あたる射 (投稿40件)[1〜40]


1:あろまさん
こんにちは
私は高2の女子です。
あたる射ってありますか?
わたしはなかなかあたりがついてこなくて悩んでます。
よろしくお願いします

2:明石家さん
物理的に考えればいい

3:越後さん
的を狙って真っ直ぐ離れを出す(^_^;)σ
まぁ女子だから的中求めるよりキレイな射形求めた方が的中への近道じゃないんですか?

4:凜子さん
越後さんの言う通り単純に的に対して真っ直ぐ押し引きすれば良いと思いますよ。
それには両肩の線を近づけるとか…?
どうでしょう?

5:カカロさん
こんにちは☆
私が学生弓道で頑張っていた頃

中たる射

ではなく

中てる射を目指す意識で練習してました。
そして中てる射とは

外さない射なんだなって気付きました。

だから常にどうしたら中たるかって考えるより外さないかを考えてみてください。

そんな私は私信ですが学生時、東西、王座共に出場校していました。

的中率は9割2分くらいだったかと。

頑張ってください

6:ムサシさん
弓を引く以上中りを求めるのは当然の事ですが、的に中てることだけを求めるのであれば別に弓道じゃなくてもアーチェリーとかでいいんじゃねって思います。
中たる射でも中てる射でもなく、中たるための射を学んだほうがいいかと。
越後さんの言うとおりキレイな射形求めた方が的中への近道だと思います。

7:あきさん
中てる射、では弓道の意味は無いような気がします・・・・汗

正しい射であれば中る。
中るのは結果であって、中てるために弓を引くのではないと思います。

図々しくてすみません><
射型が一番大切だと思います!

8:mokkosuさん
私もみんさんの意見を支持します。

ただ、その「中て射」をするのは簡単です。
単純に、毎回おなじ射で的付けを変えればいいだけの話。その代わり、みっともない射形になることは覚悟してください。
もちろん、段の審査は通らないでしょう。

学生弓道は、どうしても的中本位にならざるをえない環境ですので、本人が望まない限り、私は無理にやめろとは言えませんが。

真剣に弓道を修練するのであれば、的中より射形を考えることをお勧めします。

「正射必中」
言葉の通り、正しい射ができれば、意識しなくても的中はします。

9:え?さん
>「中て射」をするのは簡単
なぜそう言い切られるのです?
的中と言う結果を得るためには、相応の努力と練習を積む必要があると思います。


>単純に、毎回おなじ射で的付けを変えればいいだけ
単純に疑問に思うのですが、此れで何故毎回中るのでしょう?

あ、「中て射」と仰っているので、何故「毎回中てることが出来るのでしょう」と申した方がいいですか?

10:ビーのさん
>毎回おなじ射で的付けを変えればいいだけの話。
射の再現性という観点からいうと、これはかなりの努力と集中力が必要だと思います。もしこれが簡単なことなのであればみんな安定した射で的中を出せそうですね。

11:天龍さん
学生弓道の上級者は、恐ろしい程中ります。
段位は関係なく、高的中を身に付けているだけで上級者として扱われます。
彼らが卒業して地方の道場に戻って来れば、全ての会員から敬意を持って遇され、一挙手一投足が注目されます。
その人に「その中て射をするのは簡単です」と言えたら大したものだと思います。
それ程、中る中らないは厳格なものです。

12:うさぎさん
技術的な観点から、「的に中てるだけ」なら簡単だと思いますよ。
8つの十文字をきちんと組み立て、矢筋に押して矢筋に離すだけですから。
そうすれば、あずちの矢が刺さる所に的が掛けてある。そういう風にシンプルに射法はできてますしね。

口には出さないまでも、そこまで行った人は、「技術的に中てるのは簡単」と思ってる人も少なくないのでは?

ただ、それが毎回できないのが弓道のおもしろいところで、
そういう人たちは、普段通り、真っ直ぐ弛まずに離せばいいのに、たまに弛んだり、引っかかったり。
20本引いて1本か2本でる、その失射を如何に減らすかというところに、すごい努力をしてますよね。

どんなにきれいな射でも、「正射必中」という言葉があるとおり、中らなかった射は正射ではないわけで。
正射を目指す以上、結果的に必中に近づいてこなければ、いくら練習しても中りがついてこなければ、それは間違った練習をしてるわけで。
中身(的中)の伴わない射はどんなにきれいでも、ただ体裁を取り繕っただけの張り子の虎ではないでしょうか。
そういう意味では、きちんと中りを求める心も、弓道には必要だと思います。

知り合いに実業団の人がいて、練習ではほとんど抜かないんですけど、
「中てるだけなら簡単なんだよね、真っ直ぐ引いて真っ直ぐ離すだけだから。ただね、この一本で7点以上出さなきゃいけないってときに、いつも通り引くのが難しいんだよね。」
とよく言ってますよ。

なんか、うまくまとまらないですけど、
中りを求めるのは、消して悪いことではないですよ。
中りを求めるのも、射形を求めるのも、それぞれのやり方ですし、究極的には同じ所を目指してるはずです。
まぁ、そんなことを言いたかったわけです。

13:mokkosuさん
私個人の考えでは、弓道はスポーツというより、日本舞踊とかと同じものと思っています。
的中を競う競技ではありますが、見た目の美しさを伴っています。
本来の弓術は、「何本引いても同じ所をいかに射抜くか」という目的のものだと思います。
しかし、現代の弓術は昔とは目的が違います。

多くの人は、美しい射形をしたうえでの的中を理想としているため、崩れた射形で的中するくらいなら、的中しなくても美しい射形でありたいというプライドのようなものを持っているから、中て射をするべき大会でも、中て射をしないんだと思います。

だから、美しいうえに当たる射をするために「正射」をみなさんは目指しているのではないでしょうか。

みなさんが審査を受けるのも、「正射」の修練度合いを証明し、それを人に認めてもらうために、昇段を目指しているのではないでしょうか。

今回、私は「中て射」自体は悪いことでないと思えるようになりました。
大会で中て射をして結果を残すということは、それだけの技術を持っているという証明の場ではないでしょうか。
ただし、射形を崩さないようにするのが前提ですが。

余談ですが、大会もフィギュアスケートやシンクロみたいな美術面の採点があったら面白いと思いませんか?
例えば、オリジナルの演武大会とか・・・

14:名無しさん
自分は大学で弓道してるからどうしてもスポーツとしてとらえてしまいす。確かにうちの大学でも的中率が9割を超える人でも四段だったり無級がいたりなどです。しかしどの人でも理にかなった弓の引きかたをしています。両肘を腰にあわせるようにして引いているので中てるような射ではなく自然に中る射をしています。段位=上手ではないということを実感しました

15:百夜 ◆WR1hQljoさん
「的中と正射」
http://ecoecoman.com/kyudo/bbs200509/2003122618021753.html
「射型について」
http://ecoecoman.com/kyudo/bbs200509/2004051214322009.html
「なぜ?」
http://ecoecoman.com/kyudo/bbs200906oth/2006111513050208.html
「正射必中or必中正射」
http://ecoecoman.com/kyudo/bbs200906oth/2007082411494157.html

考え方は十人十色です。私は、「射型」と「的中」を分けて考えるのはあまり意味のないことのように思います。「射型=見た目の美しさ」の追求は、高い的中率を実現するための合理性の追求に原点があると私は考えています。

16:mokkosuさん
>百夜さん
過去スレ見ました。その上での私の見解です。

「正射必中」という言葉は、「正しく射れば必ず中る」ということなので、射形に関係なく中ればそれが正射ということになります。

弓道の最高目標とされている「真・善・美」を追求するから、中てよりも射形中心の指導をされるんだと思います。

弓道は武道です。つまり、礼儀作法(精神的な見えない部分)も技術的な面と同じように重んじられるんです。
学科審査で、射術の知識についてと個人の弓道に対する考え方の二つのお題が出るのも、その理由でしょう。

私が気付いたことは、的中だけなら、条件さえ揃えばいいんですから、個性のある射形でもいいんです。

五段以上の審査には「射品」というものが見られるようになります。
四段までは中て射は通用するかもしれませんが中て射は必ず残身の姿が乱れます。
「射品」の要素はいろいろありますが、せっかく二本とも的中したのに、残身が良くなければそれだけで五段以上は落とされます。

ただ一ついえることは、矢所のまとまった安定した射のできる合理的な射形は、体格や骨格を別として、だいたい同じ射形になります。だから、見た目から直していく教えが強いのでしょう。

そして、中て射がいけないという理由は、「中りさえすればいい」という考え方自体、「真善美」に反しているからではないでしょうか?

17:百夜 ◆WR1hQljoさん
何か「中て射」にご執心のようですが、私は射型を無視してひたすら中てに走る(=中て射?をする)ことは、上達段階の一つとしては認められてもよいのではないかと思います。いわゆる「中て射」をしていくうちに、高い的中率を持続するためにはその射では駄目だということを経験的に理解することができます。ごく短期的な的中だけを求めても、それが容易にかなう事ではないことにも気づくでしょう。

ただし、崩れた射型で長い間引くと修復困難な射癖を伴うおそれがありますので、できるだけ短い期間で本人が気づけるように指導者が誘導してやる必要もあるでしょう。その場合、本人はそもそも「中て射」をしているという自覚が薄い上に自分の射が「中て射」だと言われて嬉しいはずもないので、「中て射は駄目だよ」なんて言葉で説明しても効果が薄いのは明白です。(そもそも「中て射」という言葉がしばしば侮蔑の意を込めて使われるので特定の人物・人物像に対しての使用には慎重にならないといけません。)外圧的な効果を期待した指導を行うのではなくて、内因的な欲求により本人の自発的な上達への意志を引き起こさせるような工夫が必要だと思います。

こういうと語弊があるかもしれませんが、私は弓道における精神性にあまり大きな価値を見出してはいません。弓本来の機能である飛貫中の達成を目指すその過程において、技術を体得することを主軸において修練を行い、副次的に「精神性の向上」や「人間性の発達」という要素が派生するものであると考え、「精神性の向上」を主目的におくことに少々違和感を覚えるためです。

射型を崩してまで短期的な的中率の向上のみを優先する行為はあまり誉められたものではありませんが、先に述べたように特定の上達段階においてはある程度までなら許容できることであり、射手のその後一切の技術的上達を阻害するようなことはないと思います。遠回りしたなら遠回りしただけの経験が財産にもなります(学生弓道においてはかなりのディスアドバンテージになるでしょうけど)。

「中て射」をすることが精神性の向上において必ずしも害悪となるとは限らないと思います。「的中させたい」という欲求をはじめからなかったことにするのではなくて、その欲求をコントロールする精神力を養うことに弓道の武道としての価値が見出せるのではないでしょうか。私が見てきた(残念ながら経験はしてません)学生弓道の最高峰の試合においては高い技術力はもちろんのこととして、「的中させたい」「勝ちたい」「勝って名誉を手にしたい」という欲求や衝動をコントロールする高い精神力が求められるように思います。

スレ違い申し訳ありません。

18:元学生さん
横スレすみません。
mokkosuさんの中て射の定義はどんなのでしょうか。
これまでのスレからすると
・「中て射」をするのは簡単
・みっともない射形
・中て射をする事は「真剣に弓道を修練する」ことでない。
・中て射は意識しないと当たらない。
・中て射は必ず残身の姿が乱れる。
こんなところでしょうか。
あと、足りないこととすれば、何割中てれば中て射とお考えでしょうか。

私個人が賛同できるのは、「中て射は意識しないと当たらない。」ぐらいです。
また、「中りさえすればいい」という考えは、社会人の弓道では評価できるものでないかもしれませんが、学生という限られた時間で取り組むには一度経験することも必要かと思います。
中て射というなら試合で9割当然で練習なら外さないレベルで、それ以下なら中らない射です。
私が考える中て射は、教本に書いていない独自の理屈ややり方、一部射技の極端な強調です。一時的でもそれで中て射ができるなら、次は、その技術を活かしたまま、教本の射法から外れた部分を変えていくことでより精度を高め、より的中を高めていける向上の一つだと好意的に考えております。

もし、教えていただけるなら、そんなに簡単に毎回同じ射ができるものであれば、その的中の条件を教えていただきたいものです。
きっと、ここで多くの質問をされている高校生達の希望をかなえる言葉になると思います。

19:mokkosuさん
>百夜さん
「中て射」に執心していたつもりではありませんが、結果そんな風になってしまい申し訳ありません。

>あろまさん >その他のみなさん
本題から外れて長々と投稿して申し訳ありませんでした。

基本的に私が言いたかったことは、ほとんど百夜さんの考えと同じです。

私も「精神面も大事」とは言いましたが、実際には礼儀についての指導はしますが、思想信条までは強要したことはありません。
「的中本位」の考えや「中て射」についても
「しない方がいいよ。」と言うアドバイス程度のことはしますが、「するな!」と言ったことはありません。

百夜さの言われるとおり、「精神面」は本人の自主性と、修練過程で気付き習得するものですからね。

20:名無しさん
中る射は教えていただけますが中て射は教えてくれません。合理的にまた物理的に考えた射を監督は教えてくれます。高校生とは違い短期的な的中でなく長く的中が出せる射を教えていただいています。
射を理解することそれが一番大事なことじゃないんですか?

21:mokkosuさん
>元学生さん
私の言う中て射の定義ですか?

・教本などの教えで「クセ」とされる事であっても、的中させるため意図的にそれを行ってでも的中させること

ですかね。

元々、私は学生だからとか、的中率が高いから中て射をしているとは言っていません。

学生弓道について、あなたが言われていることは当然のことながら承知です。
だから、実際に学生さんに対して「中て射をするな」と言ったことはありません。

私も「中て射は簡単」とは言いましたが、「中て射」と言えども、ある程度の修練を積まなければならないのは当然の話です。

的中率を上げるための簡単な方法をあえて言うなら、

・押し手を的に向かって真っ直ぐに、しっかりと押し離れで動かないよう固定する。
・妻手は矢束(引き尺)をとにかく大きくしっかりとる。
・離れの時、縦離れをする。(妻手の肘から先が縦に開く)
・離れで緩まないこと。
・毎回同じ引き方ができるように練習する。

これは、射形が悪くなり、昇段できなくなってもいい覚悟があればやってみてください。

一般の場合、
・五重十文字
・三重十文字
・手首ではなく肘で引き分ける

これがちゃんと出来ているだけで、だいたい的中率は上がります。

22:mokkosuさん
>名無しさん
その先生の指導は適切だと思います。中て射をしていても、別に注意したりされてないでしょ?

学生弓道は中って結果を出してなんぼの世界でもあり、何よりも射に慣れて理解することが大事な時期です。

一般の初心者の方でも同じです。
早い段階で、手の内がどうだ、伸び合いだの息合いだの言っても理解するのは難しいですからね。

23:え?さん
>「的中本位」の考えや「中て射」についても「しない方がいいよ。」と言うアドバイス程度のことはしますが、「するな!」と言ったことはありません。
未だに「中て射」に拘り続けていらっしゃるようですが、「中て射をするな!」とただ指摘することは、僕は指導ではないと思うのです。

指導とは、そのひとにとっていま一番大切なこと、重要な問題点を教えたり直したりすることと理解しています。
「中て射」云々よりも、「正射」に続くであろう道程の一段階を説くこと、「正射」に導く手助けをすることではないでしょうか?

現在の論理展開からすれば、「正射」以外は全て「中て射」に属してしまうような気がしてなりません。
「正射」に近付いているひと(そう思っているひと)が、正射に未だ遠いひとを指して「中て射」と呼称しているだけのように感じられるのは僕だけでしょうか。


最後に疑問があるのですが
>押し手を的に向かって真っ直ぐに、しっかりと押し離れで動かないよう固定する。
押し手を的に向けて真っ直ぐに押せば、必ず押手は動くと思うのですが如何でしょう?

>毎回同じ引き方ができるように練習する。
これは「中て射」だけの限定定義であって、「正射必中」の為の稽古ではないとお考えなのでしょうか?

24:万華鏡さん
三・五十文字、縦横の伸び、会の深さ、角見、 離れが完璧なら文句なしでしょう。

25:黒紫さん
学生=中て射の意見があったので少し……

私個人の社会人弓引きとしては社会人の方が中て射が多いと思います。

中て射=中らない射ですよね?(中てるの反対は中らないなので、)
ならば、沢山的に入れる学生の方が断然中りますよね。

「綺麗なのが自慢」「射の正しさが学生との差」「そうしないと段位が貰えない」という社会人が多い事に危惧すら感じます。

その綺麗さとやらを的中で実力を見せ付けてくれと……

26:mokkosuさん
>え?さん
>押し手を的に向かって真っ直ぐに、しっかりと押し離れで動かないよう固定する。
これは、的に対しての上下左右方向にということです。当然、的に向かって行く方向には動きますよ。

>毎回同じ引き方ができるように練習する。
これはすべてにおいて言える話でしたね。中て射に限ったことではないので、ここで書くべきことではありませんでした。申し訳ないです。

最後に、また皆さんの反感をかうかもしれませんが、私個人が思っていることです。

弓道が「武道」であることは当然みなさん承知のはずです。
武道とは、技術の修練を通じて礼儀作法と精神修養することを教えとする、日本伝統の武術芸です。

弓道に限らずすべての武道において、武道を志すのであれば、技術面と同等に礼儀・精神面の修練も重視し、先人の教え・伝統文化を受け継ぎ、次の世代に伝えることが道理ではないでしょうか。

術技だけを重視し、礼儀作法や精神面を無視するのであれば、(>6:ムサシさん)の言われるとおり、別に弓道じゃなくてもいいんじゃないでしょうか。

私の投稿は皆さんにご迷惑をおかけしているみたいなので、これで失礼します。
大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

27:元学生さん
>mokkosuさん
定義の回答ありがとうございます。
ご指摘の方法は、カーボン弓やグラス弓なら的中が期待できる要点を含んでいると思います。
あろまさんの質問の回答そのものですね。

弓道に対する考え方の違いはありますが、技術論として、中て射はありえるのか興味があるのですが・・もう終わりかな。
「一般は」と前置きして学生と線引きすることには違和感を覚えましたが、お互いの弓道に対する思いを尊重すれば、問題ない話だと思います。

的中を上げる方法で、縦離れは確かに残心で真一文字にできにくいので今の流行からは評価されにくく射が悪いと評価されそうですが、他の方法が射を悪くするというのはどうでしょうか。
これを目的としたときに、教本でかかれたどの癖につながるのでしょうか。
逆にいえば、教本にかかれた癖を防げば、この方法は、mokkosuさんの中て射でなくなるのでしょうか。

中てる方法を取りながら癖を出さない可能性があるなら、中てる側から正射の道もありえませんか。

28:mokkosuさん
「また中て射のこというの?」と言われるかもしれませんが、元学生さんからせっかくの返答を頂きましたので投稿いたします。

この方法は、私の経験上よく中る方法で、クセとしては教本に載っていないと思います。
ただ、先生方に指摘を受け、審査では減点対象になるようなことです。

この方法は、握りこんで手首で引いても、矢筋に離れるので矢飛びは真っ直ぐに行くはずです。

一般と学生弓道は、置かれている立場や環境が違いますから、線引きしていると言われても否定できません。
私はただ、その違いを考慮した上で見ているつもりです。

私が前に定義したとおりに言えば、的中させようとしているのであれば「中て射」になるでしょう。
今、言われたことからすると、癖を直そうとしているようですので「中て射だ」とは私は言いいません。

ようは、本人がどのような考えで引いているかです。
だから、私も見た目だけで「中て射だ」と言ったことはありません。見た目だけで判断するのはその人に対するただの偏見ですから。

29:元学生さん
なんだか矛盾がいっぱい。
中て射は簡単ながら修練する必要があったり、教本などの教え?で「クセ」」と言われることをすることが中て射なのに、中る方法はクセとして教本に載ってなかったり、最後は本人がどう考えているかという精神論に落ち着いてしまって、言わんとすることがよくわかりません。

中て射を技術的にと前置きしたのは、どうしても中て射という言葉に偏見を感じるためです。
聞く耳をもっていただけるなら、偏見を持たず、和合の精神をもって、線引きなど狭小な価値感から抜け出して、大所高所からも見て一般も学生も同じと見て欲しいです。立場、環境なんて言うほどの違いはないですよ。要は取り組み方一つでどうにでもなる程度のことです。仕事を犠牲にすれば、一般でも学生のように引く時間はできますし、学生でも試合を度外視すれば、一般のように精神修養などに力を入れることもできます。
一期一会と見れば、学生しか出れない試合も一般の月例会もその年では一生に一度しかありません。的に向かうとき、それはいつでも同じ条件です。いつでも精一杯のことをして、一本たりとも無駄にはできないはずだと私は考えております。

書かれた射法は、審査で減点対象になるのはよく耳にしますが、大事なことは、減点対象になることでなく、なぜ減点される技術なのか、技術的欠点を知ることだと思います。

黒紫さんの書かれた「中て射=中らない射」の意味がわかるかどうかでないでしょうか。
私自身もわかったつもりでありながら、実はわかってないかもしれません。ただ、この掲示板でそれに気づかせてくれる書き込みがあることは、非常にありがたいことです。

mokkosuさんの書き込みで、あらためて中て射の欠点を考え直してみる機会を得た気がします。ありがとうございました。

30:ジーザスさん
自分も学生からやっていました。
当然、的中を重視してはいました。
当時の自分の考えは・・
中る射→毎回同じ射をする→簡単である(不自然でなく、再現性が高い)
今は、これが自然体の射法につながるのかなと思っています。

審査では、射形、体配も評価されますが、的中して始めて、その射が良かったのか?と評価されるので有り、不中は評価の対象にはならないと思っています。中て射という言葉は好きではありませんが、弓を引く以上、的中は絶対の目標である事に変わりないと思います。

31:mokkosuさん
>元学生さん
私の伝えたいことと、みなさんの文章解釈の仕方が違い、思ったことが伝わらなかったのは残念です。
私の文章力の無さを痛感すると共に、文章で思いを伝えることに限界があると感じました。

黒紫さんが言おうとしている「中て射=中らない射」ですが、解釈の仕方を変えたらよく理解できました。

32:防人さん
中る射とは、引き分け、軌道、射型の全てにおいて無理、矛盾、無駄がなく離れる前から中りが見える射。伸び合いからの自然な離れとなるので残身が美しくなる。

中て射とは、的中率の高低に関係なく引き分け、軌道、射型が雑で無理、矛盾、無駄が多く、合理性に欠ける。離れるまで的中が判断できない射。不自然な離れとなり残身が歪になる。

中る射でも崩れれば中て射になり、中て射でも整えば中る射となる。射型を無視し的中だけを見るのを是とするか恥とするかはその射手による。その是非良否を判断する目が精神といえよう。

33:凜子さん
死ぬ間近まで弓を引いてれば、当て射に走ったのが良かったのか、射形に走ったのが良かったのか解るのでは無いですかね?
どちらもアリだと思いますけど?

34:あきさん
私は高校生です。
皆さんの考えを否定したり、
自分の考えを主張するわけでもありません。
意見だと思って聞いてくださればいいなと思います;

私の先輩は、「中てるだけなら、狙えばいいんだから素人でもできる。正射必中っていうのは、正しい射なら必ず中たるということだけれど、どんな射でも狙う方法を覚えれば中るんだよ」と言います。

私の思う「中て射」は、そういうことで、
つまり、「中てるためだけの射」です。
たとえばシューティングゲームのような・・・

でも、弓道は武道です。
中てるためだけなら、こんなにも長く引き継がれないはずです。
型があって、中る。それが美しいし、それが弓道の魅力なのかなぁ、と、私は思います。

的中を狙うことは、自然です。
私も、的中が出なければ落ち込みます。
だけれど、中てようとしただけの、自分が気に食わない射で中っても、何も嬉しくないです。
「今のは離れもきれいに出たし中ったし、良かったな。またこんな風に引けるように頑張ろう」
そう思えて初めて、中りが嬉しいんじゃないかな、と思います。
「どうやったら中るんだろう」という疑問より、「どんな射型で中てたいだろう」と私は
考えたいです。


文章が下手ですみません汗
つまり、射型から中りまでが、全部、自分の射の表現であって、的中「だけ」を目指した射は、あまりしたくないな、と・・・
一個人の意見です。

結局は個人の考え方ですよね。
長々とすみませんでした。

35:え?さん
皆さんのご意見を拝見していて思うことは、何故そのようにはっきりと白黒付けて「中て射」と「正射」「射形」との間に明確な線引きをしようとなさるのか・・と言うことです。

防人さまの仰る「中る射でも崩れれば中て射になり、中て射でも整えば中る射となる。」と言うのが好い得て妙ではないかと思うのです。

>凜子さま
>死ぬ間近まで弓を引いてれば、当て射に走ったのが良かったのか、射形に走ったのが良かったのか解るの
一時期中て射であったとしても、それを終世続けねばならない訳ではないのですからね。

正射必中と言うのは、果て無き究極目標だと僕は思うので、それは多分実現困難なことなのだろうと考えます。

外れた矢が正射でなかったことは言うまでもないことですが、中った矢にも正射だったと呼べないものが当然あるはずです。
それを「正射」に対する厳格なイメージを持つ人、ハードルを高く持つひとが「中て射」であったと評価することもあるように思うのです。

個人的な考え方ですが、中る射(中った射)には何かしら、何処かしら「好い処・好い点」が必ずあるはずだと思うのです。
其処を前向きに評価してあげるのか、其の他の沢山の悪い処・問題点にのみ着目し否定的な評価するのかが、見方の分かれ道になるのではないのでしょうか。

直前の書き込みを例に取れば「今のは離れもきれいに出たし中ったし、良かったな。」と言う評価も、あくまでも個人的なのものであって、果たして客観的に良かったのかどうか?正射に近かったのかどうか?それは解らないことかもしれません。

>あきさま
>「中てるだけなら、狙えばいいんだから素人でもできる。正射必中っていうのは、正しい射なら必ず中たるということだけれど、どんな射でも狙う方法を覚えれば中るんだよ」
もう少しご説明いただかねば、よく理解が出来ないのですが・・。

36:デビ板でやる夫さん
>>32

中るなら合理的だと思うお

ていうか射型における矛盾ってなんだお?

37:天龍さん
>36:デビ板でやる夫さん
それは、32番の文章のテクニックなんですね。
第一と第二の段落は、対比法できれいに表現されています。
両方に共通な「むり、むじゅん、むだ」という韻を踏むキーワードが大きな役割を果たしています。これは語感の問題で、「射の矛盾てなんだ」と言うのはこの際ヤボというものです。
同じ書くなら文を練る、という美意識は弓道的だと愚考しました。

38:名無しさん
教本に載っていることはすべて真実ではない。

39:百夜 ◆WR1hQljoさん
「あたる射はあるのか」という問いかけから発展、もとい脱線して「中て射」論が、妙に盛り上がってしまいましたね。私が火をつけてしまった節があるので、少し責任を感じております。

「中て射」の捕らえ方は皆さん一様ではないですね。私もはっきりと「中て射とは○○だ」と言えるわけではありませんが、このスレッドを読んでいて少しばかり理解が深まったような気がいたします。

「中て射」という言葉は特定の射などを指して「駄目な射」と形容する際に使われることが多いです。そのため、「中て射」とは射や射の内容を批判するための言葉として考えられがちですが、実は「その人の弓道に対する考え方や価値観などの内面に対する批判」が「中て射」という言葉の本質ではないかと思えてきました。
つまり、「中て射」とは、その言葉単体での意味自体は曖昧模糊としてとらえようがありませんが、「中て射をする」という使われ方をした場合に「合理的な射技を無視して我流で的中を得る姿勢」や「体配や礼儀作法をおろそかにする態度」から推測されるその人の内面に対する批判ないし否定する意味を含んでいるのではないかと。

「あの人は中て射をしている」「中て射はいけない」というような使われ方はしますが、「こういう射をすれば中て射である」というように、射を外形的にとらえて定義や解釈、説明することが難しいのはこのような背景によるものではないでしょうか。

40:名無しさん
中て射っていうのは本人次第じゃないんですか?たとえ段位など持っていなくともしっかりとした射をする人はたくさんいます。打ち起こしから引き分けにかけて見れば物理的に中る射をしていれば正射といえないですか?中る射をする人は基本的に理にかなった弓の引き方をしています。


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