審査の入退場。 (投稿70件)[1〜70]


1:弓太郎さん
審査の入退場の時、みなさんは何処を見て揖しますか?自分は優先順に
@神棚
A国旗
B一番矢道側の審査員
と習いました。

2:にょきすかーさん
神棚以外に揖の対象があるの??

3:さん
mCju7da8G6p06

4:遥頂さん
道場の設営上の都合で神棚がない場合という事だと思います。
神棚が無く、正面に国旗を掲げてある道場が有ります。
大きい道場では、射場を二つ、三つに区切って審査を行う場合が有ります。
そういった場合の、或る程度想定されるパターンでの目安の話ですね。
射場に神棚が有れば神棚で良い。
神棚の替わりに国旗を掲げる射場であれば国旗に、
それすらも無い(射場を複数に分ける審査の後射場)の場合は、
一番矢道側の審査員が適当で良いと思います。

5:弓引きさん
第1射場の場合は弓太郎さんの認識でOKです。

第2射場以降の場合は射場内に神棚や国旗があったとしても矢道側の審査員(審査委員長など)に対して揖を行います。

6:受審予定者さん
> @神棚 A国旗 B一番矢道側の審査員

 初めて知ったのですが、この順番の根拠は何なのですか。教本か何かに書いてあるのでしょうか.

7:遥頂さん
そう優先するように決められている訳ではありませんよ。
神棚があれば当然それが上座ですが、
しかし、神棚が無く国旗が掲げられてる事も有ります。
更に複数射場で審査を行う場合の第二以後の射場には神棚・国旗が無い場合が多いです。
そういったよくくある場合順に、何を以って上座とするかと考えてのパターン分けです。

8:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
>この順番の根拠
教本等の刊行物には「上座」としか書かれていません。明文化されたものとなると、日弓連の指導委員会あたりで指導事項として決定され、中央研修会で各地連に伝達されたものが考えられますが、あいにく資料がございません。当地連で受審者の皆様にお渡しする心得には、この順番は明記されていますが。

9:匿名さん
弐段を受ける前に自分の地区では神棚がないので一番左(自分から見て)の審査員を見ろと地区のお偉方に指導を受けました
それを考慮すれば神棚、国旗、審査員の順で良いのではないでしょうか

10:受審予定者さん

> @神棚 A国旗 B一番矢道側の審査員
>この順番の根拠は何なのですか。

 上のように優先順位が指導されているようだというのは理解できましたが、この順番の根拠は何なのでしょう。弓道の礼というのは、宗教(神棚)→国家(国旗)→人間(指導者・先達者、一番矢道側の審査員)の順番に、崇敬の度合いを考えているということなのでしょうか。

11:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
>崇敬の度合い
お考えのとおりでしょう。例えば、坐礼にしても指建礼から合手礼までございますが、受礼者の身分によって使い分けるようにと、弓道教本にも明記されています。

12:ぬふぬふさん
ちょっと話はずれますが、退場の時にこちらを見ている先生と決して目が合わぬよう心掛けて下さいね。 ギリギリのラインの場合それで落とされる可能性があるようです。 それをチャックしているのは大抵一番右の審査委員です。 

13:PUREさん
>ぬふぬふさま
目合わせないほうがいいんですか。
中1で査定を受けた時、目が合ったおばあちゃんの審査員に微笑まれ、1級を戴きましたが…。
やっぱりよくないことなんですか(笑)

14:受審予定者さん
 学校も市営の道場にも神棚がないので知らないのですが、神棚を置いている道場では、まつっている神さまは決まっているのですか。言いかえると、弓道の神さまはいるのですか。

15:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
>まつっている神さまは決まっているのですか
恐らく、道場や地域により異なっていると思われます。俗に八百万の神と言うくらいですから・・・。

16:遥頂さん
私の私見になりますが、
神棚に祀られる神は、ほとんど全て異なると思います。
正式にどこかの神社から請けて神様を祀っているとなれば話は別ですが、
そのような所はほとんど無いと言って良いでしょう。
ゆるみ離れ様も仰って居られますが、日本の神様は八百万の神々とも言われ、
万物それぞれに神が宿り、その神は当然皆違う訳です。
大変安直な良い方をすれば、各道場に宿るそれぞれの神が居り、
それに対して敬意を払うと考えるのが良いのでは無いでしょうか?

17:受審予定者さん
 審査をうけるのですから、審査委員を代表する審査委員長に敬意をはらうというのは理解できるのですが、なぜ最初に神だながでてくるのでしょうか。ほかの宗教の信者の場合はどうするのでしょう。

18:ぬふぬふさん
>>PUREさん
一般的にユウをする相手は上記に書いてある順番です。 審査の時は最低でも一番矢道側の審査員
はいらっしゃるのでその他の場所に視線がいくのは不味いですね。 微笑まれたのならOKですが下手すると睨まれたりするかも!?

>>受審予定者さん
>なぜ最初に神だながでてくるのでしょうか。
宗教絡みの難しい事はわかりませんが私は『道場を見守っている神様的物にお礼』のつもりで礼をしています。 道場に入る時や退場する時に礼をするのと同じ感覚です。  もし宗教云々で礼が出来ない場合は入場の時や的前に入る時も礼はまずいのですかね?

19:明鏡止水 ◆IDFFcYqcさん
>受審予定者さま
>審査をうけるのですから、審査委員を代表する審査委員長に敬意をはらうというのは理解できるのですが、なぜ最初に神だながでてくるのでしょうか。ほかの宗教の信者の場合はどうするのでしょう。
なにやら屁理屈のような気が致しませんか。

先ずは、審査云々は先ず無関係なのでは・・・?
審査員だから敬意を払うと云うのは、ちょっと違う感じでしょ。

ぬふぬふさまも仰っておられますが、道場への入退場は如何なさっているのでしょう?
(神前)礼拝はどうなのでしょう。

此れ等は、宗教的な行動や行事とは切り離して考えても構わないのではないでしょうか。
弓を引く中での一連の動作や規定・・と考えてみてはどうでしょうか。
他宗教の外人の弓引きさん達も、当り前に神棚に対して礼をしたり、(神前)礼拝をしたりなさっていますよね。

個人的な意見としては、道場を使用することや、稽古をさせて戴くこと・・などに対する‘感謝’の意や気持ちの表明のような気が致します。


別の観点からみれば、前に神棚ではなく国旗(日の丸)が在る道場がございますね。
では・・・日の丸に異を唱える方々は、如何なされるのでしょうね。

20:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
>なぜ最初に神だながでてくるのでしょうか

弓道に限らず、武道は神道と縁が深いものである、とご理解下さい。江戸時代以前からそうであるのか、明治以降の国家神道の確立によってそうなっていったのか・・・不勉強ですので、このあたりの歴史は、何とも申し上げられません。

「(前略)本座における最初の揖は『お願い致します』『只今から演武させていただきます』、終わったときの本座の揖は『有難うございました』『無事終わりました』と感謝の気持ちを持って行うことが望ましい(後略)」
教本1巻P86からの引用です。礼も同じと思います。

21:遥頂さん
別に、日本の神道で言う「神様」と捉えなくても良いと思いますよ。
立場が上の人に会ったら普通は礼をしますよね?
道場には何か尊い物が宿っているんですよ。
日本神道では八百万の神々、キリスト教ではspirits(精霊)、etc...
神と名が付く付かないに関わらず、そういう尊い物達には敬意をはらいましょう、
というのが礼(広義)であって、その最も一般的な方法が礼(狭義)です。

あとは、まあ世間の認識ですね。
公共の場の公共のイベントなんですから、
大多数の人の認識には少なくとも形式上は従いましょう。

22:Wakyuuさん
>まつっている神さまは決まっているのですか。

 武芸については,昔から,鹿島神宮と香取神宮の神様を祀るのが普通です。
 身近なところでは,天照大神と道場の近くの神社と鹿島神宮のお札を一緒に神棚に祀っている道場があります。
 

23:Wakyuuさん
>明治以降の国家神道の確立によってそうなっていったのか

 道場に神棚と日の丸を設置したり,入退場の際にそれらを拝むようになったのは,1910年代以降,武道が学校教育にとりあげられてからの国粋主義的な武道教育の影響でしょう。とくに武専出身の指導者や卒業者が増えてからは,町の道場にもその習慣が広まっていったのではないでしょうか。弓道は後発ですから,最初は剣道や柔道から広まったのでしょうが。

24:受審予定者さん
>道場には何か尊い物が宿っているんですよ。
>日本神道では八百万の神々、キリスト教ではspirits(精霊)、 

 ささいな誤りは指摘しませんが、キリスト教の根本を誤解されているようです。この部分には、かなり違和感を持ちました。
 「八百万の神々」と「キリスト教ではspirits(精霊)」とを同列にするのは、まちがっています。キリスト教は、原始宗教にみられた多くのspiritsを邪悪なものとして批判するところからはじまっています。したがって、キリスト教では、spiritsは尊いものではありません。同音で「聖霊」という用語がありますが、これは三位一体説におけるthe Spiritあるいはthe Holy Spiritであり、唯一の神をさします。また、spiritsに類するものの中でも、聖書によくでてくる天使は、唯一の神と人間との間をつなぐmessengerであって、尊いものや神ではありません。

25:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
Wakyuu様
>鹿島神宮と香取神宮の神様
中央道場の審査員席にも、両神宮の名が書かれた紙(?)が貼ってあるようです。ご教示、有難うございました。

26:Wakyuuさん
 武道と宗教との関係は,難しいなと思います。数年前に全弓連の中央道場が明治神宮内に建設されたとき,一部ではかなりの批判がありました。国内における幅広い普及あるいは国際的な普及においても中心的な役割を果たすであろう中央道場が,立地上において宗教的な関わりを断たなかったことは後顧に憂いを残すことになりはしないか,という懸念です。これに関することは「武道文化の探究」(不味堂出版,2003)という書籍に,非常に遠慮がちに触れられていますが,そのほかには文献を知りません。宗教に関することは皆さん書きづらいようです。

27:御庭番 ◆rBDjAo7Eさん
私の通う道場にある、古い弓道辞典には、神棚には八幡様と春日大社のお札をお祀りすると良いと書かれておりました。以後そのようにしております。

28:えっ!?さん
県下の高校生対象の講習会で、審査員に揖と教わりました。その道場には神棚もあったのですが・・・自分の高校は神棚に揖と教わっていたので、審査員さんにするんだ!と、みんなでメモりました。

その講習会は学校の偉い先生や連盟の先生が講習していました。
やはり神棚なのですか?

29:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
>やはり神棚
@神棚A国旗B審査委員長の順番ですので、神棚があればそこに礼(または揖)をする事となります。

>審査員に揖と教わりました
射場が二つに分かれている場合、後ろの射場では、という事ではなかったでしょうか?
「前の射場であっても審査委員長に礼を・・・」という説明でしたら、意図される所が分かりかねます。先生にお尋ねになる方がよろしいでしょう。

30:遥頂さん
 八幡様は元祖たる宇佐神宮か、源氏による鶴岡八幡宮が相当し、御祭神は誉田別命、息長帯比売命、比売大神の三神であり、武神と言う意味合いよりも、武家社会の発端である源氏の守護神であった事が大きいようです。
 春日大社の御祭神は、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神の四神であり、第一殿の武甕槌命が武神である意味合いが大きいです。
 鹿島神宮と香取神宮に関しては、明治44年に旧制中学校の課外授業に撃剣、柔術が採用になった際の話で、武道の道場に神棚を設けるとともに神棚下に日章旗の掲揚され、道場入室の際に神拝が行われるなど神前稽古された、ということで、教育的側面からの発祥のようです。また前述の春日大社の御祭神である武甕槌命、経津主命はこれら二神宮より迎えられております。
 ただ、これらの神々をお祀りするとなると、宇佐神宮は大分県、鶴岡八幡宮は鎌倉、春日大社は奈良県、鹿島神宮は茨城県、香取神宮は千葉県まで、神札の領付を受けに行き、また伊勢神宮と築土神社よりも神札の領付を受けねばなりません。

31:Wakyuuさん
 伊勢神宮の天照大神のお札ならば,普通にお札をおいている神社があれば,全国どこでも手にはいります。茨城の鹿島神宮は,全国に約600ともいわれる鹿島神社の元締めみたいなところですから,お札は茨城以外の各地の神社でも手にはいります。四国の土佐清水の鹿島神社の大祭などは時々ニュースでも取り上げられていますし,関西にも由緒ある鹿島神社があります。香取神社も同じように各地にあるのではないでしょうか。鹿島大明神と香取大明神の掛け軸などを武芸の道場でまつっていたのは,江戸時代以前からです。昔から広く武芸の神さまとして信仰されていたので,明治の武道教育にも取り上げられたのではないかと思います。

32:通りがかりさん
 数年前に,柔道の試合の礼が神道によるものだとして,礼を拒否して失格になったのは宗教差別だという訴訟がアメリカでありました.このときは,宗教ではなく,相手への敬意の表現に過ぎない,という判決が出たようです.

 しかし,神棚に向かって礼をしなさいと明示すると,宗教的行為の強制とみなされかねない心配があります.

 神道との関わりが深い剣道でも最近は,神棚・国旗への礼ではなく,中央や正面への礼と教える先生もいらっしゃるようです.

 日本のキリスト教系の学校の武道場では神棚はおかないようですし,弓道の国際化をすすめるとなると,宗教との関わりは考え方を整理しておかないと,思わぬところで足をすくわれる?

33:天龍さん
道場の正面に神棚があり、拝礼をする程度のことが宗教と言えるでしょうか。国家神道の礼式の部分だけが慣習として受け継がれているだけのことでしょう。
言い古された表現ですが、神道は宗教ではなく祭祀、式典の形式だと思います。
宗教の三要素というのを読んだことがあります。経典があること。布教活動をすること。排他的であること。神道はどれも満たしていません。
神主さんから死生観や世界観を説かれたことなど一度もありません。
異論がおありの方もいらっしゃるでしょうが、拝礼くらい軽い気持ちで合わせていただけないものでしょうか。

34:テレビ好きさん
 神棚のある道場へ行ったときどうするか,少し議論になっているのですが,やはりこの掲示板でも,いろいろな意見が出ているのですね.「神棚」の検索でヒットした4スレを参考にさせていただきました.
 弓道界には超保守派がいらっしゃるとは聞いていましたが,「神道は宗教ではなく祭祀、式典の形式」だという,戦前の国家神道の教えそのものを信じている人がいるほどとは思いませんでした.
 同じあたりに神棚があったりするのでしょうが,正面方向に向かって礼をすることで,よけいな軋轢は避けましょう,という程度ですかね.

35:弓暦四年目四回生さん
> 日本のキリスト教系の学校の武道場では神棚はおかないようです

余談ですが、仏教系の学校の道場では神棚を置かないところもあります。その道場では神前礼拝はせず、一礼を以ってこれに代えます。

36:Your Fightさん
弓道をやっているのはほとんどが日本人で、日本人の多くは宗教に疎いのでなかなか信仰心というものは理解しにくいのでしょうね(苦)

武道での礼等は本来宗教的要素から来ているらしいので、例え「現代ではただの形式でしかない」と言えども、日本人自身が「宗教と礼」の関係を熟知せずに、流れで礼をしてしまうから尚分からないのでしょう。






本当に国際的にと思うなら、礼に関しては再考しなければいけないのですかね・・

しかし、そんな事を言うとキリもないですよ・・
「会」の名称の理由とかもですしね・・

37:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
「弓道=神道=国粋主義」とお考えの方に伺いたいのですが・・・それでは、仏像や十字架、コーラン等に代表される、自身の崇拝する宗教になら礼をされるのでしょうか?もしくは、何かに頭を下げるという行為そのものに嫌悪感を抱かれているのでしょうか?

38:テレビ好きさん
>「弓道=神道=国粋主義」とお考えの方

 今までの発言をさかのぼった限りでは,「=」でつなぐような考え方の人は見あたらないようです.

 

 

39:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
大変失礼致しました。それでは一部修正のうえ、改めて伺います。

「神棚への拝礼=宗教行為」とお考えの方に伺いたいのですが・・・それでは、仏像や十字架、コーラン等に代表される、自身の崇拝する宗教になら礼をされるのでしょうか?もしくは、何かに頭を下げるという行為そのものに嫌悪感を抱かれているのでしょうか?

40:黒紫さん
ゆるみ離れさん


失礼ですが、それは信仰心を持つ方への侮辱にも見られるのでお止めになった方がいいです。
信仰心の無い私には、全ては分かりませんが、

「自分の信仰する神様以外に信仰の意思(形式)を見せるのは両方の神様に失礼だ」

という事ではないでしょうか。

41:じゅりさん
横から失礼します。皆さんのお話でよくわからない点がありましたので質問させてください。

テレビ好き様
>弓道界には超保守派がいらっしゃるとは聞いていましたが,「神道は宗教ではなく祭祀、式典の形式」だという,戦前の国家神道の教えそのものを信じている人がいるほどとは思いませんでした.

とありますが、それでは戦後、もしくは江戸時代以前では宗教だと捉えられていたのでしょうか?
不勉強で申し訳ありませんが教えていただけないでしょうか。


黒紫様
なぜゆるみ離れ様の疑問が信仰心を持っている方への侮辱に当たるのか、私には理解できませんでした。
なぜ、この質問が侮辱になるのですか?

42:笹岡 ◆mRq5DITcさん [url]
>ゆるみ離れさん
>自身の崇拝する宗教になら礼をされるのでしょうか?
>何かに頭を下げるという行為そのものに嫌悪感を抱かれているのでしょうか?
 かなり唐突な質問ですね。何を意図しての質問なのかはっきりさせないと、ただのスレ荒らしになりますよ。
 少なくとも前の質問に関しては調べればすぐにわかることでしょうし、後の質問も「人それぞれ」という結論が容易に想像できますが、それでも質問しますか?

43:黒紫さん
「自分の信じているモノならば頭を下げれるの?」と聞くのは、簡単に言えば「自分の信じていないモノには頭は下げられないの?」と問うているのと同じです。

無信仰の方々(自分含)が想像している以上に、宗教を信仰している方々は熱心です。


先ず、そもそもが他人と信仰に関しては話をしないと言うのが世界のルールだとは知りませんか?

信仰に関しての内容だとは知っていますが、それに関して否定・疑問を投げ掛けるとは失礼です。

44:じゅりさん
黒紫様

そういったルールがあることを私はしりませんでした。
わかりやすく説明していただきありがとうございました。

45:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
本論に入る前に、全弓連と神道について、大変興味深い一文を発見しましたので、ご紹介いたします。

弓道誌昭和44年3月号の巻頭言より
「私共はお伊勢様の子孫であるから神宮を崇敬することを無上の事とし、誇りとしている。そして、わが弓道連盟は神宮様からとりわけ愛撫せられ、畏くも神苑の中で弓道講習会を催したり、天皇杯大会を開くことをお許しいただいている。その他かずかずの御慈を受けて、その関係は神と子の間柄である。(以下略)」

(戦前でも戦中でもない)当時の全弓連は神道にこのような念を持って接していたようです。

さて、前置きが長くなりましたが、私がこの質問を投げかけた意図について釈明致します。

まず、全弓連が神道を崇敬している、という前提をご了知下さい。無論、私が東京に出向いて中央の公式見解を頂いたわけではございません。ただ、「中央道場が明治神宮の一角にある」「全日本選手権が伊勢神宮の道場で行われている」といった点だけを見ても、少なくとも神道と距離を置こうとはしていない、と言えるのではないでしょうか。かような状況に加え、本スレッドの主様が仰ったとおり、入場の礼の始めに神棚を持ってきているところからでも、全弓連の神道に対する態度は明白でしょう。この神棚への礼が「お願い」でなく「指導」であることを考えれば、全弓連が会員に対してこの行為を行うよう強く求めていることもまた疑いなき事実でしょう。その上で、例えば審査の場で「私は神棚への礼を拒否する」と言えばまず不合格、悪くすれば全弓連からの脱退を求められるかもしれません(以前別スレッドで「礼記射義」の唱和を拒否したところ、教士審査に落ちた、という話がございました)。

また、弓道は「礼」の精神を尊んでいることも、皆様にはご承知のことでしょう。それは単に頭を下げるという形式ばかりでなく「恭敬、親愛の心を形に表すこと」「誠の心のない形だけのものでは礼にならない」と教本に明示されているとおり、心からの行いであることを求めています。

こうして見てくれば、全弓連の意図するところは明白でしょう。すなわち「神道へ敬意を持って接すること」です。

では、私がこの崇敬の念を全弓連会員、ひいては弓引き全てが持つべきだと考えているか、というと答はノーです。私自身は神道は日本人にとり特別の存在と思っておりますし、神前への礼にも抵抗感はございません。しかし、個人の正義宗教など全て自由であり、これを縛る術もまたございません。笹岡様が仰るように、心の中で思う所は人それぞれでしょうし、いやなものはいやで仕方の無い所でしょう。(続く)

46:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
(承前)
しかし、

例えば友人の家に遊びに行って、そのお家の親御さんがいらっしゃったと仮定しましょう。その親御さんとあまり馬が合わず煙たく思っているとしても、「こんにちわ」と挨拶ぐらいするのが普通ではないでしょうか。神棚への礼も同様には考えられないでしょうか。自身の宗教観と相容れないとしても、「その場」の「最も権威ある存在」に対して「敬意を表する」ことは、少なくとも私には抵抗無くできる行いです。キリスト教の寺院やイスラム教のモスクなどの見学に訪れて、ミサや拝礼に出くわしたら、他の信者さんと一緒に神への祈りを捧げるでしょう.「教会」の「最も権威ある存在である神」に対して「(崇拝で無く)敬意を表する」ことは、自分の中の礼の精神に反しないからです。

その上で、まず礼の拒否が、「神棚」に対するものなのか。他の偶像ならいいのか。もしくは、何かに敬意を表する、という行いそのものを嫌悪されているのか。自分には無いその辺りのお気持ち、考えを伺いたいと考えた次第です。荒らす気は毛頭ございません。

もっとも、この手の話題を振れば論議を超えた口げんかに陥ることは、これまでの経験から十分学習している事。思慮に欠けた質問であったことは認めざるを得ません。よって、この質問は取り下げたいと存じます。お騒がせし、申し訳ございませんでした

47:龍斎さん
>>ゆるみ離れさん

ご自身の説明は分かりましたが、流石に「他の偶像ならいいのか」と言うのは失礼な・・・

宗教の方は「知人の家族に礼」と「神様への礼」を同じ視点で見てはいないでしょうね(苦)

黒紫さんの言うとおり、自身の信仰心等に関わらず、他の宗教の信仰者に対しての「批判」「疑問」「否定」は失礼です。


弓道でもそうな様に、人によって「信念」は違うのですから。自分のモノサシでケチや質問は如何なものかと思われます。

あと、失礼ですが、
恐らく、この様な軽薄な質問が口げんかに繋がるのでは・・










礼に関してですが、先ず道場主にも相談されては如何でしょうか?
まぁ、否定的な解答が多いのかもしれませんが・

48:たぶんおやじさん
>全く上記のお題に関係が無いネタを少々

昔、伊勢神宮と明治神宮(定かでない)の宮司には範士と教士を出していたように思います。

神事には弓を使うものが多い様に思う。

仏門では禅問答に弓を三尺三寸に切った物シッペイ(名前忘れた)を使う。

昔、例会で国旗を壁に掛けていたら苦情が来た(法で制定する前だった・・・ちなみに公営の道場に神棚は無い。お札も無い)
そのお陰で国旗に礼だったのが、正面に礼をするのみになった。

49:天龍さん
国家神道は、天皇を頂点とする国体思想のため、神社網を整備し徹底を図った大掛かりな装置であった、と理解しています。
信心深いことが美徳であると教育することで、天皇に対して忠良なる臣民であれとしたものです。
そのためには、国家神道に宗教色を色濃く出す必要があったと解釈します。
60年前にその役割を終えた現在の神道は、厄払いや厄落としのような祭祀、秋祭りや初詣、観光のような娯楽の対象としてその役割を果たしています。そこに宗教性を示す姿は見えません。
そんな思いで、神道は宗教ではなく、祭祀であり、神前礼拝ぐらい深く考えずに合わせてくれませんか、と「33」で申しました。
信仰心は絶対的美徳だと言う感覚も現代人からは薄れているように感じます。

人様の信仰に触れるのはタブーで、素朴な質問さえも封じられるというのは、いたずらに過敏な不健全ささえ感じます。

50:ゆるみ離れ ◆rBQWtf4.さん
>「他の偶像ならいいのか」
今一度弁明いたします。この言葉は「神棚への礼の否定」が「自身の信仰(無宗教も含めた)に基づくものなのですか?」とお尋ねする意味で述べたものです。宗教を侮蔑する意図は全くなかったのですが、そう取られても仕方の無い表現であったこと、またそれ以前の問題としてかかる話題を俎上に載せた事自体が軽率であったことは、猛省しております。

ただ、「神棚への礼」が現在の全弓連の指導事項である以上(将来はどうなるか不明ですが)、私はその方針に沿って礼をする事、またそうするよう指導する事は誤りでないと考えます。

51:弓暦四年目四回生さん
すみません、不謹慎だとは思いつつ、何か興味深い論に発展することを期待して拝見しておりました。少々俗な言い方をしますと、話のネタとしては面白い(茶化すつもりはありません)のですが、ここで弓道の在り方について探っていくというような研究的な話題に発展せずに、単なる口げんか・言い争いで終わらせてしまうのは残念です。生意気言って申し訳ありません。

『礼』『神道』『維新以前の弓道・弓術』『明治期・学制以降の教育と弓道・弓術』『大正期の弓道・弓術』『昭和初期の弓道・弓術』『武徳会』『戦後の弓道・弓術』『日弓連』『真善美』その他諸々・・・

ここにあげたキーワードに特別な意味はありませんが、「弓道と礼との関係性」を考える上でどれも欠かせないキーワードだと思います。もしかしたら『儒教』なんかも入ってきそうです。

・弓道(弓術)と宗教的要素(神道、仏教、儒教など)とは歴史上いつごろ・なぜ関係性を持つようになったのか
・弓道(弓術)に礼が取り入れられた経緯は
・現代の弓道と特定の宗教的要素(神道)とはなぜ密接な関係にあるのか
・日弓連の明確な全体的な方針として、弓道において神道とはどのような位置づけにあるのか

と、私の興味は尽きませんが・・・漠然と弓道論や宗教論などを並べたところで、あまり意味を成さないのは皆さんがよくご存知なのではないかと思います。客観性・根拠の不確かな感情論・精神論も然りです。

「そう決まっているんだから、弓道を修める者はみな神棚(国旗)に礼をするんだ」「信じてもいない神に礼をするのは腑に落ちない」と言い争うのではなく、ここではそれぞれの弓引きが、「弓道と礼との関係性」をその人なりに理解することのほうが建設的な話し合いができるのではないかと、浅はかながら考えています。

「弓道とは・・・」を探求するのは素晴らしいことです。しかし、それは弓引きの数だけ存在すると思います。持論を強く訴えすぎるなら、こちらを立てればあちらが立たず・・・になってしまうのは目に見えています。弓道の大まかな歴史的背景を共通理解した上で、妥協点を導き出しませんか。

和して同ぜずと言う言葉もありますし。

乱文失礼いたしました。

52:テレビ好きさん
>その親御さんとあまり馬が合わず煙たく思っているとしても、「こんにちわ」と挨拶ぐらいするのが普通ではないでしょうか。

 下が,そのような折り合いのつけ方の一つと,くみとっていただけませんか.

> 同じあたりに神棚があったりするのでしょうが,正面方向に向かって礼をすることで,よけいな軋轢は避けましょう,という程度ですかね.

53:テレビ好きさん
 弓道と神道との関わりについて論じるならば,神道や宗教一般について,もう少し正確に述べていただけないでしょうか.

>信心深いことが美徳であると教育することで、天皇に対して忠良なる臣民であれとしたものです。
>そのためには、国家神道に宗教色を色濃く出す必要があったと解釈します。

 国家神道に対する理解が疑問です.昔の大日本帝国は,政教分離を確立した近代国家であることを欧米諸国に示すために,天皇を中心とする国家神道は「非宗教」であることを内外に強調した体制です.「国家神道に宗教色を色濃く出す必要があった」という部分は,意味がわかりません.

>宗教の三要素というのを読んだことがあります。経典があること。布教活動をすること。排他的であること。神道はどれも満たしていません。

 宗教に関する定義にも疑問があります.この「三要素」を満たすことが宗教の条件ならば,神道は一部を満たしているし,逆に世界的に著名な宗教が一部を満たしていないことになってしまいます。
 「経典」に関しては,古いところでは「日本書紀」や「古事記」は,神道の教典に相当しませんか。これらは,戦前は単なる教典ではなく,最も重要な「神典」と呼ばれました.日本の神社の本宗である伊勢神宮には,さらに明確に「神道五部書」という教典があります。これらが教典ではないとすると,神話を中心とするヒンドゥ教のヴェーダやラーマヤナの類も教典ではないことになってしまいます。
 「排他」性に関しては,一部の宗派を除く仏教やヒンドゥ教も排他的ではありません。ヒンドゥー教は,最近はイスラム教に対抗するために排他的なグループも進出しつつありますが,仏教などと長い間共存し,影響を受けながらインド人に広く信仰されるようになった宗教です.
 ヒンドゥ教や仏教も,上の三要素を満たさないことになってしまいますが,これらも宗教ではないのでしょうか.

54:テレビ好きさん
>そんな思いで、神道は宗教ではなく、祭祀であり、神前礼拝ぐらい深く考えずに合わせてくれませんか、と「33」で申しました。

>信仰心は絶対的美徳だと言う感覚も現代人からは薄れているように感じます。

 全体的に信仰心が薄れているから,全体のごく一部でしかない宗教信者の意向は忖度する必要はないという意味でしょうか.

 もし,そのようなお考えならば,少数者への配慮に欠けた心ない発言ではないでしょうか.

55:黒紫さん
信仰心が薄れてるのは現代人じゃなくて、日本人だけですよ?


信仰に関しての素朴な質問は、自らで調べましょう。内容によって、タブーなものは宗教によって違いますし。
我々が想像している以上に信仰とは深いです。

少なくとも、理念を知らない人間が、「信仰心のせい?何で?」と安易に聞くべきではありません。

その宗教についてよく調べた上で、個々の解決案が必要だと思います。



というよりは、国際化を前提にするのならばしょうがない問題ですね。


外人は、形式ではなく心に惹かれてやる方が多いと聞きますし。
仮に形式や元宗教だとしても、考えを押し付けるのは…

56:天龍さん
弓道教室で神前礼拝の所作を説明する時、「宗教上の理由で拝礼が不都合だと言う方はあとで申し出てください.一緒に考えます。」と申します。結局、申し出る人はいませんでした。ずいぶん長く色々な道場で引きましたが、幸いにもそういうケースに遭遇した事もありません。
万が一そういう人がいれば、やはり事情を伺うと思います。
それを、無知な者が人の宗教に言及するなとか、質問があっても直接聞かず自分で調べろとは、ずいぶん理不尽な物言いだと思いますし、もしもそういう事例に直面した時、どうしろとおっしゃるのでしょうか。

57:黒紫さん
失礼かも分からずに質問するのが失礼だと…

常識の範囲内は自分で勉強して、来たら宗教の中身をあまり詮索せずに解決が妥当でしょう。

無知だからと安易に質問するほうが理不尽ですよ……
では、「どの宗教は……だから」ではなく、「礼を出来ない方は……する」を言い合うのが良いと思います。


礼が行えない者にはどういう参加方法が適してるかと……

58:テレビ好きさん
>現在の神道は、厄払いや厄落としのような祭祀、秋祭りや初詣、観光のような娯楽の対象としてその役割を果たしています。そこに宗教性を示す姿は見えません。
>そんな思いで、神道は宗教ではなく、祭祀であり、

 宗教は制度や文化など,社会のいろいろな面から考える必要があります。
 制度の面から考えれば,神道は明らかに巨大な宗教団体です。ほとんどの神社は,神社本庁が包括する宗教法人に所属しています。法律上の宗教団体として認められるためには,宗教の教義を持つこと・儀式行事の実施・信者の教化育成・礼拝施設,という4条件が必要です。全国の神社は,法律的にはこれらの4条件を満たしているから,宗教法人として認定されています。しかも,その法人数は,仏教系とキリスト教系を併せた数よりも多いのです。

 文化の面から考えれば,例えば,神道の役割として「厄払いや厄落としのような祭祀」が挙げられていますが,「祭祀」というのは,そもそも宗教的儀式のことです。神社でのお祓いの様子は,単なる習わしではなく,明らかに宗教性を帯びた儀式です。神社では,結婚式や葬式も行われます。新しい生命の誕生につながることや人間の死に関わることは,古来から宗教が存在するにあたって最も重要な祭祀です。これらの儀式を司ることができる神道は宗教そのものです。なお,国家神道時代は,神道が「非宗教」であることを示すために,明白な宗教行為である神式の葬儀を行うことは制限されました。この制限がなくなったのは,神道が「宗教」として復活した戦後です。
 以上から,神道が宗教であることは明らかです.

 現代の日本人が神道をどのように考えているか,具体的な数字も示しましょう.文科省による宗教信者数の数字は信頼できないので,実際のアンケート結果で考えます.
 故石岡久夫範士をはじめ,弓道界との関係が深い國學院大學では,COE研究プログラムの一環で日本人の宗教意識を調査しています.2003年の調査では,信仰・信心を持っているかという質問に対して29%の人が肯定しています。宗教団体に入っているかという質問には,9%の人が肯定しています。これらの宗教心の強い人たちの中で,神道信仰者の値は6.4%,神道団体加入者の値は0.4%です。前者はキリスト教者の約3倍,後者は創価学会を除く主な新興宗教団体並の値です.
 このように強い信仰を持つ信者が相当数存在するということからも,神道は明らかな宗教です.

59:天龍さん
なぜ私が神道は宗教ではない、と申すかと言えば、万一ある宗教の熱心な信者が、神道の拝礼儀式に参加出来ませんと申し出た場合、一応話合って見ようとした時の論拠として示したいからです。それは一貫して申しています。

「国が宗教法人として認めているから神道は宗教だ。」
「宗教風の儀式をするから宗教だ。」
そう言ってしまっては、身も蓋もない。

あなたの信仰する宗教を裏切る程の深刻な意味を持つ習慣ではない。とだけ申したいのです。

それとも、この神前礼拝は大切な宗教儀式なので、他宗教の方は場外で待機してください、とでも申せば良いのでしょうか。

60:弓暦四年目四回生さん
なんだか少し議論がかみ合っていないような気がしませんか・・・?

・神道は宗教であるか(文化的、歴史的、社会的、政治的その他様々な観点から考えた場合)
・宗教について作為・無作為にかかわらず質問などをするのは失礼なのか
・国家神道と現在の神道はどう異なるのか
・弓道の礼は神道の宗教的行為にあたるのか

大体の流れはこの四つぐらいでしょうか。私もあまり自信はないのですが、議論の筋を読み違えてしまうと、話し合いにすらなりません。
論理的に述べられていることに対しては、論理的な反論のみが有効な対抗手段たりえます。「私はこう考えるからこうである」ではなく「こういう客観的根拠があるから、こう私は考える」と展開するべきではないでしょうか。前者はただの独りよがりです。後者は筋道の通った考察です。

61:笹岡 ◆mRq5DITcさん [url]
>59
>あなたの信仰する宗教を裏切る程の深刻な意味を持つ習慣ではない
 神道では他の信仰を否定しませんので、確かにその通りですが、ユダヤ教を始めとする唯一神教では原則として否定します。他の信仰を否定しない私たちにとって宗教的に大した問題でないことは確かですが、他の信仰を否定する人たちにとっては違うと思います。

>神道は宗教であるか
 宗教だと思います。
 しかし、重要なのは、弓道(弓術)やそれを始めとする武道や神道も、宗教を宗教として認識しない時代に生まれたものであるこです。
 伝統的な武道としての弓道を学ぶのであれば、日本人の生活と密接に関わってきた神道を切り捨てることはできませんが、全ての人がそこまで昔のことを学びたいと思っているとは限りません。
 神道が宗教である以上、それが弓道を学ぶ上で重要であることを知ってもらいたいですが、自分の信仰を捨ててまで学ぶようなことではないというのが私の認識です。

>宗教について作為・無作為にかかわらず質問などをするのは失礼なのか
 相手のことを思いやらない質問は失礼であると思います。
 争いを避けるには、自分と異なる信仰あるいは他の信仰を否定する宗教に対しても「ああそうか」ぐらいの寛容さが必要です。

>国家神道と現在の神道はどう異なるのか
 説明できるほど知識がないので控えます。

>弓道の礼は神道の宗教的行為にあたるのか
 神道が宗教であるという認識のため、宗教的行為にあたると思います。

62:笹岡 ◆mRq5DITcさん [url]
 ふと思いました。

@〜江戸時代
 そもそも「宗教」という言葉すらなく、神道は人々の生活に密接に関わっていた。

A明治時代〜第二次世界大戦
 国の政策として公金が投入されたものの、憲法にある信仰の自由に抵触しないために、非宗教であることが強調された。

B戦後
 神祇院を神社本庁が引き継ぎ、法律上は宗教法人になった。

 日本全国にある神社のほとんどは神社本庁に属する宗教施設ですが、これらが法律上宗教となったのは、戦後のことのようです。
 このあたりが、神道が宗教であるか宗教でないかの議論の原因になっていると思います。

63:テレビ好きさん

>「国が宗教法人として認めているから神道は宗教だ。」
>「宗教風の儀式をするから宗教だ。」
>そう言ってしまっては、身も蓋もない。

 このように矮小化された表現でまとめて切捨てられては,困ります。神道が宗教であることの根拠としていくつかの発言で示したのは次のとおりです。(要約する過程で若干の文言の変更や加筆があります。)

・ 神道は,あなたが「宗教の三要素」として挙げられた「経典があること」という条件を満たしています。
・ 神道は,宗教団体としての法律的な4要件「宗教の教義を持つこと・儀式行事の実施・信者の教化育成・礼拝施設」を満たすことを公的に認められています。
・ 神道は,古来から人間生活の重要な契機である,結婚(新しい生命の誕生)や葬い(死)等に関わる祭祀を司る役割を持っています。とくに,死者との関わりは,宗教にとって非常に重要な要素です.
・ 神道による葬儀は,国家神道の非宗教性を示す必要があった戦前は政府によって制限され,宗教団体として認められた戦後はそのような制限はなく行われています。
・ 神道は,特定宗教への信仰心を持つ人々が減少した現代日本にあっても,相当数の信仰者や団体加入信者を維持していることが,国民の宗教意識に関するアンケート結果から明らかになっています。

>あなたの信仰する宗教を裏切る程の深刻な意味を持つ習慣ではない。とだけ申したいのです。

 「深刻な意味を持つ習慣ではない」のは,あなたのような宗教観を持つ人にとって該当することであり,他の人たちを一緒にすることはできません。
 他の宗教に比較的寛容な仏教であっても,神棚を嫌悪する人たちがいるのを御存知ですか。浄土真宗は,親鸞以来,神道の神に拝礼することを固く戒めています。真宗各派の中で若干の違いはありますが,信者は家に神棚を置かないように求められています。
 ましてや,キリスト教やイスラム教のような一神教の信者には,異教徒の神を拝むことなど,考えられない人たちが大勢います。

64:テレビ好きさん

>入場の礼の始めに神棚を持ってきているところからでも、全弓連の神道に対する態度は明白でしょう。

 長文なので,全体を整理して考えたいのですが,「全弓連の神道に対する態度」は次のようなものであると理解してよろしいでしょうか.

1.全弓連は,神道を強く崇敬しており,伊勢神宮と全弓連との関係は「神と子の間柄」ととらえている.

2.全弓連は,審査に当たって,神棚への拝礼を強く求めている.
 
3.全弓連は,審査の場で神棚への礼を拒否する受審者については,まず不合格にすると考えてよい.
 
4.全弓連は,審査の場で神棚への礼を拒否する受審者には,全弓連からの脱退を求めることもある.

65:ななさん
私のまわりでは実例がありました。
アメリカからの留学生が、近所の道場で行われている弓道教室に参加していらっしゃいました。
家が厳格なクリスチャンらしく、教室参加者全員で拝礼を行うとき、彼女は礼はしていないようでした。
(聖書には「自分の信仰する神以外に礼をしてはいけない」みたいなことが書いてあるとおしゃっていました)
しかし、拝礼のあとに的のほうに向かい軽く一礼していたようです。

教室の先生方の理解もあり、練習はそれでいいと思いましたが、審査などはどうなるのだろう・・・とも思います。

66:天龍さん
ななさんの異国の友人を思う優しい心根に胸を打たれました。
そうですね。無理に拝礼など合わせてくれと言う必要なんかないのかもしれません。
少しうるさいことを言い過ぎたのかもしれません。
反省しました。

67:弓さん
宗教ってのは、全く窮屈なものですね

礼儀作法を教えるのにいちいちクリスチャンですから、ユダヤ教徒ですから、とか言われて曲げなければならないなんてやってらんないですよ。
弓技や体配をただゲームの形式的なルールにしろって事ですか?
的中てゲームでもしてろと?

弓道は日本の精神修養でしょう。
宗教色を徹底的に排して、礼儀作法や体配が教えられるかと。
宗教色を排して、今の礼儀作法や体配等にある大切な日本の精神がなくなってしまうのであれば、国際化など必要ありません。
他の神や精神を認める、受け入れる寛容さもなく、一切を排除しようなんて一神教の連中がゴチャゴチャと。
新しく国際弓道でも新設するか、アーチェリーでもやってろって話です。

68:たぶんおやじさん
日本の文化を大切に思うならば他国の文化尊重しましょう。
日本独自の文化と思っていても他所から伝わってきたものの積み重ねです。

69:けんたろさん
宗教とは本来、人の生き方を示すもの、人を幸福に導く為のものだと思うのですが、結局は考え方の違いから争いを生む事になっているのは、皮肉ですし、悲しいことですね。

弓道にも同じ愚を持ち込んで争う必要があるんでしょうかね?

弓道が神道、仏教と密接なかかわりを持ってきたことは、これはもう避けられない経緯というものですが、そうしてできた”形”=”神道、仏教への帰依"と取らない方が、今後の為になると思うんですよね。

クリスマスを祝う人がみんなクリスチャンですか?
初詣に行く人がみんな、神道を信仰してますか?

この状態が信仰心が無くて良くない、という事もいえるでしょうが、現実にそういうこととは切り離して考えることができる日本人が多い、ということだと思います。

結果としてどちらがよいのか?

弓を引く上での心の持ちよう。
弓道を通しての成長。
仁の道であるところの弓道を通して、思いやりを育む等等。

弓道の持つ良さに眼を向けていけないものでしょか?

宗教との関わりの経緯が、そんなに問題なのであれば、そもそも生き物を殺す武器であるところの弓矢であるという業だって、もっと問題になってしまうところではないでしょうか?

そういうところも乗り越えてきたと思うんですよね。

まとめますと、私はいつも道場に向かって礼をしていると思っています。

ですが人と挨拶するときに、顔や目を見て挨拶するのが礼儀であるのと同様、礼の目標とするものが、神棚や国旗だと認識しています。

中央からの流れの講習やなんかでも、礼の”対象物”と言われることはあっても、神社の神様を崇拝しなさい、と言われたことはありませんので。

70:弓引き社会人さん
>けんたろさま
正にその通りだと思います。
何故礼儀と宗教を結びつけてしまうのでしょうか?
宗教がなければ礼儀や体配が覚えられず、正しく行えないとでも言うのでしょうか?
弓で精神修行を行う目標となる「真・善・美」が必要でしょうが、それを表すのは、弓を引く「人間」ですよね?
そこに神体(真体)があるように見せかけるのは、神秘主義にもほどがあります。


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