「的と自分を一つする」ってどういうこと? (投稿11件)[1〜11]



1:chivuさん
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技術的な解釈が知りたかったので、こちらに登校しました。

ご存知の方も多いかもしれませんが、
阿波研造の言葉で、
「的と私が一体になるならば、矢は有と非有の不動の中心にある。」
というのがあります。

この表現自体、理解に苦しんでます

私は
「的に押手がくっつく様に押せば、
矢はまっすぐ的に向かう。」
見たいに解釈していたのですが、どうやら違うようでした。

どうやら、「見の目」と「観の目」の違いだとか・・・・・・。
余計 意味不明です。

結局 どうすれば、どうなれば、「的と自分を一つする」のか、
なにかアイデアか アドバイスをお持ちの方おられましたらご教授ください。

2:鷹司カオルさん
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 こんばんわ。正に哲学めいて私ごとき者の及ぶところではないですが思うままにキーを叩たいてみました。この手の設問には正解というものはなく、逆に言えば全てが正しいということにもなるでしょう。これも叩き材にはなりましょうと思いつつです。・・・

命題  「的と私が一体になるならば、矢は有と非有の不動の中心にある。」

 「的と私が一体になる」
 的は動きませんから「絶対」であり、いつでも自ら我(射手)に対して芯線を発しています。これに対して我は活ける者の宿命で動き無限にして、時の我は(活力・筋力・意欲・注意・・・等全てにおいて)定まりません。会が極まるにつれ動揺・その波高しが凡人の常です。それは意識の問題もあれば自らは気づかぬ体の状態・心理的要因も原因します。いわゆる「神のみが知る的芯線」であります。射手はそれを探りつつ時を作り待つのだと思います。その時その時の望ましい離れの設定を射手は表出すべく葛藤します。(葛藤するのは「道」未だ遠しの感多しですがね。) このようにして、的の発する線と自分の為す状態の線が合致するのを、「的と私が一体になる」と言っているのだと思います。
 私の状態の中に邪欲があってはなりません。矢を引いてはなりません。矢すなわち馬手を引くことは邪欲であり引き線(矢筋・状態の線)を的芯線に合致させ得ません。・・・典型的なのが手首・つまみ・前腕引きです。引こうとしてはいけません。引かれる状態こそ神に近づく第一歩と心得るべきでしょう。
 
 「矢は有と非有の不動の中心にある」
 「有」とは有る事・物、すなわち的であり、的の発する正鵠からの芯線を意味し、非有とは射手の持つその時々といった常無き「動」の線を意味すると思います。この動の線の向きがが不動にしてどちらにも偏らざる中心に据えられることが肝要であり、矢をそういう中に据え、乱れなく行射することこそ射手として目指すべきことなのだ、と言っている・教えているのだと思います。

 以上、前座・トップバッター・大前?としての愚案です。

3:chivuさん
Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:24.0) Gecko/20100101 Firefox/24.0
(投稿が登校に・・・はずかしぃ。)

鷹司カオルさん 
早速の返答ありがとうございます。


「的と自分を1つに」
”的の芯線と 自分の芯線を合わせる” それに、”引こうとしてはいけない”。

なるほど!確かに 両芯線が合致すれば、的と自分が1つ(の線)につながります。それに、引くことを意識してしまったら、力んでしまいますしね。
芯線を内に探るためにも 、力まないほうが得策。(もしかして、「内を探る」ことが「観」?)

「有と非有の不動の中心」
動かぬ的の芯と動く自分の芯。その両方が重なった部分 それが不動の中心。

なるほど!たしかに その中心に矢があれば、矢はずれることなく、まっすぐ的に向かいますね。
昔、とある先生に「まっすぐ狙えば中るに決まっている、的は動かないんだから。中たらないのは射手が動くからだ」 と言っていたことを思い出しました。(「立ち位置から動いてませんけど、中りません」 とか思ったものです)

今思えば、”動の線の中心が不動であれば、あたる”ということだったのかもしれません。(それとも、ただ私がふらふらしてただけでしょうか・・・・)

愚案なんてとんでもない。
かなりわかりやすい解説で舌を巻いています。
次の練習の際、いただいた案を意識して練習してみようと思います。

ありがとうございました。

4:鷹司カオルさん
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chivuさん、こんにちわ。
 あぁ、良かった。受け入れていただいて。
投稿数が増えていたのでビクビクしながら開いてみたところです。
 自分の今の状態での最良のポイントを探りつつ尚且つ不動であること。この辺が大事であることを先哲は『離れを弓に知らせぬぞ良き』と教歌で諭していると思います。「射形が綺麗」と言いうセンテンスを時々目にしますが形ではなく内情が大事ですよね。chivuさんの懐古シーンでのセリフ、その時は正直そう感じたものでしょうね。考えればその時より今の方が数段の進歩・上達・成長が見て取れますね。(ごめんなさいね、ぴったりの言葉が浮かばなくて。)
 みなさんからも入ってくるといいですね。私も。しばらくこのスレッドに注意しています。

 また、このレスへ向けての細かいことなどについて疑問点等があればUPしてください。

5:かぼちゃさん
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2つ考えてみましたが、技術的な内容にはなりませんでした。

1、弓道を極めれば、離れる前の矢も離れた後の矢も、共に的の中心に刺さっている。

2、自他を知り、その相互作用を知り尽くして覚者となれば、意志はその行動を通して、そのままの事態を生む。


6:鷹司カオルさん
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 6.2; Trident/6.0; .NET4.0E; .NET4.0C; InfoPath.3)
かぼちゃ様お早うございます。
 9年ほど前から出ていらっしゃる方でしょうか?まだ私はそのころは掲示板を知りませんでした。「一射絶命」に関するやり取りの辺りを見せていただきました。私は最後の四に近いかと思っています。・・・今引いている射に全生命・神経を掛ける覚悟で臨む、といった至誠を表していると思います。
 
 今回も貴重なお考えをお寄せいただきありがとうございます。・・・スレ主の如き言い方をしておりますが御免あれ・・・。
 二つともこの命題の結果論としてよろしいじゃないかと承りました。特に2の方は、石岡先生の言う「射の裡にその人の性を観る」と相通じるものがあろうかと思います。正に射は技術でなく「心」に懸っているかと思い知らされますね。

7:chivuさん
Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:24.0) Gecko/20100101 Firefox/24.0
かぼちゃさん.
貴重なご意見ありがとうございます。

(1)は鷹司カオルさんがおっしゃるとおり、命題の結果論のように感じます。
ただ、そこに至る経緯の一端でもつかめれば、更なる飛躍が得れれるはず!!

(2)は表現が違うものの、意味がほぼ同じようですね。どんな考えかたでも 結果は同じということでしょうか?

ちなみにですが1番にあります「極める」とはどのような状態を想像されていますか?というのも鷹司カオルさんのご意見と反するのですが
私は 正の射は「心(こころ)」ではなくあくまで「技術」に懸っているのではないか?と考えています。

というのも、「心」とは思考・感性・表現つまり「まったく同じ物を持つ人はおらず、共有しにくい物」とだと思っています。
もちろん、単純なものであれば、共有は簡単です。例えば「赤色」で表される思考・感覚・表現はほぼ万国共通ですし。
しかしながらかなり複雑なものである弓道において、かぼちゃさんの2番や、石岡先生のお言葉から察するに”その感性が異なっていても同じ結果を生む”のであれば、
”結果を左右する要因はほかにあるのではないのか?”というとこに向かいます。

ではそれは何か?「心技体」の2つ目「技術」=「筋肉の動かし方」ではないのか?と考えます。”どんな考えを持った人でも「歩くときの足の動き」はほぼ同じ”ですし。
それに練習時「無心で引け」「考えるな」等 心を無視する発言もあがります(語弊を生む言い方ですが’・・・)。
”ではどのように動かせばいいのか?” というところで、スレタイのところに行き着いたわけです。
(でもこの理論ですすむと、最も重要なのが「体(からだ)」なってしまうんですよね。生まれた時点で向き不向きが決まるってこと?)

もちろん弓道(他の武道もそうですが)において「心」は重要な要素であることは間違いありません。直接見れない筋肉の動きを知るためには「感じる(=「心」)」以外ありませんし。


とまぁ、「”弓道”においての心構え」をほぼ否定するような考えのもと、「的と自分を1つに」の技術的アイデア・アドバイスをいただきたく
このスレを立てさせていただきました。(御叱咤をうけないかビクビクしてます(笑)

8:かぼちゃさん
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差を考えれば的と私は一体ではなく別物です。
差を考えなければ、的も私も一体もすべての認識さえ有りません。
そうした対立し相容れない考え方が混在しています。
まあ、命題と捉えたとき、主語のなかで既に矛盾しています。

この表現は文学的にはそれなりに理解できますが、哲学的な奥行のない素人の文です。

阿波さんには、印西派浦上系も同様ですが、宗教から言葉を拾って自流のイメージアップを図るような姑息なところが見られます。

神秘性、神がかり、名人、弓聖などということに振り回されずに、人間の出来ることをやっていくほうが懸命だと思います。

9:鷹司カオルさん
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 こんばんわ。今野球を見ていたものですから・・・どうも今日は優勝の決着が着きそうもないのでこちらへ来ました。う〜む、難しくなってきました。でも射の真髄に迫っているようなのでこういうの好きですw。でもすぐには考えがまとまらないのでしばらく時間をくださいね。必ず出てきますから。

10:かぼちゃさん
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>的と私が一体
より射術的に理解しようとしたら、2つ解釈した内の後の方です。

<自他を知り、その相互作用を知り尽くして覚者となれば、意志はその行動を通して、そのままの事態を生む。

例えば、水の入った紙コップを知らない人は、上手に水を飲めるでしょうか。
人によって色々でしょうが、水のこぼれるケースがかなり有りそうです。
でも、紙コップで水を飲み慣れている人たちは、ほぼ失敗することなく水を飲めるでしょう。

紙コップの重さや質感、入っている水の重さなどを、過去の経験から即座に情報処理して、小脳が中心となって動作の微調整などを適切に行います。
とりわけ、コップをつかむ指の力の程度や腕全体の持ち上げる力などは、意識には上りませんが小脳の自動調整機能によって行われます。

紙コップの重さや質感、それに入っている水の重さなど、これが他を知るという内容です。
その紙コップ全体を口まで運んで水を飲むことが可能か、そういう能力があるのかということが、この場合の自を知るという内容です。

そして、コップが指につかまれ、コップを指でつかんで、口まで運ばれ、運ぶというのが相互作用です。
こうして、初めの意志の通りに水をこぼすこともなく、水が飲めました。
つまり、意思の通りに行動して、そのままの事態が生じたという事です。

阿波さんの文はこれを指しているのだと、思います。
ただ、的は不動でも弓射は複雑ですから、紙コップのようには行きません。
しかし、中る射を得るには、練習で射術の理を知り、感覚を研ぎ澄まして射術を身に染み込ませることが必要です。
そして、まるで的が身近にでも在る様な思いで、的を射る様になると、言っているのだと思います。

弓道の技術的には、不動の的より、弓や矢やかけなどが他で、その理解を深めなければいけないと思います。
また、自については、筋骨の使い方など中々難しいです。
そして、その相互作用、つまり、例えば、会での体と道具の在り様、離れでの弓や矢の挙動、その時の体の変化など、しっかりと知り尽くした上で、最良の状態を作らなければなりませんね。

11:chivuさん
Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:24.0) Gecko/20100101 Firefox/24.0
かぼちゃさん.
さらに噛み砕いた解釈 ありがとうございます!

「他を知る」
なるほど。例に出していただいたように、的の高さや距離感も過去の経験(練習)から得るもが大きいでしょう。
それを「極める」と的を見えなくてもどこにあるか感覚的に判りますね。

たぶん空手等でいう所の「見ただけで、相対した相手のリーチや動き、強弱のポイントが判る」のようなものなのでしょうか。

「己を知る」
なるほど、なるほど!「他を知る」で知り終えた情報に対し自分がどのように動けるのか、またどう動けば紙コップまで届くのか。それを理解すること。
そして、その考察の結果が一致したとき「的と自分がひとつに」なるわけですね!(結果、手(矢)は紙コップ(的)を迷いなくつかむ(中る。)のでしょう。)

「練習で射術の理を知り、感覚を研ぎ澄まして射術を身に染み込ませることが必要です。」
「会での体と道具の在り様、離れでの弓や矢の挙動、その時の体の変化など、しっかりと知り尽くした上で、最良の状態を作らなければなりません」
まさに、おっしゃるっとおりです。 耳が痛い言葉でもありますが(笑)

多方面からのアドバイスもあり、
いままさに筋骨の使い方に注目して練習をしているところです。ちなみに、今集目しているのは
1)呼吸と筋肉の動きの関連性(息を吸う時は、”伸びる”動き、または”引き寄せる”動きどちらかのほうかが”力が増す”。)
2)呼吸の深度と「足踏み」の開き加減の関連性(一番”楽に”呼吸しやすい、足踏みの幅がある)
3)足踏みにおける、左右の足の踏込み加減と筋肉の動きとの関連性。
(「会」のときのどちら足を強めに踏み込めば、弓手、馬手側どちらかの筋肉の”伸び量”に影響する等。)
の3点です。端的に言う「足踏みがとっても大事!」ということを再認識しているところです。

そして、
「この辺のバランス(生まれついた自身の芯と各動きで生まれた芯(ベクトル?)が合致する所)を探ることが「己を知る」事であり、合致する所が「自分の芯線」ではないか?」
というのが、お二方からいただいたアドバイスより ない頭でひねり出した私なりの現状の解釈です。

ちなみに、その辺りを意識して練習したところ、矢所がかなり安定しました!!ありがとうございます!


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