弓道にについて語ってみよう (投稿60件)[1〜60]


1:外道さん
成り行き上、スレ主となりました外道と申します。
当スレは、元スレ「的中主義の考え方について語ってみよう(ナリスさん)」より派生、独立したもので、初めてご覧の方は、元スレより目を通された方が流れが分かると存じます。

話題は現在、「弓の道とは?」というところで進んでいるんですが、当スレッドを仕切らねば成らぬ身としては、少々ズボラな考えかとは思いますが、流れとして話題が盛り上がっていれば少々それても可、としたいと思います。
キーワードとして、「道」、「術(射術)」、「日弓連」、「流派」、「スポーツ」くらいの緩やかな括りで、弓道にまつわる四方山話をしていただいたら、と思っています。
他にも、普段疑問に思っているが、あまり話題にのぼらない話とか、暗黙のタブーな話(メッコつけられたら、ヤバイんちゃうの)とか、もしあれば、おもしろそうですね。
但し、話の腰を折るような発言は、考えていただきたいと思います。(いわゆるチャチャいれやな。)
技の掛け逃げ的発言とか、濃縮してるものをわざと一般化、平準化して水で薄める様な発言、たとえば、「所詮、○○しても無駄だ。」とか「人、それぞれ」的な発言です。(ほんま、ミもフタもないなぁ。)話してる人は、多分百も承知でお話しているのです。
もし分からないことがあれば、単に「分からない。」と言い放つのではなく「ここが分からないから、説明して。」とか言えば、親切な方が大勢いらしゃるでしょうから流れは繋がっていくと思います。是非、話題が広がって行く方向、膨らんでいく方向で、お願いしたいと思います。

それともう一つ、わたくし外道のキャラについで、誠に痛烈極まりないご批判を頂戴しております。「ボケ・ツッコミをするな!」と言うキツ〜イご批判であります。如かし乍ら、わたくし外道、生涯通じて希求するところの永遠のテーマ「笑」を唯々諾々と放棄する訳にはいかぬので御座います。ご批判はご批判として、重ーく承っておきます。(どっかの役人か!)

ちゅうことで、千客万来、ウイットに富んだツッコミ大歓迎、楽しく自由に意見交換しましょう。(キミ、張り切ってるけど、そんなに続かんのとちゃうか?しかし)

2:外道さん
紫弓さん

再三のレス、有り難うございます。
前レスより、間が空きまして、申し訳ありませんでした。

おかげさまで、「真善美」は、紫弓さんが文中でお使いの、術語とおぼしき言葉とで複合検索した結果、ようやくヒットするようになりました。おぼろげながらも何とか概要は掴めたように思います。
個々の意味はほぼ文字ヅラと等価、「真善美」とまとまって慣用されれば、西洋文明圏の人々があらゆる物事の価値判断をするときに最も基本的な規準としている観念、ということでしょうか。(違ってたらご指摘下さい。)この前に推測した意味合いも、あながちピント外れと言うわけではなかったようですね。
それにしても、紫弓さんは、意地が悪い方ですね。(善に背くよ。)哲学、思想に疎いと言ってる門外漢が、「よく分からんから、もう少し分かるように説明して。」とお願いしてるのに、その説明にまたまた専門用語を使われては、只でさえキャパの小さな私の頭の中は、分からんの累乗でカオス状態であります。(お前のゆーとることもよーわからん。)もしかして、相互作用という語さえ、何らかの重みを付加して使っていらっしゃるのでは。

さりとて、疑問が疑問を呼ぶこの状況で立ち止まる訳にもいきませんので、箇条書きにて、改めてご質問させていただきます。聞いてばかりで誠に申し訳ございません。

1.現行弓道に「道」はあるのか。
2.弓道と「真善美」の関係(弓道を頂点としたツリーで「真善美」が2番目に位置する必然性も含めて)
3.「いかに疑問を無くし自分を作り上げていくか」の意は禅者の云う「見性」に近い意か

難解な文章ゆえ、文脈すら理解不十分のままの質問なので、質問レベルも順もバラバラ、全く系統だっていません。お許し下さい。

紫弓さんとお話しするに最低「真善美」を調べねばと精力を使い果たし、思考停止のわたくしめの状況をお汲み取り頂き、全くの不自由な道具でありましょう言葉、それも、わたくしめに理解できうる程度の平易な言葉でもって、今後ご説明願えれば、誠に有り難いので有ります。

3:紫弓さん
殆ど私の持つ答えまで近付いているように思います。

では外道の質問に端的ですが誤解を恐れず書き込んでいきます。
1.現行弓道に「道」はあるのか。
については道の定義が曖昧なので答えにくいです。ただ今は大衆としての弓道の面が強く、ある意味弓の気違いが少ないのは道が成立しずらいのではと考えます。

2.弓道と「真善美」の関係(弓道を頂点としたツリーで「真善美」が2番目に位置する必然性も含めて)
については、実は一番目はなんでも入れられます。例えば宗教でも教育でも良いはずです。真善美は絶対価値なので、、。これを言い始めるとやっかいです専門用語のパレードが、、。弓道は真善美がなされて出来るとかんがえることが良いかと思います。

3.「いかに疑問を無くし自分を作り上げていくか」の意は禅者の云う「見性」に近い意か
については実は私自身が1番疑問に思っている点です。外道さんの答え‘も’間違ってるとは言えません。この理由は私が答えられない点が、「誰の考えか」であるからです。
言い換えれば私が元を辿るとカントに行きつく答えを持っているだけなのです。←これは真善美について弓以外で体現された方の意見或いはその方に対する見解をいれています。(この方が弓引きだから体裁がわるい、、)

敢えてタブーに挑戦するなら
誰が弓道界に真善美をいれたか?
真善美は誰の言葉か?がネックになるかと思います。

4:弓遊び2号さん
こんにちわ。弓遊び2号です。
外道さんのお笑い系の文章、好きです。自分でボケてツッコミを入れる分には、だれも傷つかないし、面白くていいんじゃないでしょうか。ガンバレ〜って感じです。それをぜひ書きたくて・・・

さて、私自身の弓の道は?
はて?なんでしょうね。頭の中にはあるのですが、言葉にすると別物になってしまうので、なかなか表現できません。
たまに、「今、私は十牛図のどのへんかな〜」なんて、考えたりはします。

5:元学生さん
外道様に怒られるかも知れませんが、あえて薄めるような発言に相当するかもしれません。

まだまだ未熟な私には弓をみてるだけで道は見えません。単純に弓を楽しんでおります。
自己形成などの答えを哲学に求めるのは説得力があり論理的回答ですが、それがすぐに回答だと理解できにくいです。風が吹けば桶屋が儲かるぐらい回りくどく感じるのは私だけでしょうか。

あえて質問を書かせていただけるなら、なぜに人は弓に道を求めるのかです。
弓をはじめた頃はもっと単純な理由からはじめたのでないでしょうか。それがどのような過程を経て道という考えにいたるのか若輩者の私にご教授いただければ、今後の弓に対する考えを見直すいい機会になるのではないかと考えます。

6:外道さん
弓遊び2号さん
大変お心強いサポート、有り難うございます。私の相方ツッコミキャラも、一生後生の一大事とばかりに、大変な危機感を抱いていたのでありますが、これで安堵したことで有りましょう。
さて、「十牛図」、「円相」なんてのも、なかなかしぶいお題じゃないですか。
私は、話題の同時進行も有りかと思います。
こっちに首をつっこみ、あっちに頭をつっこむ、なんてのも楽しいんじゃないですか。やがては、一つにまとまりまた分かれてゆく、川の流れのように、自然にまかせればいいかなと。
また話題毎にスレを立てて、それぞれで終結するより、各話題の位置関係が分かりやすくなる、ということも有ろうかと思います。
もし乱立して収集がつかなくなったときには、そこは文殊の智慧、そのときには臨機応変に対処すればいいのでは、と思っています。(ほんにズボラなスレ主や)
話題で結論が出るもよし、出なくともよし、気楽に楽しくお話できれば、と思っています。
「十牛図」に興味のある方、弓遊び2号さんにレスを付けてあげて下さい。

元学生さん
私は、弓を引くもの皆に、道を求めるべきだ、と言うようなことは、言ったおぼえは有りません。
ただ、少数とはいえ道を求める者には、弓道界(実質「日弓連」ということでしょうか)は応えなければならない重大な責務がある、ということを言っているのです。
「道」を求めている人以外は、そもそもこの問いは存在しないのです。
有るなら、それは何か、ということで、話は進んでいるところです。
無いなら無いで、楽しむ弓、術の弓なら、スポーツという分かりやすいカテゴリーがありますよ。そうすれば、弓に道を求めて苦しむ人を作らずに済みますよ。というスタンスです。

わたくし外道は、目下、難敵紫弓どのと対峙している最中につき、これにて。(誰か援軍いないかなー)
紫弓どの、お返事が後回しになって申し訳御座らんが、今日は眠いので、御免。

7:dipper ◆YUkbpWWIさん
混ぜていただいてよろしいでしょうか。

私は人生そのものも道だと考えています。
弓を引いていると、それを通して起こったり
した出来事は全て人生にも教訓として応用
できるもののように感じています。
武道に限らず、あらゆるものすべてが道を
たどっているのではないでしょうか。

何かをやり続けることにより多くの経験をし、
それが道となってどこかに通じているのだと
思います。そしてその到達点はどの道をたどっても
実は同じなのでは無いかとも考えています。
その「どこか」に到達する道が無数にあって、弓も
その道のうちの一つなのではないかと。
人生はさながら道端の景色そのものかもしれません。
進む道によっては景色も変わるでしょうね。

もちろん、これは私なりの道の解釈であって
道の存在の肯定を人様に強要するものではありませんが。

8:蒼嶺さん
我が矢は心、貫くは我が心。

9:一鍬さん
「立禅」の言葉に惹かれて弓道を始めた社会人です。

先の「十牛図」の話にコメントしようとして、検索している内に「弓の道」について参考となるHPに出会いました。興味がある方はご覧になってみて下さい。

「弓道を学ぶ楽しみについて」
http://www2a.biglobe.ne.jp/~success/ronbun/kyuudoutanodimi.htm

出来れば「十牛図」の弓道バージョンを作ってみたいと思ってます。

10:外道さん
紫弓さん

お返事、有り難うございました。
今回の文面を拝見して、ほっとしました。これなら読めると。(よかったね)

メクラめっぽうな(身障者の方への他意はありません。)切り口でも、何かが浮かび上がってきましたね。

問1.に関しては、全く同感です。目的物が「何か」のままではお話になりませんよね。私もどこかの受け売りでしか答えられません。強いて言うなら、人間の普遍的価値観だという思考を越えた真の「真善美」そのものでしょうか。または慧眼を得ること、とでも言うんでしょうか。物事を正しく判断できる人間になる、ということでしょうか。
これは、心の心底から、「これを得たい!」と思わない限り、意識できない代物なんだと確信しています。
漫然と弓を引いてて(たとえ肉体的に苦しくとも)、オマケ的に得られるものでは決してないということです。
この目的物を得るための手法、行程を「道」と呼ぶと、理解しています。

私の今までの断定的言動は、この確信から来ています。
元学生さん、これが私の回答ということで、ご理解下さい。

問2.は、絶対的普遍的価値基準としての「真善美」で以て、ツリーの頂点に位置するものの価値判断
するための手法をおっしゃっているんですか。それとも、全ての物が、既に構成要素として「真善美」を持っているとおっしゃっているんですか。はたまた、弓道は「真善美」という規準に価う、妥当する、要は真性のもの、本物とおっしゃっているのですか。ちょっと判断しかねるところです。
まあ、あまり引っかかっていても仕方ありませんので、最後のお言葉で、弓道が本物なら、「真善美」を含んでいる、と理解して流すことにします。少々物足りませんが。

11:外道さん
問3.は結論から言うと、私は別物じゃないかと思っています。これまた受け売りの考え方しか根拠はないんですが、哲学の、カントのなんたるかも知らずに乱暴に言い切ってしまうと、頭の中の論理で構築された「いかに疑問を無くし自分を作り上げていくか」という手法によって得られた成果物と、「見性」即ち「悟り」とは、異質の物ではないか、と思っています。「見性」とは相対絶対をも超越したものと言われていますよね。人間が頭で考えようと考えまえと、人間が居ようと居まいとに関わらず、物事の実相そのものを、そのものとして正しく認識できうる目をもつことだと思っています。(言葉とは不自由だと実感してます。)人間の小賢しい論理、理屈とかを置き去りにして、ワープしています。これは全くのオールマイティですよね。
哲学、宗教に詳しい方、トンチンカンなことを言ってる、とお思いでしょう。間違いがあれば、ご指摘下さい。

そこで「道」ということに、話を戻しますが、たとえば仏教では、「悟り」への行程が確立されてるといわれてますよね。詳しくは知りませんが、自力他力を問わず、自我から離れることにより「悟り」の世界に到達する修行の行程です。(念仏者は修行とは云わないでしょうが)
翻って「弓道」を見てみると、最終的な目的物の内容はさておき、仮に「見性」とするならば、「見性」に至る道程は示されているのか、という大問題があります。
禅者のように、座禅を通じて師匠が弟子に一対一で指導するのか、念仏者のように、ひとえに本願にすがりつくせ、というのか、弓では具体的な方法は示されているのでしょうか?

紫弓さんも含め、他の方もおっしゃっていますが、仏陀、キリストならいざしらず、我一人にて道を切り拓く、それも弓を通じて、なんてことは想像を絶する絶望的なこと、と私には感ぜられます。

それと、私も誰が「真善美」を弓道に取り入れたんだろうと思い、柴弓さんにお聞きしようとは思ったんですが、あまりに質問が多くなるので止めました。それにしても、やはり、しっくりきませんね。

今回はツッコミキャラの出番を考える暇は有りませんでした。...残念!(おかげで、ラクさせてもろた)

12:角さん
dipper さんの『道』に対する考え

13:角さん
dipper さんの『道』に対する考え、私も同じです。
元スレから無知な自分には難しい話の応酬なのですが、とても興味深いご意見ばかりなので勉強させていただきたいと思います。

デビ様、途中で送信してしまった前のレスの削除をお願いします。

14:一鍬さん
外道さんと紫弓さんの熱いやりとりを楽しく拝見させて頂いております。

また、弓遊び2号の話題に出ました「十牛図」については弓道バージョンを別スレでアップしましたので、楽しんでいただければと思います。

「道」と「真善美」と「見性」について、お二人ほど格調高くはありませんが、一言語ってみたいと思います。

まず「真善美」ですが、絶対的普遍的価値基準としてあるかどうかは分かりませんが、「術」として求めていっても「道」として求めていっても、極めれば自然と表裏一体で付いてくるような気がします。

正しく狙い正しく射くことによる偽りのない射(「真」)、
うまくいかないことを他に求めるのではなく己の中に求める、いわば全てにおいて自分が主体となる「善」、
そして無駄が無く射に全てが凝縮されることによって醸し出される「美」

これらは、武道に限らず他のスポーツでも、極論をいえば工業製品でも「真善美」は見えることがある(例えば、要求されたスペックを逃げずに、全てをそぎ落として具現化した「ゼロ戦」は洗練された美しさを持っている←あまりつっこまないように)。
まだこの「真善美」を兼ね備えた弓道人に出会ったことはありませんが、既にいるのかもしれないか極めた人が出てくる可能性はあると想像は出来ます。または、私がまだ未熟で見えないだけなのかもしれません。

15:一鍬さん
一方、「道」には終わりはないと同時に求める過程でもあると思っています。(これは外道さんも同じでしょうか)弓道に対して極めることを求めることをやめたとき、または極めたと思った時、「道」はもはやなく弓も射くことはないでしょう。したがって、人それぞれの求めるものは違うかもしれませんが、遊びではなく真剣に取り組む限りは「道」はついてまわるのではないかと。ただアーチェリーにしろ他のスポーツにしろ「道」とはいっていません。その違いは「礼」の心の比重や、結果以上に上記の「真善美」求める姿勢を重視することにある・・・・・・・ここで気が付いた。他のスポーツにおいては結果として「真善美」が見受けられることがあるけれど、第1の目標としてはいない。「道」と名乗る武道・茶道等においては結果と同様又はそれ以上に過程(行為そのもの)や「真善美」を求めることを重視しているということなのかと。


次に「見性」・「悟り」については、全く未知の世界でもあり、また「悟り」を開いた弓道人に出会ったことがありません。しかし「真善美」を具現化した弓道人には出会えそうな気がしますが、弓道の先に「見性」・「悟り」があるとは想像できません。この境地に至る頃にはもはや「弓道」とは別世界なのではないかと感じてしまいます。

今、私は主に「好奇心」に突き動かされて弓道にのめり込んでいます。
ひとつ 弓と体を使いこなすことによって、全部コントロールしつくすことによって生み出される百射皆中の世界を味わってみたい。
ふたつ 大会・審査等において全ての自己を忘れ、的と一体となる(的が近寄ってくる)境地を味わってみたい。

当面、この2つを目標に日々精進していきたいと思っています。

16:紫弓さん
内容が濃いようで私も奮闘してます。みなさんも色んな角度から真善美をつつくので、成る程と考えがさせられてます。(^O^)
ではもう少し突き詰めます。
問1←ある程度納得ますね。
問2.の更なる疑問は全ての物が既に構成要素として「真善美」を持っていると考えがえるべきです。確かに1番目3番目の説では真善美≠弓道になります。ただし混乱や誤用を避ける為に避けて来た、考えがある為、まだ二番目で考えるべきだったのです。
その考えが真善美の上に属する価値があると言った点(絶対価値)。そして絶対価値に対応する価値があります。
まず、その絶対価値は何かと言えば聖(検索技で‘真善美*’で見つけた人いないかな)です。この聖だけに対し考えると構成要素として全て当てはめられます。
(以下、先の弓引きの意見を含めます)
しかし、この聖に対しての実際的な側面を考えなければ、弓道の実現は机上の空論です。この側面が絶対価値に対応した、‘手段価値’があり、考える必要があります。簡単に分ければ絶対価値は、行う本人の成すべき事。(真善美)手段価値は本人にまつわる環境を言います。(大まかに金と体。)

この手段価値を考えると、1番目の疑問の、価値判断するための手法か?
二番の疑問の、弓道が本物なら「真善美」を含んでいるか?
を考え選ぶることになります。この点が相互作用をどの様に考えるかです。
↑いやー外道さんのキラーパスには驚いてます。何故か気付くんだよなー裏の意味に、、。

とりあえず問三は後にということで。

17:外道さん
ことのほか多くの皆さんに、関心を寄せていただいているのは、誠に嬉しい限りです。(すぐに開店休業やと思てたのに、ホリエモンも想定外やろ)

蒼嶺さんの寄せらている、歌?、句?、詩?(またまた文学にも弱い外道なのでありました)も、なかなか意趣深いものがありますね。
(オマエ、意味分ってんのか?)
(外道:ウッ。なかなか痛いところを突くのぅ、オヌシ)
そこで、解説などをつけて、いろいろご紹介頂けたら、話の輪が広がって、楽しいんじゃないかと思いますが。いかがでしょうか、蒼嶺さん。

dipperさん、一鍬さんのご意見も、なるほどと、頷きながら、また「道」という言葉の捉え方も、皆さんそれぞれ、趣を異とされているな、と感じながら、読ませて頂きました。

一鍬さんのお尋ねの件について、一言コメントさせて頂きます。私も、言葉としては、そのとおりなんだと思います。失礼とは思いますが、ご紹介のHPの方の意見も合わせて言わせて頂きますと、相対世界の中で留まったご意見かと。「真善美」を相対の概念として捉えらおいでなのかな、と。

(見えない弓矢で鳥を射落とす、という中島敦の名人伝という話がありますが、)この空の下、蝉の声を聞きながら、どこかで求道者が、弓も矢も的もない世界で、弓を引いてるんじゃないかな、と思いを馳せる外道でした。(また目が宙や)

18:弓遊びさん
高村光太郎(漢字合ってるかいな?)の『道程』(原文略)そのものです。
私の進む方に標(シルベ)はあるが、そこへ行くための道はない。
ただ振り返れば私の通ったあとに私の通った道があるだけ。
と考えます。


人間の真理は『生まれて、生きて、死ぬ』事だと考えます。
生きている間は標に向かい進み続けています。

死んで、その人の『道』は終わりです。
しかし、他の誰かの標として残ります。

それが私の考える『道』です。
弓にも当て嵌まると考えています。

19:一鍬さん
私の師の師は良く弓道を舞台に例えます。弓を射くに当たって、自分なりのセリフ(体配・八節)を演じきるのだと。当然劇を演ずるので、そこには観客がいます(自分も含めて)。その場で固唾をのむ観客とともに射を演じきって感動を共にする。これ以上の醍醐味はないと言います。
しかし、これを実現するには、入場から退場まで一分の隙も見せられないし、当然クライマックスの射では深い会と的中が不可欠です。
「魅せる射」、これを実現するだけでもハードルの高い道であり、終わりのない道かも知れません。
演ずること、射における感動、いずれも私の琴線に触れた言葉で、私の「弓道」を求める上での目標のひとつです。

20:外道さん
紫弓さん

問3.以降、連休を挟んで、続けてコメントされるのかな、と思い、待ってましたが、ここで一区切りということですね。

前回、大急ぎでレスしましたので、所々変なことを言ってしまってます。
大筋にはあまり関係しませんが、訂正しておきます。他力宗でも修行という言葉は使いますね。いわゆる難行苦行のたぐいの修行はしないということで、早とちりでした。
もう一つ、実在の人物ということで、仏陀というより釈迦とすべきでしたね。(ホンマ、エエ加減なやっちゃ)

さて、「真善美」ですが、ワイルドカード検索をしてもたいしたのは引っかかりませんでした。
「真善美聖」で検索しても、紫弓さんのご説明以上の、これというのは見つかりませんでした。
いずれにせよ「真善美」を統括する「聖」の存在で「画竜点睛を欠く」の感が解消されそうですね。(いよいよ真打ち登場やな。)
前回、私の言った『真の「真善美」』が、この「真善美聖」に相当するものかも知れませんね。
単に、物事の価値を判断するに「真・偽」、「善・悪」、「美・醜」でもってするといっても、詰まるところ、人間の意識下(相対の世界)で判定されてしまう、ということですよね。
絶対的普遍的価値基準と言うなら、「こんなもんじゃないだろう。」という思いが強く有りました。

21:外道さん
WEB上でよく見かける論調も、ここ止まり、これ以上言及してるのは、見たこと有りません。(チャンと探してへんだけやろ。)
あとは例にもれず、礼節について説明しています。
まあ訴える対象が、部外者、初心者ということもありましょうが、中習者、上級者とおぼしき方が殊更強調するのを見るに付け、(そんなことは、弓を引く上で、当然のこととして修得されていなければならないもので)「いつまでも行儀作法じゃないだろう。肝心なことをさっさと言え。」と心の中でいつもツッコンでいます。
挙げ句の果て、締めとして謙遜の意味か、「私はまだまだ道の途上、未熟者でございます。」的なことをいわれた日にゃ、(先生が未熟者なら生徒が可愛そうだろう。)「責任者、出てこい!」と叫ぶしかないですね。
(オッ、新境地ボヤキもなかなかのモンやね。次は自虐ネタでいくんか?)

(ちょと脱線しましたが、前回の穴埋めということで、...汗)
いよいよ紫弓さんより、その肝心なことが聞けるのかと思うと、ウキウキしてきますね。
では、改めて、お聞きします。

問4.「聖」をもう少し詳しく
問5.今や完全体となった「真善美聖」をフィルターとして、透過した「弓道」が結果として真性である、という解に至ったその根拠とは如何に?

(前回同様、易しく説明してね。)

22:紫弓さん
確信へすこしづつ近づいてますね。
とりあえず問四は
聖=真善美(聖がまとめる価値)です。要は真善美を一言で言う場合です。言い変えれば弓道=聖になり絶対価値になります。
問五は絶対価値は法律と一緒でSymbolic IS Symbolicと言えるからです。それ以上でそれ以下でない存在を保つ位置。真善美聖を弓道によって体現することにより弓道になります。(これは分かりずらいですね)
絶対価値として弓道を行うことになりますが器がなければ真性とは言い難い。この器となるのが相対価値や手段価値が真善美の側面になる現実問題を考えます。
これでやっと問三が答やすくなります。
要約すると弓道自体と行う本人の探求が必要になります。これが疑問をなくすべきか考える理由であり先の価値を相互作用させる理由です。ただ見性に近い意かと言われれば近いと思います。誰の立場で考えるかで答も変わりますが、、、。

では真善美自体はどうでしょう。外道さんも言われている通り相対価値で言うことになります。敢えて字を当て嵌めるなら
真=知
美=情
善=意
となります。この点は人間の意識下で判断することになります。それを越すとある意味超越者にならないとわからないですね。

23:不知火さん
何?老年弓術士も首を傾げる様なスレッドをお立てに成られて居るようですが、辞書を引けば簡単に精神論が語れる程、弓道というのは奧が浅いものなんでしょうか。

24:外道さん
不知火さん

何事も、はた目には、さぞ、もどかしいことが、多々あろうかと存じます。しかしながら、大所高所に留まったままでは、いかに本物といえども、本物たりえません。低きに降りて、後進の者、未熟の者に、その光を照射してこそ、本物の面目躍如、本物が本物たりえます。
ここは、是非、不知火さんのお心の内を、ご披瀝願いとう存じます。

三拝九拝

25:外道さん
紫弓さん

オヨヨ、これだけ?てな感想です。これじゃぁ説得力ないんじゃない、って感じです。

実社会と乖離しているにも関わらず、それを速やかに是正しようとはしない、無能で怠慢な立法府、文言に囚われ、社会の要請に即した判決を打ち出せない司法当局、法体系の整合性の維持に汲々としている法学者、等々。
これらの現状を見るに、不完全物の典型ともいえる法律と一緒と言われたら、落胆せざるを得ません。(されど法律、守らにゃイカンよ)
便宜上、基準点を設け、それに沿ってきれいな体系を備えた論理、思想であっても、人間の頭の中で閉じられたものなら、それを越えたものには、全く無力なのは論を待ちません。

これでは、私が思っていた『真の「真善美」』とは別物ですね。「知情意」は人間の精神活動における重要なファクターではあります。が、如何せん、相対的存在の人間に属するものです。人間のゆらぎに連動してしまうものじゃないですか。私が『真の「真善美」』として表現したかったのは、天地が逆になろうとも変わらない絶対的価値基準としてで、人間さんが「便宜的に、これを絶対規準としましょう。」と定めたものとは違うのです。

これが、「真善美」の限界なのでしょか? それとも、失礼ながら、紫弓さんの限界なのでしょうか?
何れにせよ、これじゃあ、楽観論、悲観論どころか、全くの絶望じゃないですか。
よくある例の山登りのたとえ話でいえば、山の中腹で道が途切れているじゃないですか。ここで話題の「十牛図」でいっても、途中で打ち止めですか?

ホント、真打ち登場と思いきや、あちゃー、という感じです。
かくし玉があるなら、出して下さいよ、紫弓さん。

26:某大学生 ◆eXmnNIKIさん
>>25

注意事項読まれましたか?

個人特定した質問はお避けください。質問される側は結構負担になります。例えば、「XXさん引き分けについて教えて!」と書かれるとXXさん以外の書き込みが出来ず、XXさんのみに負荷が集中します。回答者のコトも考えてあげて。[2004/07/31追加]

以前、真尻さんがこの事で大変迷惑されていてこのようなルールができました。それ以来、真尻さんはこの掲示板にあまり来られなくなられました。紫弓さんや真尻さんのような数少ないレベルが高いができる人がいなくなるのは個人的に良しとは思いません。お気遣いをお願いします。

27:斜面見習いさん
最終的に二人だけのやりとりになるのであれば弓友募集を利用し二人だけでやりとりすればいいのではないでしょうか?質問が個人宛すぎな為に僕はそう感じました。
また、自分はこういうキャラ(ボケツッコミ)だからという理由が、まかりとおるかどうか(好き嫌いは二の次)。
確かに新たにスレを立てたのは良い事ですし外道さんがスレ主になったのは事実ですが此処は公の場である事を考えてもらいたいものです。注意書きに「ぁぃぅぇぉ」の利用について書かれてますが、利用してる人がこれが僕のキャラだからと言ってしまえば終わりますか? それで終わるならわざわざ注意書きに書かないでしょう。見やすい、読みやすい事を配慮した為だと捉らえてます。また携帯ユーザーが多いと思いますのでダラダラ(ボケツッコミ)書かれては読むのが非常につらいです(PCユーザーにはわからないと思いますが)。
本題。
僕にとって「弓道」とは単なる名詞。中て射云々、正射云々により道や術でわけるのでなく弓を引くという事そのものが「弓道」。それ以上でも以下でもありません。
その引き方や方法、研究が「道」だと思ってます(道程、道のりと言い換え可)。

28:紫弓さん
定義の問題ですので法律の実体と一緒には出来ませんよね。言い換えれば正しい定義を見つけることにより、真価が発揮されると言う意味です。(この辺りを勘違いしたのかな、、)
理性のゆらぎはこの定義に行きつかないから起こるように考えます。その為とりあえず字面上の疑問が無くなるまで考えて、そこから発展的知識の疑問へつなげる必要があります。私の考える、あるべき超越者はこれになります。自分の意識を越えたらすごいが、、、。(数理学を越えるような事は論理破綻しますので求めませんね)
ただ外道さんの論のとおりに揺らぎは正しく判断させないから現れます。だからこそ相互作用が必要なのです。

実は前々回の書きこみで、真善美の大まかな考えは述べました。後は補足や理解になります。ただ普通な考えに行き着きやすいのでいかに特化するかが重要になります。

真善美聖に付いてはまだ限界でなく、側面として相対価値(=手段価値)が存在します。残念ながらこの先についてはまだありません。価値体系論をどう考えるかですね。

ゆらぎを正しくない相互作用で無くすのはご都合主義になります。この点が真善美の命題の‘物事を判断するだけの価値判断では?’です。


某大学生さんのご指摘は本当に有り難いもので、やはり時として負担になることがあります。←今回は結構適当にやれてます。外道さんもやっかみさん防止策と進め方を出しているのでまだ楽は楽ですね。
今回は話題が話題なので私の解答が集中してしまいますが、それも真善美の理解の現状だとおもいます。

29:四寸伸さん
もともと弓は命を奪うことを目的として作られた武器ですよね?
戦が無くなり弓本来の使い道が無くなったとき、弓術から弓道が生まれたのではないでしょうか。
つまり、人を殺す道具から人を生かす道具になったわけです。よって、人が生きていく上で目指すべき物として、真善美が掲げられたのではないでしょうか。これは、昔の日本が儒教の影響を受けていたことを考えれば容易に結論づけられると思います。
よって、弓道と真善美を直結させるのは難しいのではないでしょうか。そのためには孔子や猛子なんかの予備知識が必要になるのではないかと…

30:外道さん
アッ、レスが来てると、開けてみると、あらまー,苦情の山。

某大学生さん、これは全く私の落ち度、今後、重々気を付けます。話に夢中になったとはいえ、うかつでした。儀礼の意味で文頭に付けていた呼びかけも省き、ルールに収まるように変更します。
しかしながら、話題を深めるには、意見のキャッチボールは不可欠、皆さんのかけがえのない知恵袋、紫弓さんを独占するつもりは毛頭ないんですが、今しばらくご容赦下さい。本来、座談会とはこういうものじゃないかと思いますが。
紫弓さん、フォロー感謝します。

もう一件、私のキャラについて誹謗中傷にも等しき非難を受けております。お相手するつもりはないんですが、身に降る火の粉は払わにゃならぬ。(ここは柔道板とちゃうで)
この方は、言動、射法からして、アングロサクソン系の方なのでは、と拝察します。(一部の方、ここでも笑えまっせ)同系の世界の警察官アメリカよろしく、ダブルスタンダード持ち出しておられますな。小さい「あいうえお」はダメと言いながら、ご自分で堂々と使用されている、また、高校生のスレでは、これのみならず、半角、記号何でもありの状況。これがダメなら、ことごとく注意し回ってから、言って頂きたい。禁止の理由は、見づらいということと、不必要な使用は相手に失礼と言うことだと思われるが、私の場合、必要に迫られ使用している。これは見解の相違。
それともう一点、好き嫌いは二の次と言いながら、非常に感情的にものを言っておられる。公の場ということを再三言っておられるようだが、なぜ公の場ならダメなのか、理由、根拠を示して頂きたい。
アンケートなりサーベイなりして、結果を示して頂きたい。このスレに賛同できない方が多数なら、このスレは終息するのみ。この道理もご理解されてない様子。
どうも大人の対応が、おできにならない方のようですな。普通の方なら、何を馬鹿なことを、と鼻で笑って無視すれば良いこと。
反論がお有りなら、別スレでお願いしたい。当スレでは迷惑です。私はそれに一切関わるつもりはありません。どうぞ、ご自由に。

31:外道さん
皆さん、どうもお騒がせしました。
今まで涼風を感じながら、落ち着いた雰囲気の中で稽古しているところに、そこらをシコを踏んでわがもの顔でのし歩くようなご仁の乱入で、空気が一変してしまった道場のような感があります。

折角、しみじみとしたご投稿二題(弓遊びさんの高村光太郎と一鍬さんの大(おお)先生)が寄せられているんですが、紫弓さんとのやりとりで手が回らず、レスがエディターの中で途中のままです。誠に申し訳ない思いです。

やはり、不知火さんからは、応答なさそうですね。念の為に、最高の礼を尽くしてお応えしたのですが。やはりこの人物も、ROMってたときに、ときおり見かけた、スレ潰しの謎の老人集団の一員のようですね。(コシオリ出撃隊、ハイ!)薄っぺらなHN、文面といい、典型的な技の掛け逃げ投稿ですね。常時投稿してる者が同じ携帯から送ったのでしょうが、ご苦労さんなことです。(トンチンカンな一言居士さんも、音なしやな。)

自分の衝動を抑え切れない人が、まま見受けられますが、小学校の教育現場でも、ようやくかつての問題児を、LDとかADHDなどに分類し、専門的処置を施そうという動きが始まってます。(NHK教育でも番組が放送中でっせ)
こういう大人になりきれないトンガリ君や、やっかみさん(これ、前回ネタのヒントやで。高度なお笑いネタや。)には困ったものですが、多分に病的原因を持ったままの人が多いようです。老婆心ながら、早いうちに専門家に相談された方が、今後のご本人の為になるかと思いますが。(オジンがバーサンとは、これ如何に)

今後、禅と弓のお話とか、流派に属する方のご意見とか、いろいろお聞きしたいんですが、その方面に詳しい方、興味のある方、いらっしゃいましたらご意見をお寄せ下さい。(お待ちしてまっせー。)

32:瑠吽 ◆QTJtMY0Aさん
前スレから拝見して、ここのスレにようやくきました。このスレの前段で面白い部分(勝手に面白がるな:スミマセン)がありました。関係がなくはないと思いましたので、遅いのですが、お話をさせてくださいませ。

>前スレの24:外道さん
「射法訓」は日置の紀州竹林派からのもので、これだけは自前ですね。道場の額に掲げられているのは、一部抜粋らしいですが、最重要部が抜き出されているんでしょうね。古文の苦手な私が、「骨を射る」なんて「変な日本語だな。」と思いながら、理解できそうな部分は、射術としてのメンタルコントロールがメインとして書かれているなということ、また神器としての弓を敬っているのも感じ取れます。心の内面の重要性を強調してますが、的中を得んがための心の整え方を云っているのか、それ以上のことを云っているのか、私には不明です。欲目に見て、それ以上のこと、即ち、いわゆる「道」のことを示唆しているとしても、具体的に「こうすれば成就する。」とは示していません。(もしそうなら、順正さん、言ってほしかったな。)

そうですね。古文の超苦手な私も、改定増補から載っている「射法訓」の「骨を射る」なんて「変な日本語だな。」って思います。意味もよくわからず自分なりに模索しました。この抜粋は意外なキーがあると思っていたところ(単なる思い込み?)。あるものに辿りつきました。射術に関する記述と思っていましたが、前スレ22の、

>スレ22:外道さん
>「術」にも、メンタル(精神的)な部分が大いに入っているということです。その競技を遂行、実現させるための、メンタルコントロール等は、技術の一部に含まれるべきものです。
ここの、「メンタルコントロール等は、技術の一部に含まれるべきものです。」と仰っている部分が含まれていると思います。全く同感です。(私にとっては短い文字ではありますが、なんとも深淵なるものでした)

このスレは新しい発見です。期待しています!

33:弓遊びさん
>32
るんさん(スンマッシェン、漢字が出ません)


射法訓の原文を良く読んでみて下さい。
謎は、すぐ解けるでしょう。
竹林派のみの教えにあらず、日置流諸派の教えにつながると思います。

34:某大学生 ◆eXmnNIKIさん
>>30
>高校生のスレでは、これのみならず、半角、記号何でもありの状況。これがダメなら、ことごとく注意し回ってから、言って頂きたい。禁止の理由は、見づらいということと、不必要な使用は相手に失礼と言うことだと思われるが、私の場合、必要に迫られ使用している。これは見解の相違。

子供相手にわざわざ言っても数が多すぎて仕方ないという見解で皆言わないだけだと思いますが・・・

まずは、大人である貴方から襟を正すのはいかがでしょう?
これだけの考えの方であるので少々残念です。根拠はこの掲示板の注意事項にある『。「見知らぬ道場に訪れた」というシチェーションを考えてもらい、目上の人と話す様に言葉を選んでもらえれば全然問題ありません。「礼に始まり礼に終わる」を弓道場以外でも実践願います。』という事で納得できませんか?ここは貴方がルールではなく、この掲示板の決まりが第一のルールです。
少なくとも、見知らぬ人にいきなりこんな口調で話されたら私は不快な気分になります。

こういう事を改める行為というのは、善の追求とはならないのでしょうか?弓道だけやっていても、究極には近づかない気がするのは私だけでしょうか・・・

35:瑠吽 ◆QTJtMY0Aさん
>33:弓遊びさん
はい、ありがとうございます。
てな訳で、なんにでも興味をもつ私は、書をたしなむ方に解説などお願いして、なんとかかんとか自分なりに勉強させていただいております。→石頭なので、入るのに時間がかかること、かかること!(泣)。

36:外道さん
某大学生さん、大人の対応をとらせて頂きます。委細承知しました。
教条主義のひな型を見る思いです。価値判断の練習になるかも知れませんが、大上段に振りかざされた原理原則と不毛な神学論争をするつもりはありませんので。(こういう表現ができるのも、紫弓さんのおかげ)

37:外道さん
再度WEB上で複合検索をかけましたが、本当にこれと言ったのはありませんねえ。
仕方ないので、紫弓さんの文面を始めから何十回も読み返しました。すると不思議なことに、始め分からなかった表現が、こういうことなんだろう、と理解できるような感覚に変化してきました。そしてやっとある簡単なイメージに行き着きました。

ある空間(イメージとしては二次元でも三次元でも可)のある絶対座標に「弓道」というものが位置し、「真善美聖」(「絶対価値」)と「手段価値」で成り立っている。
「弓道」の「真善美聖」が正しい定義としてその絶対座標を指し示し、その下でその絶対座標を維持するため「手段価値」が働いている。(要は不可欠の要素)

このイメージは「物事を判断するだけの価値判断では?」をヒントに、WEB上でつまみ読みした単語の意味から、浮かんで来ました。
頭が良い人から見れば、単に紫弓さんの説明をちょっと言い換えただけじゃないか、と言われそうですが、私はここに至るのに大変苦労しました。
このイメージだと、よく分からなかった「当たり前のことしかいえない」も説明できますし、私の問3.の疑問も見る角度の違いで説明できます。

ただこれだと、すばらしい物をすばらしい物と認識できるようになるのはいいんですが、チンケな物をチンケな物と認識しても、つまらないですよね。要は、その物が持つ絶対座標が必ずしも至高の位置とは限らないし。そして、その物がなぜその位置なのか?という新たな疑問、いいかえれば誰がその物をそこに配置したか?という疑問。(ワシもムツカシュウて、ツッコミ入れる間ないワ)
また「弓道」の「道」の説明も、「弓道」の絶対座標、即ち「弓道」の「真善美聖」への「道」と説明できそうですが、「弓道」の「真善美聖」とは人間が「真善美」にかなうように弓を引くこと、しかし、かなうかどうかは、人間の意識下で行われる。それがブレたら「弓道」は別物(別の座標)となり、結局人間は自力で「道」を模索する事になる。これでは「道」が有るともいえるし、無いともいえる。

結局、イメージは湧いたが、その先、迷路のまっただ中という状況になってしまいました。この考え方、どこがおかしいんでしょうね?

38:チャリ野郎さん
外道さんを中傷するつもりではないことをご理解ください。外道さんはこのスレで本当に弓道について語り合おうと思っておられますか?

39:蒼嶺さん
申し訳ないです外道さん。私の友人→不知火?がとんだ滑稽を犯して(私の端末を使用されました)...携帯ではやはり、不便かなと思いつつ...また返信遅れました..レスを無視した用で申し訳ないです...今は真善美+聖にお語りになられているので、この言葉に関しては、このお題が一通り落ち着いたら、エピソードをお話させて頂きます。

40:某大学生 ◆eXmnNIKIさん
>>36
つまりは私に対して何がいいたいのですか?
わかりやすく説明してください。
よろしくお願いします。

41:紫弓さん
外道さんもほぼ私と同じ考えまで来たように思います。やはり迷路をどのように切り抜けるかが課題になります。この辺がやはり普通にななのですが、、。
そういえば聖までは昭和前期の弓の本には載っていましたが教本には無くなっています。この理由に付いても課題になりますし、最高目標の弓道とは何かが問題に必然的に繋がりますよね。この辺から真善美のスタートに思います。

42:外道さん
そのこころは−その1

(ところで、キミ、本気で弓道の話する気あるんか?ちゅうて、お尋ねのお人がいてはるけど、そこんとこ、どないなってんねん?)
(外道:鼻息荒うしていきり立ってる相手を見ると、体の中の「笑」の虫がうずきだし、無性にいじりたくなるんや。そやから、ついつい)
(どアホ!、それやったらオマエの方が先に、カウンセリングに行け!)
チャンチャン(一連のオチばなし、第一巻の終了)


そのこころは−その2

さて本論ですが    「某大学生さんならびに謎の老人集団さんでは長いので、まあ風紀委員さんと呼ばせてもらおうかな。始めのチャチャ入れ程度は、牽制だけして無視するつもりだったんだけど、数を頼んでの正面突破、その後の寝技引き込みとこられては、そうもいかないみたいだね。(粘着性火の粉やな)
このスレのタイトルと外れるのは本意じゃないんだけど、それにこの際言っておきたいこともあるしね。僕がギャグを交えて、一人浮き上がるほどハシャイでいるのは、ネライがあるんだよね。僕自身の性格もあるけど、まずは耳目を集めること、それと、その中で本音を言って、レスくれる人から本音を聞きたい、という。
風紀委員さんの言ってることは正しいと思うよ。でも杓子定規にかしこまっていては、建前論の返事しか返ってこないと思うんだよね。建前論は聞き飽きているから。それに一番の問題は、本音を隠して建前で物事を処理しようとする、その姿勢だな。それを世間では偽善っていうんじゃなかったっけ?

43:外道さん
まさにウの目タカの目の感だね。始めのトンガリ君の重箱の隅作戦、これが効力が無いとみるや、あげ足取り作戦に転換、建前を全面にグの音も言わさずポシャラそうという魂胆なんだろうけど。
しかし本音と一致しない建前にバンザイする訳にはいかないな。よく動機が不純って言うじゃない。何を警戒してるのか知らないけど、北朝鮮の工作員みたいなことして、よく臆面もなく{真善美」って言ってくれるよ。アジャの「ハーッ?」って感じ。ノシつけて倍返しするよ。
「数々の罵詈雑言、捨ておけん」っていうなら、本音を返してくれないかな。そこが僕の意図するところだから。そういうことなら蒼嶺さんでも不知火さんでも大歓迎。ただし一人二役ではややこしくてかなわん。話題の同時進行もOKだから。面白かったら首つっこむよ。
それでも「外道をたたくまでは、気がすまん。」っていうのなら別に「外道糾弾」スレでも立てて、そちらで個人攻撃なり何なりしてくんない? そのときは外道よそ行きバージョンでおじゃまするから。
最後に言いたいこと。ROMってたころ、風紀委員さんたち、スレ潰し、してたろう。僕は興味があり、もっと情報知りたかったんだけど、全く腹立たしい思いだったよ。「弓道」って「日弓連」だけじゃないだろう。
いろんな「流派」があって、それぞれ独自の方向を持って進んでいるんだろうけど、それを自分達の方向と違うからって、力ずくで封殺するなんて、言論弾圧してるどこかの圧制国家と同じじゃないか。
「弓道座談会」ってんだから、広く自由にもの申す環境にして欲しいものだね。そうすりゃ、僕だって、ことさら声高にハシャギ回る必要もないんだから。」     と言うような思いを持っています。
(ナッガーイ吹き出しやな!注意事項回避策かい。)
(外道:おかげで作文に手間暇くって、紫弓さんへのレスの思考回路が切れてしもた。)

44:一鍬さん
外道さんと紫弓さんとのやりとりも、もう少しで決着が付くのかなと見ておりましたら、脇道に入ってしまいましたね。
せっかくお二人のやりとりを公開の場でしてくれているのですから、皆さんも最後まで暖かく見守っていきましょうよ。
外道さんも本筋にエネルギーを集中して頑張って下さい。期待しています。

後は、出来れば具体的なイメージを語っていただけるとありがたいなと思っています。

また、紫弓さんのコメントの中に
>これは真善美について弓以外で体現された方の意見或いはその方に対する見解をいれています。
とありますのが、紫弓さんは具体的な表現者に出会っているので、実感として理解しているのだと思います。差し支えなければ、その方のお話をお聞かせ願えればとも思っています。

45:某大学生 ◆eXmnNIKIさん
外道さん程のお方にご意見申し上げた私が悪かったです。申し訳ありませんでした。

46:外道さん
現段階での考え方が間違ってない、と確認できたので、いよいよ次のステップですね。
しかし、困ったことにヒントが少ないですね。紫弓さんには推測をぶつけるしかないみたいですね。

人間が前レスでのイメージを俯瞰してるような光景なのに、見ている「絶対価値」の中にも人間がいる、という変なことになるんですが、構わず進めます。

紫弓さんの言葉の中に幾度も出てくる「相互作用」がキーになろうかと思うんですが、はて「相互作用」とは何ぞや? と考えるに、「相互」というからには二人(二つ)の当事者が居るんだろうな、と、そして物理的現実的側面を担当する「相対価値」と「絶対価値」との関係は、とりあえず考えからは外して、コアな部分は当然、一方は人間、そしてもう一方は「弓道」(の「真善美聖」)ということだろうと思います。
「作用」は働きくらいの意味だろうから、人間と「真善美聖」の間でお互い何らかの働きかけが行われていなければならない、ということだと思います。
「真善美」をまとめて「聖」としたことに注目すれば、「聖」とは人間の手の届かない事象に対する畏敬、恐れ、憧れ等々の念、換言すれば「神仏」に相当する字が当てられています。「真善美」(「知情意」)個々では相対の範疇、ところが「聖」となれば相対の世界をもはや超越してると考えられます。
そこで、相対の世界での堂々巡りから脱出するには、それを越えた何らかの「作用」が必要だと考えます。それは、それを求める人間からの要求に呼応する「聖」からの働きかけだと考えます。
ただこの「聖」からの働きかけは、相対の世界では受け止め切れないもの、人間の五感、言い換えれば感情、知識、意志、理性等人間の内面の表層部では感知できないものだろうと思います。
そこで人間は第六感ともいうべき心の最深層部に耳を傾け、「聖」からの正しい方向を聞くべく、さらに弓に精進する。

と、まあ私の雑学を総動員しても、この程度です。急に論理的で無くなりましたが、何らかの飛躍が必要ですね。この考え、ビシバシ叩いてください。(カイカン〜諱j

47:紫弓さん
千鳥足的な部分がありますのでどう言えばいいか難しいですね、、、。やはり私も推測の話の域に入ってきています。可能な限り論理的に新しい見解をつくりたいものです。

聖に対する神仏性についてまで行くと真善美の考え方は聖が並列概念だったのが上位概念になります。確かにそうなる考え方もあると思います。ただし、そうなると側面である手段価値との釣り合いが取れなくなり実体である人間が超越してしまうように思います。
これが弓道で聖を唱えない理由に思います。間違えた論理でいくと必然的に無い物ねだりも始めてしまうからと考えますが、、、。

一鍬さんへ
実は具体的には先のとおり大まかに書きました。何度も反芻して理解することになります。私もかなり時間を要しました。誰の論を参考にしているかと言えば、教育界で力を奮われた方(弓の世界で力を奮われたかはわかりずらい、、本を出させていますが、、、)ですね。ただ文献を提示する為の決め手の一次文献がないので人に対しては避けています。
私は運が良い事にその考えを学べました。テストで「真善美ってなんだっけ」なんて悩まされた一人です。

48:外道さん
フーム、やはり。
トコトン論理でいくんですよね。千鳥足どころではないでしょう。コンクリートの一階に木造の二階をくっつけたようで無理があるのは分かっていたんですが。ベースの無いことの悲しさで、私にはこれ以上ネットで拾い集めた知識の断片で論を進めることは、とても無理です。
私は「射裏(裡)見性」という言葉に引かれ、その方面の本は読んだことがあるんですけど、その対極にある、と言ってもいい考え方ですね。このところ、暇があればいつも「真善美」のことを考えていました。久しぶりに脳ミソに血が巡った、って感覚です。幸いもともと知恵は無かったので、知恵熱は出ませんでしたが。(笑い)
それにしても、検索時、全てがカント流ではないにしろ「真善美」が多岐に亘る分野で見られる、ということは私には新しい発見でした。かつて日本に、一大「真善美」ブームという現象があったのでは、と思わせられる活況でした。それだけ「真善美」は、汎用性があり使い回しが効く、ということなんでしょうね。
ということで、そろそろ紫弓さんの「論理的に新しい見解」のお披露目をお願いできませんか。大変楽しみにしてますので、毎度のことながら、平易な言葉で。(たのんまっせー)

49:紫弓さん
「弓道(真善美)は世界平和だ」なんて思います。

今まで述べてきたように真善美は汎用性のありすぎること、、、。これを逆手にとり、敷き詰めるならば一つ考えられることがあります。それは目標(絶対価値)があればなんでも整理がきいてしまう点です。
だとするなら矛盾のない世界が生まれ、解決できます。こんなことになると対になる存在の否定が起こる。

よってグレーな見方が必要になる。これが真善美になると考えます。こんな見方をすれば相互理解の平和社会が待っているように考えます。(個性の弓をどう捕らえるかも含めて)

しかしこのグレーな見方は単なる妥協になり、反乱分子となりえる可能性があります。この点が私の中の論理をくずしかけにきます。この妥協という手は間違えた点をみとめることになります。
どちらにせよ真善美が、白か黒か決めるには論理という条件が必要だし、妥協も必要になり世界が保たれます。
かなり大袈裟ですね。更に裏をかえせば恐ろしい世界ですが、、、、。

50:外道さん
ムムム・・
紫弓さんには解決済みではありましょうが、私の理解している段階の数歩先でお話されているようで、その間のプロセスがない私には、直ちに理解し難いところであります。
ただ考え方の方向としては初歩の段階とはいえ、紫弓さんのおかげで共通認識が持てたと思います。そこで紫弓さんのファイナル・アンサーをどう受け止めるかなんですが、なんと何と申しましょうか、「ちょっと待って。」という感覚です。

論理を煎じ詰めると「存在の否定が起こる。」という過程もよく分からないんですが、そこはブラックボックスとして、一番の問題はその先で、この考えのギリギリのところで、葛藤を経た後、論理で進めるという今までの前提がひっくり返ってしまう妥協を受け入れる、というその必然性がイマイチ納得しがたいところです。
その必然性が客観的に証明できれば、私にもなんとか理解できるとは思うんですが・・・。

紫弓さんがこのファイナル・アンサーに至った理由を想像するに、紫弓さんの「物事を考えるうえで出来る限り否定したくないし認めたい」という人生観にあると思います。平和主義者なんですねえ。
ご自身もおっしゃてるとおり、批判あるいは否定を極力さけて、今ある状態を今ある状態として受け入れたい、という願望から間違いなくきていると思います。
そこで、使い勝手のいい「真善美」の登場なんですが、最後の限界を願望で越えちゃったかな、という印象です。始めに結果ありきで、その間をつなぐ最適な理論として「真善美」を当てはめられた訳ですけど、ご自身も危惧されているとおり、私にはいわば現状追認の為の便法としての印象を強く持ちます。

51:外道さん
なぜこういう印象を持つか、と考えれば、その出発点よりの受動性、消極性にあると思います。要は、この考えから、私に訴えかけてくるものが弱い、ということでしょうか。インパクトに欠ける、ということでしょうか。たとえば禅では、徹底した全否定の中から、これまた私にはブラックボックスの過程をとおして、導きだされた肯定は、インパクト度が違います。
そして結果としての「あるがままの姿を、あるがままの姿として認識する。」ことの内容も、外見は似ていても、大きく違ってくるものと思われます。

それにもう一つ、仏教的に言えば小乗的な臭いとソフィスト的臭いも・・・。
紫弓さんの願望が、再帰的に「真善美」の解析機能を使って、どこから来たのか答えは出るのかな?
なんて想像してます。

誠に勝手な思い込みでの感想ではありますが、私の引っ掛かってる点の補足があれば追加説明などを・・・。

52:紫弓さん
インパクトや見栄えがないですね。私自身至らないもので、概要を示したら思考が少しづつ可逆的になり、曖昧になってきます。(旧式ポンコツラヂオな感じです、、、。)やはり受動からの現状追認の為の便法としての印象は振り払えないでしょう。私の論調に「相互作用」を含めたのはそんな受動的な判断ではなく、能動的な判断を望む為です。常に即同時に複数を判断する必要があると考えてます。

これを間違えればの対になる存在の否定に行きつつある様に見えます。もし複数の価値が存在出来ない場合が現れたら真善美の効力は限りなく少なくなります。この点がグレーです。
他にも、自衛隊敷地内に民間人が無断に入る事例を、法律が追い付いていないから判決中止してしまう。なんて事の曖昧差を認識しつつ論理を進める必要性が出来あがるように思います。ある意味、善(道徳)の問題ですね。その意味では道徳=願望によって作用されることになります。

私の願望としては、弓引きであるかぎり、弓引きの真善美であるようにしたいと考えます。
とりあえずこんなところになります。

53:外道さん
紫弓さんのレスを拝読中、「存在の否定」の意味が分かりました、というより思い出しました。デカルトの「我思う、故に我在り」ですか? 論理の破綻は即自分自身の存在の証明の破綻を意味するものでしたね。(全くキホンがなっとらんな)
そして、「相互作用」もなんだか分かってきたような。「相対価値」からの評価を集めて「絶対価値」を評価するという、意味合いではないかと。それはアンケート調査のようなもので、サンプリング数が多いほど、その目的物の実体に迫れる、という。
これが正しければ、景色を見るに湖面に映る反射を見てるような印象を持ちます。もしそうなら能動的といっても、サンプリング数をより多くしようとか、湖面の景色は、風の強くない晴れた日に見よう、とかいう程度のアクションにとどまるような気がします。私の誤解なら、言ってくださいね。

さてここまで長期にわたり、「真善美」について個人教授のように紫弓さんにはご指導頂きました。私の「真善美」に対しての理解度が格段に深まったのはいうまでもありません。なにしろ始めはゼロレベルだったんですから。紫弓さんには感謝の言葉もありません、本当に有り難うございました。

翻って、私の「真善美」はというと、充分理解したわけではないですが、現時点では、やはり日めくりカレンダーの格言という印象をぬぐい去ることはできていません。でも決して「真善美」個々を軽んじてるわけではありませんので、念のため。

54:紫弓さん
相対価値は実際に明確に判る自分の置かれた立場ですね。確かに言葉が足りませんでした。(流石に金と体じゃひどいかな、、、。)
今回は言い訳としての真善美の面を避けたかった為に真である論理の方から話しました。理論的な真善美を論理でみるには、善と美の違いを分ける事が難しいのでこんな感じになりました。
アンケートとはよく言ったもので全く正しい内観ができれば必要ないでしょうが、多様性を考えれば必要に迫られる必要があらわれますね。ただ無駄にサンプルが多いのは避けたいものです。

本当に私も考えるべき点が未だ多くあり多くを学ばせて頂きました。こちらこそお付き合い頂きありがとうございました。

55:外道さん
皆さん、長らくお待たせしました。中には意見を言いたくて、ウズウズしてる方もいらしゃるのではないかと思います。

紫弓さんには「真善美」論のほんのサワリをお話されたのみで、まだまだ言い尽くしておられないことではありましょうが、私としましては、これ以上引っぱるのも心苦しく、取り敢えずはこのへんで一段落とさせて頂きました。

そこで、皆さんのご意見、ご感想、またはご質問などで、ワイワイやってみようかと思いますが、いかがでしょうか?

(風紀委員さんたちも、ドンドン入ってきて、おくれやっしゃー!)

56:外道さん
大変遅くなって申し訳ありません。
(話は鮮度が命やで)
(外道:賞味期限切れ部を除くと短くなってしもた)

弓遊びさんの高村光太郎ですが、和佐さん、dipperさんとお話してるときに、私も最初の一節が浮かんできました。後の部分は忘れています。そのたぐいの本は読まない私が、なぜ覚えているんだろうか、不思議です。昔、教科書にでも載ってたんでしょうか。心打たれる詩ですね。全文を調べたので挙げておきます。
   僕の前に道はない  僕の後ろに道はできる
   ああ、自然よ  父よ
   僕を一人立ちにさせた広大な父よ
   僕から目を離さないで守る事をせよ
   常に父の気魄を僕に満たせよ
   この遠い道程のため  この遠い道程のため
弓道をする上での、弓遊びさんのシルベとは、また後に残したい足跡とは何なのか、よかったらお聞かせ下さい。

一鍬さんの大(おお)先生のお話を聞いて、私も末席で寸分も見逃すまいと、じっと見入ってるかのようです。この張りつめた空気は何ともいえませんね。演武、礼射などの舞台を数多く踏まれてる方は、限られています。こういう方のお話は、なかなか聞けるものではありません。
他にも、弓に対する姿勢について参考になるようなお話があれば、ご披露願えれば大変有り難いのですが。

57:弓遊びさん
私が残したい足跡?
そんな物ありません。
>18で書き込みした通りです。
私が進んできた後に私が進んできた道があるだけです。
標(シルベ)…
私が標としているものは私が死ぬ時に気付くのかもしれません。今は『生きていた』という私の証が欲しくて弓引いているのかも?
ついでですからもう一つ独自考を書き込みします。
スレにおけるキーワードについて。
「日弓連」⊃「道」+「術(射術)」+「流派」+「スポーツ」+「α」と考えています。
理由は外道さんが御存じか?と思いますが…

蛇足…
含むの記号は『⊃』で合っているのだろうか?

58:一鍬さん
大先生曰く
「体は、心が仕事が終わったと思うと同時に、連動してその緊張を緩めてしまう。会が完成してこれで良しと思うと、体はやれやれこれで仕事は終わったと緩んでしまうものだ。射における仕事は残身まで終わらないと言い聞かせて緊張を持続しないといけない。会でこれで中ると思って離した矢は緩みを伴ってはずれるものだ。射の仕事は残身まで終わらないとの気持ちが大切だ。」

これは、心と体の関係を表した本を引用しての話なのですが、その例として山の遭難が上げられています。登山者が遭難して必死に山小屋にたどり着こうとして頑張っている内は、体も必死で緊張を保っているが、山小屋を目の前にして「助かった」と思った時に体はこれで仕事が達成されたとして休んでしまい、亡くなってしまう例が多い。

多分、皆さんも経験があると思うのですが、会で十分な伸び合いを作っていって、ねらいも良し、弓手良し、妻手良し、さあ「発」だと気合いを入れて離した矢が的枠のわずかに外に行く
といったことが。

どうしても射が「会」「離れ」「残身」といった区切りになりがちですが、これだと「離れ」にブレが出てしまいがちになります。
細い吐く息の連続の中で離れを出すようにとの教えもあるように、「離れ」がひとつのイベントとなるのではなく、「会」「残身」の一連の流れの一部分であるような自然な離れを出したいものです。

先日、NHKドキュメント「弓ひとすじ」のビデオを改めて見ましたが、この中で高段者が漆黒の背景の中で一射だけ引いている姿がありますが、上記の話とダブらせて思わず見入ってしまいました。

59:外道さん
貴重なお話、どうも有り難うございました。今回は射の可否が顕著に顕れる「会」、「離れ」、「残身」という具体的なお話で、大変参考になりました。
私自身の体験からしても、身に染みる教訓です。逆にいえば、大先生ほどの方でも、「会」から「離れ」というのは、卑近にいえばやはり格闘されているのかなあ、という印象です。

ただ私が薄ぼんやりと目指そうとしている「射裏見性」とは、やはり方向が異なる気がします。私は座禅と同じように、弓を引こうとしています。
座禅といっても、本式に参禅したわけではなく、家が檀家として所属している真言宗の寺で、夏の時期、早朝「座禅の会」というのが催され、それに何回か参加した程度です。密教系の真言宗では「阿字観」、天台宗では「止観」というそうです。
座禅をしてるときは、弓道と同じく、背筋を伸ばし、丹田に気を満たし、意識をそこに集中します。そして、半眼の目からは光のゆらぎを感じ、汗がしたたるのを感じ、涼風が頬を撫でるのを感じ、線香の臭いを感じ、リンの音、小鳥のさえずりを感じ、そして足のしびれ、痛さを感じながら、それらに囚われることなく受け流し、内面の平静さを壊さないよう、座り続けます。
言葉で言うは簡単でも、実際は心の平静を保つことは大変難しいです。つまらない妄想が沸き起こったり、時には居眠りをしてしまいます。住職からは「朝から座禅で居眠りするとは、大したヤツだ。」とキツ〜イ小言を頂戴したりします。

弓を引くときにも座禅と同様、心の平静を保つことに集中するよう心がけています。巻藁前、的前に関わらず、しばし正座をし、心を落ち着かせてから、行射に移るようにしています。というのも、「打ち上げ」、「引き取り」、「会」と肉体的、精神的にプレッシャーの掛かってくる段階で、急に心を整えようとしても、私には無理だからです。
そしてこの特に肉体的にプレッシャーの掛かる「会」前後には、一鍬さんのおっしゃるとおり、いろんな思いが心の平静を乱しに掛かります。そして、丹田に納めた気が上体の方に浮き上がろうとしてきます。

60:外道さん
そこで私は、いろんな思いを感じつつ受け流し、浮き上がろうとする気を丹田に留めるため、さらに気を注入するよう心がけています。これは肉体的に負荷の掛からない座禅よりも、もっと困難なことですが、これが私の稽古です。
おかげで、的中の呪縛からは逃れられた心境です。たいがいは失敗の射に終わりますが、平静を保って射を終え、結果として的中したときには、清々しい気分を味わえます。逆に内面が乱れた失敗の射で当たれば、非常に気分が悪くなります。

私は弓道にも「十牛図」でいうところの最終段階まで「道」が続いてると思っています。座禅も「立禅」としての弓道も実践の道だと思っています。理論、理屈もいいのですけれども、できましたら、禅に精通された弓引きの方がいらっしゃいましたら、どのような心境で弓をお引きになっていらっしゃるのか、是非伺ってみたいと願っています。
これだけ弓界に「立禅」、「射裏見性」という言葉が流布しているのに、それを実践されている方がいらっしゃらないということは、信じられません。それとも、この板に出入りされていない、というだけのことなんでしょうか?


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