正射 (投稿10件)[1〜10]


1:すだちさん
はじめまして。よろしくお願いします。
早速ですが、正射って目標でしょうか、それとも手段でしょうか?
ご意見をお聞かせ下さい。

2:ヒロさん
目標という意味はわからなくもありませんが、手段とはどういう意味でしょうか?

3:葵使いさん
的中のための手段ということでは。

意見ですか。お好みでというところですね。
この辺は趣味の問題ですし。
個人としては近視的には手段かな。

4:ヒロさん
葵使いさんの仰るとおりの的中の手段と考えるなら葵使いさん同様趣味の問題でしょう。
僕の場合自分の射で極めてみたいと思いますけどね。

5:すだちさん
すいません、説明不足でした。
葵使いさんのおっしゃる通り、手段というのは「的中のための手段」を意図したものです。

ヒロさん、葵使いさん、レスありがとうございました。
もしまだご意見があれば引き続きよろしくお願いします。

6:槻弓さん
「正射」とは、射型のみならず、心構え、使う弓も含むと私は考えます。無心、平常心、人によって呼び名は変わるかもしれませんが、毎度ただ得失無く、この一矢に定むべしと思って引く事が私の考える「正射』の心構えです。ただ射型を整えるだけなら誰にでも出来ます。しかしその先、心を鍛える事が誰にでも出来るとは思いません。とても困難な事だと思います。同様に、自分に一番合った弓に巡り合う事もなかなか稀な事ではないでしょうか?弓道教本の言葉を引用するなら、「心・身・弓が渾然一体となってこそ射の内容は広く深く真善美を顕現するものである」ということです。もしも、射型においての面だけをみて「正射」が手段か目的かという質問をされたのであれば、あなたの言う「正射」は私の概念とはかけ離れた物という事になると思います。

長くなってしまって申し訳ないですが私の考えを要約して言うなら、「正射」は「手段」として取れるほど軽い物ではないと思う、という事です。自分自身まだ修業中なのでこのような偉そうな事を言える立場では無いのですが、今まで指導していただいた先生方や教本を基としての私の考え方はこういう事です。

7:真尻さん
私は武道というのは、最初は難しくなくて後から理由がついてきたと思っています。

弓道は、「弓を誰かが作って矢を飛ばした。それを何かに中てようと思った。」ただ最初はそれだけだったと思います。いろいろ難しい言葉、考え方を極めた方々は後世に残していますが、原点は的に中てるという事で間違いないと思います。

そう考えると、百射百中くらい中てる名人が、中てる事が感情の枠を超え、そして意味をなさなくなり「正射」という言葉、意味を考えたと思うのです。だから元々この言葉が言われるようになった背景が、手段とか目的とかそういう次元を超えた部分にあって、正射が目的か手段かと考えるのはなんか違うように感じます。

これが私の考え方です。

8:にっしーさん
そうだな〜、ここで言う正射が技術のみを指すのであれば、手段だと思うな。
私は「正射」と言う言葉には、もっと深い意味がこめられていると思うので、目標にするにはなんか形が無くてピンとこない。
目標は人によっていろいろで、審査に合格するとか、試合に勝つとか、国体に出るとかもっと現実的なものが多いと思う。
正射を射術の技術のみを指す言葉と考えるならば、正射はその為の手段かな。

また、槻弓さんや真尻さんの考え方は
私は結構好きな考え方です。

9:紫弓さん
すべての物がある一点に集中することだとおもいます。
もともと狩猟としての経済活動に使われた弓が時代の流れにより霊器や聖器として扱われるようになり式格化しつつ武道として成り立ったと思います。そのために現在では弓は左手に執るようなに正射の観念の一つができたと思います。
また、先に槻弓さんが発言された真善美は、正射を目指す上で非常に大切な考えだと思います。それはまず一つに近代以前までに考えられて来た思想に対しての大きな機会です。私としてはここまでが「一に当たり、二に矢早、三に花形(射形)」と考えられていたかと思います。
そして真善美の考えとなる西洋のカント派の思想出現と今までの思想のもとに現在の弓道の正射ではと考えます。(国際的な視野も含めて)
この真善美には続きがありこれらで統括すべき物は聖(自分の信じる物或いは目標)を考えをし、現代においては更に健と富(ある意味価値判断になりますが)を加えられました。教育的意義をも持ちますが弓で言うならば、ある一点に完全で無くても常に完全を求めることを意味しているかと思います。
果たして私の発言が、現在の全日弓が目標だてたものと一致しているかは分かり兼ねますが、全とするものに尽くすことだと思います。

10:Ariesさん
真善美が正射のための手段ではなく、正射が真善美を体現するための手段ではないでしょうか?
「射は剛健典雅を旨とし精神の修養と肉体の錬磨とを以て目的とす」
本多流の始祖利實の言葉ですが、正射と言うものはそれ自体は目的ではないのではないでしょうか?
客観的には必中の域に達したところで、的紙が破れ、的枠が壊れる確率がますだけのことです。試合などを考えるならともかく、そうでなければそれ自体に意味はありません。
目的は結局のところ精神の修養と肉体の錬磨であって、正射はその手段ではないでしょうか。


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