無心…。 (投稿11件)[1〜11]


1:くるみさん
初めて自分でスレを立ち上げさせてもらいます。
これから自分が書く事は、若造の戯言ととってくださって構いません。
変な話ですが、自分でもそれを重々承知です。
ただ、皆さんの意見が聞きたいので、この話題を立ち上げます。

自分は的中より綺麗な射型を目指していますが、もう一つ極めたいものが、『無心』なのです…。が、この無心って、何をさしているのか分からないのです。

的を意識しない事なのか、邪念を消す事なのか、ただ弓を引く事なのか、分からないのです。
まだまだ若造の自分が、こんな事を考えるのも、どうなのかと思いますが、どうしても分からないのです。

自分は、囲碁やをするのですが、囲碁や将棋でも、集中というか、無心(?)に近いものがあると思うのです。しかし、あれとはまた違うと思うのです。むしろ全く違うものですが…。
第一、昔は武器として使われていた弓で、無心を目指すのもおかしな話だと思うのです。
もちろん、今は武器としてではなく、スポーツの一つなのですが、敵(的)と対比するのに何も考えずに射るのはおかしいのではないかと、自分は考えます。
今の弓道において、最大の敵は自分ですが、それはなによりも強い存在で、それに打ち勝つのは相当な人でないと出来ないと思うのです。

結局何が言いたいのかと言うと、無心とは自分を試すものなのか、敵(自分)を倒すものなのか、ただ単に邪念を全て手はらった究極の結果なのか、それとも別の何かなのか、分からないのです。

皆さんは、無心について、どう考えているでしょうか?
ご意見をお聞かせ下さいますと幸いです。

2:テン凱さん
私がいわれた言葉に「無心と何も考えていないのは違う。」というのがあります。そのときの師曰く「無心を考えるのは難しすぎる。的を狙い、射形を考え、結果を反省するには、無心になることとは逆に多心になっている。」驚きでした。
そのときから考えることは射で気をつけないといけないところだけができているかどうかを確かめることはだいじと思っています。
今現在も審査や大会はそれをしています。
ちなみに今日、県内の選手権大会でした。称号の部 3位の結果で納得はいってませんが、現在できる精一杯の無心に近い状況だと思います。

3:目標与一さん
僕の場合は体験談なんですが、なにぶん自分も学生弓道という次元なのでそれが無心なのかどうかは分かりません。でもとりあえず戯言だと思って聞いてください。それは大会の日でした。いつも師に「緊張している自分を楽しめ」と言われていたのでそれを意識していました。的前に立って引きはじめるとなぜかいつもと違う感じがしました。そこでじっと的を見つめているとしだいに雑音が消え、的がいつもよりよく見えた気がしました。そして気付いたら四本引きおわっていて、皆中していました。そんな経験みなさんにはありませんか?

4:斜面射手さん
自転車に乗るときに、いちいち左右のバランスを
考えてませんよね?それくらい無意識に、
自在に弓を引き、中てる。それが無心の
域なのではと私は思います。

的を敵と表現するのはなかなか面白いですが、
にもかかわらず的中より射型重視とは如何に。
的中と射型は別物なのか?よくよく考えてみてください。

5:半平太さん
弓道はじめ、武道の極意は隙をなくすことではないでしょうか。
その為に反復練習し、無駄な動作を削り、呼吸を整え、集中する。
余計なことを考えたり、恐・惑・怒・欲・悲などの感情が現れるとそこに隙が生じます。
その隙を取り払うことが出来た時、つまり無心になれた時的中精度も射の凄みも向上するのではないかと私は考えています。

6:くるみさん
みなさん、返信ありがとうございます。
貴重な意見が聞けて、たいへん参考になりました。
無心とは、弓が身体の一部?のごとく、自然に引けて、尚且つ的しか見えなくなることを言うのかな?(皆さんの意見からまとめると…)
青二才の自分には、まだまだ届かぬ高みのようです。その高みに手が届くよう、精進していきます。

>斜面射手
長々となってしまいますが、自分の意見を述べてみます。
的はあくまでも、人の考えた敵(人間)の代わりであって、本当の強敵は自分だと考えます。
故に、目標(倒すべき人間)がいなくなったおかげで、弓道で無心を目指すなんて事が生まれたのかもしれませんね。
じゃあ、射型も同じことが言えませんか?
的中(敵にあてる)する意味が半減した今、人は別の事を極めたいと思うのが普通です。
昔の人がどうだったか知りませんが、少なくとも敵と対比する時は、射型は少なからず崩れていたはずです。
自分は敵(的)を倒すのではなく、自分を殺し、最高の射型を目指すことを、弓道をするようになってから目指しました。的を中るのは、変な話ですが、コツをつかめばそこそこの的中率になるはずです。
でも、射型はそう簡単にはいきません。
手の内、体配、八節、息合など、射型には色々な注文がつきます。
それを極めるのは骨です。自分は生きている間に、神のごとく自然に、誰が見ても美しいと思える射型になれるかどうか分かりません。
今から目指さないと、間に合わないと思うのです。
長いですが、これを読んでどう思われても自分は構いませんが、気づいた点があれば、意見してくださって構いません。
それで、自分は勉強になりますから。

7:くるみさん
すみません、斜面射手様、朝からボケてて、上の文で名指しにしてしまいました。
お見苦しい場合は、文句を言ってもらっても構いませんが、決してわざとではありません。
本当に申し訳ありません。

8:松山新さん
武道に禅の教えがはいってきてから、無心などが弓を引くときの極意のようになりましたね。「無心」とは「何も考えない」のでなく、「それに集中する」という意味なのです。坐禅をしているときは坐禅に、作務をしているときは作務に、食事のときは食事に、集中するということです。しかし徹底的に練習するのが「戒」であり、無心になって試合に臨むのが「禅定」であり、結果がでるのが「智慧」であす。
無心になればなんでもできるわけではなく、その前提にたゆまぬ努力があります。
正しい行いである「戒」によって、正しい禅定が生じ、「戒」と「定」がそろえば結果である「智慧」は自分のなかに自ずと生じてくると考えるべきです。あくまでも無心は自我であり、忘我ではありません。

9:松山新さん
すいません。自我ではなく、無我です。

10:Y.K.さん
自分も目標与一さんと同じ体験をしたことがあります。

大学の試合って周りの声援が凄まじいことは知ってる方が多いと思います。
で、自分が試合で皆中したときってすごく集中していて、あの大声援まで聞こえてこなかったなんてことがありました(いわゆるトランス?)。

11:ひよこさん
松山新さま、Y.K.さま、返信どうもありがとうございます。
集中が無心という事ですか…。
色々と考えさせられます。
自分はまだまだ考えも射型も未熟者で、さらなる精進が必要だと、改めて痛感しました。

>Y.K.さま
何も聞こえなくなるのって、どういう感じなのか、自分でも体験してみたいです。もちろん、それにはたゆまぬ努力が必要ですが。
でも、自分は聞こえなくなるんじゃなくて、たまに大三に入った時、これは中るという確信がもてるんです。
その場合、必ずと言って良いほど中ります。
その確信が無い時は、あんまり中ら無いんですけどね〜(^^;)


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