両方の関係を知
る一人でもあるでしょう。
 私の師は、梅路見鸞の遣いで阿波研造の道場を何度か訪れており、
阿波研造は道場を貸切り状態にして師と2人で夕方まで一緒に弓を
引いてくれた事があると仰っておりました。 また、偶に阿波研造
が弟子を引き連れて梅路武禅道場に稽古に参っており、梅路見鸞の
指導を受けておりました。 その一部は武禅にも掲載されております。
 天皇御前礼射の前日、当時ビクや震えの激しかった阿波研造は
梅路見鸞の元に訪れて指導を受けて居ります。 梅路見鸞がそれを
直すとピタリと止んで、次の日を迎えました。 師は梅路見鸞の
命でその礼射を見に行って、梅路見鸞に報告しています。
梅路見鸞は「さすが阿波」と誉めたそうです。
 しかし、梅路見鸞の書いた「顕正射道儀訓読」を教科書として
無断で使用して、梅路見鸞に呼び出されて一喝されたり、「絶命一射」
を「一射絶命」と過って使用したりと色々なハプニングもあった
そうですが、日頃は梅路見鸞は「阿波」「阿波」と可愛がっていた
そうです。
 これらの事から、梅路見鸞と阿波研造との関係をご理解いただける
事とと察します。 故に「鸞鳳らんほう」の文字との関係、「鸞」が
上で「鳳」が下になります。
 しかし、「鸞鳳」を分ちて、名にするには2人の仕業と考えるのは
あまりにも不自然であり、ふたりの接点から考えられるのは、本多利実
しか居ないという事実から師が導いた憶測です。


9:枕流さん
>Kanzukasaさま

号の件やはりそうでしたか。偶然とは言え親交のあったお二人ですのでそう考えられて当然だと思います。阿波先生は京都大会に行かれる途中などに高門と共に寄られたそうですね。

>「顕正射道義」について

他のスレに書き込まれていましたが、「顕正射道義」は昭和9年8月に「武禅」に記述があったようですね。阿波先生の述作「射道正法」は昭和8年の講習会資料として書かれたもので下書きは昭和6年と思われる遺稿からみつかったと櫻井先生の「大いなる射の道の教え」には紹介されています。
私にとっては阿波先生と梅路先生は同列に並ぶ聖人です。正直こうなるともう誰が書いたものでもいい気がします。

>ビクについて

梅路先生がビクを修正されたのですか。
そういえば「弓と禅」にもそんなシーンがあったような・・・
確か手の内は能安先生の意見を採り入れたと言うことでしたね。普通は自分の殻に閉じこもって次第に他人の意見が聞けなくなるものですが阿波先生はやはり「スケールの大きな方だったんですね。

10:元 ◆ntlC4wAIさん
>天皇御前礼射の前日、当時ビクや震えの激しかった阿波研造は梅路見鸞の元に訪れて指導を受けて居ります。
神憑り的伝説ばかり取り上げて、ややもすれば現人神の様に扱われている感もする阿波先生ですが、
こういうエピソードは先生も弓道を求道する1人の人間という事を匂わせる良い話ですね。
また天皇御前礼射をするほどの達人でもビクを起し、また人に教えを真摯に聞ける所が偉大な人の偉大たる所以、達人の達人たる所以なのでしょうか。

11:カタギリさん
普通の射とどこが違うのでしょうか?


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