初歩的な質問 (投稿7件)[1〜7]


1:ゆみ&さん
初歩ですが難しいのでお聞きします。弓道にはなぜ道がつくのでしょうか?どう思いますか?

2:hukushiさん
他に「道」がつくスポーツと同様、礼に始まり礼に終わるからですかね?

3:新 ◆vYPHjde2さん
弓術と弓道の違いは何か。道を極めるとは、一射成仏とか、無我とか、無とか、色々在りますが、「的中の向こう側に在るもの」であり「肉体的、物理的な強さの向こう側に在るもの」が、道だと信じてます。一射成仏も、無我の境地も、手段であり、状態です。言葉はどうあれ、一種の悟りの境地であり、精神状態を示すもの。道は、殉ずる道であり、己の状態を示す言葉ではありません。もちろん、その境地を体得する事に殉じている人も居ます。なぜ的に中りたいのか、なぜ射型がよくなりたいのか、なぜ鍛錬を続けるのか。どうして審査を受けるのか、なぜ試合にでるのか、なぜあてるために小手先の手段を使うと、非難されるのか。
勝った負けた、的中した、昇段したと騒いでいる間は、術であり、スポーツです。だからこそ、道の神髄は「勝敗の向こう側に在る」と私は思います。他人と競うより、他に成すべき事が在ったのではないかと。故に技は衰え、心が誇大していき、隆盛した術はスポーツに成り下がり、技が肥大し、心が消る。型だけを継承、反復練習し、閉ざされた社会である術は実戦性を失っていく。弓を体得しようとするのが弓術であるならば、相手に勝った負けたは二の次であり、試合を必要とはしない。
かつて、合気道の開祖、植芝盛平は言いました。「武とは、矛を止めると書く。武術とは、いかに戦わない様にするかを学ぶ術だ」と。柔道の始祖、加納治五郎は言いました。「戦わずして勝つ」。戦えば必ず、勝者と敗者が生まれる。勝者と敗者は新たな火種となり、新たな戦いを産む。剣豪、宮本武蔵も、大悟(禅での悟り)を認可されて後は、常に丸腰であったと言います。
求めるモノが違います。弓術を歌うならば、外すことは許されません。しかし、弓道を志すならば、試合も勝敗も必要なのだろうか。まぁ、これらは理想論であり、鍛錬に飽きさせないためにも、練習に張り合いと目的を持たせるためにも試合は必要です。

4:新 ◆vYPHjde2さん
すいません。質問とは見当はずれでした。
弓道という言葉の定義はあやふやであると思います。武道という格技があるわけでなく、日本の格技の総称として使われます。また、明治以降に、それまで術といわれていたものが、嘉納治五郎の柔道の命名により影響を受け、それ以降〜道と改称され作られた新造語でもあり、戦後のGHQによる武道禁止政策を経たために、結局、個人勝手な定義として使われているのが現状ではないでしょうか。道についてですが、一般的な見方として、単なる技術の向上のために修行を行うのではなく、修行することによって精神を修養し人間完成として道として考え、そのため従来の〜術を〜道へと改名されるようになりました。また道というのは理想であり、遠くにあるものなので、常に道に近付けるように努力するといった意味もあります。

5:dipper ◆YUkbpWWIさん
弓術は江戸時代には弓道という呼び方が
でてきてたと思いますが。

6:斜面見習いさん
何故「道」がつくのか…。
真実は「弓道」を考えた人のみが知ってると思います。

7:シンさん
私が聞いた話の一つには礼儀作法という意味が含まれていると聞きました。例えば、剣術では己の剣の腕前だけ修練します。しかし、剣道では相手を敬うなどの厳格な礼儀作法まで入ってきます。その様な違いではないでしょうか?


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