流派 (投稿92件)[1〜92]


1:現川 鼎さん
弓道の流派はどれくらいあるのでしょうか?みなさんの学校や支部の流派や、知ってる流派を教えてください!その流派の特徴なんかも書いてもらうと嬉しいです。

2:斜面射手さん
流派はその道場に門下生として入るか、
免許皆伝の人物に教わらない限り名乗れないものと
認識した方が無難でしょう。

つまり、ほとんどの射手はただの
「正面うち起こし」「斜面うち起こし」
であって、小笠原・本多・日置でもなんでも
ありません。いわゆる「日弓連流」です。

現存している流派となると結構あるようです。
小笠原流・日置流・本多流・武田流・
無影新月流などなど。「派」もあわせると
結構な数になりますね。
騎射といえば武田がほとんどで、小笠原も
行事として行われているようです。

3:射楽斎Uさん
毎日暑いですね。
残暑お見舞い申し上げます。
久々に参加させていただきます。

1400年代半ば以降約150年の間に多くの流派分派発生しましたが、明治以降の本多流を含めて
@武田・逸見・小笠原・・・系
A日置竹林・・・系
B日置吉田・・・系
の、おおむね3系統です。
Aの日置竹林の系統には、特に尾州竹林から現在の正面打ち起こしの原型となる新機軸を打ち出したC本多流があります。
Bの吉田系には本流の出雲系とD雪荷系があり、出雲系から分かれたE印西系と、独自の体系化をなしたF大和流の系統があります。
ほかにも多くの流派が分派しましたが、明らかな違いの認められる大きな流れとしては、
@からT:小笠原系
AからU:日置竹林系、V:本多流
BからW:出雲系、X:雪荷系、Y:印西系、 Z:大和流
の7つの系統と考えていいと思います。

ただ、個人的な思いで恐縮なのですが、現代弓道もかなりラジカルに進化中なのでおそらく近未来に一つの系統として検討してもいい時期が来そうに感じています。

4:現川 鼎さん
返信ありがとうございます!!日置というのは座りながら射つ流派のことですか?それと、僕の学校は正面射ち起こし、やわらか帽子で二足開き、中指と薬指の間に甲矢を入れるのですが、この流派をご存じの方がいらしたら、流派名を教えてください!

5:斜面射手さん
日置の射法に、座ったような姿勢で引く
射法も存在します。が、普段は立射です。

正面打起こしで武射系の作法のようなので
本多流の流れを汲んでいるようですね。

6:現川 鼎さん
武者型だということは先輩から聞いていました。本多流ですか…いまいちピンとこないんですけど、本多とは徳川の家臣の本多のことですか?あと、「武者」ということは斜面射ち起こしに近い流派だということですか?いろいろお尋ねしてしまいすいません。

7:斜面射手さん
「武者」じゃなくて「武射ぶしゃ」です。
弓道連盟が勝手に作った言葉なんですが、
小笠原などの「礼射」にたいして用いられる
言葉です。

本多流の「本多」は流租の本多利実という
方の苗字です。ただ、本人がこの流派を
起こしたわけではなく、彼を慕った門下生が
「本多流」を名乗り始めたそうです。
当時斜面うち起こし(これも連盟が少し昔に
作った言葉)があたりまえだった時代に
正面打ち起こしで大三を取るという
新風を巻き起こした射法です。

8:斜面射手さん
追加

そもそも本多利実は日置の人間だったんですが、
正面うち起こしに切り替え、それゆえに
射法は正面だけれども作法は斜面のままと
いうようになっていると思われます。
で、徳川の家臣の本多とは違います。

9:現川 鼎さん
斜面射手さん、ホントにありがとうございます!とても勉強になりました!僕の住んでる静岡では本多流は少ないのですが、その他の地域ではどうなのでしょうか?たしか広島工業や秀岳館も二足開きでしたが固帽子だったので違う流派かと思っていました。(←僕の学校はやわらか帽子なので…)ユガケは流派に関係ないんですか?

10:デビさん
斜面射手さんが仰られているように、

>本多流の流れを汲んでいるようですね

であって、正当な本多流では無いので注意が必要。きっと「武射系で正面打起しの無流派」ってくらいが妥当かなぁ。柔帽子ってのも独自進化の一つなのでしょう。(代々柔帽子という訳ではないと思います。どこかの代で切り替えたのではないでしょうか?)

そもそも流派が分からない指導者が教えているのであれば、それは無流派だと思って間違いではないかと。指導者の方に一度聞いてみましょう。

11:現川 鼎さん
昔は師範がいたので、どこかの流派ではあると思います。次の部活のときに先生に聞いてみます!あと、1つ質問なんですけど、柔らか帽子は昔からあるわけではないんですか?柔らか帽子の高校は少ないみたいですが…

12:斜面射手さん
デビさん補足ありがとうございます。

昔からあるのは柔らか帽子のほうです。
といっても、形や硬さはいまとは違った
ようですが。戦場でユガケをしたまま
刀や槍を振るわなければ成らないことを
考えれば結局、両手の皮手袋のようなものに
なってしまいますね。

硬帽子ができたのは江戸時代に入って
三十三間堂の通し矢が盛んになってからです。
強弓で矢数をかけるので指の保護目的で
開発されたようです。強くない弓であれば
柔らか帽子のほうが離れも出しやすく
的中に有利な面もあるようです。

ユガケは流派とあんまり関係ないですね。
ただ、諸ガケ(五本指)などは小笠原に
特徴的だったりします。流派をかたると
面白くない顔をする先生も多いので気をつけてくださいね。

13:だめ学生さん
>8 斜面射手さん
本多利實は旗本の本多八十郎家の人ですから徳川家の家臣ですね。大名という意味で書かれたならその通りですが。
(因みにこの家は本多忠政の養子に由来
してます。)

本多流の作法ですが、私が見た現代の
尾州竹林とはかなり違います。
なので斜面のままというのは、 
私は疑問に感じます。
(元の江戸の竹林から違っていた
可能性もありますが。)
以前に伺った方によると、
利實が武田流の故実家に入門しているので
それ由来ではないかとのことです。
(真偽のほどは確かではありませんが)

14:現川 鼎さん
もしよろしければ(わかる範囲で構いませんので)本多流の体配の特徴を教えていただけますか?

15:だめ学生さん
射礼の流れは本多流公式ホームページの射礼解説
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/samurai/index39.htm
を見て頂くといいでしょう。
特徴としては、
・定めの座で弓矢を交差して置き礼をする
・射場中心まできたら射場の端まで行き伸びをする(http://www.bea.hi-ho.ne.jp/samurai/sinshutu.html
・揖、肌脱ぎは射位で。
・乙矢は中指と薬指の間
・足踏みは二足
・取矢はせず、足踏みをとった後床に落とす
・甲矢を射終わったらそのまま跪座し乙矢を番える(本座に戻らない)
・定めの座に帰ったら弓を置きカケ紐を解く
・あと、立つときはすべて束立ち(腰を切らず一気に右足を寄せながら立つ)

といったところです。
普通の的前では射位に入ったら脇正面に向き直ってから座り、あとは射礼に準じます。

16:現川 鼎さん
同じ動作のところが多いのですが、すべてが同じというわけではないです…「本多流系統」ぐらいに考えたほうがいいのですかねぇ…

17:斜面射手さん
>だめ学生さん

そうですね。補足ありがとうございます。

>現川 鼎さん
私が8で用いた「作法」という言葉には
乙矢の打ち込む位置と足踏みの仕方の
2点しか含んでいませんのであしからず。

18:だめ学生さん
3の射楽斎Uさんの説明は詳しく分かりやすかったです。が、道雪派が抜けているのが気になります…
(雪荷の側系ということで抜かれたのかもしれませんが…
熊本で盛んなようですし、大学で数校、これに由来するところがあります。

>現川 鼎さん
お尋ねの流派の特徴ですが、全部説明するのは大変なので簡単に。
まず射法。
小笠原:基本的には正面に打ち上げ、大三は取らずに引き分ける。
本多:正面打起し、大三を取る。
(因みに最近は斜面の打ち起しと正面の大三に大きな形の違いが見られなくなってきてるように思いますが、本来は全然違うものです)
竹林派:(派にもよるが)弓を開かずに左前に構え、開きながら打ち起し、引き分け
印西派:弓を開いて斜面に構え、そのまま打ち起し(今は頭の上までですが、かつては開きながら眉ほどまで)、引き分ける。三分の二というのを取る人もいる。
道雪・雪荷:よく知りません。写真で見る限り、印西派とぱっと見の大きな違いは
ないように感じましたが…
大和流:市川範士という人の写真がありましてその写真を見る限りですが、かなり広く弓を開いて構え、弓手は会に近い位置に、勝手は高く打ち起し、引き分けるというものです。

19:弓遊びさん
斜面射手さんのユガケの説明に、少し補足させて頂きます。
流派のユガケは現在も存在します(カケ師は亡くなれていますのである意味、斜面射手さんの説明で異論はありません)。
全ての流派での決まりかどうかは知らないのですが、私の所属する流派では『流派ののユガケ』が存在します。
どのようなユガケか?と聞かれても、門弟になればここで話を聞くより、より正確に伝わると考えますので説明は控えます。

20:斜面射手さん
え〜、18のだめ学生の印西派に補足です。
(自分が習っている流派ですので。)

「かつては」とありますが、現在でも岡山県で伝わっている
印西派はうち起こしで開きながら馬手拳が
額より拳一個斜め上あたりまできます。
三分の二を考案された浦上直置先生がやられていた印西派は、
弓道教本にあるようなうち起こしをします。

だんだんディープなスレッドになってきましたね。

21:斜面射手さん
すません、敬称が抜けてました。
「だめ学生さん」と訂正いたします。

22:射楽斎Uさん
だめ学生様

道雪派を省いのは、ご指摘の通り雪荷派の直系と理解しているからです。確かに血統的には傍系ですが、雪荷はすべてを道雪に引き継いでいますので、この時点では同じと判断しております。もちろん、時代の流れを経た現在もまったく同じであるかどうかは、いささか疑問もありますが・・・。
少し補足します。
雪荷・道雪派は澄ましから離れを出します。
印西派はご存知の通り、詰合・伸合・やごろです。
大和流は、持満(自満)です。
私は、流派の最大の思想上の違いは離れの出し方の違いと思っています。

23:紫弓さん
雪荷派については、今は正面だが斜面もあると伺った事があります。ただ口割で肘の位置が肩線でした。蹲踞については斜面でした。(どの流派にせよ正面の蹲踞あるかは私は分かりませんが)

手持ちの本を見る所、本多流と尾州竹林派は昔は、今で言う鳩胸出尻に似た胴造りみたいです。又、尾州竹林では今もその様に引かれる方がいるらしいです。
流派とは違いますが武徳会の最終形をお知りの方がいたら伺いたいです。示された本があるらしいですがまだ手に入っていません。

こういうのは興味深いですね。

24:だめ学生さん
射楽斎U様
そうでしたか。わかりました。
このふたつについて、射法についてはよく分かりませんが、『弓道講座』に、雪荷では主に四つを使うが、道雪では決して四つは使わない、と書いてあった気がします。
ので結構違う気もしますね。

後半部勉強になりました。ありがとうございます。
一つ気になったのですが、いま
雪荷派の方っていらっしゃるんでしょうか?道雪の方は射ると聞きますが…

>20 斜面射手さん
確かにそうですね。説明の手抜きすぎてしまいました。

ところで印西についてですが、今、印西派というと=岡山-浦上系のことになってるようですが、薩摩系や遠江系、最近では摂津系もあって、結構違いもあるようなのですね。

25:現川 鼎さん
みなさんホントにありがとうございます!とても勉強になりましす!投稿元の僕が質問ばかりしてしまい、恐縮ですが…
大三をとる流派は少ないのですか?先程の説明では本多流以外は大三をとらないようでしたが…静岡はどこの学校もだいたい大三をとるのですが、それは地域によって違うものなのですか?(岡山は斜面が多いと聞きました。)

26:クロさん
私の地区の弓道連盟の方に詳しく聞いたことはないのですが, 私が習っている流派は吉田流雪荷派です。 (先輩から聞いた話なので自信はあまりないです…) 指導は連盟の先生に教えていただいているのでこの流派で正しいとは思うのですが…。 斜面打ち起こしで口割りにせず, 鼻と上唇の間で矢は止めています。

27:斜面射手さん
>だめ学生さん
「系」が結構あるみたいですね。
指矢腰矢、打根など、特殊な射法や
それに付随するものが各系で伝えられている
傾向にある気がします。
射法は実際にお目にかかったことはないので
具体的な違いはよくわかりません。

>現川さん
全国の射手のおそらく9割以上は
大三を取る引き方をされていると思いますよ。
岡山では日置流を伝える道場がある影響もあり、
斜面が決して珍しくは無いようです。

>クロさん
吉田流もまだありますね。
日置≒吉田と私は解釈しているのですが
分派などどうなっているのでしょうか。
会の形は典型的な斜面の形ですね。
私もそうなります。

28:クロさん
分派については詳しく聞いたことがないので良く分かりません…(すみませんι)
岡山の高校の大会で見かけるのは, 斜面:正面は7:3くらいの割合です。ただ市の弓道教室に来られている一般の方の割合では半々くらいだと思います。

29:現川 鼎さん
大三をとるということは、多くの人が本多流なのですか?それとも無流派なのですか?本多流以外に大三をとる流派はどのくらいあるのですか?

30:斜面射手さん
弓道連盟が推奨している射法が大三をとる引き方なんですよ。
なので大三を取るという部分にだけ着目すれば
現在もっともメジャーなのは本多流の引き方ということに成ります。
しかし、本多とは足踏みや乙矢などが連盟は違いますよね。

無流派で大三を取る、この引き方が全国で最もメジャーな射法です。
本多流と連盟の正面射法以外で大三をとる流派はわかりません。
小笠原も最近は大三を取るようになってきたと聞いたことがあります。

31:斜面射手さん
>クロさん
情報ありがとうございます。
岡山は斜面がメジャーですよね。
吉田家が日置を受け継いでいたので
吉田流という名前はなんら不思議では
ないのですが、ちょっと調べて見ます。

32:現川 鼎さん
もともと弓道は斜面であったのに、正面打ち起こしで大三をとらせることを推奨していると言うのは変な話ですね…「斜面で柔らか帽子」と言う弓道の原型のようなひとたちが少なくなっているのも、少し淋しいです…

33:射楽斎Uさん
確かにその時点で確立されたと思われる多くの流派の射法が、時代の変遷とともに変化してゆくことは、寂しいかぎりです。
しかし、流派を確立してきた多くの先人達は、それ以上の工夫と研鑚で、それ以前の射法から見れば瞠目に値する変化を遂げて、自流を世に問うて来たのです。
柔らか帽子の利点はすばらしいものがあります。しかし通矢で工夫された堅帽子がなぜかくも普及したのでしょうか。
そこにはやはり、多くの先人達の修練上得られた必然があったのだと思います。
同様に、大三を取らなかった多くの流派も大三に相当する構えは持っていましたし、要前(敵前)の必要さえなければ、より肩関節の自由度を有効に生かせる現行の大三を取り入れてきたことは、必然と思います。
我々は、各流各派の確立されてきた時代背景を意識しつつ敬意を表して学ぶ必要があります。同様にその後の多くの先人達の工夫の積み重ねにも敬意を表したいと思います。
「射」はいまだに進化しつづけていると私は認識しています。
全弓連の弓道教本1巻の発刊の言葉に、今日(50年前)の弓道の大綱をつくっておきたい、習射の基準を提供できれば幸い、射は変化してやまないが今後発生してくる新しい課題に対する指針となりたい、とあります。
この先見性の高い思想を大切にしてゆきたいと思います。

34:るんさん
>15:だめ学生さんへ
>・定めの座に帰ったら弓を置きカケ紐を解く
記憶が曖昧となってしまったのですが、以前ある本多流の方を拝見した時は、入場後にかけをつけてから弓矢を交差して置き礼をしていたように思いました。入場前にかけはつけているのでしょうか?

>・あと、立つときはすべて束立ち
稽古が進み座する時に足を引かない即立ち、即座りなのかな?とも思いましたが、
ここでいう束立はどのように座し(片足は引く?引かない?)、どのように立つのでしょうか?(意味合いが違うのかなあ?)

>32:現川 鼎さんへ
>正面打ち起こしで大三をとらせることを推奨していると言うのは
教本一巻改訂増補には打ち起しは2つの方法、
引き分けは3つの様式が紹介されていますね。
推奨しているという通達(?)は見たことがありませんのでわかりません。(あるのかなあ?)ただ、実際に無流派正面打ち起し大三は多いと思います。
古きを学んでどうしてこのようになってきたのかを見るのもよいかなと思います。
今後どのようになっていくのでしょうね。

35:だめ学生さん
>26 クロさん
非常に興味があるのですが、差し支えなければ、地域を教えていただけますか?
あと一般の方で引かれている方はどれくらいおられるのでしょうか?

ところで吉田流≒雪荷派と思っていたのですが(http://www.ne.jp/asahi/kojiro/net/taiikubudousi/yosida-ryu/yosida1.htm
どうなんでしょうか。

>27  斜面射手さん
摂津系を見たことがありますが、
打起しの勝手の張りや離れの出し方に
岡山-浦上系と異なる印象を受けました。
あと、体配も結構違っていて、的割はなく、割膝は竹林派に近い(さげぶりの矩でしたっけ?)ものでした。(以上あくまで、門外のものが見た印象ですが)

>34 るんさん
入場後にかけをつけて… というのは巻藁射礼でないでしょうか?的前射礼ではカケは最初からつけていると思います。
>稽古が進み座する時に足を引かない即立ち、即座り 
というのが私はよくわからないのですが、
座るときに足は引きます。立つときは、
膝を寄せながら(全弓連式体配よりも膝を開いて座るようです)引いた足を寄せつつ一度で立ちます。


36:クロさん
だめ学生さんへ
地域は岡山県津山市です。 津山市が開いている弓道教室では弓道連盟の方が指導して下さっています。 一般の方の人数は20〜30人程度ですが, 正面は半数くらいだと思います。 この弓道教室で弓道を習い始めた方は連盟の方の流派(吉田流雪荷派)で教わっています。 ただ流派について詳しく連盟の方に教えていただいた訳ではないので詳しく事はよく分かりません。

37:るんさん
>35:だめ学生さんへ
>入場後にかけをつけて…
そうなんですか。
>引いた足を寄せつつ一度で立ちます。
引いて座した状態から一度で立つというのを束立ちと表現なさっているのですね。
(即立ち、即座りは、慣れてくると片足を引かなくても
座し、立てますのでその事なのかなと思ったまでです。) 

どうもありがとうございました。

38:斜面射手さん
>だめ学生さん

摂津系は異なるんですか。
情報ありがとうございます。先日、
摂津系の川島先生がご逝去されたそうですが、
HPのそのお知らせのところに「日置流印西派の宗家」と
書かれているので、印西派とは別の系統と
考えた方がよさそうですね。
川島先生は摂津系の祖らしいですが、
宗家をかたるとはなんとも・・・。

39:雪花さん
雪荷派・道雪派は名前はよく聞くのですが、印西派などに比べるとあまり情報などが少ないですよね。弓構えや手の内に違い(印西派などと比べて)はあるのでしょうか?雪荷派・道雪派を引かれている方、ご教授のほどお願いしますm(__)mやはり流派の違いは思想や目指すものの違いなのでしょうかね(^^;)

40:だめ学生さん
クロさんありがとうございます。
津山市武道館の行事での写真発見しました。何かまた情報があったら教えてください。
>38斜面射手さん
一般的な「宗家」の条件みたいなものは私にはよく分かりません。
また門人でもないので、ホームページに日置流印西派の宗家と書いてある事情はよく分かりません。
ただ川島先生は生前弟子に印西派と名乗るより摂津系と名乗れと仰っていたとのことです。

「印西派とは別の系統」と仰いますが、
印西派=岡山系ではない
(印西={岡山系,その他,…})ですし、
これ
http://homepage2.nifty.com/insai/settsu.htm
を見てもそう考える理由はないように思いますが…

41:斜面射手さん
>だめ学生さん
>印西派とは別の系統
印西派の宗家は吉田家であって、これは
事実上なくなってしまっています。そこで
師家である徳山家が岡山で代々印西派を
守っているようです。HPとはいえ、
吉田家を差し置いて「印西派宗家」を
名乗るなんて勇気あるなぁ、と皮肉っての
発言です。
摂津系宗家と改めるべきだと思いました。

42:オーウェルさん
私も日置流印西派の宗家は吉田家で、今はその吉田家が途絶えてしまったので徳山家が事実上の宗家だというように聞いています。
しかしその徳山家でさえも、途絶えてしまった吉田家への忠心から今も宗家とは名乗らず師家と名乗っているそうです。
それなのに印西派の宗家を堂々と名乗っている人がいるとは、正直驚きました・・・

43:だめ学生さん
先に申し上げたように、私は摂津系の門人ではありませんので、この話題についての軽々しい発現はなるべく控えたいと思います。
ただ、以下、印西派の資料を見たうえでの、純粋な疑問ですので、御教示いただければと思います。
印西派の系図を見ると吉田源八郎重氏(一水軒印西)ののち、重信の江戸系や重儀の遠州系、定勝の備前系などに分かれてますね。
このうち備前系が宗家筋ということなんでしょうか?(つまり斜面射手さんの仰った「印西派の宗家は吉田家」という吉田家というのは定勝系だけということでしょうか?)
もしそうなら唯一人授とかの関係なんでしょうか?

44:お初ですさん
私が知ってる範囲で補足させてもらいます。
岡山の吉田家はあくまでも岡山の印西派の宗家。徳山家が師家なのも岡山印西派限定のこと。
印西派の宗家は徳川将軍家に仕えて、明治期に消息不明。
多分、岡山の印西派だけが諸藩の中でも唯一将軍家同様に日置當流を名乗れたことから、岡山が宗家筋だと誤解されているのでしょう。
あるいはそこから出た浦上栄さんがあまりにも有名だったことも影響しているかも。
吉田家は諸藩に複数存在します。
川島先生は遠州系の印西派だったので、岡山とは関係なく宗家を名乗れることになります。

45:オーウェルさん
はーそうだったのですか!まったく知りませんでした!!
そうとも知らず先生方を愚弄するような発言、まったく恥ずかしいかぎりです。
川島先生やその関係の方々、また私の書き込みによって不快な思いをされたすべての方々に謝罪いたします。すみませんでした。
これからはかるはずみな発言は慎むよう心がけます。
どうぞご容赦ください。

46:晃さん
混ぜてください、僕はまだ高校生なのであんまり詳しいことはわからないんですが、僕の高校の前の顧問が小笠原の人だったらしいです。その先生の影響もあって僕の高校では小笠原の行事を手伝っています。
香取神宮と鹿島神宮(両方とも武の神様)で行われる大的式と百手式です。だから僕は現小笠原流家元とその嫡男にあったことがあります。
式の前にその二人がヒキメカブラ矢(漢字わかりません・・)というのを撃ちます(ヒューって音が鳴る鏃がやたらとでかい矢です。)そのときは小笠原なのになぜか斜面のような射です。(矢のせいだと思います)
そのあと小笠原流の人(僕の高校のOBもいます。)が式を行います。(僕たちはこのとき介添えをやってます。)
式に使うカケはちゃんと小笠原の五本指のやつです。
その人たちの射はちゃんと大三があり、今の日弓連の射とたいして変わりませんでした・・どうなんでしょうか?
長々とすみませんでした。

47:斜面射手さん
>お初ですさん、だめ学生さん

存在していれば岡山で代々岡山系を引き継ぐ吉田家、
もしくは江戸系を引き継ぐ吉田家が宗家筋なのではと考えます。

印西派から多くの系に分かれていますが、
その系の宗家であって、大本の印西派の
宗家は事実上消息不明であるため宗家を
かたるのはどうかと考えました。

印西派の中に宗家がたくさんあるのはおかしいのでは?
それが私の基本理念です。

>晃さん
その儀式は見ていませんが、小笠原=正面という考えは誤りです。
小笠原でも正式には歩射は斜面うち起こし、
騎射が正面うち起こしであったはずです。
小笠原もいつからか大三を取り入れるように
なったらしいですね。

48:お初ですさん
追加、ということでもないのですがもう一つ誤解があるようですので補足します。
本多流に関してです。「本多利実は従来の斜面打ち起こしを正面打ち起こしに改めた」とよく言われています。
教本にもそう書かれていますし、生弓会も同様に言っていたように思いますがこれは誤りです。
本多利実は日置流尾州竹林派の出身ですが斜面打ち起こしはしていません。最初から正面打ち起こしです。本人が幼少から弓構えは前でやったと述べています。

49:斜面射手さん
>お初ですさん

興味深い内容ですね。よろしければその述べていたとされる
文献などをご紹介いただけないでしょうか?

となると、当時としては我流で引いていたのに尾州竹林の中で
うまくやっていけてたんでしょうか?破門になってもおかしくないと
思うんですが。

50:だめ学生さん
43とも重複しますが、以下は「印西派宗家」を名乗ることに関しての議論とは離れて、純粋に流派、系における宗家というものに対しての私の疑問なので、もう少しお付き合い願いたいと思います。
血統によらず宗家を受け継いでいくという例は結構ありますが、 斜面射手さんのお考えは、そういうのは認められず、宗家は家系で受け継ぐもの、ということでしょうか?
私自身は今まで、宗家=家元=免許(皆伝?印可?)発行可能者、かなと思っていたので、 斜面射手さんとの考えの違いを感じたのですが、どうなんでしょうか…
(聞くところによると、他人に免許を出せる免許とそうでないない免許とあるそうで、前者保有者が宗家なのかなと思ったのですが…)


51:だめ学生さん
>48 お初ですさん
本多利実は〜斜面打ち起こしはしていません

『弓学講義』の記述「私ナドハ幼少ヨリ前デヤル方ヲシマシタカラ前デヤル方ガ勝手ガヨイ故コノ方ヲヤッテ居リマスガ……」や筑波大の入江氏の論文(『本多利實評論集』でしたっけ…?)を情報源とされているのかもしれませんが、
・宇野哲人氏(弟子、範士)の証言
・日常の稽古風景と思われる斜面の写真
・直に教わった人で、「斜面しか教えてもらってない」といっていた人がいた
等の情報があるので、〜していません、と言い切るのは少々問題ではないでしょうか?

>49斜面射手さん
だいぶ昔にこの掲示板に書いたのですが消えてしまったのでもう一度書きます。
江戸期後期、旗本は戦時には騎兵になるため、騎射を学んでいましたが、そのうち平時の稽古も騎射に従い、正面でやるようになったそうです。江戸末期にはこれが広く行われ、各藩士も江戸詰めの者は流派を問わず、正面で引いていたそうです。
江戸末生まれの利實もこの風潮の中、上記叙述のようになったということらしいです。

52:斜面射手さん
>だめ学生さん

私の考えでは「宗家」は血筋というよりはただ一人のみが宗家を名乗れる
免許皆伝を受け、それを同様に後世に伝えていくといったものです。ですから各系で
行われている免許皆伝には技術の相伝は含まれていても
「宗家」の意味合いは含まれていないと解釈しています。

店に置き換えれば、のれんわけや分店、支点は
あっても、本店は一つだけですよね?
各系が事実上、宗家を名乗っているのが現状だとすれば
わたしの勝手なわがままになってしまいますが。

>51についてですが、そのようですね。
正面に構える理由が「流行だから」という
記載を見たときにはちょっと驚きました。

53:枕流@宮崎さん
>23紫弓さん

武徳会流後期型射法は肩までは正面打越しで以降徐々に大三へ移行するというものです。土屋吉太郎著「弓道上達法」浦上栄先生の「学校弓道射型統一に関する意見書」に詳しく図が載ってます。どちらの図も近代弓道書選集に収録されています。

54:射楽斎Uさん
るんさん
>古きを学んでどうしてこのようになってきたのかを見るのもよいかなと思います。

斜面射手さん
>正面に構える理由が「流行だから」という
記載を見たときにはちょっと驚きました。

本当にそのとおりです。
本多利実が、正面打ち起しに変えた理由を明言していないことの指摘は、たくさんあり、「時代の流れでありますから」とか「体育的・・・」とか、われわれに納得させてくれる決定的理由を残していないことに、永く不満に思っておりました。
しかし、正面打ち起こしによる射法を詳しく検討してくるにつれて、「両肩の自由度を最大限に引き出せる」という最大のメリットがあることに気付きました。そのせいか、多くの全日本選手権トップレベルの射手や範士の先生方の骨法にはっきりした共通点を感じます。また、多くの自由度がある分、いろいろな射の運行が可能で、教本で細かく指導できないほどの多様性があるのも、事実です。
これをもって、本多利実の先見性云々とはいえませんが、きわめて大きな功績であったと思います。
それだけ、各流各派を超えた現代射法も可能となってきているわけで、事実明治以降、射は進化し続けてきたと思っています。少なくとも、本多利実時代の大三とは位置も骨法上の目的もかなり変化してきていると思っています。
それにしても、皆さんよく研究されていて敬服します。

55:だめ学生さん
>52斜面射手さん
複数の文献で、「日置流では道統の絶えないよう、一子相伝とせず、複数のものに相伝させた」という趣旨の記述を見ました。なので、そもそも「ただ一人のみが宗家を名乗れる免許皆伝」というものはあるのでしょうか…?(単純な血筋の意味での宗(本)家というのはあるのでしょうが。)

家系についてですが、これまた複数の文献で久馬助重信の江戸系が「江戸本系」とされてました(嫡子の上、将軍家家臣だからでしょう)
しかし、重儀(遠州系祖)嫡子重保について、興味深い記述が。
重保は父の浪人中重信に預けられ、後、『直接印西伝を受け印西の遺志によって特に本家のほかに、(重信嫡子重宗とともに)嫡伝を伝授けられた…この遠州系は重保に実子がなかったため高弟上村正敬をもって嫡伝を継ぎ…現在に至っている』(日本武道全集。現代弓道講座にもほぼ同内容の記述)
(備前系については上記資料に加え「弓道講座」を調べましたが、上記のような特別な記述はありませんでした。(実際はあるのに記述されてない、という可能性もありますが))
暖簾分けのたとえを出されてますが、意味的に「本店」の単一性とプライオリティが強過ぎるので私にはあまり適切と思えません。

56:だめ学生さん
で、上記資料で事実をカバーしているとした場合(確証がもてないのであくまで場合ですが)
47で「存在していれば岡山で代々岡山系を引き継ぐ吉田家、もしくは江戸系を引き継ぐ吉田家が宗家筋なのではと考えます。」
と仰っていますが、
まず第一に岡山系若しくは江戸系としてらっしゃることに、第二に(血筋というよりは…と仰られているので)遠州系をはずしている理由がよく分かりません。
もちろん、備前系に何らかのプライオリティを与える経緯があったならば、この話は根拠がなくなるので、なかったことにしてください。

57:だめ学生さん
現川鼎さんにも悪いのでちょっと最初の質問に立ち返ります。
うちの大学は本多流です。因みに東京都の大学は本多流多いようです。http://www.geocities.co.jp/Colosseum/8099/r_map.html
(参考までに。?と思わせる分類もありますが…)
ところで支部で流派を前面に出してるところってあるんでしょうか??

>晃さん
もしかして後輩と同じ高校の方かも…
さて、小笠原流の蟇目は私も見たことがありますが、斜面のように構え、下に向かって少し引き、上げながら上に向けて引き、最後に普通に引き収めて、といった感じですよね。かなり不思議な印象を受けた記憶があります。
小笠原流の行事は良く見に行きますが、重籐弓・相位弓の方でも大体「大三」を取られていますね。大三を取られない方はごく稀にいらっしゃいますが、どういうことになっているのか知りたいです。

ところで今までに出てきてない流派ですが、太子流というものが。昭和初期に東京弥生に道場があり、故八反田範士がお若いころ引かれていたとか。宗家は酒井氏という方で、数年前に書店で現当主と思われる「太子流宗家酒井〜(失念)」という方の著書を見ました。
弓の流派として現存なのか、どのような引き方なのかさっぱり分からないのでご存知の方教えてください。

58:弓遊びさん
色々議論など皆様して居られる様ですが、門弟となれば宗家系譜を預けられまた、その由来書も預けられていると思います。
それに目を通せば、一目瞭然なのではないでしょうか?

59:斜面射手さん
>だめ学生さん

大変よくお調べになられていますね。私もちょっと調べてみましたが
余計にわからなくなりましたので、簡単に整理してみます。

印西より今でいう免許皆伝を受けた人物は複数おり、
各地にちらばった。そこで各「系」として成立していった。
「宗家」と呼ばれる吉田家は現存しない。「印西派宗家」という
表記は各系が存在する中、非常に誤解を招きやすい。
ということが言いたいのであって、歴史的背景は
私の言いたいことにはあまりかかわってきません。

私が江戸or岡山を宗家筋に考えたのは、印西が自らが選んだ射手
(嫡子)を江戸に送ったこと、そして印西の弟である定勝が
師範となった備前岡山の池田家では「當流」を名乗ることが
許されていることからそう考えました。

>弓遊びさん
あれば目を通したいのですが・・・。

60:紋章さん
自分が思うに審査を受けた方々は、全員、教本流なのかもしれません。みなさんの意見を聞かせてください。

61:デビさん
>60

日弓連の審査は、体配をどの流派を交えても問題ないように統一しています。そのため、「入場から足踏み寸前まで」、「足を閉じてから退場まで」については皆同じ動作で、「足踏み〜射〜足を閉じる」という部分に各流派による色合いが見られます。

「日置流だから日弓連の審査を絶対受けない」という話もないので、受審者全てが日弓連流(無流派)という訳ではないと思いますよ。

62:納得犬さん
はじめまして。私も混ぜてください。

裏付けのない単なる又聞きですけど。

私が聞いたところでは、純粋な小笠原流の引き方をする方は余りいないそうです。
大三の考え方で説明したほうが初心者にはわかりやすいからと聞いたような気もします。
あと、日弓連で引いていた方が入門するという面もあるんでしょうね。

あと以下のことを聞いたんですが本当ですか?

浦上栄氏も相続させる権利まで含めた免許は得ていなかったと聞きましたが、どうなんでしょう?

現在の流派というのには色々あるそうですよ。
関東の武田流について、あの装束は違うのではないかとか、現在の宗家(?)は若い頃に京都で日置流を学んでいたからあのような引き方だとか、細川流とは違うとか等の噂を聞いたことがあります。

真相はどうなんでしょう?

63:真弓さん
話が戻ってしまって恐縮なのですが、各流各派の指懸けはたくさん存在するものなのでしょうか?『竹林ガケ』などは聞いたことがあるのですが、どなたか知ってる方がいらしたら教えて下さい。

64:だめ学生さん
>斜面射手さん
「印西派宗家」という表記は各系が存在する中、非常に誤解を招きやすい。

と仰る理由は分からなくはないです。
ただ「間違い」とは思いませんし、まして騙るといわれるほどのものではないかなと思ったので(ここだけが宗家で他は名乗ってはならない、というような感じの具体的根拠は示されたと思いませんし)、歴史的経緯を調べてあれこれと議論させていただきました。

>「當流」を名乗ることが許されている

というのは、弓引きとはあまり関係のないところの話で名前の問題、と私は思っているので、それを以って、というのは少々同意いたしかねる部分があります。


以上とはすこし離れますが、今回色々調べて思ったことなのですが、
備前-浦上系の印西派は規模も大きく、有名射手も多く、非常に有名ですが、系の一つ、であることは確かだと思います。しかしながら書籍やホームページなどの記述で、他系の存在を念頭に置いていないかのような印象のものもあって、ちょっと気になりました。

>真弓さん
たくさん存在する、というかしたようですね。戦前出版の弓道講座に詳しく載ってました。流・派、(系)の数だけあるといっても過言ではないような感じでした。
今でも残ってるのは少ないらしいですが。

65:現川 鼎さん
武田流に少し興味があるので、どなたかおしえてください!

66:デビさん
以下のサイトが参考になるのではないでしょうか。

武田流弓馬道
http://www.yabusame.jp/
[pc]

色んな疑問を持つことはすばらしく、このスレッドはとても勉強になっています。でも、質問の前にチョイと調べるとなお良いですね。

67:真弓さん
<だめ学生さん   質問の方に答えて頂きありがとう御座いました。そんなに沢山、存在するとは驚きました。どんなところに違いがあるのでしょうか。                    後、僕は雪荷・道雪派に興味があるのですが、どなたか情報がある方はどんなことでもいいので教えて頂けないでしょうか。

68:弓遊びさん
雪荷派・道雪派のどういった情報が欲しいのですか?

69:真弓さん
例えば、今でも雪荷派が盛んな地域はあるのか(印西派なら岡山、尾州竹林なら愛知)や、雪荷派・道雪派の宗家(家元)はまだ現存されていらっしゃるのか、などです。射技の面で日弓連式との違いはあるのか、なども知りたいです。

70:弓遊びさん
■道雪派系譜。
日置弾正政次―吉田上野介重賢(道宝)―吉田出雲守重政(一鴎)―吉田六左衛門重勝(雪荷)―伴喜左衛門一安(道雪・流祖)―間宮所左衛門信吉―間宮次郎兵衛信由―宮川?一兵衛由成(夕翁)―長谷川忠右衛門景之―長谷川新右衛門景福(流也)―中島五郎右衛門?常―宮川幸之助清長―田上?八郎清輝―田上儀右衛門武経―野上文五輝国―生駒新太郎為章(?里)―宇野丈九郎茂?(丈雲)―坂本茂永昌―上野又十安清―野尻達也清澄―金子清則理胤―岩下忠佳
※()内は号、?の所は携帯で出せない文字です。
流祖は伴喜左衛門一安で現在は藤崎八幡宮宮司、岩下忠佳が宗家・第18代師範を継承している。
(原文そのまま)
■伝統行事
日置流道雪派の年中行事の一つとして、毎年正月九日、藤崎八幡宮で射去祭(イザリマツリ)を奉仕している。
弓太郎、弓次郎その他の射手が、烏帽子、直垂の装束で、甲矢に天下泰平、乙矢に五穀豊穣を祈念して弓を射るものである。
(原文そのまま)
なお、体配書、射法要綱は本の形になっていますので、この掲示板への記載は控えます。

71:現川 鼎さん
そもそも弓道で一番古い、弓道の元祖となるような流派はどこなのでしょうか?個々の流派ができる前の基準になってる弓道はいつごろできたんでしょうか…?

72:だめ学生さん
>71現川 鼎さん
「流派」や「弓道と」いうものの捕らえ方によって変わってくると思うので難しい問題ですね。
古流と呼ばれるものには
日本流(尊流、神道流) 鹿島流 八幡流 紀流 伴流 坂上流 良文流 秀郷流等といったものがあるらしいのですが、聞いたところによると、だれそれの末裔だから、氏神がそこだから、というぐらいの意味しかないものもあるそうです。今日言うところの「流派」とは異なるものと思ったほうが良いのかもしれません。
古流の中の逸見流から 武田流、小笠原流がうまれ、また日置流も流祖日置弾正が逸見流を学んで成立させたそうです。
この意味で逸見流は現代に繋がる射法の元となったといえるのかもしれませんが、現存してるのかは知りませんし、今日的な流派の概念に当てはまるのかもわかりません。
弓の引き方は、大昔はある意味、生活の知恵みたいな感じで受け継がれてきたと思うので、「一番古い、弓道の元祖となるような流派」に当てはまるのはないといったほうがいいのかもしれません。
あまりちゃんと調べていないので、多数の方のつっこみお待ちしてます。

73:納得犬 さん
うろ覚えですのが…。

弓を射る行為は世界中のどの地域であれ太古から脈々と続くものです。日本でも銅鐸に弓を射る姿が描かれていますよね。弓が狩猟道具・武器として用いられるものであるからには、当然、その技術の伝達は行われていたはずです。
ではどのようにして、射術が研究されていったのかを考えると、私も"生活の知恵"或いは"家伝"だったくのではないかと思います。武士の誕生を職能論として捉える考え方があります。すなわち、武士とは騎馬弓兵であるとするものです。地方豪族はいるのに源氏・平氏のように宮廷貴族に発するものが武士と呼ばれることからすると、馬上で弓を射る技術を有することの必要性は重大だと思います。技術の優位が自家の繁栄に通ずるのであるから、射術も家伝となったのではないでしょうか?そういう観点からすると、小笠原流・武田流は最古の流派に通じるものを有しているといえるかもしれません。
それに日置流も逸見流から生じたとしていたと思うのですが…。逸見流は小笠原・武田と同じ甲斐源氏系統ですよね?

74:斜面射手さん
日置流は逸見流から派生したわけではなく、
日置流に取り込まれた多くの流派のうちの
一つでしかありません。

75:現川 鼎さん
みなさんありがとうございます!ただ、例えば体配とかは(一連の流れは)だいたいどこの流派も同じですが、こういうのはどのようにして作られたのでしょうか?

76:納得犬さん
>74斜面射手様
そうでしたか。ご指摘ありがとうございます。
「守・破・離」の言葉通り各流派を学び、新たな境地を切り開いたんでしょうね。

無影新月流は現在も存続しているんですか?橘流から生じたと聞きましたが、この橘流をご存知の方はいりゃっしゃいますか?

77:だめ学生さん [url]
無影心月流は今でも箕面にあって活動してるそうです。大谷大学、花園大学などが活動しているとか。
橘流ですが、(梅路氏の師匠との関連は不明ですが)今は大和古流と称しているらしいです。上記URLで、「大和古流廿一世について当主 友常天眼斎貴仁の活動」
というところを見ると詳しく書いてあります。何でも改元のときの蟇目の儀式は代々この家が執り行うそうで、弓術の流派というよりは有職家に近いのでしょうか?
笠間稲荷神社で射礼を奉納しているそうです。(神社のホームページ、年間行事の11月のところに写真あり)
> 現川 鼎さん
体配とかは(一連の流れは)だいたいどこの流派も同じですが
同じでしょうか?たとえば尾州竹林派の体配では入場→本座、左に弓、右に矢を、それぞれ平行に置き、的前に揖、向き直って上座に礼、動作は(確か)左進左退です。ただ各流派それぞれ独自に出来たというのも考えにくいので、幾つか元になる礼法みたいのがあっってそれから創られたのでしょうか?

78:デビさん
>例えば体配とかは(一連の流れは)だいたいどこの流派も同じですが、こういうのはどのようにして作られたのでしょうか?

弓道連盟の入場〜退場の流れは、もちろん連盟で作ったわけですね。だめ学生さんが仰るとおり、射礼は各流派によって流れが異なっていると思います。

弓道の歴史の本って少なく、調べようとしても入手難しいかもしれませんが、一度調べてから質問をすると良いと思います。(度々書かせていただきますが)

それに対して、だめ学生さんはまったくだめ学生じゃないなぁと。非常に勉強になります。(いや、全ての勉学を放っておいて弓の本ばっかり読んでいるのだったらだめかも知れないが)

79:納得犬さん
>77 だめ学生様
大阪ですか。一度拝見してみたいです。

梅路見鸞氏については、甲野善紀・前田英樹著「剣の思想」P185に、
(一八八六〜一九五一) 本名山本寿六(一説に日出雄)。虎洞、天龍窟とも号す。九歳で円覚寺に入り、三十四歳の時、釈宗演より印可を受ける。明治四十二年(一九〇九)から大正五年までの七年間に、柔、剣、居合、馬などの武術と書、浄瑠璃、俳句、茶ノ湯などの芸道を修行。いずれも傑出したという。大正五年、橘流弓術三十二代の羽賀井和順と出会い、その後二年で三十三代を継ぎ、事実上無影心月流を開く。大正十五年「梅路武禅道場」を大阪箕面に建てる。昭和九年『武禅』を創刊し、日本の弓道界に大きな波紋を起こす。近代の弓聖と呼ばれた阿波研造も梅路見鸞を心師として仰いでいた。
と掲載されています。他では橘流について伺ったことがなかったもので…

80:だめ学生さん [url]
>デビさん
いや結構勉強そっちのけなモノで…

ところで武田流ホームページ(上記)で、

六、備前小笠原氏(小笠原流弓馬術宗家)
武田氏とともに室町時代から、弓馬軍礼故実之司家であった小笠原氏は、鎌倉時代の末、信濃守護 小笠原貞宗の兄、貞長が備前守護に任ぜられ分流した備前小笠原氏が継承した。しかし、備前小笠原氏は戦国時代に入り、室町幕府の滅亡とともに衰微、備前守尚清の代で終に没落の運命となり、肥後 細川氏に寄宿するところとなった。細川家では、武田流司家を保護するとともに、小笠原氏も同様に保護、厚遇した。以来、明治維新の廃藩置県まで小笠原氏は存続、明治十五年に至り、時の当主小笠原長厚の代で、旧細川氏の守護神である出水神社(水前寺公園)に小笠原流最後の流鏑馬を奉納し、その活動を終えた。しかし、その装束・伝書故実等は、現在鎌倉の武田流司家に保存維持されている。

とあるのですが、
小笠原流のホームページでは、現宗家の系統の経直が、(祖家筋の)貞宗より後の長時・貞慶から(弓馬術礼法の)道統を受け継いだ、とあるのですが、どちらが本当なんでしょう……?

小笠原流のホームページではあまり武田流について触れられてませんが、武田流のホームページでは小笠原流への対抗意識の感じられる記述が多いのが興味深いですね。

81:現川 鼎さん
だめ学生さんへ
たしか小笠原氏は武田氏と戦をして負けている(武田晴信公の時代にそのときの小笠原氏の領主が武田氏に切腹を命じられている)ので、小笠原流は、あまり武田流のことを書きたくないのだと思います。

82:射楽斎Uさん
75:流派 / 現川 鼎  さま
77:Re:流派 / だめ学生 さま

>幾つか元になる礼法みたいのがあっってそれから創られたのでしょうか?

かつて資料を調べていて、雪荷が小笠原秀清(
少斎・・・細川家家老、細川ガラシャを介錯して自刃)から古式を学んだことが現代弓道講座1にありました。また、小笠原家の「射方全書」の内容に雪荷・道雪の引用がかなり多いことから考えて、秀清と雪荷の交流は深く、礼法と射法も相互に研究しあったのではないかと推理したことがあります。
同様に、「射方全書」中巻は、竹林派の「中学集」とまったく同一であり、秀清または他の小笠原一派と竹林派の親密な関係も感じられます。
「明良洪範」には日置吉田系のほとんどと竹林派の重鎮他が大津の石山寺に集まって法事を営んだ場面もありますし、当時はわれわれが考えているよりはるかに人と人との交流には、濃いものがあったように思います。

83:道民さん
>現川 鼎さま
 武田流の武田は安芸の武田であり、小笠原長時が武田信玄に負けたのとはあまり関係が無いと思われます。
 それよりは、武田家は小笠原家にとって兄の家にあたり、その関係で記述が無いのではないでしょうか?

>だめ学生さま
 小笠原長時の家系が引き継いでいたのは、室町幕府の弓馬術や礼法の師範家たる資格であり、小笠原家の嫡流としての資格(家督)を備前の小笠原家が引き継いだのではないでしょうか?

84:通りすがりさん
源頼朝は武田氏より小笠原氏を優遇したことから、鎌倉・室町を通じて家格も小笠原氏の方が上だったと記憶しています。それに、室町幕府から礼法については殿上は伊勢氏、殿外は小笠原氏によると定められ、流鏑馬・草鹿等は殿外なので、わざわざ書くまでもないことなのではないでしょうか?

85:さぼてんさん
日置流の日置は場所の名前ですか?人名ですか?

86:斜面射手さん
人名です。15世紀の人物で、
日置弾政正次(へきだんじょうまさつぐ)
という人が流祖とされています。

87:さぼてんさん
その人はどこの出身ですか?日置神社なるものを地図で見たのですが、関係あるのでしょうか?

88:デビさん
日置弾正政次は、諸説の多い人で定説は無いそうです。とりあえず日置流の祖。
(絵説 弓道より)

その神社ももしかしたら関係あるかもしれませんし、無いかもしれません。調べてみると良いと思いますよ。(私の勘では関係ないと思いますが)

まず、ここでの質問の前に本や、WEBで探してみてください。有名な方なので色々出てきますよ。

89:半平太さん
日置(ヘキ、ヒキ、ヒオキ)というのは、元々は地名です。
地名から姓を取るというのは良くあることですが、山口県の日置町あたりがそのルーツっぽい感じもします。
日置といえば、鹿児島県の5町が合併して来年の2月に日置市という市が出来るそうですね。
偶然にも今日、日置(ヒオキ)さんという方にお会いしましたが、弓道との縁はありませんでした(^^ゞ

余談でしたm(_ _)m

90:紫弓さん
こんなに情報が集まるとは勉強させていただいてます。
私もとりあえず石岡久夫先生の近代弓術の発展より引用します。

説の一つに彼の名、弾正は本名、豊秀と言います。他に宗品、影光、同以、威徳、高野山にのぼり剃髪して瑠璃光坊にとしたとあります。
生まれも和州の産とあれば、伊賀国拓殖庄日置○の産なり(○は旧字体の色だったかそれとも読み間違えか忘れたので伏せ字にしました。)となっているようです。

美人草という古書に葛輪に弾正が勝ったと言う風にありますね。たまたま古書屋でこの古書を見た時に箇条書きの中だったか忘れましたが同様に記されてました。手に入れば欲しい古書ですね。

石岡先生の引用でさえ大量の説を検討しているようです。弓道史は面白いですねー。

そういえば千葉に印西(いんざいと呼びますが)ありましたがやはり関係ないかな、、、。

91:だめ学生さん
>82 射楽斎Uさん
小笠原家の「射方全書」の内容に雪荷・道雪の引用がかなり多い……「射方全書」中巻は、竹林派の「中学集」とまったく同一…

そうだったんですか…驚きです。
『本多利實弓道評論集』の中に、小笠原(の射法)は一度絶えかかったのを吉宗のとき再興したので、射に関してはほぼ日置だ、というような趣旨の部分があったので、照らし合わせて考えると興味深いですね。
流派横断で人が集まっていたというのも興味深いですね。

>83 道民さん
そうですね。長時が総領家とされている場合が多いですが、可能性はありますね。ただ今のところ他のところで"備前小笠原"というのが見つからないのでなんとも…
小笠原流ホームページや一般の家系図のページには載ってない系統もあるようなので調べる必要がありますね。(たとえば江戸時代には江戸とは別に、京都にも糾法師範の小笠原家があったそうです)

日置弾正についてですが、どこで読んだのか忘れてしまいましたが、存在否定説で面白いのがありました。
吉田重賢が、自身の権威付けのために創出したか、または自分の教えに欠点があったとき、(自分が流祖となると改めにくいだろうが)日置弾正という存在を作れば、日置の教えを重賢がちゃんと伝えなかったとなって都合がよかったから、というものです。
信憑性は?ですが、説得力はあると思います。

92:さぼてんさん
弓道ってホントに奥が深い…受験勉強中なのであまり調べる時間がないのですが、やっぱり弓道っていいなぁって思います。また射ちたいですね〜。


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