[究極]弓道の真のあるべき姿 (投稿15件)[1〜15]


1:ズミノリさん
最近思うようになったのですが弓道の真のあるべき姿というのはどういうことなのでしょうか?

学生である私は部活として弓道をしているのではなく、
弓道がとても好きなので部活に入っている状況です。
おそらくこの掲示板に来る方はほとんどの人がそうなのではないかと思います
ですから皆さんと弓道の真のあるべき姿というものをとことん話し合いたいとおもい、
このスレをたてました
いろんな人の意見がいけたら幸いです
どうか、持論を存分にぶつけてください!!!

2:ズミノリさん
二重投稿すみません^^;

自分の持論をここに書きたいと思います。

まぁこれは自分のとりあえずの目標ですが「合理的な射」というのを目標にしています
人に言わせれば「中て射」ということに成りますが・・・
私はやはり弓道は弓と矢を用い、標的である的を射抜くことが最大の目標であると思います
ですから弓を引き、的に狙いを定め話す、そうすると必然として中る
つまりこれが私の言う「合理的な射」なのです
そのためには・・・ということで礼儀、射技を日々、高めているつもりです

批判や訂正、賛成などいろいろな意見を求めます

3:レンシン使いさん
@「矢を行くべき所(的心)に放ってやる」という目的を忘れずにいることが重要だと思います。そのために無駄のない力のかけ方をすれば、自ずと矢は的に届き、射は人を魅せるものになる、と私は思っています。
A心が中りの欲にとらわれていず、かといって無心でもいない落ち着いた状態にあることが必要ではないかと思います。普通の心の状態を崩さず、保つことが最も難しいのでは。
B常に上を目指すことは常に心に留めて練習しています。飛・中・貫、そして心の状態などを追求し続ければ、どんな矢にも反省するところがあります。
持論について、本当に好き勝手に書かせていただきました。長文失礼しました。御意見等ありましたら、ご遠慮なくどうぞ。

4:太郎さん
こればかりは人それぞれですね。でも僕は中てる弓というのはあまり好きではありません
中るのであって、中てるのではない、という言葉があります。高段の審査で、よく中るのにどうしても落とされる、ということを聞いたことはありませんか?中るのは当たり前、それ以上のことが求められているからなんです。ではそれは何か、と言われれば、僕は高段者でも審査員でもないから確かなことは言えませんけれどね(笑・だめじゃん!)
もっとずっと深いものがあるんじゃないですか?僕はそれを追い求めているんです。
な〜んて、えらそうな事いっちゃってるよ・・・

5:葵使いさん
あるがままに。

極を究めたり、あるべき姿を決める必要はないんじゃないかなと。

強いていえば、広い意味での真善美。

6:斜面見習いさん
究極という言葉を用いる必要はないのでは? 弓道始めた動機、目標は何ですか?でいいと思いますけど。
僕にとっては究極ではないです。
弓を引くのが好き。それ以上でも以下でもありません。道を語るつもりもありません。 弓を引きたいから引く。
好きだから引く。
それだけです。

7:凛さん
弓道のあるべき姿など私には分かりません。
ただ私が求め目指している弓は「活人の弓」です。これを細かく説明するつもりはありませんが。

弓道の真のあるべき姿とは、人それぞれが目指す弓でよいでしょう。名声を世に轟かす名人でも「まだまだ」というように弓道の終着点は、進めば進むほど遠くにあると感じるのでしょう。ただ、驕ることなく望む弓を求める、それがあるべき弓引きの姿なのかも知れません。
現在の日弓連の上層部が岩一枚ではないように、地区の道場同士でも醜い派閥争いをする…。弓道の復興に心血を注いでいた昔と違い、現在の弓道界は迷走しているのではないかと危惧しています。

8:阿頼耶さん
自分も弓道のあるべき姿は、人それぞれだとおもいますよ
それよりも、自分がどうありたいのか、しっかりと持つことが大切だと思います。
自分は弓を引き続けること、が今の目標です、弓を引く事が出来ても、この先引き続ける事ができないと、どうありたいのか決まらないと思いまし。

ちなみに私の通っている、道場にはさまざまな先輩方がいまして、その中には、取得した段位を返却された方もいますし、麻弦、竹弓でなければ弓道ではない・・・・と言う人もいます

9:ズミノリさん
スレタイが少し悪かったようですが
皆さんが考える弓道とは?
という問いかけだったのですが・・・
姿がはっきりと見えないからこそ、
一人一人の弓道が違ったものになると私は考えております
ですからいろいろな弓道の「姿」というものが知りたいなぁと・・・

そしてそのいろいろな考えを含めた上で中て射はだめだとか、
新たに弓道を始めるに人にとって参考になるようなスレにしたかったのですが・・・

10:アライさん
 自分が考える弓の究極の境地は、弓を引かないことだと考えています。 
 弓を用いず的を射る。その心には全てを包み込む愛と言うか、優しさがあると思う。
 力がある者だけがこの世を支配している現代。自殺、殺人、窃盗など犯罪が大変多くなってきている。とても悲しい事です。
 今現代に必要なのは心だと自分は考えております。弓を引くにしても剣を持つときも心が一番大事。弓を引く事は人間を学ぶ事と同じなのです。
 私は初めにゆみを引かないことが究極だと言いました。これは、力だけ憎悪だけでひいてはいけないと言うことです。思いやりの心、感謝の心、奉仕の心を持って弓を引くようになれば、真に弓を用いず的を射る事ができるのではないだろうか。

11:弓龍さん
弓は凶器、戦の道具にも使われていた。どんな戯言を並べてもそれが真実。今現在、弓は弓道という武道の中の己を極めるためのものとして使われています。弓道、それは趣味や人との関わりの場などとしても関心を持つ人も理由はそれぞれです。ただ、何のために弓を引くのか?と聞かれたら答えられますか?武道をする人は、常に壁にぶつかり、そして考えてときに悩み、答えを探します。答えもまた「十人十色」、人により違うでしょう。だから弓道論も、人によって違います。弓道の真のあるべき姿は誰にもわかりません。

12:いちごさん
アライ様の“弓を引かないことだ”という言葉で中島敦の名人伝を思い出しました。
まだまだ私には理解できない言葉です。ただただ今は、日々のお稽古に真面目に取り組むだけです。少しづつですが、自分自身のこと、射技、といろいろと見えてきます。この積み重ねた後にまた何かが見えてくるのでしょう。そのためにも続けることです。
とても、真のあるべき姿など今の私には思い描けません。

13:新さん
「射道には偽りは効かずただ真を尽くすのみ」これは、鈴木弘之先生の、弓とは何かに対するお言葉です。人によって弓道に求める目的は違いましょう。しかし、弓射における「中たる理」は、誰にも共通する力学的事象です。「静中動」の会から生じる「一瞬の離れ」は美しく、まさに射の醍醐味。その弓の核心は無念無想の射だと感じております。どうしても「道」を語っていくと、精神論弓道になりがちですが、精神と射を分けることはいけないことで、射の姿勢が日本古来の姿勢の管理と共通してるといってよいでしょう。それは精神の作用が最も活発になる必要条件です。心身の管理がよいと、精神の働きが活発になり、身体管理も進歩するというわけです。射道は悟道也。弓を習うことは自己を習うこと。自己を習うことは自己を忘るること。自己を忘れて献身一如。己を射る弓。弓は心を引くのである。一心とは無限なり。即ち一念。二念は邪なり。心で引く。即ちその柔らかい心を無限無発に一射絶命三昧たるべし。という言葉があるように、射と道はきってもきれない関係と考えております。

14:阿頼耶さん
思いだけでも、力だけでもだめなんですね、弓を引き続ける、というのは改めて大変なことなのだと、わかりました。今後は精神的なこと(思想?)も考えながら、引き続けていこうかと考えさせられました、

15:ふと思うさん
剣の道に『無刀』があるのですから、
弓の道にも『無弓』ってのはあるのかもしれませんね


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