教育現場における神棚の存在について (投稿29件)[1〜29]


1:福寿草さん
 こんにちは。私は高校の弓道部顧問をしております。学校の弓道場には神棚があり、部活動の最初と最後には部員一同で神前礼拝を行っています。私が強制したものではなく、何十年と続く部の伝統です。
 しかし、最近、同僚の教師から、弓道部で部員に神前礼拝をさせるのは、特定の宗教と教育の分離を定めた法に違反しているのではないかという指摘がありました。そこで、近隣の高校に確認したところ、やはり同様の理由で神棚を撤去した学校がありました。大会等でも神前礼拝は一切させないという学校もあります。
 もちろん、本校の部活動での神前礼拝は特定の神を信仰させるのが目的ではなく、「身も心も清らかに、全身全霊で弓を引くのを誓う」といった意味合いが強いわけですが、部外者から見ると違和感が非常に強いようです。また、本校に勤務している外国人の英語の教師は、公立の学校内で神前礼拝をすることが信じられないと驚いていました。
 皆さんの学校での状況はどうでしょうか?
ぜひ皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

 

2: さん
「身も心も清らかに、全身全霊で弓を引くのを誓う」のなら、確かに神棚は必要ないかと思います。
別にあっても悪いわけではないですが・・・。

何に対して礼を示し、何に対して誓うかと言われれば、
私は「道場」に対して礼を示し、「弓(物理的な意味ではなくて)」に対して誓う事だと思っています。

その限りにおいては、神棚は特別必要とは思いません。
ただ、あっても別に悪いとは思いません。
形式としては神棚に礼拝をしていても、
心の中では道場と弓に対して礼をしているので。

3:たろーさん
かなり興味ある話題です。
私自身の考えですが、神棚の存在はどちらでもよく、弓を引けることへの感謝の気持ちを出すことのほうが大事かと思います。

少し話題はズレますが、卒業・入学式の国旗掲揚、国歌斉唱の強制にも多少興味があり、このスレにも興味があります。
皆さんの意見も参考にしたいと考えてます。

4:林蔵さん
一生徒の見解として…(生意気を言うようですけど…)

僕も…上の方(お名前がないです(>_<))と同様に神棚が特別必要なものだとは思いません。かといってあってはならないものだとも思いません。

これはあくまでも僕についてのことなんですが、僕の地域でも大会では始めと終わりに大会長さんの先導で「国旗に礼」をしています…しかも「国旗に礼!!!!」っと…戦時中を思わせるような気迫でおっしゃっています…
これは好きではありません…なんだか「お国の為に!!」とか「天皇様のために!!」といったイメージを強く受けるからです…
僕は自分の生まれた「日本」が好きですし、日本人であることを誇りに思っています。でも日本国家を崇拝しているわけではありません。「日本」というよりは「和」というものが好きなのかも知れませんね。「和の精神」と言うのは他の国には決して無い素晴らしいものがあると思います。
その「和」に惹かれ弓道を始めたのかも知れません。
…話がずれてしまいました……大会などの時のこうした場面では僕は「道場や弓道具、そして和というものに感謝を込める」という気持ちで礼をしています。
ようは意識の問題なのではないかと思います。生徒達に宗教的な概念を押しつけていないのであれば問題ないと思います。弓道は精神のスポーツであるので精神を統一するということは大切だと思います。

ちなみに僕の学校では普段の練習は野立のため、あまり(というか全く)そういった礼に関して厳しくありません。道場での練習の時も上座に礼はしません。男女向かい合って正座し、黙座をした後そのまま礼をして「おねがいします!」と言って練習を始めます(終わる時も同じく)

学校の方でうるさく言われるようでしたら黙座をするというのも良いかもしれませんね。(教師(大人?)の世界は僕にはわかりませんけど)

なんだか話がそれたような気もしますけど、一高校生徒の見解でしたm(__)m

5:林蔵さん
>たろーさん

この間、高校の卒業式がありました。僕の高校は比較的…国家崇拝(…違うけど…)の色が強い(それほど強いわけではありませんが)ので、吹奏楽の演奏で「君が代」斉唱がありました(生徒、父母、教師全員起立)。

先にも書いたように僕はこういった考え方は好きではありません。国歌斉唱は完璧に強制はされませんでしたが声を出していない生徒には注意する先生もいました…ちなみに僕は一貫して一言も声を出しませんでした(強情者…笑)
校歌はちゃんと歌いましたけどね。

国旗や、国歌斉唱の強制は嫌ですね。決して日本が嫌いなわけではないのですが…(好きな政治家はいません。偏見が強いのかも知れませんが)
ましてや罰則を科すなんてもってのほかと考えています。

自分の国の国歌をすがすがしく歌えないのはとても哀しいことだと思います。こんな国は日本くらいでしょうね……

6:空山和魂さん
教育現場と弓道場は結びつくかどうかわかりかねますが、スタンスとして神道と結びつけたいのですかな?
 神道批判なら別にして欲しいですな。(大体神棚と神道が結びつくかは別の議論だし)
仮に福寿草さんが学校内の弓道場でとするならば答えは簡単です。
 今の学生には必要ありません。
今の弓道界は中てることに集中しています、そのような小さな人達の中にあって神は必要ないからです。
 では何故神棚が必要かと言えば、弓は自らの力だけでは引くことがかなわないからです。弓は他者の魂を自らの魂で射抜くのです殺人の道具とも成り得るのです、そのような道具を使用するにあたり自らを神の前に出し清浄であり清らかであるとさらけ出すのです。また同時に弓という業を引くにあたり神とともに引かせていただくのです。弓はまた神具でもあるのです。我々は弓を引く時人を殺す道具であると同時に弓が神との交信道具であるとの認識を持たねばならないからです。
 ですからそのような高次元の考えに至らない弓道界の下で行われている低次元な考えでは神棚は神道の強制だとわめくだけなのです。
 また日本国の歌である『君が代』国旗である『日の丸』を崇めないのならば日本国民として恥じるべきです。
 どこの世界に自らの国の国家・国旗を虐げる民族がいるのか。
 強制と言うがガキの論理ではあるまいし歌うべきものを歌わず、崇めるべきモノを崇めないものを罰するのは大人の義務でありますから。
 

7:アクィナスさん
国旗に敬意を表さないこと、国歌を歌わないこと。それらを行う人々を裁くというのは問題があります。
しかし国家に敬意を表さないことに意味があるとは思いません。そのような主張をする皆さんはかつての大戦の過ち、全体主義の過ちを口にするのでしょう。しかしその過ちは、国家を愛し、尊んだためにおきたことでしょうか?
国家の過ちを国民が正すことができなかったために起きたのでは?
重要なのは、国を愛し、国に敬意を示しながらも、国の方針を鵜呑みにするのでなく、国を正しい道に導くことに努めることなのではないでしょうか?

8:kappaさん
>そのような小さな人達
>弓道界の下で行われている低次元な考え

なんというお言葉でしょう。
空山和魂さんがお幾つかなど存じ上げませんが、あまりにお言葉が過ぎておられるのではと思いました。
このスレから外れますが、国旗掲揚・国歌斉唱の話にしても、あまりに頭ごなしではないかと。
国旗の始まりは、開国後の日本が外国に船出する際、日本の目印として日の丸を作ったのが最初です。国歌にしても、1度政治的意味を持ってしまった歌を、政府は改めて現代っぽく解釈してしまっています。
いくらそのままずるずると使ってきてしまったとはいえ、そんな適当なものを国旗・国歌に採用してしまった1999年度の行政は、よっぽどこの問題が面倒だったのだろうと思いました。
これは私の見解ですし、ネットで検索すればこの話を扱っているサイトは山ほどありますので、ここで論ずる問題でもありませんが。

自分の意見を論ずるのは結構なことですが、他者の卑下や排他的な発言は慎んでいただきたく思います。
ここには大勢の人間がいることをもっと自覚してもらいたいものです。

9:斜面見習いさん
そもそも日本人は宗教に無頓着ですし。よく考えればわかる事。 クリスマス、葬式など…何気にしてますがそれぞれ宗教が違いますよね。
学校の道場に神棚…。 わざわざ廃止にする必要もないでしょう。 結局何が言いたいかというと神棚の意味もわからず形だけの伝統なら神棚はあってないようなもの。 宗教の心無くただ礼をするだけなら意味はないと思います。 早い話、神棚じゃなくてもいいわけなのですから。

10:弓を引く人さん
弓道に的を絞らねばならないでしょうが、ちょっと一言。

神棚と宗教云々と言われる方が居るそうですが、それは分けて考えるべきです。神棚イコール宗教ではありません。日教組の活動により、神棚に対する誤認識が広がったものと思います。国歌や日の丸問題に関しても、日教組が大きなキーを握っています。

ここで言いたいことは、先ずは自分で公正な資料を集めて、自分で考えて行動して下さい。また、自分の理念はあくまでも自分で決める事です。先生言う事を鵜呑みにするのではなく、それを証明する公正な資料を見つけてからにすれば良いのです。それが出来ないのであれば、神棚や国旗や国歌を避ける行為は絶対に止めて欲しいと思います。公平公正さを保つ目を養って下さい。

先生の中には少数ながら、残念ですが非常に偏った思想の持ち主が存在するという現実があります。先生自身が思想を持つことは自由ですが、教育の場で思想を生徒に対して発言するのは如何なものかと思います。

人に会えばお辞儀をして挨拶をする。家を新築すれば建前をする。正月に明治神宮にお参りをする。合格祈願に天満宮にお参りをする。七五参で神社に行く。日本の国旗であろうが他国の国旗であろうが、それを敬う心。日本のシンボルである天皇陛下と日本国民が末永く平和に暮らせる事を願う歌を歌う事。等々を同列にして考えてみても良いのかもしれません。

>「お国の為に!!」とか「天皇様のために!!」といったイメージを強く受けるからです…
これこそ現代教育の結果です。
教育は非常に難しいと思います。戦前は確かに行き過ぎたところが有りました。しかし、現代も行き過ぎているのではないでしょうか?こんな事を書きますと、非常に大きな反論が待っていますが、これこそ、戦前のいわゆる「非国民」と言われる行為そのものではないでしょうか。非常に危険な状態です。

冷静に、公平に、言論を縛ってはいけません。
(削除対象かな?)

11:倭さん
「〜道」とつくスポーツは全てそうじゃないですか??というか極論ではありますが、私的な意見を言わせて頂けば礼は私は一つの「形式」と考えます。 国家が動けば話は別ですが、法律家でも無いような方々が個人的な見解で違反の有無を決めるのは如何がものかと。
大体にして神棚への礼は何教か、どなたかわかる方いますか?
また、その宗教が法律で定められた「特定の宗教」に相当するのですか?
さらに、その法律の立案意義とは簡単に言えば「宗教を教育機関を用いて広めない」という事では無いのですか?(詳しい方、筋違いならばご指摘下さい)
前記の考えならば学生弓道の拝礼程度では宗教の入り口にも達しないと思いますが?果たして弓道場の神棚にその法律が適応されるのでしょうか?「特定の宗教」に相当するか否かはわかりかねますが、そこまで厳しく宗教を批判するならばキリスト教や仏教系の私立の学校なんて全て廃校じゃないですか。キリスト教の学校に「朝の拝礼は必要無い」と言ってるようなものに思いますがね、私は。

12:サブローさん
 こんばんは、福寿草さん。
 教育基本法に「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」とあるらしいですね。これは課外活動にも当てはまると思いますが、課外活動となると他団体(弓道連盟)の理念が加わってくるので、問題がややこしく感じます。
 
>「身も心も清らかに、全身全霊で弓を引くのを誓う」といった意味合い
 何故、神前礼拝をするのかと問われれば、だいたいの道場、弓道部、そして全日本弓道連盟も前文のように位置づけしてると答えると自分は思います。(実際に聞いてみないとわかりませんが・・・)
 しかし、前文の誓いに「神」はどこにも見られません。弓・的・道場に向かい礼をするなら筋は通りますが、神を祀る「神棚」に向かって礼をする理由は一切無いはずです。小さいことですが矛盾してます。
 しかし、大なり小なり矛盾した行動をしていて立派な人格を形成いけるとは思えないです。
 

 この問題の大モトは武術から武道への歴史的背景(詳しく知らない・・・)もあるでしょうが、現在の弓道連盟が慣習だからとほったらかしにしてる為だと思います。
 連盟のHPには「神」の文字はどこにも見つけられませんでしたが、詳しくは教本でないと分からないので今一度、読み返してみようと思います。

13:デビさん
難しい話題ですね。

学生の頃は神棚があり、普通に礼を行っていました。ただ、イスラム教徒の留学生は立っているだけでした。(そりゃそうだ)
それを見たときに、今後国際的にやっていこうっていうときには形をかえるなり、撤廃するなりが必要だと感じました。

実はその議論は作法と行っている礼にまで及ぶかもしれません。続・弓道三昧という本に載っていたのですが、「以前クリスチャンが柔道を行う際に礼を拒み訴訟を起こし、礼をする必要は無いという判断が下された」という話があります。(本書では「それはおかしい」という主張でした)

ちなみに、うちの会社のプレハブ道場では神棚の位置に小奇麗な的を置いてあります。的であれば、宗教色も無く弓具に礼を行えますし、他道場でも行われるであろう作法を学ぶ事は出来ます。会社も学校と同様あまり宗教色を好みません。

>6 空山和魂さん
の内容は言葉使いに不適切な箇所は見受けられますが、内容としては納得できます。(言葉使いは注意してください)

後、学生さんで多い国旗・国歌に対する嫌悪は私も現在の教育の弊害だと感じています。(私もかってはそんな気持ちでしたが、今はそんなに嫌悪感はありません。)出来れば、その嫌悪感があるのであれば、代替案を考え出し学校側に提案するレベルまで昇華させていただきたいと感じます。「代価案も考えられないけど嫌だからボイコット」ってのは結構無責任ですよね。

14:福寿草さん
 福寿草です。皆様、様々なご意見をありがとうございます。興味深く読みました。この辺でちょっと論点を整理したいと思います。私自身、一人の弓道人として弓を引くときには、神前礼拝をしますし、特にそのことを否定するつもりは全くありません。宗教そのものを否定するつもりも全くありません。私の問題提起は、「公立の学校の教育活動として行われる部活動」に絞ってのものです。私立の学校の場合は特定の宗教と結びついていても何ら問題はないでしょう。その学校の建学の理念がありますから。全国の学校現場で同じような状況はあるのか、顧問の方々はどのようにお考えなのかを知りたかったのです。
ただ、空山和魂さんに一言。私は的中ももちろんですが、それ以上に、体配・礼儀作法、適切な力の運用(射形)を重んじて指導しています。大会で優勝することももちろんですが、それ以上に射道優秀賞を目標にしています。高校三年間でしか通用しない射ではなく、将来一般の弓道人として研鑽していくのに耐えうる射及び体配の基礎を作るのが大切だと思って日々生徒と弓を引いています。手前ミソですが、生徒も理解してくれていると思っています。出勤前の一言でした。 

15:dipperさん
日本って、文化の吹き溜まりの国ですし、
それゆえに宗教に関してもある意味寛容
なんでしょうね。その結果、昔からある
あらゆるものに神だとかを見出してきたのは
日本の宗教というよりは、文化でしょうね。
ですから神前礼拝も宗教というよりは
お辞儀に類する文化だとおもいます。
アイデンティティが低い国民性を持つ
日本ですから、いまの中高生や学生にとって
弓道の折にそういったものに触れてゆくと
いうのはとても貴重な体験だと思います。

日本でいう「神」の意味を勘違いしている
人や、敗戦による誤った罪悪感を植えつけられて
いる人たちがこれらを拒否するのはお門違いだと
思っています。日本人が日本人らしさを
失っていく忌々しき事態だと感じています。

16:新さん
神棚は神社でいただいてきたお神札をおまつりする場所です。神棚の神殿には伊勢神宮のお神札である神宮大麻、私たちが住んでいる地域をお守りしてくださる氏神さま、そのほかに崇敬する神社のお神札をまつっています。日本人の祖先たちは稲作を中心とした生活を営み、稲の生育に合わせて数多くの儀式を生み出してきました。こうした儀式は暮らしに密着したものであり、儀式の中心となる神さまは、私たちの生活を常に見守ってくださる身近な存在として崇められてきたのです。さらに日本人は、神さまへの日々の感謝の念をあらわすため、神社からいただいてきたお神札を家の柱などに貼ったり、より丁重におまつりするために、神棚を設けてお神札をおまつりし、神さまの御加護を祈念してきたのです。
一方武道は、儒教の教えが強く、自分自身を鍛え、悟りの境地をみつける修行の場とされてきました。つまり大きくいえば、弓道事体が宗教といっても間違いではありません。しかしそれならば、弓道に神棚はおかしいですよね。そこが日本人のいいところであり、悪い部分でもあります。正月は神道、盆や彼岸は仏教、クリスマスはキリスト教といったイベントという理由付けは、外国の方は理解できないはずです。つまり武道で信仰する宗教以外の宗教への拝礼を強要させる行為としてみると、きびしいものですが、最終的には個々の考え、気持ちの持ち方だとおもいますよ。

17:亀さん
私が高校生だった頃、知り合いの外国人にこう聞かれました。
「体育館と道場はどう違うの?武道をやっているかどうかの違いなの?」と。

私は返答に困りましたが、自分なりの考えで
「道場は神によって守られている。ここでの神というのは神道とかキリスト教にあるような神ではなく、武道の神のことだよ。だから、道場には神棚があるんだよ。宗教的な意味合いが無いと思ってるから、仏教徒の僕も神棚に礼をしているんだ。」と答えました。

すると知り合いは「僕はキリスト教徒だけど、道場に行った時には神棚に礼をするね。宗教的なことではなくて、そこで練習している人たちや道場に敬意を表すための礼なんだね。」と納得していました。

僕の答えが正解なのかどうかは別として、その知り合いが答えに納得した原因は、「宗教的な意味合いは無い」と言ったところだと思います。
つまり、大事なのは形(神棚)ではなく心(弓道への敬意)なのではないかと。
昔は「神」と聞いて神道の形式をイメージする人が一般的だったため、神棚を置いたのではないでしょうか。
ですから、問題があるのならば神棚以外のものに置き換えることもできると思いますが、置き換える必要もないとも思えます。

長文失礼しました。

18:春寂寥さん
教育現場で神棚がどうの国旗がどうのということが問題であるのであれば無しでも構わないのではありませんか?道場での練習前後に礼をするのは福寿草さんが初めに書かれている事を道場全体の代表として上座にしているのであってたまたまそこに神棚なり国旗あるいはその他があるだけのことです。公営の道場であれば神棚の無いところも多いですし学校なら校旗にされてはどうでしょうか?

19:新さん
体育館と道場はどう違うのかという疑問があったので…。道場という言葉は、もともと仏教からでたもので、僧侶の道を修める場所でした。昔から武術を修める場所を道場と呼ぶのは、単に技を修練するのはなく、精神を修め「気」を練る場所と考えられたからです。それゆえに、心を磨く神聖な場と考えられているので、その礼儀作法には厳格なものがあります。先ず心の準備・心構えをしっかり持って臨まねばなりません。道場は人間形成を主な目的とした場所である事を弁えるべきですね。

20:はるさん
スレの主旨とはずれるようですが、そもそも、何の神様が奉ってあるのでしょうか。私自身は決まりごととして、違和感もなく神棚を受け止めていましたが、左利きでも同じ引き方をすることを主人に説明した時に、神様にお尻を向けるから・・・というと、「何の神様な?」と聞かれて返答できませんでした。(^^; 教えていただければと思います。

21:ねこざえもんさん
基本的に神棚におまつりするのは天照大神(あまてらすおおみかみ)です。武道の神様と一般に言われるのは武御雷神(たけみかづちのかみ)です。

22:なんじゃまんさん
先日卒業式を迎えた者です。
僕は林蔵さんとは真逆でしっかり国歌を歌いました。
歌わない人を批判するつもりは全くありませんが、国旗や国歌は国を象徴するものです。「これからはボーダレスの時代だ。国家なんて古い」という言葉もよく聞きますが、まぁ
分からなくもありません。
けれどインターナショナルな人間になるにはナショナルな部分を持っていないと、ただの無国籍人にもなりかねます。
また、戦前の日本でも立派なところは沢山あるわけです。自分達を卑下する必要はあんまりないと思うなぁ。

神棚も廃止する必要はないと思います。
ただ強制はダメだと思いますが。

23:射楽斎Uさん
>福寿草 さんの疑問・・・深く考えさせられます。

2つに分けます。

その1

当然、多くの意見がありますよね。
むしろ、法の問題ではなく宗教そしてこころの問題です。
ことは簡単ではありません。
思い込めば、自爆テロだってありうるのが、こころの問題ですから。
だから、神棚が形式だけであったとしても、特定の「神」を祭ったものでないと言い張っても、それで解決する問題ではないのです。
仮にマリア像があったら、仮に○○の神が飾ってあったら・・・違和感なく行射できますか?
心情的に、私には違和感があります。
それが、こころの問題なのです。
答えはただ一つ、公共の場であるなら撤去すべきなのです。
神棚が無かったからといって、射がおろそかになってはいけませんし、道場での規律が乱れるようではいけません。
それは、我々弓道人の「倫理」です。
「道徳」は他人の目によって規制される制約ですが、「倫理」はたとえ殺されようとも守り抜く自分に対する「正義」です。

24:射楽斎Uさん
その2

話は変わりますが、皆さん、中学か高校の国語(古典)で「那須与一」の場面は出てきませんでしたか?
壇ノ浦での「与一、鏑をとってつがい・・・」の場面です。
与一は、場に臨んで、那須八幡他多くの神に祈りをささげますが、その祝詞は「われに力を与えたまえ・・・」なのです。
成功を神に頼んでいるのではないのです。
「自分」が「やる」、だから力を与えたまえ・・・、という発想です。
主体の自覚があるのです。
ちょっとそれますが、私はこんな神だのみには共感できます。

多くの考えがあると思いますが、私は公共の道場や公立学校の道場には神棚は設けるべきではないと思っております。実態は、なかなかそこまではいっていませんが・・・。
こころの問題ですから、個人道場や特定の教育理念をお持ちの私学では「神棚」も設置者のお考えしだいです。

少なくとも、「日の丸」「君が代」とは別次元の問題だと思っております。

25:しま(中学生さん
 私は中学生でこのような話題にはついていけないかもしれないですが、ある話をさせていただきたいと思います。
 夏の大会でのことでした。地方の大会へと出て行ったとき、集合がかかる前、会場となっている道場の神棚に頭を下げる一団がありました。私と友達はその一団を、興味深く見つめてしまいました。なぜかというと、私たちの学校の道場は狭く神棚というものが付いていなかったからです。神棚の代わりに、私たちは先代からの伝統で「きざ」「正座」「黙想」と移る、(学校で言えば)始めの会と終わりの会をします。黙想の間に私はよく色々なことを考えています。「中学生で弓を引けるのはとてもすばらしいことだ」とか「今日は自分を見直そう」等と考えます。私は神棚無しでもがんばれました。結果も残せました。 皆さん神棚があっても無くても同じだと思います。

 あと、射楽斎Uの言われた「心の問題」。福寿草さんが神前礼拝という表現を使うためかもしれませんが、不快に感じる方がいらっしゃるようならば、伝統を諦め、また新しい伝統を作っても良いと思います。
 私は黙座や、神棚は自分と向き合うための物のように感じます!

 >6・空山和魂さんの、「では何故神棚が必要かと言えば、弓は・・・
の所は、宗教的なものが濃く強く入っていますよね。とても納得いきません。思想の自由、そうゆうものがあるわけです。ガキだって何だって色々な考え方があるでしょう。今日本は外交的にも、社会的にも、ガキから見たら「変だな」と思うことがあります!

 >今の弓道界は中てることに集中しています、そのような小さな人達の中にあって神は必要ないからです。
など、あなたの弓道に対する神の考え方はどうでも良いですが、それを人に押し付けるのは止めた方が良いですよ。

 これは中学生の言い分です。でしゃばりすぎましたか?すみません。でもそれでも、私は、こう思ったのです。

26:空山和魂さん
なんか皆さん面白い意見で楽しめますな。
しま君かな?だれが押しつけているって?
宗教的なモノ?
 何か勘違いされているようですが『教育現場における神棚の存在について』でしたよねたしか。
 ソレを神というモノに置き換えて何故自分が弓を引くのか、また何のためにその一射を行うのかを考えたときに私はね神人合一に達した、それだけのことですよ。
 小手先の技で弓が引けるならこんな苦労はしませんよ。
 梅路先生や阿波先生、またヘリゲル先生の域には足下にも及ばぬがその域をかいま見られるその一射を私は目指しているだけ、『弓と禅』を熟読して得た事を開陳しただけで強制も宗教性も皆無に思えますが。
 確かに弓神事は存在しますし、古来より日本では弓を重要してきた歴史があるわけで、その末端として恥ずかしくない弓を引きたいと私は考えているのですよ。
 スポーツとしての弓をしているわけではないので勘違いなさらぬよう。
 以上のことは私の文章を深く読めば理解できるかと思います。

27:デビ@管理人さん
このスレッドは徐々に論点がずれていると思いますので、これ以降の発言は禁止します。多分、これ以上続けても話が発散します、確実に。

すみませんが、必要であれば論点を絞って別スレッドでお願いします。

28:福寿草さん
皆様、様々なご意見をありがとうございました。デビ様、ご心配をおかけいたしました。

29:1さん
削除されました。


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