的中と正射 (投稿55件)[1〜55]


1:にっしーさん
この書き込みは、(正射って何だろう?)の書き込みの続きとして投稿します。
私の書き込みから波紋を呼んでしまった為、自身で投稿するべきと考えた為です。

「さて、射に得点を付ける際に的中を伴わない射に対して高得点が付く射が、正射に近いと言えるか?」
この論点から、
「私は的中しない射が正射に近いとは疑問である」
という書き込みをさせて頂いた訳です。
その理由は前書き込みにあるように、
私の弓道に対する考え方が、どのような事があり、そしてどのように感じ、どのように思ったからと、道筋を立てて書き込んだつもりです。
内容には個人を中傷したり他の考え方を非難したりの書き込みはしていないつもりです。
しかし、不適切な内容があった為にご批判等も頂きましたが、その点は紳士に受け止める所存です。
また、その中にはその人の弓道に携わる中で、考え方の変化を交えた弓道人生を読ませて頂き、非常に興味深く、これからの私の思想にもプラスに出来そうなものもありました。有難うございます。
あくまでも、私個人の弓道に対する考え方であることを前提に話をさせて頂きます。

的中すれば正射に近いか?私の考えはNoです。
正射のアプローチがあれば的中せずとも正射近いか?やはり、私の考えはNoです。

私は的中主義者の分類に入るか解りませんが、
有名な言葉に、「礼の小笠原、射の日置」は皆ご存知だと思います。
これは、礼に秀でる小笠原流と射に秀でる日置流を称えた文句ですが、
では、小笠原流は射をおろそかにしたのでしょうか?
日置流は礼をおろそかにしたのでしょうか?
私はどちらの流派の教えを見ても、そう思いませんでした。
そして、その流派の思想を取り入れた全弓連。
段位という射と礼の規定を取り入れ評価しどちらも大事だと言いつつ、その外で矛盾する大会がある。
私は、疑問に思わずにいられません。

そして、皆さんはこの議題についてどういう思想で臨んでいるのでしょうか?

2:Y.K.さん
私はこの問題に対しては、修行不足ゆえ、全く思索が及ばないことでありますが、

中て気や射り気を出して射を崩している場合は、見た目のカッコよさという観点からして(これだけで判断するのは良くないことはわかっています)、的中がついてきてもあまり良いものではないと思うときがあります。

実際に採点制がどのようなものかも知りませんし、それを採用している大会にも出たことはありませんので大した事を言えた立場じゃないですが、
まず、的中すれば正射、良射であるという条件は常に成り立つとは限らないと思います。しかし、弓に命を持たせた射はとても良いと思います。

(スレの趣旨と合っているかはわかりませんが、自分はまだこの程度の意見しか持っていません。悪しからず。)

3:迷い人さん
二度目の投稿です。正射を構成する要件は、多数あり、的中はその一つにすぎないと思いますが、的中が無ければ、正射であり得ない訳です。正射は、目標として存在するのであり、「実現できた」と思うのは自己満足に過ぎないと思います。的中が、正射の内に占める割合が五パーセント(中たらない原因を加えて)位だと考えた場合、当て射で中たりを得たとしても、射品、射格の点でマイナスが多い場合は射としたら、評価はどうなのでしょうね。ただし、的に向かって射るのですから、的から逃げないで、引くのが、大事だとおもいます。

4:半平太さん
1.心気の充実
心は落ち着き、気は澄んでかつ張りがあり、息合い整う
2.体の充実
体調万全で全身に生気みなぎり、凝りがない
3.技の充実
根が張るような胴造りの上に十文字が感じられ、両手の内に緩み無く弓の力を無駄なく受けて持満する
4.会の充実
間断なく上下に伸び合い、時の流れを感じさせない、見る者を吸い寄せるような会
5.矢勢
弓矢の性能を最大限生かした矢勢

的中は結果として付いて来る物だと思います。

5:タメともさん
こういう考え方はどうでしょう。

今できる全てを出し切った射、
これが「正射」。

・・・甘いかな?

6:梅さん
にっしーさんは古今の流派や弓史に精通されている上独自の弓道観をお持ちなのですね。あなたに比べると私なぞまだまだです。そもそも時の大家が生涯をかけて会得した流派とその境地など私にはわかりませぬし、武徳会を経て武道禁止から戦後の全九連へと至る近代弓道の生みの苦しみについても随分大家の自伝や文献にあたって勉強してはいますが、いまだその実体を把握するにいたりません。何の為の正射か、正射とは何かすらわからず今はただ行じるしかないと思っています。体験を通して得られる実感が自ずと答え導きだしてくれるものだと思うからです。

7:ゆんゆんさん
弓の道は人それぞれ。 自分(にっしーさん)がああいった書き方は悪いと分かってて何故書いたのですか?
分かってるのなら書かなかったはずですけど。 それと、 前のスレでの質問に対しての答えは、、、

8:盛者必衰さん
自分の限界の力を引き出せればそれが正射に近いのではないでしょうか?(俺もやっぱり甘い((修行不足ですね(つД`)
ところで皆さんが考えている正射に近い人物は身近にいますか?

9:弓禅さん
タメともさん、全然甘くないですよ。真髄をついていると思います☆
この世には「過去」「現在」「未来」の3つの時制が存在しますが、我々が生きているのは「現在」です。すなわち、我々は現在のことのみ変えることができます。逆に言えば、我々は現在において過去や未来のことは全く変えることができないのです。
こう考えれば射においても今この一瞬にできること、すべきことのみに精神を集中し、実行することが大切です。過去や未来のことに心を奪われてはできることもできません。ですから現在のことに集中していれば、より正射に近い射ができると私は信じています。

10:弓禅さん
私の考える正射ですが、正しい精神・気合い(呼吸)・姿勢(射形)・的中・(弦音・心身の)冴えがすべて満たされ、それぞれのバランスのとれた射だと思います。そのような射には自然と射格が備わり、見る者、更には射手までをも圧倒する力があると信じています。またこれらの要素は互いに影響し合い、何れかが欠ければ総てが崩れると思います。ですから私は、的中を上げたいときにはその他の要素も忘れぬようにし、射格を上げるよう努力します。
またこれを行なう際には必ず、前レスに書いたように現在の一瞬一瞬に特に注意する精神を心がけます。
これが私の目指す正射です☆

11:鼻さん
これが正射だ!という明確な基準は永遠に得られないでしょうね…。だからこそここで論じてるのでしょうけど。逆に、その基準がないからこそ弓道が楽しめるのだと私は思います。
以前弓友に『何故全知全能の神は完璧でない不完全な人間を作ったんだろう。』と聞いたことがあります。彼は『完璧だとつまらないからじゃない?』と言いました。
話がそれましたが、完璧だとつまらないんです!テストで毎回百点だったら紙飛行機にしたくなるようなもんです。
正射必中は目指すからこそ意味があるのではないでしょうか。

12:る〜みんさん
全日の否定していますが参加されてる方なら何故、審査する先生方に不服だ。説明しろって言わないんですか?また、参加もせずにおかしい!とか言うのもおかしな話。 筋通ってませんよ。 大会、試合は審判が全てですよね? 不服があるなら大会中に抗議すべき事。 違いますか? 正射と的中についての論議は良いと思いますが全日を引き合いに出す事は間違いでしょうね。 もし、参加された方々で文句が殺到してたならこの大会は今日まで続いてると思いますか? 見もしない、参加もしない人が全日の在り方を否定できるとは思えません。

13:半平太さん
>鼻さん
鼻さんはすごいことを考えますね。でも私は全知全能の神というのは元々あったものではなく、他ならぬ人間が創り出した物だと思っていますが。

14:鼻さん
半平太さん、私は別に神を信じて言ってるわけではないんですιキリスト教の神様についていたとしたらどうしてだろうなぁ〜と思いまして。私、仏教徒ですし。

15:某大学OBさん
 前述のスレッドでも書いていますが
私としては正射をしていれば的中はおのずと追随していると思っています
 すばらしい射で、もしくは高段位者のかたが正射をして外す、 この部分がどうしても私としてはひっかるのですが
 学生の殆ど外さないような人たちは、中て射だからでしょうか、一日100射以上鍛錬して得た物はなんでしょう
 正射はあたる、不勉強なのでしょうが射の結果は中りに現れると考えているのはいけないなでしょうか

16:元学生さん
みなさまの書き込みをみて思うことですが、正射は各人が
思っている理想であり、現実には存在しないものでないで
しょうか。現実に存在しないからこそ、たとえ名人と呼ばれようが、
十段となってもなお高い目標に向かって日々精進することに
つながっているのではないでしょうか。もし正射が存在し
体現できた方が居られるなら、そこが到達点でありそれ以上の
向上がない事にならないでしょうか。
これは、私個人の考えですが、向上心のない射はたとえ
正射と呼ばれる技術で行ったとしても射手を圧倒する力は
ないと思います。

的中は、行射全ての結果だと思うので、正射必中の逆説
から中らないと正射でないと私も考えたいです。
全日で中らなくてもすばらしい射と審判員が判断するのは
審判員の思う正射には的中よりも重きを置く点があるため
でないかと思います。

だれも見た事がない正射に関して解釈がみんな違うのは
当然だと思います。的中が伴わない射が正射かどうかは
各人の理想の違いだから意見を一つにしなくてもいいのでは
ないでしょうか。

17:義智さん
批判が多いようですが、スレ主さんを叩いて終わりとするにはちともったいないテーマだなと思ったりします。

何も解らない人には「採点制は中らない事に対する逃げだ」と見られても無理はないと思います。
さて私の見解ですが、採点制は何かの必要に迫られて作られたものではないでしょうか。では何の為に採点制が生まれたのか?競技規則を一部コピーします。
『第21条 採点審判は採点審判委員が行い、各審判委員ごとに、各射手の行射(心気、態度、体配、射法、的中等)を採点しその総合点とする。この場合射場及び的前審判委員は採点審判委員に協力し意見を述べることができる。』

私がしているのは弓道というよりも求道て感じかもしれません。今の私は、人生においての大切な何かがつかめるのなら、的中率0でも別にかまわないかなと思ってます。
日常生活への応用を考える場合、むしろ必要なのは自分を表現する能力だったり、自分の価値観を見出す事だったり、射の途中で矢を落としてもすました顔でスムーズに処理をする動じない心やポーカーフェイス等。

採点制で審判員が見る心気、態度、体配、射法、的中等これらの中で日常生活に応用しやすいのはどれか?
もともと武道は武士の生活に密着したものであった為、スポーツみたいに割り切れない所があります。
称号者の方って、的中率がどうこうっていうより、実際に会って話していると、独特のオーラを感じるんですよね、不思議と。自分にない何かを持っているような、人生の重さを感じさせるような、「この人は何かわからんけど凄い…何故か逆らえない気がする……」と本能的に思わせる強さというか何と言うか…その人が発する『気』。人としての重さとでもいいましょうか。生活を考える場合、的中よりこっちの方が重要ではないでしょうか。この世の中を強く、時には弱く、そして上手く生きていく人柄。

採点制…、自分という人間に点数をつけられるわけですから、けっこう恐いですね。。低い点つけられた人はショックで寝込むかも。
極端な自尊心の崩壊、自信の喪失。
採点制で問われる問題はむしろこちらかもしれませんね。学校の通信簿みたいに。評価と採点。自分の求める射ではなく、他人が求める射を行うわけですから。周りが求める事に応じる事も大切だと思うのですが、譲れない事もあったりします。

正射についてですが、今まで私は意識して「正しい…」と書かず、「理想的な…」と書き込んできたと思います。何が正しくて、何が間違いなのか、難しい問題だと思うからです。「理想的な射」であれば求める形も明確にしやすいかなと。

18:斜面見習いさん
正射とは人それぞれ違うと思います。 簡単に言えば自分が理想とするのが正射だと思うんですよね。 また、見本(正射)が存在しないために採点の出し方も変わってるのではないでしょうか? 実際、どんな点数の付け方かわかりませんが、それはあくまで点数。 否定とは異なると思うんですよね。(確かに悪いとショック受けますが) 僕なりの解釈ですが通信簿だと思ってます。 苦手と嫌い。好きと得意。意味は似てますが違いますよね。 苦手な科目でも良い点取れたりしませんか? 僕はそれくらいの気持ちで居ます。 続きます。

19:斜面見習いさん
大事なのは弓道が好きだという事ではないでしょうか?
皆さん目標は違っても好きであると思うので頑張っているのだと思います。 僕も正射に向けて頑張りたいと思います。
スレとズレてると思いますがすいませんm(_ _)m

20:斜面射手さん
正射っていうのはきっと上へ上へと目指していく
ことなのかな?と私なりに思います。みなさん
おっしゃいますが、「これが正射だ!」というものは
やっぱり規定できないですよね。

まぁ、弓はもう殺人術ではないので、
弓という媒介を通して人格形成するというのが
現代弓道のありかただと思います。その中で
的中云々は個人の自由でしょうし。大会の制度に不満が
あるなら、大会に出なければいいだけですし。

21:義智さん
ボーダフォンの携帯から見ようとしたら、サイズが大き過ぎて見れませんでした。先の発言が長くてすみません

22:奔さん
正射は必ず中るのか、と問われたならばYESと答えます。
必ず中れば正射なのか、と問われたならばNOと答えます。
正射とは何か、と問われたならばわかりませんと答えるでしょう。
私にとって正射必中とはそういう概念を持つものです。若輩者の私に言えたことではありませんが、ようは概念の問題だと思います。
神様はいるか、と問われたならばさあ?と私は答えます。いるかも知れないしいないかも知れない。私はそれを知らないけれど、特に信じてはいません。だからって信じる人を否定する気もありません。個人の勝手だからです。
正射必中を目指すのも、同じではないでしょうか。目指す目指さないは自由なはずだ。目指す人が目指さぬ人を、また目指さぬ人が目指す人を否定する権利もないはずです。違いますか?
正射とは何かは私にはわかりません。近いものならともかく、正射と呼べるモノは見たことがないからです。私の中で正射とは、最高峰です。追い求めて追い求めて、自分が近づけばそれだけ遠くへ逃げるような。元学生さんの考えに近いかも知れません。ただ、私は正射はあると信じ、追い求めていくことこそが弓の道だと考え、その信念の元で弓を引いています。
長くてわかりにくくて申し訳ありませんでした。

23:森のくまたんさん
正射必中とは、『正しい射で必ず中てる』です。

24:半平太さん
「正射」は概念であって実態はない、という意見が多かったように思います。人それぞれ、という意見もありました。確かにそれは見えるものではありませんし、的中のように結果がはっきりしているものでもありません。しかし、それを体験した人は必ず少なからずいると思います。それに辿り着く道は数多くあるけれども、到達点は同じで限りなく一つに近いと思うのです。

例えれば、それは高峰の頂上のようなものだと思います。弓道家はみなこれを目指しており、私はやっと山の登山口の辺りに差し掛かっただけですが、頂上を目近に見たりそこに到達した方々の記述を読んだり、お話を伺ったりしながらそのイメージを思い描き、それに近づこうと少しずつ歩んでいるだけです。

勿論、自分の体験したなかで山頂を雲間にかすかに目にするようなことがあったかも知れません。それが全く無ければ、そもそもそんなお話を聞いてもピンと来ないからです。そして、また正射という頂上を目指していなければ、その微かなヒントをも見逃していたかもしれません。

我々が弓を引く以上、何かに向かって前進しようとしているのは確かだと思います。的中というのは自分の前進を測る目安になると思いますが、それを良く見極めないと全く違う方向に進んでいることになるかも知れません。その為に、自分を客観的に見る必要があると思います。つまり、的中は最終的な目的ではなく、その時点における自分の位置を見極める一つの基準にしか過ぎないと思うのです。

こういうことを言うと神学的になってしまいそうですが、やはりそこに到達した人でないとはっきりとは分からないのではないかと思います。
もしこの掲示板をご覧になっている範士の先生がいらっしゃったら、是非ヒントを頂きたいと思います。

25:錬士さん
やはり答えは自分で見付けるしかないと思います。 押し付けた射は伸びると思いますか?

26:半平太さん
仰るとおりだと思います。
ただ正射必中という言葉が広く知られていて、指導者も良く用いているのにも係わらずその定義があいまいで人によって捉え方がずいぶん違うことに少々当惑したのであのような事を書きました。
24の最後の一文は僭越でしたし唐突だったと思いますので取り消します。

27:元学生さん
現代の弓道を行う上で全員が同じ目標を目指さなくては
ならないのでしょうか?また、長い弓道人生で間違った
方向に向かうことがあってもいいのでないでしょうか?

たとえ間違った方向でもそれを訂正すれば良いだけで
初めから向かう方向が一つというのには疑問を持ちます。

多くの著書から頂上をみた経験を知ることはできても
所詮人の経験であり、自分の経験でないのです。
正射必中という言葉の捉え方がずいぶん違うのはそれぞれの
弓道人生が違うからでないですか?
時代に合わせて正射必中も捉え方は変遷するべきで、
変えないのがいいというなら、殺戮兵器として弓を
考えていた昔の解釈を現代でも行わなくてはなりませんよ。

28:にっしーさん
今回、私はこの書き込みをして良かったと思います。
私は自分の持つ疑問を見る人からすると、「なぜ?」と取られたかもしれませんが、人それぞれ捕らえ方が違い、なかには私が考えもしなかったような内容もあり、私の見る世界は間違い無く広がったと思います。
私が弓を始めたばかりの頃にこのような疑問を持っただろうか?
きっと、何の疑問も持たず受け入れただろう。

私は今まで本当にいろんな疑問を持ちました。
・本多流の正面打ち起しや日置流印西派の3分の2はなぜ世 間に認められたのか?今そんなことをする人がいたら大 問題になるだろうに、なぜわざわざそのようなことをし てまで変えたのか?射法八節を忠実に守る事だけが本当 に正しいか?
・足袋を履かない流派もあるのに、なぜ履く必要がある  のだろか?
・なぜ、グラス弓より合理的でない竹弓を引く人がいるの だろうか?
・本当に一般で言われている学生弓道が的中主義で、一般 弓道が体配主義なんだろうか?
・段位はただの自己満足じゃないのか?
・もともと堂射で使用された4つガケを、なぜ近的で使用 する人がいるのだろうか? 

私は何も受け入れるだけがすべてではないと思うのです。
時には疑問を持つことも、答えを出す手段ではないだろうかと思うのです。
私は疑問を持ちその意味を考えその世界を覗く事で、
また違った世界観やより深い理解を得ることが出来ました。
このような疑問を持ちぶつける中で、びっくりされたり、不思議がられたり、怒られたり、悟されたりといろいろありますが、結果的に間違っていても、振り返るとそのような疑問を持たないより、持った方が私にとっては良かったと思っています。

私は今回持った疑問の答えがいつ見つかるか分りませんが、疑問を持ち続けてその世界を覗き意味を考える中で、自分なりの答えは見つかるような気がします。
この議題がで討論する事で、いろいろな人の今後の弓道に対する世界観が広がるきっかけになると考えます。

29:義智さん
私にとっても刺激的なスレです。

テロを起こす事が正義ならば、報復する事も正義。自分こそ正しいと信じて疑わない人ほどタチの悪い人はいない。
そんな観点から私は「正射」から離れ「理想的な」と考えたりもしました。正射など存在しないのではないかと。
「正義は必ず勝つ」のか、「勝った者が正義」なのか。

道徳の面から見れば、自分が正しいと思っても外れる事がある。正射は必中とは限らない。いや、「射とは人の在り方」とするならば、正義や正射など存在しないかもしれない。

では技術の面からはどうか。正しい箸の持ち方があります。ゆえに、正しい射は存在し、これをすれば必ず中る。正射は必中となる。

道徳面と技術面、相反する結論が出るため、一度二つに分ける事で考えやすくなるかもしれません。

今まで私は正射など存在しないと目をそらしてましたが、正射について熱く語り、これを目指す皆さんに心打たれ、その影響を受け、自分なりの考えを一旦まとめる事ができました。日々精進です。感謝してます。

30:義智さん
また携帯から見れず。おのれボーダフォン。原因はまたも表示サイズが大き過ぎる為のようです。
え〜と、携帯ではレス4回分(スレ題は固定、レス4回分)ごとに読んでいくため、長い文章は2、3回程に分けて書き込むと、サイズが大き過ぎて携帯から見れないという事態は回避できると思います。目安は…私の29の発言でギリギリかな…。17は長すぎ、二回以上に分けるべきでした。

31:山神さん
そこまで考えていません。 と言うより考えようとも思わなかったですね。 私は考えてやるのは苦手だし楽しく弓を引ければそれでいいので。

32:半平太さん
>元学生さま
私は、正射に辿り着くまでの道は、数多くあると書きました。しかし最終的に辿り着く所は同じで、限り無く一つに近いのではないか、と言うことです。
また、戦弓は弓道とは違います。

>山神さん
それでいいんじゃないですか?誰も始めからこんなこと考えてる訳ではありません。今自分が思う弓を引けばいいと思います。
ただ、あなたが考えてやるのが苦手とかはどうでもいいことです。

33:錬士さん
正射の答えは一つに在らず!です。 そう思うのも、半平太殿の答えであり、誰も否定もできません。

34:半平太さん
わかりました。

35:エセアーチャーさん
>義智さん
戦う者は少なからず己の正義のために戦っていますよね
自分としては勝った者が正義だと思います。もしも第二次世界大戦の時に日本がアメリカに勝っていたら今の日本はだいぶ変わっていると思いますし、正義は日本にあったということになると思います

自分は正射必中という言葉を日常の弓道会話でほとんど使わないんですけど、正射というのは各自が自分の中にもつ最高のイメージ(正義?)でありそれをすれば必ず中ると考えることで頑張れる(戦える)んだと考えています。
技術的にも精神的にも固定された正射というのは存在しないと考えています。

36:義智さん
>エセアーチャーさん
率直な意見助かります。人がどうこうというより、自分はこんな意見をもっているという発言は聞いてて気持ちいいですね。

29:で正義や正射は存在しないかもしれないと思いましたが、在るかもしれない。そこで私の思う正射の姿を考えてみました。

例えに出すのもなんですが…ウルトラマン。特撮ヒーローはなぜ正義と呼ばれたか。それは人を助けるという行為は間違っていると言う人がいないから正義になれたとするならば、何が「正しい」のかは多数決で決まるのではと思います。
そう考えるならば、正義、そして正射とは周りの人達に認められた姿と定義する事は出来ないでしょうか。自分が正しいと思っても、周りが違うと言えばそれは個人の理想だと。
全ての人達に認められた姿が正射とするならば、正義も正射も存在する。しかし、実現はほぼ不可能に近い。
正面を嫌う人もいれば斜面を嫌う人もいる。思想は人それぞれ。その中でどれだけ多くの人に認めてもらえるか、それが正射に近づくという事ではないかと思います。

37:鼻さん
勝てば正しい、勝ったから正義だという考えは安直過ぎる気がします。正義と悪はコインんの表と裏と似ています。初めてコインを見たとき、こっちが表だよと教えてもらえない限りどちらが表かわかりません。それ程曖昧なものなんです。
戦争について例をあげていましたが、戦争に勝てば正義だというのは素直に受け入れられないものがあります。私に言わせてみれば戦争を選んだ時点でどちらも裏で悪ですから…。
大分話がそれてますが、大会で優勝した人が明らかに当て射でも勝ったから正射ですとは言い切れないと思いませんか?いや…中てている時点でその大会の中では一番正射に近いかもしれませんねι

長くてボーダフォンで見られなかったどうしよう…

38:元学生さん
大学での哲学の講義からの引用ですが、犬という言葉を
例にすると大抵の人は「犬」を知ってますよね。
では、犬とはどんなものと具体的に聞かれると人によって
想像する犬が違えば表現が違ってきます。
大きな犬もいれば、小さな犬もいます。色もいろいろあり
耳や尻尾の形など千差万別です。
だれもが想像し理解できる具体的な犬がいるならこれを
究極の犬と言いますが、どんな種類の犬にも該当する
唯一つの犬は存在しません。

正射必中も同じで概念としてはみんなの心にありながら
具体化しようとした時点でいろいろな解釈がでてくると思います。斜面と正面がある事だけでも正射が一つでない
ことになるような気がします。

何が正しいかは私も多数決で決まると思います。多数の
人の考えが変われば、今日正しいことも明日には間違いに
なるかもしれません。

横レスですが、ウルトラマンって怪獣倒すために都市を
破壊してますよね。壊されたマンションの住民なら
こんな都市のど真ん中で戦うなよと言われるかもしれませんね。
立場が違えばウルトラマンでさえ悪役かもしれません。


>半平太様。
戦弓の知識が私には余りないため、不適切な表現が
あり申し訳ございません。

39:ゆんさん
特撮モノって主人公(ヒーロー)が悪役を倒しますよね? 人(架空の話)じゃないですけど、殺していますよね? 悪役だから殺していいのか?って話になりませんか? だからこういうのを引き合いに出すのは間違いでしょうね。 テロにしても同じ。身近(古いですが)なトコではオームかな。 世間から見れば悪い事でも当事者側はそれが正義なのですからね。 こういう話はきりないですね、、、

40:眠気爆発さん
あまり関係ない話ですが、ウルトラマンを取り締まる刑法が無い限り、法的に彼を罰することは出来ません。
しかし、法治国家においてテロは許されないことです。刑法によって禁止されている行為だからです。

ウルトラマンに正義があるとすれば、専守防衛を貫いていることです。これは法の外に置かれたウルトラマンが市民感情に配慮しての事であると思われます。
例えウルトラマンが建造物を倒壊させるというような過失を犯したとしても、彼が防衛行為の対象に対して防衛行為を実行しなかった場合よりも、被害の度合いは軽微なものになると推測され、結果論として彼は悪役の誹りを免れているものだと考えられます。ウルトラマンに法的な裏付けはありません。彼の防衛活動は人々の善意と寛容によって支えられております。市民感情に配慮するのは、自らもまた破壊者となりうる武力を保持し、それを抑止するための法が存在しないことを認知しているからであると考えられます。このことがウルトラマンに何らかのモラルもしくはルールのようなものを設け、自らを戒めるに至っているのでありましょう。専守防衛はその典型であります。また、戦場の決定権は攻撃してくる対象が握っております。このことは専守防衛の宿命ともいえます。

ウルトラマンとテロリストは明確に異なるものであり、上記のようなご発言は誠に残念至極であります。

41:エセアーチャーさん
戦争での正義を引き合いに出したのはちょっとたとえが悪かったようですね(汗
> 義智さん
全ての人に認められる射というのは存在しないと思うのですが・・・(汗
でもできるだけ多くの人に認められる射というのはいいかもしれませんね、でもそれ自体を気にしない人(あくまでも自分の正射を貫く人)もたくさんいると思いますし・・・
やはり定義は難しいですね・・・
>鼻さん
中てることを正射の定義と考える人からすれば確実にその優勝者は正射に近いわけですし、そこまで極端でないにしろ中るということは何かがいいからなのだから正射に近いとも考えられるのではないですか??
この考えに反対する人もたくさんいるとは思いますが・・・(滝汗

42:まりもさん
私は今までの大会や競技会で、俗に言う中て射で、優勝をした人を見たことがありません。その大会で勝った人は、私よりも良い物を持っていたし、正射をしていたと感じています。

毎日毎日何百射も引き、努力を重ねて限りなく100%の中りに近づけるよう努力している人がいる。そこには私には想像も付かないような、研究心と、探究心、努力があると思います。

全日本選手権で優勝されるような人も、このように弓に対する思いは同じではないかと思います。

近年全日本弓道連盟も、少しずつ変わってきているように思います。近的選手権も決勝は的中競技になりましたし、遠的選手権は、色的得点制になりました。より的心狙いを推奨しています。

もし正射、正射だけで中りを捨てている人、中りの出ない人がいるとすれば、片手落ちの言い訳でたとえ高段者になろうとも、100歳になろうとも、的がある限り、的を狙っているし、中てようとする向上心はあると思います。

43:斜面射手さん
突然正義という言葉が出てきて驚きました。
正義も悪も見る側面が違うだけで、同じものですよ。
道徳的に善悪つけられる事例も多いですが、
つけられない事例も多いですよね。

私が弓を引いていて思うのは、印西派の先生に
それでいいと認められた部分が、正面の先生(善意でアドバイスしてくれる方)
からおかしいだとか変だといわれることが
しばしばあります。
自分が正射だとはいいませんが、見る人によって正射の
ありかたなんていかようにでも変わってしまいますよね。

44:義智さん
正義、正しい箸の持ち方、特撮ヒーローは、正射とは何かを考える際に、「正しい」とは何かと寄り道した部分ですので、正射に応用できない部分について論じるつもりはありません。正義やウルトラマンについて考えるならば、それを踏まえての正射についてを聞きたいです。辛口ですみません。
特撮ヒーローではなく、マザーテレサやキング牧師にすればよかったかな。よく知らない人もいるかもと。
「正義は必ず勝つ」「勝った者が正義」これは「正射は必ず的中する」「必中すれば正射」と似てるなと思ったのです。

45:義智さん
私の考える正射とは、
全ての人に認められた射。
周りに認められた射。
……どっちがいいかな。どっちもどっちかな。ステップアップしていこうという事で。

まぁ、この観点からスレ題の
>的中すれば正射に近いか?
私の考えはYesで
>正射のアプローチがあれば的中せずとも正射近いか?
やはりYesだと私は思います。
周りを認めさせる射が正射に近いと。

なんとか回り道しながら、ようやく私なりにスレ題の疑問に答えられそうです。

46:斜面射手さん
正射とは人の目を気にするものでしょうか?

47:寝不足さん
極論すると、大多数の賛同を獲得することが出来れば足で引くことが正射となりうる、という主張なんですね?そして周囲に判断基準を丸投げして自己に判断基準を置かない。

まぁ、そういう人は大勢居るけどね。

48:義智さん
間違った事でも、皆が正しいといえば正しい事になる。

正しいとは多数決により決まる、というのならばそれが正射になると。周りに認められないのは個人の理想。

ゆえに、私は正しい射でなく、理想の射を求める。

正しいかどうかは、自分が勝手に決める物ではなく、第三者が評価する物。そう考えていると受けとってもらって構いません。

49:義智さん
>正射とは人の目を気にするものでしょうか?

人は人の目を気にして生きていくものだと思います。相手の顔色をうかがうから、人間関係がスムーズになるのかと。

人の目を気にし過ぎると相手は少しうっとうしいと感じる。
でも人の目を全く気にしないと、寝癖がついた髪で射会に行くようなものかと。
程々に気にした方が良いかな…と思います。電車内で化粧しているのを見ると、「少しは人の目を気にしてよ」と言いたくなります。

50:フィナーレさん
みそもくそも一緒にするのはどうかと思いますよ。 義智さんの考えだと、形だけ綺麗な射が正射となりますよね。 また化粧の話は関係ないと思いますよ。 そんな事を言ってると、おい、弓を振り回すなとか、足は擦り足だろうが、等などきりありませんからねぇ〜

51:斜面射手さん
揚げ足取りのようになってしまうのが申し訳ないのですが・・・

>義智さん

よく例えを引き合いに出されて説明していただけるのは
いいんですが、その例えと正射を同じにしてしまうのは
どうかと。寝癖や化粧はそうかもしれませんが、
だからといって正射もそうとは言い切れないと思います。
自分も日常でよく使う手段ですが、結局話をそらしているだけになってしまうんですよね(汗
おっしゃりたいことはよくわかりますが、100%賛同は
できません。

私は斜面で、正面の人から見ると会や離れ、残身は
違和感があるように見られます。「大多数の人」である
正面弓引きから賛同が得られない流派弓道の人には
正射は無理だと・・・?まぁ、屁理屈なのはわかってますが、
そういうふうにも受け取れます。

ただいまより田舎に帰ります。みなさん良い年を。

52:キングエルモさん
目先の当たりにこだわらずに、合理的な射を心掛けて練習しなさい、という練習標語と捉えれば良いのではないでしょうか。

ぱっと見のきれいなうわべだけの射と理に適った射というのは違うわけで、射の審査もあるような大会ではほとんどが的中しないと矛盾が生じてしまうんですよね。

体力的な衰えが問題ない年齢の中高段者は当たりに当たってもらわないと、何の練習しているのかと思ってしまいます。

53:電さん
なんだか大多数の人は「正しいとはどういうことか」という話をしているようなのですが・・・。
私なりの正射の捉え方を書いてみようと思います。

まず、『正射必中』という言葉を大前提としてみます。
ではなぜそのような言葉が存在するのか。
「正しいから中る」では説明がつきません。
なぜなら皆さんすでにおっしゃっているように、
「正しい」という概念自体が曖昧なものでもあるからです。

という事は、「中るから正しい」と捉えた方がこの場合妥当だと思います。
これは決して中ればそれが正しい射であるという意味ではありません。
つまり、的中に対して最も合理的であるから正しいと認識される、という意味です。

そこで問題となるのが「合理性」の捉え方だと思いますが、
弓道の場合、その場その場の単発でなく、
誰もがより長く、より確実に的中し続けるものが合理的と言えると思います。
即ち正射とは「的中の為の最大公約数的な型」と言得ると思います。
ここで「最大公約数的な」としたのは、
最も合理的な射形は人それぞれ骨格や筋力などによってベストな射形は違うと思うからです。

誤解を招くのを防ぐ為にもう一つ付け加えますが、
「長く確実に的中し続けられれば、またそういう人がいれば明らかに妙な射をしていてもそれは正射なのか?」
という話が出てきそうですが、
そこで「誰もが」という部分がポイントになると思います。
そういう人が仮にいたとして、その射形を他の人がやって誰もが中るかどうかを考えれば、
自然と答えは出てくると思います。

それともう一つ、射の上手さや美しさ、
俗に「射品射格」と呼ばれるものの存在です。
これについては一言で言ってしまうと「機能美」だと思います。
世の中のありとあらゆる物がそうだと思うのですが、
目的に対して合理的・機能的に突き詰めたものには、
自然と機能美が備わると思います。
合理性を突き詰めることで無駄なものが削ぎ落とされ、
必要なものだけ欠けずにが残ったものは機能的であり、それが故に美的なものを備えるようになると思います。
弓道でもそれは例外ではないと思います。

若干言葉足らずかもしれませんが、
(あまり細かく書くと長くなるので・・・)
私の場合こういった考えの結果、
正射と呼ばれるものと的中の関係を矛盾なく捉えられている(と思います。苦笑)ようになりました。

ただ、最初に『正射必中』という言葉を大前提としているので、
「正射だからといって必中しない」と考えた場合は根本から崩れてしまいますが。
私はそこは「必中しないのなら少なくともその射(抜いた時の射)は正射ではない」と考えています。

54:義智さん
昇段審査も採点制の大会も、人が評価する物ですよね。だから、正射かどうかは人が判断すると思います。だから、人の評価はどうでもいいという人は審査を受けない傾向にあるようですし。

また、必中する射は自然が決める正射だから、公平だという考えを持っている人もいると思います。

携帯対策で2つにわけます。

55:義智さん
>斜面射手さん
実際、他の流派を認めないという、偏見をもった人もいると思いますが、審査や採点制で、斜面だから減点、正面だから減点という事がないならば、流派の違いは特に問題ないと思います。
いや、審査や採点の世界をよく知らない以上、これ以上語るべきでないかもしれません。
自分の正射を見つけられたら、もう審査は受けないのかな。

でも、斜面には斜面の、正面には正面の正射があると思います。
小離れ、中離れ、大離れ。どれが正しいわけでなく、それぞれに正しい形があると思います。

>「大多数の人」である正面弓引きから賛同が得られない流派弓道の人には正射は無理だと・
他の流派の人に賛同を得られない正面の射も、他の流派の人から正射ではないと言われるかもしれません。
そう考えると、「周りに認められる射」はあっても、流派の壁を越え「全ての人に認められる射」は存在しないのかな。

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしますm(__)m


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