的中主義の考え方について語ってみよう (投稿50件)[1〜50]


1:ナリスさん
全日弓連では「的中主義は排除せよ」みたいに考えられているけど皆さんはどう思っていますか?

2:ひさしさん
僕は射をキレイにするのも大切だけど、やっぱり的がある以上、的中も大切だと思います。

3:射風碧天さん
的がある限り、誰しも的を狙わなければいけないと思います。学生弓道では的中が重視されますし、一般の審査などでは体配+的中です。つまり、高段者になれば体配も的中もとられるわけです。正しく弓を引き、そして、中てるというのができてこその的中なのではないのでしょうか?弓道の原点には中てをこえるような信念があったということでいつの時代にも当てはまるということではないのでは?私はそう考えています。人それぞれでしょうね。

4:紺色とんぼ ◆yR//4M4Mさん
的に中たるのが当たり前で中たることに対して何も思わなくなる先に正射があるのだと思います。
遠回りかもしれませんが中たりを確実にしてから体配を磨いてもいいと思います。
まぁ体配から得られる中たりもあると思いますが(^-^;

5:BOBさん
弓聖・阿波研三先生は宇宙との融合という考えに至ったそうですが、先生はそう感じる前に「百射皆中意の如く」なり、武徳会主催の大会で一本も外さなかったそうです。

6:弓太郎さん
やはり、当たりだけを考えるのはよくないですよ。どちらかといえば、紺色トンボさんとは逆で体配をしっかりしてから当たりを気にしたほうがいいと思います。
的中主義については人それぞれだと思います。

7:弓遊びさん
的中主義
って何ですか?
どういう物ですか?

8:novuさん
日弓連は「的中主義は排除せよ」とは言っていませんが・・・
弓道の理念で「日本の弓道は的中至上主義をとってはいない」と言っているのみです。
どこかの先生が、「的中至上主義を排除だ!」と仰っているのでしょうか??
それは困ったものですねぇ。。

9:勝ちトンボさん
的中と正射をどうして分離して考えるのでしょうか?
どんなものでも基本があって、それが「正射」の正の部分だと思います。誰もがその基本を目指して弓を引いているのではないでしょうか?
的中という部分に関しては、ないと試合に出ても面白くないし、審査でも合格しづらいですよね?(四段以上は特に)確かに中った者勝ちという考え方もありますが、それでは試合に勝っても、審査には合格しません。
僕としては、その時々の条件で考え方を変えています。例えば試合で「ここ一本中てれば・・・」と言う時は的中に考え方の比重を少し移し、審査の時には射を綺麗に見せたいので正射に少し比重を移し。練習の時には両方を重視しています。試合にしても審査にしても比重を少しだけどちらかに傾けさせているだけでどちらかをお座なりにしているつもりはありません。
だからこそ僕も弓遊びさんと同じ事を思います「的中主義ってなんですか?」

10:外道さん
お初にお目にかかります。
日弓連から、「的中主義」を取ったら、何が残るんでしょう?
変に、精神的(敢えて的という語を付けます)な言葉を使って、道を説くより、本田流の様に術に徹した方が、分かりやすいです。
アーチェリーの様に、当てっこ競技の、スポーツ団体として進み、全日本弓術連と名称変更した方が、世のためです。

11:外道さん
ご免なさい。変換が違ってました。
本多流の間違いです。名前を間違う(人に対しても、団体に対しても)ということは、大変失礼なことです。
関係者の方々、深くお詫び申し上げます。

12:DENさん
>外道さん

>アーチェリーの様に、当てっこ競技の、
>スポーツ団体として進み、
>全日本弓術連と名称変更した方が、世のためです。

弓術=当てっこ、的中至上主義、
というような表現をするのも失礼に当たると思いますが。

流派や歴史の都合で未だに弓術を名乗っている流派は沢山ありますし。

13:リバースさん
極論かもしれませんが、民主主義や社会主義、文学においても○○派などがあるように人それぞれ的なものが特に今のご時世あると思いました。(これこそ個人主義的考えですが…。)
ただ、一弓道人として当り『のみ』を追求するのは僕は考え難く、解せません。
これからも永久的に一つの考えに定まることはないと思います。ですが、それが積み重なり弓道界がより良いものになるといいです。

14:斜面見習いさん
何を以て的中主義なのかよくわかりません。
個々が満足していればそれで良いと思います。

15:ショシンさん
はじめまして
いきなりなのですが、日弓連の言っている、ことは的中ばっか考えるなってことじゃないでしょうか?社会人弓道は見たことありませんが、高校弓道では、たまに、無意識下で的中に走り、当てる射になっている人がいるからでなんでしょうか?

16:外道さん
DENさん、リバースさん、レス拝見しました。

DENさん
私は、弓道(術)諸流派を十把一絡げにして、誹謗中傷したおぼえはありません。
タイトルの「日弓連」、「的中主義」に関しての発言で、流派のことを言ったのではありません。
本多流については、数日前に、流派サイトを閲覧した際、「当流は精神論弓道とは違う・・」という説明をはしょり読みしてましたので、ある意味、「すっきりとして分かりやすいな。」という印象を持ったから、例に挙げさせていただきました。
他流派に関しては、何ら情報、知識を持ち合わせておりませんので 私が云々する立場でないことは、わきまえております。
まあ、日弓連と流派では、人的に多々重複してはいますが。

DENさん、リバースさん、また私の発言以前に、意見を述べられている数人の方々の大まかなスタンスは「弓道とは的中させることだけではないよ。もっと大事なことがあるよ。」と言っておられるのではないかと思います。

そこで、その「もっと大事なこと」を説明していただける方がいらっしゃいましたら、是非、ご開示をお願いたいと思います。

ついでに、私は「的中主義」とは「弓とは当たってなんぼ、当たりもせんのに、ごたく並べても、値打ちないわ。」という意味に理解してます。

17:斜面見習いさん
流派の事は知らないので省きます。
皆さんは日頃どのような練習をしていますか?
無意識のうちに教本どおりの射の流れをしていませんか?
的中主義だの射形重視だの言った所でやってる事は同じでは?
要は気持ちや取り組み方の問題と修得力の違いなだけだと思いますが。

18:和佐さん
人と人との繋がりでしょうか。

礼節、思い遣り、生き甲斐などかもしれません。

19:けいじゅさん [url]
日弓連で言うのは、あくまでも的中「至上」主義をとっていないということです。

全日本選手権でも4射2中以上しないものはどんなに点数が良くても予選落ちです。

審査も、中央の審査に行くと二本とも的中した中から数%というのが実状で、理念としては的中するのは当たり前ではあるが、それにとどまらずにもっと高いものを目指していこうというものだと思います。

日本語は読み方によって誤解が生まれやすいので怖いですね。

20:学生さん
じゃあ、的なんて必要ないじゃん;

21:紫弓さん
文章にある最高目標の真善美と射法訓の鉄石と礼記射義(五常の仁義礼智信とも言えそうです)を考えます。
これら全て違う国で作られています。射法訓は日本。礼記は中国。真善美はヨーロッパ。
真善美の理解があれば理論と論理が倫理を含めて考えることが出来ます。ただ面白い事になるのですが、至上主義を否定しながら肯定してしまいます。他にも思想であって精神論でないとか、、、。

このことが現れてしまったのが射法訓と礼記射義です。この二つは教本の始めに載る位に重要です。何がと言われれば、射法訓は鉄石。礼記は相手を考えることなく考える。
前者は十二字五位の四番目なので至上とは言えないが先も目指すと面白い事になっています。後者は文を読めば分かるかも知れません。儒教的発想に見えますが、。
こんな事を考えると至上主義は変わらないが的中のみには固着出来なく成ります。私自身は魔法の言葉「真善美」で考えてしまいます。矛盾が生まれにくい考えですから、、、。
参考になればさいわいです。長文失礼しました。

22:外道さん
和佐さん

お返事、有り難うございました。

 人と人との繋がりでしょうか。
 礼節、思い遣り、生き甲斐などかもしれません

なるほど、特に異論は、ありません。

しかしながら、それらのことは、弓道固有のことでありませんね。「人と人との繋がり」などは、スポーツでもそこらのカルチャーセンターでもいえることですね。また「礼節、作法」等は、それこそ小笠原流の礼法の出版物でも読んだ方が詳しいのでは?「思い遣り」、「生き甲斐」も含めてそれらは、弓道由来と言うには疑問です。

残念ながら、少々フラストレーション気味です。弓道と名乗るからには、「道」がなければなりません。「道とは何ぞや?弓の道とは?」という視点での回答が頂けたらと期待してます。

ついでに、「術」について少々コメントしておきます。私は「術」とは文字どおり「技術、技能、テクニック」の意味で理解してます。
「術」は、何ら軽んずる言葉では、ないと思っています。
野球のイチロー、松井しかり、オリンピックのメダリストしかり。彼らはその競技の技術を極め、精神力もすばらしく、見るものを感動させ、尊敬を集めています。
しかし、私はそれを「道」とは思いませんし、思っている人も、少ないのではないでしょうか?
混同して欲しくないのは、「術」にも、メンタル(精神的)な部分が大いに入っているということです。その競技を遂行、実現させるための、メンタルコントロール等は、技術の一部に含まれるべきものです。

23:DENさん
>外道さん

なるほど、そういう意味でしたか。
失礼しました。
術を卑下していたわけではないのですね。


ちなみに、私は弓道・弓術という区分け自体が無意味だと思っています。
実際普段の会話でも「弓」としか言っていません(笑)

至極簡潔に述べれば、
弓を引くための肉体的・精神的技術=術
弓を引いてきた事で積み重ねられた何か=道
と考えています。

弓を引き続ける限り、術も道も両方磨いているはず。
だから弓道・弓術という区分けもしたくない。

それが私の「弓」です。

24:外道さん
ムムム、やはり、なかなかレスはつきませんネ。


紫弓さん

前文入力中(作文に時間がかかるもので・・汗)、投稿されてましたね。拝読しました。

要は、日弓連が拠り所としている、「真・善・美」、「礼記」、「射法訓」を参考にせよ、とおっしゃっておられるのだと思います。
しかし、なかなか現実難しいですね。私は、哲学、思想等にうといものですから。WEB上でそれらの解説を読んでも(実際は読んでなくて、開いて見ただけ)、ピンときません。
私が、一番胡散臭いと感じていた「真・善・美」が、紫弓さんのご指摘でヨーロッパのものとのことで、ある程度ガテンがいきました。日本古来、神器ともいわれる弓にヨーロッパの思想?は、いかにも、取って付けでしっくりきません。
「礼記」にしても、儒教は皆目分かりませんから、「体配(作法)が大事だよ。」程度の意味にしか受け取れず、「仁だ、智だ、徳だ。」といわれても、私には、せいぜい日めくりカレンダーの格言程度の重みにしか感じられません。
「射法訓」は日置の紀州竹林派からのもので、これだけは自前ですね。道場の額に掲げられているのは、一部抜粋らしいですが、最重要部が抜き出されているんでしょうね。古文の苦手な私が、「骨を射る」なんて「変な日本語だな。」と思いながら、理解できそうな部分は、射術としてのメンタルコントロールがメインとして書かれているなということ、また神器としての弓を敬っているのも感じ取れます。心の内面の重要性を強調してますが、的中を得んがための心の整え方を云っているのか、それ以上のことを云っているのか、私には不明です。欲目に見て、それ以上のこと、即ち、いわゆる「道」のことを示唆しているとしても、具体的に「こうすれば成就する。」とは示していません。(もしそうなら、順正さん、言ってほしかったな。)

25:外道さん
紫弓さん

自身の無知を棚に上げて、居直っているようですが(実際そういうことなんですが・・汗)、「真・善・美」を標榜し、それを体現して、行射されている方、『これが「仁」の射だ。』と引いて見せられる方、数えられるものなら、日本中で何人いらっしゃるのか、数えて見たいものです。

よく研究されている紫弓さんご自身がいみじくもおっしゃておられますが、私には、都合よく解釈しないと整合性のとれない、「権威付けのための借り物の取って付け膏薬」くらいの代物でしかありません。効用はせいぜい、昇段審査の筆記試験問題供給元くらいでしょうか。

紫弓さん、できれば、文献などに振らずに、ご自身のお考えとか、実際のご体験などでアドバイス願えれば有り難かったのですが。

長文のため、分割しました。ご容赦ください。

26:外道さん
DENさん

レス、有り難うございます。
少々、衝撃的に書き込みましたからネ。(つかみは上々)

ちょっと、一言。
卑下という言葉は、こういうときには使いません。自分自身を蔑(さげす)むときに使う言葉です。
この場合は、「見下す、低く見る、軽く見る。」等を使います。日本の伝統文化でもある、弓を引いておられるのですから、私自身大層なことは言えませんが(ゆーとるやないか!)日本語も、正しく使いましょう。

DENさんは、楽観的ですね。「術」の射を一日百射、百年続けても、まづ常人には「道」を得ることは無理でしょう。120パーセント保障します。(といっても、DENさんの面倒を私はよー見ませんが)
まあ、少なくとも弓を続けていれば、「道」の存在に、お気付きになるときが来るかも知れません。それは「道」がないと自覚されたときです。是非、専一にご精進ください。幸運を願っています。

27:DENさん
>外道さん

前回の書き込みが短文過ぎて、
私の主張したい事が伝わってないようです・・・。
「術」の射の積み重ねで「道」に至るという意味では決して無いのですが。

正直、私も「道」がどういうものか明示する事はできませんし、
万人が納得できる答えは誰にも出せるようなものではないと思います。

少なくとも、「術」や「道」である前に「弓」なのですから、
弓を続ける事でしかどちらについても答えを出す事はできないであろう、
という事です。

弓について討論する掲示板でこういう発言をするのも何ですが、
語るだけで理解できる問題ではないかもしれませんね。

28:和佐さん
道とは、何もない場所を先人が歩き始め、後に人が歩きつづけ、初めて道らしくなるものです。

弓道を始めた段階で誰もが道を歩んでいるはずです。

全ての疑問や不満も道のうちかと思うのです。

私は日々の修練の中で、道場で学ぶ事はとても多いと感じています。射の事に加え多くの人との交流は私が道で学んでいる大切な事です。

弓道とは弓を用いた修練(修行)で、弓とはただの言葉、行為、道具です。道が伴わない修行はありえないですから。

私にとって大切なのは的を破る事ではなく、弓を引き何かを感じる事です。

29:外道さん
DENさん
いえいえ、誤解してはいませんよ。

和佐さん
おやおや、あなたも楽観論者なんですか。

お二人とも、若干ニュアンスは違いますが、『弓道(DENさんは「弓」とおっしゃてます)をやってると、「何か(いいもの)」を得られだろう。また、その筈だ。』とおっしゃってるのだと思います。
私が知りたいのは、その「何か」が何かなんですが。(ナンカややこしい日本語やな、おちょくっとるんか!)
まあ、お二人には、その「何か」の内容は置いておいて(またまたややこしいな!)、その「何か」は本当に得られるんですか? そうなら、その根拠は? それとも、どなたか先駆者が、約束しておられるんですか? 是非、お聞かせ下さい。

私には、その「何か」の内容も分からすに、弓さえ引いていれば、棚ぼた式にすばらしい「何か」が転がり込んでくるとは、とても思えません。仮に万が一、得られたとしても、果たして自分自身、自覚できるものなんでしょうか?

このスレの始めのほうで、BOBさんが紹介されている阿波範士でさえ、「百発百中、意の如く成った」後、「道」のないことに気付き、終生、悩まれもがき苦しまれたそうです。

こんなやりとりを、もしスポーツ関係者の方々が読んおられたとしたら、何人かの方は怒り出されるかも知れませよ。「古いだけで、お高くとまって、どこがどう違うんだ!」って。

30:Aries ◆KYUDO7p2さん
精神ノ修養ト
肉體ノ錬磨ヲ以テ目的トス

なに道だろうと、結局これにつきるんじゃないですかね。
弓道だけ特別だと考えるのは愚かしいことです。
心身を鍛える方法の一つにすぎないのでは?
で、ただ引き続けてもある程度は得られるとおもいますよ。

31:斜面見習いさん
自己満足だと思います。
誰のためにやってるわけではないのだから。
他人の道を詮索する必要も意味もないと思います。
スレ主さんが出てこないのが一番気になりますが。

32:和佐さん
度々の意見交換楽しく感じています。

確に私は楽観論者です。ただ私も、弓さえ引けば何でも得られると思ってはいません。各自が何かを得られると思っているのです。“何か”を明確にとの事ですが、人それぞれ弓に対する考えが違い、また環境も違うので、明確にする事は難しいですが…。

プロスポーツ選手との比較をされていましたが、弓の世界にプロはいません。これは事実です。プロと同じ考えでは、弓は続けにくく感じます。

ですので、プロとは異なり明確でない“何か”によりどころを求める弓引きは普通と考えます。

33:和佐さん
プロとの比較ではないでしたね。他のスポーツ選手との比較でしたね(^^ゞ

ところで、外道さんは一般の方ですか?学生さんですか?

34:雪月花さん
カタチがしっかりできていれば、『的中』はついてくるものだと思います。
スポーツをやるにしても楽器をやるにしても歌をやるにしても、やり方(吹き方、歌い方)が良ければ結果はついてくるものだと思っています。

35:遮二無二さん
そもそも、射術というのは鋭く、強い矢を目標に中てるために、それぞれの流派が最良の方法として伝えてきたものですから、的中(もちろん貫徹力のない弱い矢を的に中てることを的中と呼ぶのではありません)を実現し、それを持続させる手段として射法通りの弓を引くのが正射だと思います。
「正射」という言葉の綺麗さゆえに「正射」を頂点において的中を二の次とする考えを時々耳にしますが、それでは正射というものの意味は漠然としてよく分からないものとなってしまうのではありませんか?当然見た目が綺麗なだけの実のない射を正射と呼ぶのではないでしょう。
あくまで、強い矢を放ち的に中てる最善の手段がいわゆる「正射」であるはずです。
当然、「正射」と呼ぶにふさわしい弓引きの射は見た目の美しさだけでなく、力の働きが法にかなっていることが必須です。そういう射であれば必然的に的中は高いものになります。

しかしその境地に辿り着き、それを維持するためには、「正射」のために「正射」を心がけるのではなく、「的中」のために「正射」を心がける方がより道理にかなっていると考えます。
かなり分かりにくい文章になってしまいましたね、すみません。

36:外道さん
和佐さん

えっ! 私のこと?(ドキッ)
こんなヒネた学生はいないでしょう。今時の学生はクールなのが多いからぁ。(急にオヤジ口調)
そういや自分も学生時代があったなぁ。(と、しばし遠い目…‥‥・ )
(コラッ!いつまで宙を眺めてんねん!)
(ハッと、我に返り)
と言う訳で、少なくとも学生ではありません。(当たり前や!オヤジというよりチョーオジンやろ!)
もう少し自己紹介しても別段支障はないのですが、皆さんに引かれてしまったのでは、お話できませんからね。
気分は若者です。(アホくさ、単に脳ミソの進化が止まってるだけやろ)
このキャラで行きますんで、ご想像を巡らせてもらって楽しく行きましょう。(ドあほ、お前のことなんか誰も興味ないわ!)

(やおら襟を正し、正座なんかしたりして)
いやいや、和佐さん。本当に楽しいですね。ただ、そう簡単にバンザイされては、後が続きませんよ。せっかく、焦点が絞られてきたのに。(勝手にお前が誘導したんやろ)
こういうBBSでは、単発の言い放ちが多い中、ある程度、議論を深めるには、ディベート形式が有効ですよね。匿名でもあることだし、この際、気楽に、ザックバランに言い合いましょうや。(急にタメ口になるな!今日は壊れとるんか!)

実は、私が焦点を当てている「道」は、たやすく答えが返って来るとは、期待してません。
この問いは、皆さんに向けられているのと同時に、むしろ皆さんの向こうにいらっしゃる指導者の先生方に向けられているんです。
長くなるので、その理由は、機会が有れば後日お話する事としますが、「道」に興味のある方は、是非そのことを、先生方にお聞きになって下さい。そして、これはというお答えが返って来たなら、ここで、ご披露願えたら、本当に嬉しいです。

37:紫弓さん
外道さんへ。
多分お気づきかもしれませんが立論の順序が意見→根拠(文献もふくめて)か根拠→意見で後者をとっています。どちらともメリットデメリットがありますがこちらの方が論理的に扱えやすいので先に文献を出させていただきました。やはりWEBだけだと読んでも解りづらかったかと思います。ただ文献を出して入るのではなく気になる何かを自分で見つけるきっかけ作って欲しくあの様な形を取っています。(調べていただいただけでも有り難いです)このタイプの書き方は好き嫌いが出てきますが答えの確認意外の事がしやすくなります。逆に外道さんのやり方だと確かに一人一人の考え方が出しやすい生の声が聞けるかと思いますね。やはり相互理解の仕方だと思います。

次へ

38:紫弓さん
わたしの考えを述べてみたいと思います。実は私の考えはもとからこの真善美に近いようです。実体験としては、物事を考えるうえで出来る限り否定したくないし認めたいと考えていたら弓道にあったわけです。もともと哲学や思想を論理的に考えていたし、弓は仏教に繋がり、更なる理解ができると思い始めました。高校で始めましたが、やはり誰もそんな答えを考えず(もしくは考えられず)、ただ当たれば良いと言う風潮やその他の理由により直ぐに一般で引き始めました。(ひねた学生ですね、見た目も考えもオッサンでしたが、、。。)
そんな時に見つけたのがあの言葉です。何かが物足りない真善美、それでいて人間らしい言葉。私自身が批判以外の論証(「何故?」と言う質問は余りしたくない)をしたがる人間なので非常に魅力を感じた訳です。その後多少遠回りして現在に至ります。

まあ簡単に言えば、「いかに疑問を無くし自分を作り上げていくか」です。その為にはありとあらゆる相互理解が必要になります。その点は普通の事しか言えないです。理由は普通の事で考えた方法ですから。ある意味普通の人がありとあらゆる欲求に体当たりする事だと思います。
そして道を切り開く一つの方法である一つの方向に向かう事になるかと思います。ある考えに結局は戻るので、やはり流れがあるように思います。やはりどんな道にせよ自分と違うならば是非知りたいと思いますよね。

長文失礼しました。(^O^)

39:外道さん
紫弓さん

再度のレス、有り難うございます。お手数をお掛けし恐縮です。

お話する上で、紫弓さんがいたく気にいっていらっしゃる「真善美」なんですが、調べておく必要が有るなと、再度検索しましたが、(精査したわけではありません。)これというのは、やはりヒットしませんでした。
その中、キリスト教系サイトで見かけましたので、同教用語かなと。チョー乏しい知識で補いますと、絶対者との約束で、キリスト者として清く正しく美しく(タカラヅカかい!)生きていく上で、示された規範もしくは目標じゃないかな、と。(個々の意味は文字ヅラ以上のことは分かりません。)私の認識はその程度です。
私にも紫弓さん並の知識量があればいいのですが、望むべくも有りません。
よって、意見交換するときの前提条件である共通認識が欠けてしまうこととなり「靴の上から水虫を掻く」(マテーッ、そんな表現あるんかい!)ようなこと成るやも知れぬこと、先にお断り並びにお詫び申し上げておきます。

40:外道さん
さて、正鵠を欠いたまま話を進めますが(別にムツカシイこと言わんでもエエんやで...外道:うるへ〜、慣れんこと書かなアカンのでリキ入れとんのじゃ!)、紫弓さんにとってその「真善美」が弓とどのように関わっているのか、どうリンクしているのか、その方がむしろ重要だと思います。
要は、観念と実際私たちが体を動かして行う行射との関係です。
「真善美」が「弓道」を説明する観念であるならば、「真善美」は「弓道」である必要はないが、「弓道」は「真善美」でなければなりません。別の言い方をするなら、実践としての行射の中で「真善美」が表現されていなければならない、「真善美」と射は一体のものでなければならない、と言えましょう。
もしそうでないなら、実践としての射と乖離したものならば、本物とは言い難く、やはり「取って付けの膏薬」(サロンパスか?)と言う他ないでしょう。

もう少しコメントしたいんですが、本日はここで打ち止め。(何でや?急に。パチンコ屋やあるまいし)
というのは、紫弓さんご投稿文で前半の話の進め方論はいいとして、後半部では、主語の省略、指示代名詞の多用で、紫弓さんの言わんとされていることが、つかみ切れません。
私には「以心伝心」は通用しません。(キッパリゆうたな、またまた居直りかい!)
推測でお話をすすめると、膨大なコメントを書く必要が有ります。(オイオイ、大層なことゆうて、ネタはあるんかい!)

と言うわけで、紫弓さん、再度お手数ですが、もう少し詳しく具体的に説明していただけませんか。お願いします。

41:斜面見習いさん
内容が濃くなってきてるので興味をもち読んでるのですが
外道さん、
一人ボケツッコミは止めてもらえませんか? 非常に読みにくいですし一人ボケツッコミを書かなければその空いた文、長く書けるのでは?と感じました。
読みにくいなら読むなと言わないでくださいね。 ここは公の場でありますし誰でも簡単に見れますから。

42:弓遊びさん
>1
ナリスさん


繰り返しの質問になりますが…
ナリスさんの仰るところの的中主義とは、何ですか?
どのような物(?)ですか?

43:紫弓さん
まず以心伝心が文章で出来る方は、お互いに共通の論理か理論を持つ方ですね。私の場合は物理の説明の様に代名詞や主語の省略をします。理由は日本語には確定的な主語が無く正確には主部を判断することになるからです。

では真善美について述べる事にします。外道さんの拝見したのは近付いていますね。WEBでなぜか仏教から派生とも見たことがあります。本来は宗教から言い切れません。
その理由は新カント学派のある人の考えから来ているからです。(先のある考えとはそのカントに帰る事です。)あながちキリスト圏内の思想だから間違えないが疑問がのこる。現在の日本では大きく分けて、ニーチェ派とカント派の大流のどちらかの考えがまとまる様です。今現在はニーチェの考えが主流らしいですがあくまで哲学上の話で脱線する為、閑話休題。

取り敢えずカントは純粋理性批判、それから派生した真善美は価値体系論ととらえます。それが‘上手い口車’になる可能性も否めませんし取ってつけな考えになやすいです。良く考えると純正理性批判はとりあえず、解らないものが無くなるまでやる事になる為、射技も理論も全てやることになります。しかしこの考えだと通常一事象一つの解をもとめるかたちを取りやすくなります。
そんな状況を介されたのが価値体系論です。この考えは例えばトーナメント表を上から辿るような取捨選択方法ですね。一番上を弓道、二番目を射技と理論、三番目はそれぞれの特性で以下同じ。この二番目(本来は真善美が入る)が相互作用が必要になります。一番目と二番目を見る場合に真善美をまとめる価値が存在します。これは直ぐにネットで出てきます。一文字増えるだけですから*。その思想の全盛期当時昔の弓の本にもありましたね。とりあえずここでとめますね。(^O^

44:大平さん
道ってある人にはあるし、無い人には無いんじゃないですか?
道は愛や夢と同じようなモノであると思えばあるし無いと思えばないと思う。

偉い先生方が道について色々言ってもカタチとして存在しない、だからその先生方の言う道が全員同じとは限らないのでは?
結局先生方個々人の中にしか道は存在しないし、その道のカタチは人それぞれだし、先生方それぞれが自分が「道」だと思うモノを道だと言っているにすぎないのでは?

道なんて自分で見つけるしかないのではないでしょうか?
ここでいくら議論しても結局結果はでないと思うのですが・・・。

紫弓さん、外道さんのお話には興味がありますがタイトルからズレ過ぎでは?
新しくスレ立ててそこで議論してみてはどうでしょうか?

45:dipper ◆YUkbpWWIさん
とても興味深いお話ですが、
ニーチェやらカントやらは無学な私にとっては
名前くらいしか聞いた事が無いので、
お話に混ざれそうにあれません・・・
残念です。

46:ナリスさん
>42
弓遊びさん

私が考えてるのは単純に「的中だけを極めていれば礼節などが疎かになって『弓道』があてっこのスポーツになるんじゃないの?」みたいなことだと思っています。

47:ちんちくりん ◆jJxNscFgさん
安直な考えかもしれませんが、ナリスさんがおっしゃる「的中を極めれば、礼節がおろそかになる」という意見は、通常の社会において「仕事(学業)ができれば、何をしてもかまわない」といっているように私には聞こえますが。
ルールにのっとることはもちろんですが、仮に高的中を維持していても、普段の態度・節度ある行動をしていないと回りから相手にされなくなり、結果として弓を引くことが難しくなるかと思います。

仮にあてっこのスポーツとなるのであれば、きっと段位の認定(これもあいまいな基準ですが)など不要となるでしょうね。


外道さんの弓道の道が何たるかとは、私にはよくわかりません。
また哲学に関してはさっぱりですので、すいませんが全くついていけません。

ただ弓を介して知り合った方々の世界や常識に触れたり、その付き合いにより興味の対象が広がっていくことが、人生をより豊かにしていくことは間違いないかと思います。
ただ「弓さえ引いていれば」では、無理でしょうね。どんなところでも一緒かと思いますが、自分の敷居を高くして他人と心が通わない状況を作っていては、どこまでいっても得られることは少ないかと思います。段や役職があがるとついついそうなりがちですけどね。

>35
遮二無二さんの意見、私もそのように思います。

48:斜面見習いさん
中てを極めたとしてもそれで礼節が乱れる原因ではないと思います。
人の顔だけ見て判断する行為と同じだと思います。
きちんとやれる人はやれます。
どんなに射が荒くても中てる人もいますし射が荒くても礼節ができてる人はたくさん居ます。
人それぞれ完成度の違いです。

49:弓遊びさん
>46
ナリスさん


ナリスさんの考えておられる的中主義を披露して頂き、有難う御座居ます。

もう一つ質問なのですが、ナリスさんの仰る的中主義は教本に記されている的中至上主義のことですか?

50:外道さん
皆さん、お話し中のところ、ちょっと失礼します。

現在、私は柴弓さんとお話しているんですが、心ならずも迷路に迷い込んだような状態で停滞しています。私も気になっていたんですが、当スレのタイトルと外れたままなので、太平さんご指摘の通り、新スレを立てることにしました。
タイトルは「弓道について語ってみよう」とします。
興味のある方は、引き続きご参加下さい。

柴弓さん、お手数ですが、新スレに移りますので、よろしくお付き合い願います。


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